はてなキーワード: Whyとは
今まで見たアニメのリストを確認したところ、女性主人公がほとんどいないことに気づきました。私は主にアクション、アドベンチャー、スリラー、ホラー、心理、ファンタジーなどを見ています。私のリストには、カウボーイビバップのような90年代のアニメから、神之塔のような最近のアニメまで含まれています。なぜアニメには女性主人公が少ないのでしょうか?ちなみに、私が話しているのは、恋愛や魔法少女といったくだらないもので、ひどくつまらない画風/アニメーションで、全く面白みのない女の子ばかりの少女漫画ではなく、私が好むジャンルについてです。そして、ほとんどのアニメファンや男性が男性キャラクターを好むからではないと思います。男性は男性キャラクターを好み、女性は女性キャラクターを好むというのは、とても単純すぎるように聞こえます。性別以外にも、人々がキャラクターに共感できる方法は1000通りあります。
原文:
Why is there a lack of female main characters in anime?
I just checked my list of anime that I have watched noticed there are like 0 female main characters. I mostly watch action, adventure, thriller, horror, psychological, fantasy, etc. My list contains from 90's anime like cowboy bebop to current anime like the tower of god. Why is there a lack of female main characters in anime? Also, I am talking about my preferred genres and not shoujo which is filled with romance and magical girl shit with horrible and uninteresting art style/animation and absolutely bland-looking girls. And I don't think it's because most anime fans and males. Male prefer male characters and females prefer female characters sound very simplistic. There are 1000 ways people can relate to a character aside from their gender.
ゼレンスキーがフェドロフ国防相を更迭したことが話題になっている。
ブコメを見ると、むしろはてなー側にゼレンスキーへの信頼があるせいなのか、今回解任されるフェドロフに汚職疑惑の目を振り向けたり、それを焚き付けようとする親露派アカウントの影響をもろに受けてしまっているコメントが多いのが気がかりである。
少なくともウクライナの世論はまったく逆で、それこそ昨年のゼレンスキーによる汚職対策機関の弱体化に対しても今回と同様にデモが起きたことが記憶に新しいが、フェドロフ国防相と対立して今回留任されるシルスキー総司令官のほうこそ、ゼレンスキーと共に汚職の当事者または汚職に甘いと批判されているのだ。
また、フェドロフは今年1月、元のデジタル変革大臣から新たに国防大臣に任命されて早々に、イーロンマスクに直談判してロシア側のスターリンク遮断を成し遂げた功労者でもあり、ロシアにとっては目の敵であることも付記しておきたい。
- XユーザーのMykhailo Fedorovさん: 「I am grateful to SpaceX President @Gwynne_Shotwell and personally to @elonmusk for their swift response and for immediately beginning work on a solution. Elon Musk’s decision to urgently activate Starlink and send the first batch of terminals to Ukraine at the outset of the」 / X
- ロシアによる「無許可」のスターリンク使用、阻止する取り組みに成果 ウクライナ国防相 - CNN.co.jp
以下は ChatGPT に訊ねたフェドロフ国防相の汚職についての回答である。
フェドロフ国防相に汚職疑惑はあるのか
現時点で公になっている情報を整理すると、フェドロフ氏本人に汚職や私的な不正蓄財などの具体的な疑惑は、ほとんど報じられていません。むしろ逆に、国防省内の調達改革や汚職対策を進めた人物として評価されることが多いです。
主な実績
- 国防相就任後、兵器・装備品の調達手続きを見直し、NATO方式への移行やデジタル化を推進しました。
- 一部報道では、不透明な契約や過大な支出を洗い直し、数十億ドル規模の無駄を発見・是正したと紹介されています。
- そのため、ウクライナ国内では「汚職と戦う改革派」というイメージが比較的強く、今回の更迭に対する抗議でも、その点が支持理由の一つとして挙げられています。
更迭の理由として汚職が挙げられているのか
現時点では、そのような根拠は見当たりません。
フェドロフ氏自身も退任後の記者会見で、シルスキー氏が改革を妨害したと強く批判しており、両者の対立が決定的だったことを示唆しています。
過去の国防省との違い
ウクライナ国防省は、フェドロフ氏の前任者やその以前の時代には、食料調達や装備調達をめぐる汚職疑惑がたびたび問題になってきました。
しかし、フェドロフ氏自身については、そのような疑惑で名前が挙がっているわけではありません。むしろ、「汚職と結び付いた既得権益層と対立した改革派だった」という見方を示す識者やメディアもあります。
まとめ
現時点で公開されている情報を見る限りでは、フェドロフ氏の更迭を「汚職が原因」と裏付ける有力な証拠はありません。
むしろ、
ロシア側で流布されている主な主張
1. ドローン調達をめぐる汚職疑惑
最もよく見られるのがこれです。
しかし、現時点で具体的な証拠が示されたものは確認されておらず、フェドロフ氏自身も否定しています。西側メディアでも「疑惑が存在する」と紹介される程度で、事実としては扱われていません。
2. 「デジタル利権」を築いたという主張
フェドロフ氏はデジタル担当副首相・デジタル変革相を長く務めており、
などを推進しました。
ロシア側では、
ただし、これらも具体的な司法手続きや証拠に基づくものではなく、プロパガンダ色が非常に強いと考えられます。
3. Starlink・海外支援資金に関する疑惑
について、
4. 「更迭=汚職発覚だった」という説
今回の更迭についても、
などは、主因をシルスキー総司令官との対立や軍改革をめぐる路線対立と報じており、汚職を更迭理由とは位置付けていません。
なぜロシア側はこのような情報を流すのか
フェドロフ氏は、
を推進し、ロシア側から見ても「有能な改革派」と認識されていました。
そのため、ロシア側には
まとめ
ロシア側発信まで含めると、フェドロフ氏に関する汚職・不正の主張はいくつか存在します。
しかし現時点では、
※ AI の回答を増田に貼り付けるために「はてな記法」へ変換するプロンプト を使いました。
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
⸻
もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
⸻
しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
⸻
『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
⸻
そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
⸻
⸻
一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/
自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界のカート・コバーン」へと還元し、その自己破滅をロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレスの作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症や自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身の肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。
だが、昔ながらの保守的な批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。
ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現を模倣したウォレスの自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体の鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的な理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。
ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義(登場人物だけがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。
要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである。
しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムそのものと混同することだ。ヒューバート・ドレイファスとショーン・ドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。
ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。
芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉なニヒリズムそのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。
この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガンに投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)
⸻
ウォレスは、ドナルド・バーセルミやトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトをさらに推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)
その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組が最後にカメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省がプレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。
そのため、最初の長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代の卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。
続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学の創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸の創作プログラムに所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度そのものの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースやバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。
「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。
全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来の北アメリカが「北米国家機構(Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界を舞台にしている。
そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンスも活動しており、ウォレスは物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。
しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家そのものが巨大企業に圧倒されてしまっている。
「ワッパーの年」
この意味で、ウォレスはモダニズムの問題意識をさらに徹底させた作家だった。消費社会が人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である。
消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。
その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画『Infinite Jest』だ。
この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれてしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画をテロ兵器として手に入れようとする。)
この映画を制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリン、マリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。
一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。
そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールド・テニス・アカデミーである。ここは、ウォレス自身が哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。
⸻
『Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である。
その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)
現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。
その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。
つまり、この作品はポストモダン社会の民族誌(エスノグラフィー)なのである。
時間も空間も商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要なものが押し流されてしまう危険も見抜いている。
マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネットが社会を支配する以前、1996年に出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。
「文化が逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」
「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」
『Infinite Jest』は、一つの世代の感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。
とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代にMTVが誕生し、大学時代にインターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。
語り手は、自己意識の牢獄や、無限の可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から、不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。
ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。
薬物依存と絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである。
この見方は私だけではない。
ウォレスの親友の一人だったジョナサン・フランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。
フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。
「私たちの多くにとって人生の意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレスの小説世界ではほとんど存在しない。」
しかし、その一方で彼はこう続ける。
「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分は理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」
私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。
読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。
ウォレス自身もまた、依存症や欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。
そして、この点こそが、ウォレスとフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。
二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。
極端な自己意識、メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。
フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。
私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。
あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。
なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。
それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。
しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものはシニシズムではない。
むしろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである。
⸻
⸻
しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである。
それは現代の絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろ、ポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。
もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。
「革新的な文体を用いて、保守的な小説の目的を果たすにはどうすればよいか。」
『ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである。
しかしマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解そのものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。
「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」
彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。
作家スティーブ・ムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカルな世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。
「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」
先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。
そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。
これは決して矛盾ではない。
つまり、「ウォレスは小説の道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。
私たちは、「型破りな文体=非道徳的」という思い込みそのものを退けなければならない。
むしろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。
アップダイクの美文主義では、文体そのものが読者の注意を引きつける。
しかしウォレスが探していたのは、現代の私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。
だからこそ彼は、その声を通して、私たちに真正面から、誠実に、そして道徳的なビジョンを語りかけることができたのである。
⸻
⸻
だからこそ、ウォレスがフョードル・ドストエフスキーの人生と作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。
ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。
「もっとも重要なのは、ドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分の文学的栄光しか考えていなかった人物――から、
俺の記憶よりもずっとシンプルなマイルドヤンキー物語だった。69点。
輸送トラックを狙うレーシング強盗団が現れ出した一方その頃、近所のバーで見るからにボンボンのブライアン君が現れ近所の闇レースのカリスマ、ドミニクの妹に色目を使い始める。なんか揉めたり、一緒にレース走ったり、警察から逃げる時にドミニクを助けたりしながら信頼を獲得し彼のファミリーに入り込んでいくブライアン君。しかし彼は潜入捜査官だった。
みたいな話。
俺が小学校くらいの時に確か見たんだよな。だから内容まったく覚えてなかった。
本腰入れて見始めたのがMAXあたりからでこっからはレース版ミッションインポッシブルというかまぁそんな感じの元違法レーサーのエージェントが世界を救う話になってた印象なんだけど、今作はもっとシンプルな地方の車好きのマイルドヤンキーの話でちょっと驚いた。
言ってみればこれはファミリーの話だ。
ドミニクが率いる違法レーシングファミリーによるより違法なトラック強盗を調べるために、警察というファミリーに所属するブライアンが潜入し、信頼を得る中で友情や愛情をはぐくみ、身内からの裏切りもあり心は揺れ、ドミニクファミリーの一員として敵と戦い最後には自身は元のファミリーに残るが、ドミニクとの間のブラザーの絆が残る。
一方でドミニクファミリーの敵となる中国系マフィアもシンプルな敵としては描かれていない。まぁ、シンプルに敵なんだけど潜入捜査の結果があまり出ないことから焦ったブライアンの上司がなんでもいいから逮捕したい!と中国系マフィアを一網打尽にする展開がある。その際にボスは自宅で血のつながったファミリーと食事中で大勢の家族が見守る前で逮捕されるという屈辱を味わい、父親にも落胆されたことからドミニクを恨むようになり対立が深まる。
ドミニクという男もファミリーの長としてブラザー&シスターズを率いてはいるが本心では常に孤独を感じている。
ブライアンに心を開いて彼のもっとも繊細な部分である父親への憧憬を明かすシーンではこんなことを言う。
I live my life a quarter mile at a time. Nothing else matters : not the mortgage, not the store, not my team and all their bullshit. For those ten seconds or less, I’m free.
本当は何も考えずにただ走りたいだけなのだ、と。
後に、スカイミッションで今生の別れになるブライアンに告げる、今シリーズで最も有名な台詞はここから来ている。
I used to say I lived my life a quarter mile at a time.And I think that's why we were brothers. Because you did, too.
今作の最後ではブライアンが鉄くず同然の姿で持ってきてファミリー皆で組み上げたトヨタ・スープラと、ドミニクが死んだ父と一緒に組み上げたダッジ・チャージャーによる命を賭けたゼロヨンレースが行われ、どちらも一歩も退かず、迫りくる列車も無視して同時に文字通り死線を越える。
ドミニクはきっとブライアンは芋を引くだろうと思っていたのではないか。しかしブライアンは退かなかった。そしてその後、ドミニクが乗るチャージャーはうっかり事故で大転倒。パトカーが迫る中、ブライアンはスープラの鍵をドミニクに私、ドミニクは死んだ父親との思い出の車を捨て、今のファミリーで組んだ車で街を去る。
まぁまぁ作品のテーマとしては一本筋が通った作品だなと思った。
ただ、問題は他にいっぱいあって。あ、こういう作品ってドミニクは実は強盗犯じゃなくて実は別の奴らや、ファミリーの中に強盗犯がいて2人で協力して止める展開になったりしがちですが全くそんなことはなく、シンプルにドミニクファミリー全員が強盗団です。が、なんでこいつらが強盗やってるかはよくわからない。遊ぶ金欲しさに、当時は若くお金が必要でしたみたいな感じにしか見えない。後にエージェントになるにはシンプルに小悪党すぎる。
あとは作中でドミニクファミリーは中でカップルがいたり、ドミニクの妹とブライアンができちゃったり、ずっとドミニクを目の敵にして因縁つけてくる直感の鋭い奴がいてそいつが強盗に失敗したのをブライアンが身を挺して守って、そいつの命を救うために身分を明かしたりする展開があるんだけど、そのへんはなんかもう全部、最後の方にはどっかいっちゃう。
ブラザーのうちの一人の発達障害ニキは止められているにもかかわらず親との車の権利をかけてレースやってシンプルに負けてそのまま逃げ帰って、取り立てに来た中国人に撃たれちゃうのはそりゃ……お前も悪いよってなっちゃうし。
どうしたって脚本のザルさは否めない。
まぁそんな感じかな。
血のつながったファミリー、地元で過ごしてきただけのファミリー、魂を分け合ったファミリー、それを地方の車好きマイヤンを使ってわりとテーマ自体はしっかりと描けててけっこう好印象だった。あと、今見たらみんな若すぎて笑う。レーティングの問題かもしれんけど乳首券の発行はなかった。こんなにブリンブリンのねーちゃん出てくるのに!
We're actually gonna keep this interview going for about five days. FaceTime, Fred, and one more interview with one more Rolling Stone writer in a car, and, yeah, that's right. That's nice of thing I've ever heard. Thank you. Oh, you're welcome. Yeah. Um, let's start from the very, very beginning. Now, do you remember when David Foster Wallace's name first registered with you, like when you knew who he was?
⸻
司会:
どこかへ車で出かけて、また『Rolling Stone』のライターにも来てもらってね。
ええ、そうですね(笑)。
司会:
今まで聞いた中で一番いいアイデアかもしれない。
司会:
デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前を初めて意識したときのことを覚えていますか?
つまり、「この人が誰なのか」を初めて知ったのはいつだったか、覚えていますか?
⸻
Now, do you remember when David Foster Wallace’s name first registered with you, like when you knew who he was?
直訳すると、
「デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前が、あなたの中で初めて『認識された』のはいつだったか覚えていますか? つまり、この人が誰なのかを知った最初の時のことです。」
But anyway, he was a guy who was just so forward seeing about what technology was going to become, and these things that were meant to connect us were ultimately going to dehumanize interaction. But that section in particular was about how everyone's so excited when video chat became available, but then there was realization that they can no longer do other things while they're talking to somebody.
⸻
でもとにかく、彼(デヴィッド・フォスター・ウォレス)は、テクノロジーが将来どのようなものになっていくのかを非常に先見の明をもって見抜いていた人でした。
そして、人と人とをつなぐために作られたはずのものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、ということも見抜いていたんです。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びしていたことについて書かれています。
でもその後になって、ビデオチャットをしながらでは、相手に見られているから、もう会話の最中に別のことはできないという現実に気づくんです。
⸻
these things that were meant to connect us
「私たちをつなぐために作られたもの(テクノロジー・通信手段)」
were ultimately going to dehumanize interaction
ここでの dehumanize は「非人間化する」という直訳よりも、「人間らしい温かみや自然さを奪う」という意味です。
they can no longer do other things while they’re talking to somebody
電話なら、本を読んだり歩いたり洗い物をしたりしながら話せますが、ビデオチャットでは画面に映っているため、そうした「ながら」がしづらくなる、というウォレスらしい観察を指しています。
connect us, we're ultimately going to dehumanize interaction. But that section in particular was about how everyone's so excited when video chat becomes available, but then they have this realization that they can no longer do other things while they're talking to somebody because they can see them. And it evolves to people creating elaborate masks and dioramas so it looks like they're giving full attention until eventually they've taped off the camera and they're back to the auditory phone conversation. So the first thing that I read, and I supposedly something will never do again, which is called shiva, at one point. A lot of the short form fiction I had and tried to tackle. No, it's a mountain rest. It's something that definitely requires time and effort to tackle. Well worth it, I think, but. Oh, I think that by the end it is the most satisfying experience you can have, and I think that there's something that he tries to remind us that we're capable. You know, you're sort of given this very subtle and sometimes not so subtle message that what you're good at is watching TV. No, really, like that what is a good life culturally is to work really hard so that you can come home and crack open a beer and watch reality TV on a big giant television, and that that should satisfy you. And it's no wonder that we feel dissatisfied, I guess. And so my experience with reading Infinite Jest was by the time I finished it, I really felt like, I feel like how you feel after you go for like a long jog. I don't really know what that's like, but. But then told, you feel like, oh, I did that. So, prior to going on this long jog, you're sitting at home with a script.
音声認識にかなり誤りがありますが、文脈を補って省略せずに訳します。
⸻
(彼は、)人と人とをつなぐために作られたものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、と考えていました。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びします。でもやがて、「相手に自分が見えている以上、会話をしながら別のことはできない」ということに気づくんです。
すると、人々はまるでちゃんと相手に注意を向けているように見せるため、手の込んだ仮面や背景セット(ジオラマ)まで作るようになります。
そして最終的には、カメラをテープでふさいでしまい、結局は昔ながらの「声だけの電話」で話すようになる、という話なんです。
その後、『Infinite Jest(インフィニット・ジェスト)』を読みましたが、二度とあんなことはしないだろうと思いました(笑)。
⸻
司会:
短編小説はかなり読んだんですか?
⸻
ええ、短編もたくさん読みました。そして『インフィニット・ジェスト』にも挑戦しました。
⸻
司会:
あれはまさに登るべき山ですよね。
⸻
本当にそうです。
⸻
司会:
読み終えたときには、それ以上ないくらい満足感がありますよね。
⸻
ええ。本当にそう思います。
彼が私たちに思い出させようとしていることの一つは、人間には本来もっと大きなことができる力があるということなんです。
世の中では、「あなたが得意なのはテレビを見ることなんだ」というような、とてもさりげない、ときには露骨なメッセージを絶えず浴びせられています。
本当にそうなんです。
つまり、「文化的に見て良い人生とは、一生懸命働いて、家に帰ったらビールを一本開け、大きなテレビでリアリティ番組を見て満足することなんだ」という価値観を押し付けられている。
そして、それだけで満たされるはずだと言われている。
でも、そんなことで私たちが満たされないと感じるのは、ある意味当然なんですよ。
だから僕は、『インフィニット・ジェスト』を読み終えたとき、本当に達成感がありました。
長距離ジョギングを終えたあとのような気分、と言えばいいでしょうか。
……まあ、実は長距離ジョギングなんてしたことないんですけど(笑)。
でも、とにかく「ああ、自分はやり遂げた」という感覚になるんです。
⸻
司会:
では、その長い「ジョギング」に出発する前──つまり、この役に挑む前のことですが。
I was at an airport. I was in an airport flying to Boston, and I remember it really distinctly. So, to set up where I was when I got the script, because I think it's an important part of the story. I was feeling, I was at a point where it was the last season of my TV show, and I was also, I was 34 years old. Maybe I was 33 when I got the script. And Forgetting Sarah Marshall is really an honest reflection of where I was at 24. You know, that is, I mean, that is really like, I'm really proud of it. That is what I was thinking about, and it is those times when a breakup with the girl you think you're gonna marry is devastating. The world is ending, you know what I mean? You call it the breakup, because the only one cares. Like, and a fire makes it a whole different thing. Yeah, yeah, you know, because that's what it is in your mind. It's like, the breakup. But what I had found was, I think by nature of the way the business works, by nature of doing big movies, you, you're encouraged in a lot of different ways to continue to do what has been successful. So I did a lot of movies that were sort of in that realm, or sort of felt that way. And by the time I was 33, I was starting to feel like my interior life wasn't matching up with what I was putting on screen. I was feeling a real pull. And that's not a good feeling when you write your own material, and when you, you know, I try to, a lot of different types of acting, but I kind of try to, to a submersion, being a surrogate, like, I am you for the next hour and a half. Do you feel this way too? So I put out into the ether, like, a decision. I wanted to do something different. I needed to make a change. If I'm gonna do this for 50 more years, if I'm lucky, it needs to be stuff that is reflective of how I'm, I'm in the airport, and this script arrives, and I read it on the plane. And I thought, this is really cool you sent this to me.
音声認識の誤りを補いながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
空港にいたんです。
ボストンへ向かう飛行機に乗るため空港にいて、その時のことは今でも本当にはっきり覚えています。
この脚本を受け取ったとき、自分がどんな状況にいたのかを説明しておきたいんです。そこはこの話では重要だと思うので。
当時、僕は出演していたテレビシリーズの最後のシーズンを撮っていました。
それに、34歳でした。いや、脚本を受け取った時は33歳だったかもしれません。
『Forgetting Sarah Marshall(寝取られ男のラブ♂バカンス)』という作品は、24歳だった頃の僕を、本当に正直に映し出した作品なんです。
当時の僕が実際に考えていたこと、そのままなんです。
24歳くらいの頃って、「この人と結婚するんだ」と思っていた恋人との別れは、本当に壊滅的な出来事ですよね。
⸻
司会:
だから「あの別れ(the breakup)」って呼ぶんですね。
⸻
そう(笑)。
そうなんです。
自分の頭の中では、まさに**「あの別れ」**なんですよ。
⸻
この業界の仕組み上でもあるし、大作映画に出るようになると特にそうなんですが、成功したものを繰り返し続けるよう、いろいろな形で促されるんです。
でも33歳になる頃には、自分の内面と、スクリーンの上で演じている人物が噛み合わなくなっていると感じ始めていました。
心の中では、何か別の方向へ進みたいという強い気持ちが湧いていたんです。
自分で脚本も書く人間にとって、それは決して健全な状態ではありません。
僕はいろいろなタイプの演技をしますが、基本的には役に完全に没入するタイプなんです。
つまり、
「これから90分間は、僕があなたになります。あなたも同じように感じますか?」
そういう感覚で演じたいんです。
だから僕は、まるで宇宙に向かって願いを放つみたいに、自分の中で一つ決意しました。
何か違うことをやりたい。
変わらなければいけない。
もし幸運にも、この仕事をあと50年続けられるなら、演じる作品も、その時々の自分自身を映し出しているものでなければならない。
そんなことを考えていたんです。
飛行機の中で読んで、
「これを僕に送ってくれたなんて、本当にすごいな」
と思ったんです。
And I landed and I called my agent. I said, yes, this is the type of material that I'd like to do. But, you know, maybe if someday they'll let me do this kind of stuff. And she said, no, James Ponsoldt, the director, wants to talk to you about it because he thinks that you might be able to do it. And there was a line in that script that I almost like cried on the airplane, which was uncomfortable because there was a little person next to me who was a stranger. You've been full frontal naked on screen, but you were uncomfortable crying on a plane? Oh, I had a bad experience, and that's a short tangent that probably, but one time, I think it was due to the altitude, I was watching a movie on the plane, and I started crying like really hard. I think a good way of putting it is disproportionate to the occasion. And the woman next to me looked over at me like, is he okay? And then she like peeked over to look at what I was watching. It was Dreamgirls.
音声認識の崩れを補正しながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
「うん、こういう作品こそ、僕がやりたい仕事なんだ。でも、いつかこういう役をやらせてもらえたらいいな、って感じかな」
そう言ったんです。
すると彼女は、
「違うのよ。監督のジェームズ・ポンソルトが、あなたとこの作品について話したいと言ってるの。あなたなら演じられると思っているから」
と言いました。
脚本には、飛行機の中で読んでいて、思わず泣きそうになったセリフが一つあったんです。
隣にまったく知らない小柄な人が座っていたので、それはちょっと気まずかったですね。
⸻
司会:
スクリーンでは全裸になることも平気なのに、飛行機で泣くほうが恥ずかしかったんですか?
⸻
ええ(笑)。
少し話がそれますけど。
たぶん高度のせいだったと思うんですが、機内で映画を観ていたら、本当に号泣し始めちゃって。
その状況に対して、泣き方が完全に度を超えていたんですよ。
⸻
司会:
⸻
隣に座っていた女性が僕を見て、
「この人、大丈夫なの?」
みたいな顔をしていました。
それから彼女は、僕が何を観ているのか気になったんでしょうね。
身を乗り出して画面をのぞき込んだんです。
そしたら……
⸻
補足
I think a good way of putting it is disproportionate to the occasion.
これは直訳すると、
という意味です。
つまり、「少し感動して涙ぐむ」程度ではなく、周囲が心配するくらい激しく泣いてしまった、というジョークになっています。
また、
You’ve been full frontal naked on screen
という映画
OECDの論文「Trends in Income Inequality and its Impact on Economic Growth」(Federico Cingano, 2014)は、「格差は成長にとって必要悪なのか?」という古典的な問いに対し、むしろ所得格差の拡大は長期的な経済成長を低下させるという結論を示したことで大きな注目を集めました
ことが示されました。 ([OECD][1])
有名な試算では、
> 1985~2005年に拡大した格差によって、多くのOECD諸国では累積GDP成長率が数%ポイント押し下げられた
---
### 2. 問題は「上位1%」より「下位40%」
だと指摘した点です。
OECDは、
よりも、
が成長率低下に最も強く関係していると結論づけています。 ([OECD][1])
つまり
の方が経済成長に悪影響を与えるという主張です。 ([OECD][1])
---
ほど
一方で、
の教育水準はほとんど影響を受けませんでした。 ([OECD][1])
> 格差拡大
>
> ↓
>
>
> ↓
>
> 労働力の質が低下
>
> ↓
>
> 生産性成長が鈍化
>
> ↓
>
> GDP成長率低下
---
と主張しています。
具体的には
などは、
「格差是正のため」だけでなく
---
この論文は非常に有名ですが、経済学界で完全な合意があるわけではありません。
主な批判は
格差が成長を下げるのか、
成長停滞が格差を生むのか、
完全には分離できない。
### ② 国によって結果が違う
のような高成長国では格差も大きい。
したがって、
「格差は常に悪い」
ではなく
---
ではなく、
です。
OECDの分析では、成長を阻害するのは主として「下位40%の取り残され」であり、再分配や教育投資は成長と両立しうるとされています。 ([OECD][4])
要するにこの論文の核心は、
> **「格差そのものではなく、低所得層が教育・技能形成の機会を失うほどの格差が、長期的な経済成長を損なう」**
[1]: https://www.oecd.org/en/publications/trends-in-income-inequality-and-its-impact-on-economic-growth_5jxrjncwxv6j-en.html?utm_source=chatgpt.com "Trends in Income Inequality and its Impact on Economic Growth | OECD"
[2]: https://www.oecd.org/en/publications/in-it-together-why-less-inequality-benefits-all_9789264235120-en.html?utm_source=chatgpt.com "In It Together: Why Less Inequality Benefits All | OECD"
[3]: https://arxiv.org/abs/2602.15690?utm_source=chatgpt.com "Income Inequality and Economic Growth: A Meta-Analytic Approach"
[4]: https://www.oecd.org/en/publications/policy-coherence-for-sustainable-development-2019_a90f851f-en/full-report/component-5.html?utm_source=chatgpt.com "Coherent approaches for empowerment, inclusiveness and equality: Policy Coherence for Sustainable Development 2019 | OECD"
ご質問の「既得利益」は、原著では "vested interest" です。
As just noted, economic and social behavior are complex and mentally tiring. Therefore we adhere, as though to a raft, to those ideas which represent our understanding. This is a prime manifestation of vested interest. For a vested interest in understanding is more preciously guarded than any other treasure. It is why men react, not infrequently with something akin to religious passion, in the defense of what they have so laboriously learned. ... Familiarity may breed contempt in some areas of human behavior, but in the field of social ideas it is the touchstone of acceptability.
岩波版訳 原文
既得利益 vested interest
知識の既得利益 vested interest in understanding
社会的観念が一般に受けいれられるか否かは親しみやすさにかかっている familiarity ... is the touchstone of acceptability
となります。
ここで重要なのは、ガルブレイスがいう vested interest は、通常の「既得権益(利権)」だけを意味していないことです。
彼はむしろ、
を指しています。
つまり、
という意味です。
このため日本語の「既得利益」だと少し経済的・政治的なニュアンスが強すぎて、原文の "vested interest in understanding" の含意がやや伝わりにくいとも言われます。
むしろ、
「学んできた考え方への執着」
なお、この議論は後にガルブレイスが有名にした 「通念(Conventional Wisdom)」 の概念につながります。彼にとって通念とは、「正しいから信じられている考え」ではなく、「馴染み深いから信じられている考え」だったのです。
サンデルとヴァンス(および彼の影響源であるパトリック・ディーン)の理論的近さは興味深いポイントです。左寄りの哲学者(サンデル)と右派の政治家(ヴァンス)の間で、根本的な「反リベラル個人主義」という共通基盤があり、現代政治思想の再編を象徴しています。
『リベラリズムと正義の限界』や『民主政の不満』で、ロールズ的な「無拘束の自己(unencumbered self)」を批判。個人は共同体・伝統・共有の善(common good)の中で形成されるのに、リベラリズムは中立的な国家・権利優先で共同体を空洞化させたと主張。 meritocracy(功績主義)の「暴政」も痛烈に批判(『The Tyranny of Merit』)。
リベラリズムの成功が逆に共同体(家族、地域、宗教、国民)を破壊したと診断(ディーンの『Why Liberalism Failed』)。ヴァンスはこれを公に引用・共感し、「共通善保守主義(common good conservatism)」を掲げ、国家や共同体が積極的に価値・文化・経済を再構築すべきと主張。
サンデルの最近の著作は、ヴァンス周辺の議論(全国保守主義やポストリベラル)で頻繁に言及されます。両者とも、グローバル化・エリート主導の市場が中間層・共同体を破壊し、文化的・経済的疎外を生んだと見る。
サンデルは左寄り(多文化・平等重視)ですが、共和主義的伝統(自己統治、徳、共同体参加)を復権させる点で保守的要素あり。一方、ヴァンスはそれを右派的に具体化:移民制限、家族政策、保護主義、反Woke文化防衛として。方向は逆ですが、「国家/共同体が共通善を定義・推進する」という権威的傾向は重なります。
これは20世紀後半のリベラル・コミュニタリアン論争が、21世紀に右派版として再演されたと言えます。コミュニタリアニズムは元々左右双方に影響を与え(左は多文化・福祉、右は伝統・ナショナリズム)、ポストリベラル右派がその「右翼版」を取り出した形です。サンデル自身はリベラル寄りですが、彼の共同体重視はディーンやヴァンスの「反体制・共通善」論に理論的土台を提供しました。
My wife is a total villain, that's why I love her so damn much
She puts on a good front and gets doted on by everyone, but deep down she's seriously a villain
昨年の夏
道端で熱中症で倒れたジジイがいて周りに心配して集まってるババアが数人いたらしい
Apparently there was this old geezer who collapsed from heatstroke on the roadside, and a few old ladies had gathered around, all worried
And she saw that scene and just burst out laughing
ワイ「腐れ外道だな」
Me: "You're a rotten villain, huh"
Wife: "Huh!? Why!? You'd laugh too, that's normal!!"
笑わねえよwww
https://x.com/povoxxx2/status/2062808489412727293?s=46
取り繕う
表向きの顔を作る
good front
善人っぽい表向きの姿
→
⸻
dote on ~
~を溺愛する
甘やかす
かわいがる
かわいがられる
チヤホヤされる
→
「みんなに可愛がられている。」
⸻
but deep down she’s seriously a villain
心の奥では
本質的には
seriously
本当に
→
「でも本性は本当に悪役なんだ。」
⸻
Apparently there was this old geezer
apparently
どうやら
聞くところによると
this ~
「ある~がいてさ」
口語でよく使う
old geezer
くたびれた老人
やや失礼な表現です。
→
「どうやら年寄りの爺さんがいてさ。」
⸻
collapsed from heatstroke
collapse
倒れる
heatstroke
→
「熱中症で倒れた。」
⸻
on the roadside
roadside
道端
→
「道端で熱中症で倒れた。」
⸻
a few old ladies had gathered around
gather around
集まる
囲む
→
「何人かのおばあさんたちが周りに集まっていた。」
⸻
all worried
worried
心配している
→
「みんな心配そうにしていた。」
⸻
And she saw that scene and just burst out laughing
吹き出す
突然笑い出す
→
⸻
腐った
性根の腐った
huh
~だな? ~だろ?
→
「お前ほんと性根の腐った悪役だな。」
⸻
Huh!? Why!?
ここでの Huh!?
「はぁ!?」
「何で!?」
⸻
You’d laugh too
would
は仮定。
→
⸻
that’s normal!!
→
「普通そうなるでしょ!」
⸻
これは重要。
そんなわけあるか
冗談じゃない
絶対違う
→
「笑うわけねーだろ!」
⸻
先日、今ストラトに何が起こっているか で今ギター業界を激震させているフェンダー社のC&Dレターについて書きました。
次に何が起こるかドキドキしながら5月25日の回答期限が過ぎるのを待っていましたが、さっそく大きな動きがありました。
アメリカの大手法律事務所がフェンダーに反論書を送付し、その内容が YouTuberによって公開 されたのです。
反論書を作成した弁護士がポイント。Fox Rothschild LLM の Ronald Bienstock 氏です。氏は、2009年のTTAB裁定(ストラト形状はもはや一般名詞化しているとして商標権を認めなかった)という馬鹿でかい勝利を勝ち取ったご当人。つまりストラト形状権利問題についてはこの人以上によく知っている人はいないであろう、生き字引であり、フェンダーの天敵とでも言うべき人です。
依頼主の名前は伏せられていますが、この人が乗り出したということはかなり予算を持ったメーカーが本気で反撃に入ったと考えられます。TTABの時はPRSを筆頭に18社の反フェンダー連合が組織されて勝利しました。今回も同じくらい規模の大きな戦争になるということです。
上の動画から反論書の内容をAIにまとめさせました。火の玉ストレートの反論で痛快です。
差出人: Fox Rothschild LLP / Ronald Bienstock弁護士
宛先: Fender Musical Instruments Corporation(FMIC)および代理人 Bird & Bird法律事務所
背景: Fender社から送付された「ストラトキャスター・ボディ形状の著作権侵害」主張に対する独立系ギタービルダー側の包括的な法的反論。
Fender社が根拠とするドイツ・デュッセルドルフ地方裁判所の判決は、中国の被告企業が裁判に一切出廷しなかったために下された欠席判決に過ぎない。ドイツ民事訴訟法により、被告欠席の場合は原告側の主張が全て「認めたものとみなす」扱いとなるが、このような判決が第三者一般を拘束する対世的効果を持つ規定は存在しない。
この判決は当事者間でのみ有効であり、裁判に参加していない第三者(独立系ビルダー)を法的に拘束する先例にはならない。完全な証拠記録と適切な反証があれば、裁判所は異なる判断を下していたはずである。
社史の誤り: Fender社は1946年からソリッドボディギターを製造していたと主張したが、これは虚偽。1946年に製造したのはラップスチール・ギターであり、最初の量産型ソリッドボディ・ギター(Esquire/Broadcaster)は1950年である。
「単独創作者」神話の虚構: EU著作権法の要件を満たすため、Fender社は「Leo Fenderが単独でストラトキャスターを設計した」という物語を作り上げた。しかし実際には、Freddie Tavares、Rex Gallion、Bill Carson、George Fullerton、Jimmy Bryantら複数人物による共同創作であり、この事実はFender社自身の公式サイトにも明記されている。
Leo Fenderは「芸術家」ではなく「技術者」: Leo本人の言葉として「100ドルあれば99ドルを機能に、1ドルを見た目に使う」と公認されている通り、彼が追求したのは徹底した機能性・量産性・修理容易性であった。ストラト形状は芸術的表現ではなく、人間工学的・機能的要請から形成された工業製品デザインである。
Leo Fenderや共同デザイナーたちが、ストラト形状の著作権を旧Fender社(FEIC)に正式にライセンス・譲渡したという明確な契約書等の法的証拠が存在しない。
2. FEIC → CBS(1965年売却):「普遍的承継」と主張するも文書なし
3. CBS → FMIC(1985年):前段階の証拠がない以上、この移転も成立しない
決定的な矛盾: Leo Fender自身が1965年のCBS売却後、非競争条項明けにMusic Man(1974年)とG&L(1979年)を設立し、ストラト形状のギターを継続的に製造。もし独占的著作権が本当にCBSに移転していたなら、CBS側がこれを完全に黙認していたことになり、権利の放棄(waiver)を意味する。実際、G&L社は2025年まで製造を続け、Ernie Ball Music Man社は現在も製造・販売している。
実用的物品の原則: 米国著作権法および国際的な著作権法理において、量産される楽器の機能的形状は原則として著作権で保護されない。米国最高裁はギターを明確に「実用品」として分類している。
機能とデザインの不可分性: ストラト形状のダブルカッタウェイ(ハイフレットアクセス)、人間工学的曲線(演奏の快適性)、コンター加工(体への圧迫軽減)などは、すべて楽器としての機能・実用性そのものであり、芸術作品として切り離して著作権保護することは法的に不可能である。
日本の最高裁も「量産型の実用的な製品は、その形状が実用的機能から導かれる要素とは独立した創造的表現の場合にのみ保護される」という原則を確認している。
意匠特許の失効: 旧Fender社は1952年と1959年にデザイン特許を取得したが、それぞれ1967年と1973年に失効。特許失効時点で形状はパブリックドメインになっており、50年以上経過した今になって著作権にすり替えるのは法の濫用である。
著作権表示の欠如: 1976年以前の米国著作権法では製品への著作権表示が要件だったが、ストラト発売(1954年)以降、一度も付けたことがない。当時の権利者自身が著作権保護の対象とは考えていなかった証拠である。
2009年TTAB判決での決定的敗訴: 2003年、FMIC社が初めてストラト等のボディ形状の商標登録を申請。これに対し17社のギター関連企業が異議申し立て。2009年3月25日、米国特許商標庁・商標審判部(TTAB)は「50年以上にわたるサードパーティーの広範な使用により、いかなる単一企業の出所識別機能としても機能できない」として商標登録を拒絶。ストラトボディ形状は米国において「一般的な形状(generic)」と宣言された。Fender社は上訴せず、判決は確定した。
最も重大な事実隠蔽: Fender社は、この2009年TTAB決定の事実をデュッセルドルフ地方裁判所に一切開示しなかった。世界最大のギター市場である米国において既に「一般的な形状」と裁定されていたという最も重要な事実を隠蔽したのである。
形状の一貫性の欠如: 1954年から1964年頃までのFenderギターは手作業で研磨されていたため、年式や個体によって寸法・コンター・曲線に大きなバラつきが存在。1970年代には輪郭が著しく浅いフラットボディも製造されていた。Fender社自身が一貫した形状を維持できていなかった。
広範な使用の歴史: ストラト発売から数年以内にサードパーティーによる同形状の使用が始まり、1959年以降Carvin、Eko、Tokai、Ibanez、Kramer、Jackson、Charvel、Music Man(Leo Fender指揮下)、G&L(Leo Fender指揮下)、Yamaha、Gibson等、数百社が参入。現在も拡大し続けている。
市場での公然たる流通: これらの競合ギターは、Fenderと同じ雑誌(Guitar Magazine、Guitar Player等)、同じ展示会(NAMMなど)、同じ小売店(Guitar Center、Sweetwater等)で堂々と販売され、60年以上にわたって妨げられることなく行われてきた。Eddie Van HalenはCharvelおよびKramerのストラト形状ギターを演奏していた。
Fender自身による製造助長: 1980年代、Fender社の前身企業は日本のメーカーへの製造外注を開始。特筆すべきことに、同一の工場(フジゲン)が、Fender社とFender社の競合他社のためにストラト形状ギターを同時に製造・出荷していた。Fender社自身が、ストラト形状を業界標準として扱っていた。
Fender自身による公的認知と権利放棄: 1990年、FMIC社は「Fender Frontline」カタログを導入し、20年以上にわたり以下のスローガンで他社の使用を認めてきた:
Fender社自身の専門家証人ですら、TTAB裁判において1960年代初頭から市場に溢れ始めたストラトボディの「無恥なコピー」を証言。これらはFender社がサードパーティーメーカーを認識し、全ての権利を完全に放棄していたことを示す。
Fender社は長年、文字商標「Fender」とヘッドストック形状については積極的に保護してきたが、ボディ形状に関しては60年以上にわたり権利行使を怠ってきた。世界中で広範にサードパーティーによる製造・広告・販売が行われていたにもかかわらず、認識と黙認以外、何の措置も取らなかった。
1980年代後半、FMIC社が商標権行使活動を開始した際、対象は文字商標とヘッドストック形状のみであり、ボディ形状は対象外としていた。2003年の商標申請以前、楽器や製品パッケージにボディ形状の権利主張表示を一度も付けたことがない。
TTAB決定以降の不作為: 2009年のTTAB決定以降、Fender社は他のいかなる法域においてもボディ形状の保護を求めていない。訴訟がTTABの判断とストラト形状の圧倒的な一般性の証拠を持ち込むことを知っているからである。
公正と公共政策の観点: 欠席判決への依拠によってストラトボディ形状の著作権保護を執行しようとすることは、実体のない(vaporous)措置である。71年間にわたる量産型の一般的なギターボディ形状に遡及的に著作権保護を付与することは、商標法を無意味なものにする。
サードパーティーは70年以上にわたってストラト形状の自由な使用に依拠し、その上にビジネスを築き、何千人もの人々を雇用し、何百万ドルも費やしてきた。単純な公平と公共政策の問題として、Fender社は70年以上経過した後、欠席判決によって多数の製造業者・販売業者を排除してストラト形状を独占する権限を与えられることはできない。
何十年も権利行使を怠ってきたにもかかわらず、突然権利を主張する行為は、禁反言(Estoppel)および権利行使懈怠(Laches)の法理により、法的に認められない。
Bird & Bird法律事務所の書簡では、依頼人のギターがFender社のギターボディ形状とほぼ同一であると主張している。しかし、書簡において「Fenderストラトキャスター・ボディ」として示された参照写真は、実際には地方裁判所訴訟における被告(中国企業)のギターである。代理人自身が中国製コピーギターとFender社のギターを区別できていない。これは、ストラトボディがあまりにも一般的で、知的財産権保護になじまないことを明確に示している。
依頼人のギターとFender社のギターを直接比較すると、全体的なサイズ、上部バウトの厚み、アームベベルの角度など明確な相違点が存在する。依頼人の楽器は独自のマーク、仕上げ、特徴を持っており、Fender社のいかなる権利も侵害していない。
刑事司法制度を利用した民事的解決の強要: Bird & Birdの書簡は依頼人の「犯罪行為」に言及した上で、Bird & Bird自身の法律事務所への直接支払いを要求。米国の多くの法域では、民事的解決を得るために刑事司法制度の利用を脅迫することは弁護士倫理の重大違反である。
許容範囲を超えた虚偽表示: 書簡は「Fender社がストラト形状に関する全権利を保有し、デュッセルドルフ判決によって確認された」と主張したが、同判決はいまだ最終判決にも至っておらず、第三者を拘束しない。欠席訴訟が確立した先例を代表し、当方依頼人を拘束するという主張は、恐怖とパニックによる解決を植え付けるために設計された明白な虚偽である。
当方は、貴職らが書簡に記載されている主張の全体を撤回することを要求する。
当方依頼人は、いつでも、どこでも、望む場所でストラトスタイルのギターボディを持つギターを販売し続けるあらゆる権利を有しており、世界中の楽器業界全体も同様である。
虚偽表示および誇大表示に基づいて競合他社をいじめる貴職らの依頼人の努力は、反競争的である。
貴職らの依頼人がこれらの事項の追求を継続する場合、当方依頼人は当然ながら、すべての弁護士費用および訴訟費用を含む、利用可能なすべての救済を求めることになる。
当方依頼人は、法律上および衡平法上のすべての権利および救済を留保する。
敬具 (Sincerely)
Ronald Bienstock, Esq.
AIの進化により、文章・画像・動画・音楽と、あらゆるデジタルクリエーションのハードルが一気に下がった。
それと同時に、「どうやってやるのか(HOW)」ばかりがあふれる時代になった。
確かに、AIツールやプラットフォームが次々登場し、早くから情報をキャッチできる人にはアドバンテージがある。
でも、その裏で「楽して稼ぎたい」という欲望に応える形で、情報商材のような“HOW至上主義”コンテンツも乱立している。
そして、みんなが同じような情報をコピー&ペーストしながら発信し、似たような記事や動画が大量生産されていく。
それって、本当に意味ある?
例えば、「note」なんかがいい例だ。
今や「副業で稼げる情報発信の場」として、一部のプレイヤーたちに“ハック”されてしまっている。
…でも、それで何が生まれる?
メモが取れるようになったからって、誰もが革新的なサービスを生み出せるわけじゃない。
本当に問うべきは「WHY」だ。
情報の海に溺れるな。
そこから、自分なりの問い(WHY)を立てて、世界と対話することが重要なんだ。
「なぜ自分はそれをやるのか?」
「なぜ、その技術を使いたいのか?」
「なぜ、今それが必要なのか?」
この“WHY”を深く掘り下げることこそが、
HOWを真に活かせる力となり、あなた自身の道を切り開く鍵になる。
AIで映像が作れても、それをビジネスや作品に昇華させるには、情熱が必要だ。
紹介記事
https://harf-way.com/game/the-last-flame/
https://indiegamesjournal.jp/2025/01/3750.html
オートチェス独特のシナジーで強くなる、飛びぬけたパワースパイクを摂取できる。
1. 5人種族なしの手狭さ
駒のヒーローが持っているのはパッシブスキルとマナをためるアクティブスキルのみ。種族ボーナスなどはなし。
なので、構成は
三つある状態異常のどれかか
+
など、単純に軸を決めて同系統の駒を集めることになる。
種族がないので役割アイコンや色を見て決めるが、キャラに統一感がないので直感的でなくスキルを調べて戦略にマッチするか調べる必要があり面倒。
出場枠は5でロールもあるので
ヒーラー
駒は毎ラウンド引けるわけでもないし、控えは3か4体しか確保できない。レベルアップは重ね引きの運ではなく自由に割りふる形式で控え育成という概念も薄く、レベルアップで得られるのはランダムパッシブスキル。
焚き火で構成の軸になる強力なバフを選択できる機会は豊富にあるが、パーティを入れ替えてバフを合わせるか、バフを入れ替えてそれにパーティを合わせるか、と問われたら最初に決めたパーティに合わせたバフをさっさととってそれで駆け抜ける形になる。なんせバフは1焚き火につき6種類提示のリロール2回あるので、目的のバフはさっさと取りやすい。
後半に出てくる基礎能力が高い駒、という概念もあるのか不明で、種族などの小グループ概念を集める利点もなく、運の要素も低いとなれば、プレイヤーにできるのはロールと戦略に合うスキルを持つ駒を集めることだけになってしまう。
5人という出場制限、その5人より小さい控え上限は戦略を極めきる後半までの戦略A+戦略Bや戦略A+種族シナジーB、裏で後半のためにかき集めるシナジー駒、レベルアップで実用的になる駒、といったアドリブでどう舵を取るか悩む期間が生まれず、決め打ちの戦略+邪魔なシナジーを生まない駒、という構成になり楽しい期間にならない。
(各所では戦略の幅が広いと言われている。しかし目指すパーティーの種類は豊富だが1プレイを通した戦略の幅は感じなかった)
2. 配置ゲームで敵を調べるのが面倒
ラウンドは毎回配置を自由に決められ、チェス形式の自陣・敵陣ではなくほぼ全体に自由に配置できる。
敵は最も近い敵を攻撃したり、直線状や扇状などの範囲攻撃を持っていたりする。
ゲームを始めるとそういった敵の情報を知らないので、毎回敵の攻撃を調べることから始まる。ダルすぎる。
敵駒クリックしてテキスト読んでムービー確認して…というのが敵の種類ごとに生まれる。
ゲームで敵を知ることを面倒だといったらおしまいだよというのはごもっとも。自分もsts系が苦手な理由の一つとして自覚している。
しかし、しかし。オートチェスは少数のPvEを除いて敵と自分の駒のプールは同一だったわけで。
自分が使うために駒の動きを学ぶだけで敵の駒の動きもわかってくる。敵の発動種族シナジーを見れば戦略も駒の範囲も大体検討がつく。裏取りする駒が強いことを使って知ってれば相手のその駒を警戒した配置にスッと組めるわけだ。
そこらへんのよかった点を捨てられると、敵は敵専用という至極普通な仕様、本来はマイナスでない部分にも減点をつけたくなる。
エリートや強化敵などがあるなら一般敵はヒーロー駒でもよかったかもしれない。そうすれば、プレイヤーも気づいてなかったシナジーに敵構成から気づいたりもできるし、シングルプレイゆえの敵から学べないオートチェス部分をカバーできたかもしれない。
このゲーム、全体が3Dで作られているせいか、妙に動作が重い。ロースペックではぜんぜんFPSが出ない。オートバトル系でありプレイヤーのシビアな操作がないのが不幸中の幸いだ。
この作品の場合、「ゲームシステムの面白さや演出のためのアニメーション」と「必要なマシンパワー」のつりあいがまったく取れていない。
どこにこんなにパワーが必要なのかわからないし、コマ一覧画面や商人が常にアニメーションしていることが面白さにつながらないし、背景の滝がずっと流れ続けている必要性も感じない。
こんなに重くて、ゲーム体験に不要な部分が散見されるのははっきりと不快である。
オプションで切り替えできればよかったのだが、そういったフレンドリーな部分は少なく、FPSを改善できる部分はないだろう。
効果の詳細な説明ツールチップやすべてのスキルに説明ビデオが搭載されていたり、とてもユーザーフレンドリーな、丁寧な作りが細部に感じられるのに、なぜかグラフィックの部分で急に突き放してくるのに面食らう。
そしてそういった声は自分以外からも上がっており、それに対する開発者の返答がこれだ
https://steamcommunity.com/app/1830970/discussions/0/595142002438394024/
Performance Suggestio
Loving the game, but my potato laptop struggles with this game and I'd love some more options to turn down the graphics to accommodate. Maybe something like pausing the background waterfalls would go a long way?
Anyone else finding similar?
---
Hotloop
The performance of this game is trash. I love to play it as a time killer but on my surface pro 7 i have at work i get about 5 fps. nothing helps. would love to see them stop trying to add features or other heroes and balance till the game actually runs smooth. My surface pro can run elden ring at about 25 fps so this should have no issues.
Unfortunately, the surface pro 7 does not meet the minimum specs of The Last Flame.
I am a solo dev, and performance is definitely an area that I have a lot more to learn about. I understand why you would think Elden Ring should be less performance intensive compared to TLF, I guess I would kind of agree. But they are 400+ employees with years of experience, while I am alone with close to no experience.
Sorry for the inconvenience, I actually already did a performance update in the past which bumped performance by quite a bit. There might be one in the future but I can't promise anything at the moment.
「エルデンリングより低いFPSが出るので改善してほしい!」の声に「エルデンリングチームのような経験も人数もないんだよ」という返答は、"気持ちはとてもわかるが"まったく芯を食った答えではない。そこに噛み付くのか…と開発者の読解力、あるいは何が言いたいのかではなく相手が何を求めているのかを考える落ち着き、自制心などの類が感じられない…。
そして背景の滝一つ止めるオプションについてすらスルーである。
作者ヤな奴だってわかったし…
ってやつである。ゲームによくない部分がありその部分に作者からよくない説得力を得てしまったらゲームにポジティブに向かうことは難しい。
低FPSだけど面白いからやっちゃうぜ!になる可能性はかなり高かった。でもこの作者のスタンスの作りによる不必要な低FPSにイライラしながら付き合う必要があるのか?といわれると自分はNOであった。
クローンゲーム、そしてインディーズゲームの悪い部分が現れている作品だが、それでもシングルプレイのオートチェス系は貴重だし、面白いゲームジャンルの面白い部分をすくい上げることには成功している作品である。
The field of Clinical Research is rapidly growing, offering exciting career opportunities for life sciences graduates, healthcare professionals, and anyone interested in contributing to medical advancements. With the increasing demand for skilled professionals, proper training has become more important than ever. Clinical research involves designing, conducting, and analyzing clinical trials to ensure the safety and effectiveness of new drugs, medical devices, and treatment protocols. However, entering this field without practical knowledge and industry-relevant skills can be challenging. This is where enrolling in Medical Coding can make a significant difference. Pune has emerged as a prominent hub for education and healthcare, offering specialized programs that combine theoretical knowledge with hands-on experience. These courses often cover essential topics such as: • Good Clinical Practice (GCP) • Regulatory Affairs • Clinical Data Management • Pharmacovigilance • Clinical Trial Monitoring By opting for structured Medical Coding Courses, aspiring professionals can gain exposure to real-world scenarios, industry tools, and expert guidance—helping them become job-ready in a competitive market. If you're considering a career in clinical research or looking to upgrade your skills, investing in the right training program could be your stepping stone to success. What are your thoughts on the importance of formal training in clinical research? Have you explored any courses or certifications in this field?