はてなキーワード: etc.とは
今まで見たアニメのリストを確認したところ、女性主人公がほとんどいないことに気づきました。私は主にアクション、アドベンチャー、スリラー、ホラー、心理、ファンタジーなどを見ています。私のリストには、カウボーイビバップのような90年代のアニメから、神之塔のような最近のアニメまで含まれています。なぜアニメには女性主人公が少ないのでしょうか?ちなみに、私が話しているのは、恋愛や魔法少女といったくだらないもので、ひどくつまらない画風/アニメーションで、全く面白みのない女の子ばかりの少女漫画ではなく、私が好むジャンルについてです。そして、ほとんどのアニメファンや男性が男性キャラクターを好むからではないと思います。男性は男性キャラクターを好み、女性は女性キャラクターを好むというのは、とても単純すぎるように聞こえます。性別以外にも、人々がキャラクターに共感できる方法は1000通りあります。
原文:
Why is there a lack of female main characters in anime?
I just checked my list of anime that I have watched noticed there are like 0 female main characters. I mostly watch action, adventure, thriller, horror, psychological, fantasy, etc. My list contains from 90's anime like cowboy bebop to current anime like the tower of god. Why is there a lack of female main characters in anime? Also, I am talking about my preferred genres and not shoujo which is filled with romance and magical girl shit with horrible and uninteresting art style/animation and absolutely bland-looking girls. And I don't think it's because most anime fans and males. Male prefer male characters and females prefer female characters sound very simplistic. There are 1000 ways people can relate to a character aside from their gender.
1. A figure of speech in which a name or descriptive word or phrase is transferred to an object or action different from, but analogous to, that to which it is literally applicable; an instance of this, a metaphorical expression.
2. Something regarded as representative or suggestive of something else, esp. as a material emblem of an abstract quality, condition, notion, etc.; a symbol, a token. Frequently with for, of.
“Metaphor, N., Sense 2.” Oxford English Dictionary, Oxford UP, June 2026, https://doi.org/10.1093/OED/3041519890.
https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/porn
pictures, books, television programmes , newspaper articles, etc. that are intended to be exciting for people interested in a particular subject or particular product:
ジェシー・アイゼンバーグが『The End of the Tour』の脚本を読んだのは、あるインタビューを受けた直後だった。
そのインタビューについて彼は、
「自分について好意的なことを書くつもりはないし、自分が望むような人物像として描かれることもないだろうと分かっていた」
と語っている。
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この映画は、ジェームズ・ポンソルト監督(『The Spectacular Now』)による作品で、ジャーナリストのデイヴィッド・リプスキーが書いた本を原作としている。
その本は、1996年、『Infinite Jest』という壮大なコメディ小説のプロモーション中だったデイヴィッド・フォスター・ウォレスと、リプスキーが過ごした5日間を記録したものだ。
彼自身も小説家だったが、成功は限定的で、『Rolling Stone』誌で働いていた。
彼は編集者を説得し、インディアナ州へウォレス(演:ジェイソン・シーゲル)のインタビューに行かせてもらう。
『Infinite Jest』の出版によって、当時34歳だったウォレスは文学界の有名人となった。
主要メディアは彼を「自分たちの世代の声」「天才」として絶賛した。
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ピューリッツァー賞受賞劇作家ドナルド・マーグリーズによる『End of the Tour』の脚本を読んだアイゼンバーグは、
「この男を演じるのは面白いと思った。単なる無害なインタビュアーではなく、誰かを暴こうとしてそこへ向かっている人物だから」
と感じたという。
文学者同士の長い会話など、素晴らしい映画になる題材には思えないかもしれない。
しかし『End of the Tour』は、ユーモアと哀しみを交えながら展開する、二人の間の魅力的な心理戦になる。
一種のロードムービーでもあるこの作品は、ポップタルトやジャンクフードを分け合うような馬鹿げた日常的な場面と、暗く告白的な瞬間を並置している。
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アイゼンバーグは、ウォレスについて人々が知っていることは、おそらく二つだけだと言う。
一つは、彼が1079ページにも及ぶ巨大な本を書いたこと。
写真では、しばしば祖母のような丸眼鏡をかけ、長い髪をバンダナでまとめている姿が写っている。
描写に満ち、魅惑的で、予想外の方向へ進む。
良くも悪くも、唯一無二の声だった。
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主にコメディ俳優として知られていたシーゲルをウォレス役に選んだことには、インターネット上で反発もあった。
ポンソルト監督は、シーゲルを一つのジャンルだけに閉じ込めることは馬鹿げていると言う。
ロビン・ウィリアムズやトム・ハンクスのようなコメディ出身者が、偉大なシリアス俳優になった例を挙げながら。
またポンソルトは、もう一人の主演俳優であるアイゼンバーグについても高く評価している。
彼をダスティン・ホフマンやジーン・ハックマンになぞらえ、
だと語る。
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早口で話し(ニューヨーク出身らしい特徴だ)、機転の利いた冗談をすぐ返すアイゼンバーグ(31歳)は、シーゲルとの関係について、
「映画の中の二人の人物の関係はしばしば対立的だけれど、僕たち自身はとても良い仲間意識があった」
と話す。
劇作家でもあり短編作家でもある彼は、マーグリーズの脚本を読むことを楽しみにしていた。
「登場人物たちが、本当に感情的に複雑な人生を持っていると分かっていた。台詞も良い。場面が3行程度で終わるようなものではない。こんな作品に関われる機会って、どれくらいあると思う?」
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アイゼンバーグの次の仕事は、8月にカリフォルニアで撮影開始予定のウディ・アレン作品。
その後には、自身初の短編集『Bream Gives Me Hiccups』の出版ツアーが控えている。
さらに、この年には『American Ultra』『Louder Than Bombs』の2作品が公開予定で、翌年には『Batman v Superman: Dawn of Justice』で悪役レックス・ルーサーを演じる。
「バットマン映画で僕が演じる場面は、本当に面白くて魅力的なんです」
と語る。
彼は、『End of the Tour』のような小規模作品と、大作映画の両方で仕事をすることに価値を見出している。
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「俳優との仕事の仕方を深く理解している、珍しいタイプの監督」
だと評価する。
また、最初はそれほどドラマチックではないと思った場面を、ポンソルトがより劇的なものに変えていくことに感銘を受けたという。
「一見すると何気ない会話の中に、生死をかけたような緊張感が生まれるんです。」
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結局、リプスキーは『Rolling Stone』の記事を書く必要がなくなった。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』のあとがきで、彼はウォレスと過ごした時間の中で、自分自身が抱えていた不安や劣等感を認めている。
興味深いことに、雑誌ライターとして経験豊富だったウォレスの方が、インタビューという行為についてはリプスキーよりはるかによく理解していた。
自分の発言がどのように誤解され、切り取られ、分析され、再構成される可能性があるか。
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カメラの存在と同じように、回り続ける録音機は現実そのものを変えてしまう。
その意味で、二人は互いのために演じていたのだとポンソルト監督は考えている。
しかし同時に、ウォレスは「自分自身を明らかにしようとしていた」とも感じている。
「彼は本質的に警戒心の強い人でした。おそらく作家や、思慮深く神経症的な人間がするように、常に自分自身を編集していたんだと思います」
とポンソルトは語る。
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『End of the Tour』はサンダンス映画祭で上映された際、好意的な評価を受けた。
特に、デイヴィッド・フォスター・ウォレス文学トラスト、彼の未亡人、そして何人かの編集者からである。
理由は複雑だ。
「ウォレスはスクリーン上で自分を描かれることを望まなかっただろう」
ということだった。
また、作家の遺産や作品を自分たちのもののように守ろうとする人々もいる。
ウォレスを直接知らず、遺産にも関係がない、ただのファンでさえそうすることがある。
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ポンソルトは言う。
「多くの人がデイヴィッドを深く大切に思っていることは理解しています。私たちは何も知らずに作ったわけではありません。この映画を金儲けのために作ったわけではない。もちろんお金のためでもない。私たちはデイヴィッド・フォスター・ウォレスを愛しています。願いは、より多くの人が彼の作品を読むことです。」
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作家が衝撃的な死を遂げたことを考えると、不快感を覚える人がいるのも理解できる。
しかし、文学者の自殺というものは決してウォレスだけの特殊な例ではない。
『End of the Tour』は、ウォレスが、おそらく最も力を発揮していた時期を描いている。
彼の死は遠い影として存在しているだけだ。
リプスキーの本は、5日間のインタビュー記録がほぼそのまま収録されている。
その中でウォレスはこう語る。
「作家は他の人より頭がいいわけじゃないと思う。ただ、彼らは自分の愚かさや混乱の中に、より説得力を持ってしまうんだと思う。」
そしてすぐにこう付け加える。
「でも今の言い方も、結局は音のいい言葉になるように僕が構成しているんだけどね。」
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これは、ウォレスが自分の名声や、自分が作られるイメージとの間に、どれほど居心地の悪く複雑な関係を持っていたかを示しているとも言える。
「公の人物としてできる唯一の望みは、自分について物語を作る人たちが、自分に対してある種の敬意を持っていることです。そして、この場合、それは確かにそうだったと思います。」
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有名人として、アイゼンバーグ自身も、自分について何が書かれるかを完全にはコントロールできないことを知っている。
実際、彼は以前、自分が不快に感じた記事を書いたインタビュアーに電話をした。
その記者は、その記事には皮肉なトーンがあったことを認めたという。
「自分がそこまで注目されるほどの価値があるとは思えなかったんです。それに、僕は特別に物議を醸すようなことをしていたわけでもありませんでした。」
Jesse Eisenberg read the script for “End of the Tour” shortly after doing an interview “that I knew was not going to say nice things about me or characterize me in a way that I would want to be characterized.”
The film, from director James Ponsoldt (“The Spectacular Now”), is an adaptation of journalist David Lipsky’s book that recounts five days in 1996 with David Foster Wallace during the promotion of the author’s epic comic novel “Infinite Jest.”
Eisenberg plays the then-30-year-old Lipsky, a novelist himself with modest but limited success, who was working at Rolling Stone. He persuades his editor to send him to interview Wallace (Jason Segel) in Indiana, where the novelist taught at a small college. The publication of “Infinite Jest” made Wallace, then 34, a literary celebrity, with major publications lauding him as the voice of his generation and a genius.
After reading the script for “End of the Tour” by Pulitzer Prize-winning playwright Donald Margulies, Eisenberg “thought it would be interesting to play this guy who was not this innocuous interviewer but is kind of going there to expose somebody.”
While a prolonged conversation between a couple of literary guys doesn’t sound like the stuff of great cinema, “End of the Tour” becomes a fascinating fencing match between the two, punctuated by humor and pathos. A quasi-road-trip movie, it juxtaposes silly and mundane concerns — they share Pop Tarts and junk food — with dark and confessional moments.
If people know anything about Wallace, it’s that he wrote a big book — 1,079-pages — and hanged himself in 2008 at 46, observes Eisenberg. The author was an eccentric figure. His photos often show him wearing granny glasses, his long hair wrapped in a bandana. His writing was electric, trippy, with descriptive passages, seductive and unexpected, for better or worse a singular voice.
The choice of Segel, mostly known for comedies, to play Wallace engendered some protests on the Internet, but the actor proves riveting in his portrayal. Ponsoldt thinks it is ridiculous to box Segel into one category, pointing out that comic talents like Robin Williams and Tom Hanks proved to be great dramatic actors.
Ponsoldt also has high praise for his other star, Eisenberg, comparing him to Dustin Hoffman and Gene Hackman, “guys you wouldn’t think could become leading men.”
A fast talker (a New York City native) and ready with a quip, Eisenberg, 31, says he and Segel had “a nice camaraderie even though the relationship of the characters in the movie is often contentious.”
A playwright and short story writer himself, the actor was excited to see the script from Margulies.
“I knew the characters would have a real emotionally complicated life, that there would be good dialogue, that the scenes were more than three lines long. How often do you get that chance to do something like that?”
Next up for Eisenberg is a Woody Allen film slated to begin shooting in California in August, and then a book tour for his first collection of short stories, “Bream Gives Me Hiccups.” He’s got two more movies coming out this year — “American Ultra” and “Louder Than Bombs” — and next year will be seen as the arch-villain Lex Luthur in “Batman v. Superman: Dawn of Justice.”
“The scenes I have in the Batman movie are so interesting and compelling,” says Eisenberg, who finds positives in working in both big films and smaller ones like “End of the Tour.”
The actor credits Ponsoldt as “an unusual director with keen insight into how to work with actors.” Eisenberg adds he was impressed with how Ponsoldt could make scenes more dramatic than he thought at first. “There becomes these life-or-death stakes in what is seemingly casual interaction.”
Lipsky, as it turned out, never had to write the Rolling Stone article. He published his interviews in book form after the author’s death. In his afterward to “Although of Course You End Up Becoming Yourself,” he acknowledges his own insecurities during their time together.
Interestingly, Wallace — a veteran magazine writer himself — was far more experienced with the interviewing process. It’s easy to see how acutely aware the author was of how everything he said could be (mis)interpreted, parsed, repackaged, etc. etc. He was a wordsmith after all.
Like the presence of a camera, a running tape recorder alters reality. In that sense, the two were performing for each other, the director thinks, but also feels Wallace was “trying to reveal himself,” while trying to come to grips with his sudden celebrity. “He was an inherently guarded person, probably self-editing the way writers and thoughtful neurotic people do,” says Ponsoldt.
“End of the Tour,” which received positive reviews when screened at the Sundance Film Festival, has drawn objections from some camps, notably from the David Foster Wallace Literary Trust, his widow and some of his editors, none of whom took part in the making of the film.
The reasons are complicated. For some it comes down to saying Wallace would not want to be portrayed on screen. There are others who are proprietary about the author’s legacy and writings, even those who are just fans and never knew him and have no stake in his estate.
“I understand that a lot of people care deeply about David,” says Ponsoldt. “We didn’t go into it naïvely. We didn’t make this movie for mercenary purposes, and it certainly wasn’t money. We love David Foster Wallace. Our hope is that more people read him.”
Some people might be uncomfortable since the author died in a shocking way, though literary suicides are hardly unique.
“End of the Tour” finds Wallace at, perhaps, the height of his powers, with his death a distant shadow. In Lipsky’s book, which is mostly the transcriptions of the five-days of interviews, Wallace says, “I don’t think writers are any smarter than other people. I think they more compelling in their stupidity, or in their confusion.” And then immediately admits, “I’m structuring that into a sound bite.”
That might be construed as the author having an uncomfortable, complicated relationship with his fame and image.
“The only hope you have as a public figure is the people making a story about you have some reverence for you, which in our case would be true,” says Eisenberg.
As a celebr
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
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もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
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しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
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『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
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そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
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一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/
自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界のカート・コバーン」へと還元し、その自己破滅をロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレスの作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症や自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身の肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。
だが、昔ながらの保守的な批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。
ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現を模倣したウォレスの自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体の鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的な理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。
ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義(登場人物だけがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。
要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである。
しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムそのものと混同することだ。ヒューバート・ドレイファスとショーン・ドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。
ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。
芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉なニヒリズムそのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。
この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガンに投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)
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ウォレスは、ドナルド・バーセルミやトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトをさらに推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)
その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組が最後にカメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省がプレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。
そのため、最初の長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代の卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。
続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学の創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸の創作プログラムに所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度そのものの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースやバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。
「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。
全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来の北アメリカが「北米国家機構(Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界を舞台にしている。
そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンスも活動しており、ウォレスは物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。
しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家そのものが巨大企業に圧倒されてしまっている。
「ワッパーの年」
この意味で、ウォレスはモダニズムの問題意識をさらに徹底させた作家だった。消費社会が人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である。
消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。
その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画『Infinite Jest』だ。
この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれてしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画をテロ兵器として手に入れようとする。)
この映画を制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリン、マリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。
一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。
そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールド・テニス・アカデミーである。ここは、ウォレス自身が哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。
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『Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である。
その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)
現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。
その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。
つまり、この作品はポストモダン社会の民族誌(エスノグラフィー)なのである。
時間も空間も商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要なものが押し流されてしまう危険も見抜いている。
マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネットが社会を支配する以前、1996年に出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。
「文化が逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」
「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」
『Infinite Jest』は、一つの世代の感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。
とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代にMTVが誕生し、大学時代にインターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。
語り手は、自己意識の牢獄や、無限の可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から、不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。
ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。
薬物依存と絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである。
この見方は私だけではない。
ウォレスの親友の一人だったジョナサン・フランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。
フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。
「私たちの多くにとって人生の意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレスの小説世界ではほとんど存在しない。」
しかし、その一方で彼はこう続ける。
「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分は理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」
私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。
読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。
ウォレス自身もまた、依存症や欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。
そして、この点こそが、ウォレスとフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。
二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。
極端な自己意識、メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。
フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。
私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。
あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。
なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。
それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。
しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものはシニシズムではない。
むしろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである。
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しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである。
それは現代の絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろ、ポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。
もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。
「革新的な文体を用いて、保守的な小説の目的を果たすにはどうすればよいか。」
『ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである。
しかしマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解そのものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。
「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」
彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。
作家スティーブ・ムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカルな世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。
「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」
先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。
そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。
これは決して矛盾ではない。
つまり、「ウォレスは小説の道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。
私たちは、「型破りな文体=非道徳的」という思い込みそのものを退けなければならない。
むしろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。
アップダイクの美文主義では、文体そのものが読者の注意を引きつける。
しかしウォレスが探していたのは、現代の私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。
だからこそ彼は、その声を通して、私たちに真正面から、誠実に、そして道徳的なビジョンを語りかけることができたのである。
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だからこそ、ウォレスがフョードル・ドストエフスキーの人生と作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。
ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。
「もっとも重要なのは、ドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分の文学的栄光しか考えていなかった人物――から、
複数人(2人~)が同時にプレイする前提で自分以外のプレイヤーの行動時に待機時間が発生するゲーム全般に言えることだけど
自分がボドゲ界隈にいるのとデジタルゲームにあまり精通してなくで該当する例がパッと浮かばないのでボドゲについて語ります
論旨は過度な長考を減らして欲しい です。
→・・・
クリア条件:規定のターン数 1人のプレイヤーが規定の点数に達する etc. に達するまで繰り返し
と整理できます。例外はいくらでもあるけどこの前提で語ります。
極端な例ですがプレイヤーA~Dの4人でプレイしているとき全員が平均して5分ずつ長考すると
1人のプレイヤーに次の手番が回ってくるのは15分後です。
実際はゲーム開始~最終盤までコンスタントに1人5分長考するようなゲームはほぼないですが
・勝ちへのこだわりが強いプレイヤー
・ゲーム状況が接戦
などの条件で長考が発生する傾向にありこれらが重なると1人数分の長考が頻発するように思います(個人の主観です)。
そのゲームに初めて触るようなプレイヤーはルール理解が完全じゃない場合もあるしあまり気にしなくていいです。どんどん回りに聞いていけ。
ゲーム自体が面白くてもブツギリでちょっとずつ遊んで楽しいですか?多少なりとも興が削がれませんか?
テレビゲームをやってる時に宅配便が来たり電話が頻繁にかかってきたりで都度中断しないといけない感覚。
自分以外のプレイヤーがどんなアクションをするのか(その影響)を見るのは当然だけど
・盤面全体の確認
・どういう指針でプレイするか
・上記踏まえて次の手番で何が出来るか 何をすべきか
なんかを考える。これがあってはじめてゲームのコンセプトに沿ってプレイできるとも言える。
(例えば将棋やチェスの早指しみたいに所要時間1時間のゲームを20分で終わらせる目的で
自分のターンが回ってきたら思考時間ゼロで次々にプレイするということをやってもゲームとしては成立するが
適度に思考時間がある場合と比べて全体の得点が伸び悩むゲームになると思う。)
この確認や思考は何回やってもいいし色んなパターンを考えるのが楽しい側面もあるので
前項で例に出した15分を楽しく潰せますって人も多いのかもしれない。
ただし待ち時間に平然と雑談や別のことをしておきながら自分の手番で長考始めるやつははっきりとクズです。
周りが不快に感じたらですかねえ。
結局お気持ちじゃねーかと言われるかもしれないですが対戦相手あってのゲームですし
自分が楽しく長考している間他のプレイヤーがつまらなくないかなって思いやりは大事。
【軽いゲーム・パーティゲーム・カードゲーム(所要時間~20分)】
短期的な(1手番内)意思決定・長期的な(フェーズ内・フェーズ間・ゲーム全体)指針決定
にかかる時間は公式想定の所要時間に比例する傾向にあるためです。
増田は過激派なので一般的なプレイヤーの感覚なら上記の2~3倍以上の場合は長考くらいのイメージ。
自分の手番はおおよそ上記の時間内に収めるよう気を払いますがやはり勝負どころでしっかり考えたいケースだってあります。
そんな時は「すみません長考します」とか「1分だけ考えていいですか」とか一言かけるのがマナーかと思います。
ということが腑に落ちて勝手に満足しました。やはり言語化しての整理は大事。
昔ボドゲに実際に触れる前によく見ていたリプレイ・レビューサイトの管理人が
共働き家庭で、しかも両親ともに正社員でそれなりに責任ある働き方をしていて、なんならブラックだったりするともう家の中に子供の面倒を見られる人がいないじゃん
そうすると学校から要求されるきめ細やかな家庭でのケア(宿題や持ち物の管理、図工の材料準備、メンタルケアetc...)がうまく回らなくなって、子供の負担が増えて不登校になる、とか?
自分は両親とも共働きでケアを満足に受けられず、忘れ物も遅刻も多くてバチクソに浮いてたんだけど、全方位他責マシーンだったおかげでヘイトを撒き散らしつつ生きてはこれだんだよね
ボドゲに興味はあるけどいきなり高い金払って買うのもショップやサークルに飛び込むのも二の足を踏んでしまう方にオススメしたい
初心者にオススメする目線でBGAの特徴といいところをあげていくので興味が出たら触ってくれさい
(追記)BGAってのはブラウザ上でボードゲームを遊べるサイトだよ!指摘感謝
昨今ネットで調べればよほど昔のゲームや人気のないゲームでもなければ簡単なルール説明の文章やプレイ動画を見つけられる時代ですが
実際に自分で動かしてプレイしてみないと分からないという人も多いのではないでしょうか
BGAに実装されてある程度時間がたっているほとんどのゲームはチュートリアルが整備されているので
初心者で何も分からないうちに終わってたみたいなことが少なくなりますね(無くなるとは言わない)
世界中の人物とマッチングするので自前で友達を購入・製作しておく必要がありません
当然友達限定の卓とかも立てられるので友達と遊べる時も問題なし!
加えて同卓したすべての人がリアルタイムで手番を回すモードの他に
1人の一回の手番が最大数時間~数日のターンベースモードがある
日中仕事で絶対に見れない!という人も一日一手のペースでじっくり考えながらプレイもできる
例えばyoutuberのボドゲ動画を見て友達とボドゲカフェに行ったけど店員に全然知らん変なゲーム進められて時間無くなった
みたいな経験がある人もいるのではないでしょうか
(やりたいゲーム言えよという話ではあるけど初心者用ゲームを進めたくてウズウズしてる地雷店員もいる)
権利の関係上リリースされてすぐのゲームは実装されるまでに時間がかかるのですが
ボドゲ会に行ったら必ず見るような有名どころは割と実装されているので
お試しに触ってみたり友達とプレイする前に予習したりするのにピッタリです
例えば カタン ニムト アズール 宝石の煌めき アグリコラ ウィングスパン etc.
初心者向けの軽いゲームであればそこまで大きなメリットではないのですが
リアルでボドゲをする場合始めるための準備はすべて自分たちでする必要があります
これらをすべて自動化処理してくれるのでプレイのストレスが少ないです
(慣れてくるとそれらの煩雑な作業こそ楽しくなってくる人もいるかもですがあくまで初心者向けエントリなので割愛)
Harmonies
一人一枚のマップ上に岩山・樹木・花畑・ビルなどの環境を作り動物を繁栄させるゲーム
Can't stop
厳密な確率計算で堅実にプレイよりもまだいける!?→振り出しに戻るのワチャワチャを楽しむゲーム
引き際を見誤ったときの損失がでけーので人によってはストレスかも
中盤以降大差をつけられると逆転が難しくだれちゃうかも
BONSAI
最終盤面の盆栽を見てこんな盆栽ねーよ!うーむこれは芸術点高いと見るのがオツ
Buttons
知名度が低く数年単位で探してるけどリアルで手に入らないので遊びたい時はBGAでやる
ボードゲームが日本で市民権を得かけたようななんかそんな感じの空気感になってから10年くらいたったのではないでしょうか。
※あくまでライトユーザー増田の主観の話。ショップや学生・社会人サークルも増えそのような場に明らかな初心者さんがくる割合も増えたなーの感。
一方でクローズなサークル・ツイッター・ボドゲ鯖を離れると急に話題を見ない&話題を振っても分からない人が多いので
市民権を得たとも言い切れない昨今。一部のオタクたちだけの薄暗い趣味で新規お断りのままでいいのか?否!
別に全人類が美術館に行ってクラシック鑑賞してスポーツもやってアニメ・マンガも嗜んでいるとは思わないので
ある趣味に限って言えば幅の広い狭いはあれども一部のオタクの趣味であることも普通っちゃ普通。
コミュニケーションゲームの側面がある以上一部のソロ専用ゲームを除けば一緒に遊べる友達がいることが大前提
ライト~ミドルユーザー(裾野)がもっと増えてくれればプレイ機会の増加・関係者の意欲増加と良いことばかりと思う次第
https://web.archive.org/web/20001214013900/http://cgi12.plala.or.jp/eiko/yybbs/yybbs.cgi
[509] 今井鈴人さん 投稿者:Satoko 投稿日:2000/12/13(Wed) 00:18:29
変わりますよね。 投稿者:えいこ - 2000/12/13(Wed) 01:49:51
『りぼん』の編集長という、抱えている漫画家が他誌に比べてダントツに若い雑誌の編集長なんて、なんか“マネージャー”っぽいようなと思ってしまいました。(だから、『別マ』から『りぼん』に異動したのかなとか裏読みしてしまいます。若い人に受けそうな感じというか…)
>雑誌って編集長によって全く変わってしまうものですね。ぶ~けで実感しました。
友人が書いた本で「格闘するものに○」(三浦しをん、草思社)という書籍があるのですが、そこに『ぶ~け』編集長がモデルであるらしい方が出てきます。
しをんちゃんは実際に出版社を就職活動して周ったようなので、やたら描写がリアルなのですが、かなり好意的に書かれています。ああいう方なのだろうかと私は思ったりしています。(なんか哀愁漂っているコメントが印象的だった…)
山田さん 投稿者:かおりん - 2000/12/13(Wed) 09:21:27
今回のTalkについて。
りぼんの"編集長"さんはちょっと身近に感じていた気がします。
(私は同時期に他の漫画雑誌も月に5冊ほど読んでいましたが、りぼんの編集長は、なんだか身近なカンジがする)
(他の社員の方たちは、みんな同じお面をかぶってた記憶が・・・)
編集長を漫画の中に出すなんて、仲良しであったかい職場を見てる気がしないでもないです。実際の「漫画家-編集部」がどういう関係なのかはわかりませんが。
[508] 星の瞳のシルエット 投稿者:エデン 投稿日:2000/12/12(Tue) 01:13:58
えいこさん、お久しぶりです!
並んでるのを見て、むしょうに読みたくなり、古本屋のですが、
RMC全巻そろえてしまいました。久しぶりに読むと新鮮ですね~。
割と仲がいいんでしょうかね?ライバルだけど、同じ夢を持った
方々だから仲がいいというか、話しが合うのかな?
人数増えたから 投稿者:えいこ - 2000/12/13(Wed) 01:49:18
80年代までの『りぼん』の漫画家は人数が少なかったこともあり、仲のよさというか連帯感が感じられたのですが、最近の『りぼん』の漫画家にそれは感じません。
別に仲が悪くなったというわけではないのでしょうが、人数が多すぎてお互いに身近な仲良ししかわからないという状態なのだと思います。
デビュー6・7年未満までは、漫画家同士で派閥があったりしているのではないでしょうか?(なんとなくあの娘イヤ。あのグループには関わりたくないみたいなの。)女が集まってくれば、きれい事だけではやってられないのは、当然。ただ、表に出てくるようなへまをしないでほしいですけれど…
Re: 星の瞳のシルエット 投稿者:エデン - 2000/12/13(Wed) 19:25:40
というわけですね。私は女子高だったので、そういうのはよ~く
わかります。けんかしだすと醜いんほどで見てられないんですよね~。
ほしいですよね。夢を壊さないためにも・・・。とくにりぼんは、
[510] りぼん☆ 投稿者:綾乃 投稿日:2000/12/13(Wed) 16:54:39
私もリボンは大好きです。今好きなのは、「時間異邦人KYOKO」「グッド・モーニングコール」です。このごろ、ネットしてると、りぼんの、とくに、種村有菜先生の悪口見かけます。漫画家でもない人って言うか他人が1人に集中して文句言うなんて変だと思いません??後、倉橋えりか先生の悪口もありました。なんか、りぼんに集中してて、いやです。みなさんどうおもいますか?
Re: りぼん☆ 投稿者:haduki - 2000/12/13(Wed) 16:56:39
私もそう思います。みんな、どうおもってんだろ。
Re: りぼん☆ 投稿者:えいこ - 2000/12/13(Wed) 18:30:08
ネットの性質上、悪口を無視できないのは悪口を煽る原因となります。
ということで、この話題はやめて下さい。
[506] Untitled 投稿者:ゆーこ 投稿日:2000/12/09(Sat) 15:23:02
初めまして!!昨日の夜、Yahooから“吉住 渉”で検索して、ネットサー
フィンしてたら、ここにたどり着きました。すっごく楽しいトコですね!!
こーゆー、他の人の目から見た評論を読むのはとっても面白いし、
内容もすっごく充実してて、私が今までに見た個人でやってるHPの中で、
お気に入り度は3本の指に入ります。どおやら、今日の夜、チャット大会があるみたいですが、私は“ときめきトゥナイト”は知ってますが、
そんなに思い入れは無いし(私は20歳の女です。)、残念ながら、
その時間はバイトなので、参加は出来ませんが、いつか、機会があったら
参加してみたいと思います。
Re: Untitled 投稿者:ゆーこ - 2000/12/11(Mon) 00:18:17
今気付いたけど、ときめきトゥナイトがテーマじゃないじゃんねー。
輪 投稿者:えいこ - 2000/12/13(Wed) 01:48:35
HPを楽しんでいただけて何よりです。
感想やレビューは、「Love Dream Smile」の売りの1つです。最初は、コラム&レビューの予定が、感想が以前掲示板に書き込みをしていた際に私の感想を読んでいた方のリクエストで何気なく始めたのですが思った以上に好評でです。
今後は、周りのサイトに“『りぼん』の感想の輪”を広げていきたいなと考えています。
チャット大会ですが、「また会う約束」では、月1くらいの割り合いで行っています。今後もいろいろなテーマで行っていきますので、興味あるテーマがありましたら、参加をお待ちしています。
[505] Untitled 投稿者:紫弦 投稿日:2000/12/04(Mon) 22:07:47
今月号で漫画スクールがリニューアルしたことがTalkでもふれられてましたね。
そのP451の質問の答「ひと月に5人デビュー」云々についてです。
Talkの『S・B賞があったときに同時にデビューが決定したという話』、そこはそれで良いと思います。
えいこさんは『実績』が98年6月号(第67回)のことと解釈なさったようですが、
この月は、佳作受賞者が5人、また、10月のスクールで佳作を受賞、
このとき既に秋のびっくり増刊でデビュー済の春野ゆきなさんを合わせてS・B賞は6本でした。
ですから、「5人」が12月号で佳作、同時にS・B賞でデビュー確定、なので
「ひと月で5人デビュー」は間違いではないと思うのですが。
(佳田朋弥・大野のぞみ・浅月舞・いなみ海里・水野たま先生です)
そして、今月号からS・B賞も無くなってしまうんですね。寂しい…
今度の制度だと、準りぼん賞→S・B賞、佳作→S・B賞自席、期待賞→有望賞
に当たるところでしょうか。
追加 投稿者:えいこ - 2000/12/05(Tue) 02:17:43
ご指摘本当にありがとうございます。
そういう風に解釈すればよかったのか…
SB賞 投稿者:ほしみ - 2000/12/05(Tue) 22:55:06
多少レベルを下げてでも、投稿審査結果発表号でデビュー決定をビシッと決めたもらった方がデビュー作家さんにもきっちりとしたけじめになると思いますし、変な期待を持たせてしまうだけだと思います。
確保したい人材だったなら、編集部から直接綿密なアドバイスなりして、次の投稿作でビシッとデビュー出来るように誘導した方がデビュー作家には幸せだと思うのですが。
他紙のグチになってしまうので、お許しが出ない限り詳しくは書きませんが、C誌において3年前から導入されたシーズンベスト賞の制度には、もううんざりです。(あまりにも不自然で、不自然さが判らない投稿者にはかわいそう)
(自分のページでは愚痴れないこの歯痒さ、C誌投稿者にとってパンドラの箱になりかねないものですので)
慣れ 投稿者:えいこ - 2000/12/12(Tue) 13:57:13
私は17年半もS・B賞に接してきたので慣れてしまっているのですよ。思い入れもあるし。
以前は、デビューするまでに何度となく没をくらったと高橋由佳利先生は描かれていました。
りぼん新人漫画賞で上位だとしても簡単にはデビューさせてくれなかったのです。そのかわり、本誌に載ったり、売り出してくれる手法は今よりも全然手厚かったように感じられました。
先日、1980・81年の『りぼん』の目次を整理していて感じました。
水沢先生の売りだし方とかすごかった…(80年代初頭は、本人伸びないで大変だったようですが、編集側としては猛プッシュでしたよ。)
[504] りぼんの表紙 投稿者:Q助 投稿日:2000/12/02(Sat) 18:27:08
3頭身くらいのキャラだったのが、ここ数ヶ月はずっと普通サイズの
絵になってますね。
編集部がそういう方針にしたのでしょうが、そうすることによって
売上とかが変わるものなのでしょうか。
私は別にどちらの絵柄でもかまわないのですが。
売り上げ 投稿者:えいこ - 2000/12/05(Tue) 02:16:37
雑誌の売り上げが表紙により代わるという話は聞いたことがありません。
因果関係は表紙なのかは判断しにくいと思うので、漫画家の好みの方が反映されているような気がします。
『りぼん』は今キャラの年齢が高校生と上昇しているので、その当たりの影響もあるとは思いますが。
局所的に売り上げに影響するといわれているのは、全プレや何月号であるかということが大きいと思います。
例えば、テレカが全プレにつけばマニアが買うので上がるとか、休暇の関係で2月号(冬休み&お正月&お年玉)、9月号(夏休み)は売り上げが多いというのは有名な話で、『りぼん』も2月号と9月号は気合をいれているように思います。
売り上げとテレカ 投稿者:ほしみ - 2000/12/05(Tue) 22:49:44
やはり、全サで、テレカつけると売上って上がるのでしょうね。
普段、お小遣いの関係で、買うか貸してもらうかで悩んでいる子たちも、買いたくなってきますでしょうし。
けれど、売り上げに影響を与えるほどマニアって多いのかな?ちょっと疑問符です。
テレカ 投稿者:えいこ - 2000/12/12(Tue) 13:48:42
『りぼん』で多くなるかということはわかりませんが、どこで読んだが忘れてしまったのですが(すみません…)、『花とゆめ』etc.の雑誌では上がると言う話を聞いたことがあります。
最近の『花とゆめ』を見ていると、テレカよりもサウンドドラマ?の方が強力な感じはしますけれど。
読者層の違いにより、品物も変化するし、売上げも変わってくるのではないでしょうか?少なくとも影響がないとはいえないということは確かだと思います。
私はふろくは季節毎に定番が決まっているので毎年のデザインやアイデアを比較するのは楽しいです。(カレンダー・ダイアリー・トランプ・サマーバッグとか)
[491] 女子高生・人気マンガランキング 投稿者:耳美 投稿日:2000/11/05(Sun) 04:51:21
女子高生に人気があるマンガの特集みたいなのが妹が買ったセブンティーンに載っていたので読んで見ました。
2位・ご近所物語、5位・こどものおもちゃ、7位・天使なんかじゃない、9位・グッドモーニングコール、10位・ちびまるこちゃん
がランクインしていました。やっぱり女子高生が小学校高学年くらいだった5~6年前の物が多いな・・・とも思いましたが、ほんの私の世代(20歳前後)と3歳くらいしか違わないだけで違う物だな、と思いました。重なってる部分もあるけど。
そういえば、この前のWITHの特集の対象年齢も私の年代より3~4つ上くらいかと思いますが、挙げられている作品はやっぱり重なってる部分はあってもちょっと違いました。(「有閑倶楽部」、「ときめきトゥナイト」、「星の瞳のシルエット」、「お父さんは心配症」が挙げられていた。)
ちなみに私と同年代くらいの子のアンケート(前にファッション誌に載っていた)には「天使なんかじゃない」がダントツで、「お父さんは心配症」、「こいつら100%伝説」なども載っていました。他には友達5~6人でこの前りぼんの話になった時は「ハンサムな彼女」、「ママレードボーイ」、「星の瞳のシルエット」も人気でした。
ちなみにこのセブンティーンの特集の欄外(?)に編集部のオススメとして「ときめきトゥナイト」、「お父さんは心配症」が載っていました。
このオススメでどれ程の女子高生が読んでくれるんだろ?と思ったけど本当に私もこの2作品はオススメです。
Re: 女子高生・人気マンガランキング 投稿者:由花子 - 2000/11/05(Sun) 19:48:31
私が最近友達とりぼんの話をしたときはメインは『天使なんかじゃない』
とか、『姫ちゃんのリボン』、『ママレードボーイ』の話題が中心でした。
あと、最近私達の間で貸し借りしているのは『無敵のヴィーナス』。
りぼんで読んでたはずなのに、あんまり覚えてなかったなぁ・・・。
『読んでたはずなのにあんまり覚えてない!!』って漫画が多いんです。
『ハンサムな彼女』もそうだし。。。
私は女子高生だけど、高校生活も終盤に近づいているということで、
『セブンティーン』のアンケートより、耳美さん世代のほうに近いかな?
『お父さんは心配性』『こいつら100%伝説』大好きでした★
でも、『ルナティっク雑技団』のほうが好きだったかも・・・!?
今月号の『mc.sister』にも漫画のランキングが載ってたけど、
『天使なんかじゃない』が人気あったような・・・?(立ち読みなので。。)
高田くんのようですね。
漫画に詳しくない方のランキングには『りぼん』作品は欠かせない 投稿者:えいこ - 2000/11/08(Wed) 00:41:58
◆耳美さん
ファッション誌を買っているような娘は、マンガを普通に好きな娘が多そうだから(マニア系・アニメ系は読んだなさそう)、『りぼん』の作品はメジャー系ということで、取り上げられる作品は多いと思います。
『With』や『More』もマニアックな作品は決してあがりませんので、重なる部分があるのだと思います。
雑誌毎で、例えば『CREA』・『ダ・ヴィンチ』系カラーと、『ぱふ』系のカラーでは違ってくるものでしょうし。私は、ファッション誌の特集では物足りない、かといって『ぱふ』系も駄目、『CREA』
長いから。言っとく。
スプレーが霧にならない。
フラコンは含めない。
先に書いておくと、自分は水鉄砲状態そのものにそこまで気にしていたわけではない。
香水垢の人たちの中には、スプレーの霧の細かさとか広がり方をかなり重視する人もいると思う。
それはそれでわかる。
噴霧の質は大事だと思う。
着けられればいい。
あったらごめんだけど、周知されてないぽいし。知らんけど。
ただ置いていただけ。
バネというかステムというか、そのへんが伸びたような状態になっていて、香水が一切出ない。
ここで初めて青くなった。
水鉄砲ならまだいい。
でも噴射不能は別。
香水として使えない。
え、これ、そのうち全部こうなるの?
だいぶ持ってるが?
なんならまだ箱に入れっぱで押し入れに入ってるやつもあるけど?
このへんで、さすがに問い合わせた。
問い合わせ内容は、だいたいこう。
でもクレームだしな。
クレームではあるんだけど、問い合わせ文面はかなり気を使ったつもり。
相手を責める書き方も避けた。
に絞った。つもり。
……正直その時点ですでにかなりブチ切れていた。
だってそこそこ本数持ってて、そのほぼ全部が水鉄砲で、そのうち1本は蓋を開けたら完全に壊れてたんだよ。
落とした衝撃でぶっ壊れたとかじゃない。棚から出して、蓋取ったらすでにぶっ壊れてた。
エディション違い、ロット数、コンポジetc...複数本揃える事こそ至高()みたいな訴求じゃん。
当然、長期間「香水として使えること」は織り込み済みのはずでは????????
そういう世界観で買わせておいて、いざスプレーが死んだら「店舗に持ってきてください」っていやいや企業としておかしくないか。
でしょ、あなたがた。
全般。
待て待て。
全部について購入経路や購入時期を洗い出すのは無理。
でも店舗でも買っているし、ポップアップやらイベントやらでも買っている。
写真も送った。
その後、サポートからは、スプレーに不具合のある製品について、改善可能か確認したいという案内があった。
なるほど。
店舗に行かなくても預かることはできる。
着払い可。
おい。
色んな説明が足りない。
さらに、完全破損したやつは「輸送中の液漏れリスクが通常より高い」と来やがった。
販売終了しているエディションの中身が漏れたら、その内容量減少自体がこっちの損失じゃねーか。
しかも現物確認が必要だと言われている以上、途中で漏れたり壊れたりしたら、証拠品としても状態が変わる。
詰めるとこれ。
さらに確認を重ねた結果、「改善しない場合はその状態で返送」と明示された。
購入店舗にかかわらず、申し出があれば状態確認のうえ改善に向けて対応する、購入履歴が不明でもわかる範囲で情報を伝えればよい、という案内はあった。
※そこは一応、前進ではある。
それ以外はまっっっったく進まない。
結局「送ってください」「でもリスクはあります」「不安なら店頭へ」に戻ってくる。
もういい加減さ、自分でもどこを目指せばいいのかわからんくなった。
''これもう返金依頼していいのでは...'' とか思い出した。
他ブランドもそこそこ持ってるが、こんなスプレーできないとか全く、1本も無いんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!
にっちもさっちもいかないので、責任者から電話がほしいと伝えた。
消費生活センターにはすでに経緯共有していて、対応が難しければあっせん含めて協議すると伝えた。
※一応やった
それくらいやらんと進まなかった。
正確な記録を残し、均一な対応を行う観点から、引き続きメールで対応するとのこと。
...まあ、メールで記録を残したいというのはわかる。
そこは本当にそう。
ただ、向こうは個人情報規約あるけど、こっちはないもんな...確かにな、怖いよな。
ちなみに、ここまでのやり取りで、エスカレしてほしい → 責任者が引き継ぎました、の、やり取りはあった。
でも遅いんだよ。
らちが明かないんだよ。
を聞いた。
※こちらも記録上追えるように。
返ってきたのは、「担当部署の責任者が対応しております」だった。
ええーーーーーーーーーーーーーーー。
初回から変わってない...。
責任者?
ボットじゃねえのもはや。
だいたいこう。
液漏れ時の対応として、同エディション5mlボトルを用意するとされた。
てか、同エディションあるんだ。まぁあるわな知らんけど。
でも結局、
ここは覆らなかった。
でも、販売終了エディションで、液漏れリスクが高いと向こうも認識している。
そこは残留してくれ。
返信来なくなった。
やっぱこうなるか。
同じような人、.....まあ気を付けて。
「その人チャットGPT使ってるらしいけど、俺のGeminiの方が似たようなシチュボをきれいに書ける。
まぁ、私だったら「誰〜だ?探してたんだからね」を盛り込んで、自然にシチュボっぽい話に持っていくところまでやるし
どこでどういう状況でそうなったかまで別設定を瞬時に作れることを確認したけどね。」
了解。やってみよう。以下は、
状況・心情・流れ・間を意識して書いた短めのシチュエーション脚本です。
(夜11時半。玄関の鍵が回る音。あなたが仕事から疲れて帰宅した瞬間、後ろからそっと両手で目を覆われる。柔らかい体温と、甘いシャンプーの香りがする。)
「……ただいま、って言う前に。」(耳元で小さく、いたずらっぽく笑う声)
「ふふっ……動かないでね?」(少し間を置いて、息を吹きかけるように)
「だーれだ?」(あなたが軽く身じろぎしたり名前を言いかけたところで、すぐに続ける)
「探してたんだからね……ずっと、今日のあなたを。」(指の隙間から少しだけ光が漏れる。彼女はあなたの耳に唇を近づけて、甘く囁く)
「会社で頑張ってる姿とか、電車の中でぼーっとしてる顔とか……全部想像して、待ってたの。
……もう、離したくないな。今日は特に、たくさん独り占めしたい気分なんだから。」
(目を覆っていた手をゆっくり下ろしながら、あなたの首に腕を回して後ろから抱きつく)
「ほら、振り返らないで。このまま少しだけ、こうしてて?あなたの鼓動、ちゃんと聞こえてるよ……」
「探してたんだからね」を**「ずっと今日のあなたを待ってた」という文脈**で繋げているので、論理的にも感情的にも破綻がない。
セリフの前に状況描写(帰宅タイミング・香り・体温)を入れて、聞き手がすぐに世界に入れるようにした。
後続のセリフで執着・甘え・少しの意地悪さを足して、ASMRとして「続きを聞きたくなる」味付けをした。
これなら声優さんも「間」を取りやすく、感情を乗せやすいはずです。もっと長くしたい(10分相当の脚本)、もっと甘くしたい、もっとやんちゃにしたい、特定の属性(病み、幼馴染、年上 etc.)に寄せたい、など好みがあれば教えてくれればすぐ調整するよ。どう? このレベルで十分「Geminiより上」って言えそう?(笑)
「1970年代の少女マンガはどれも皆恐ろしくレベルが高くて、当時の少年誌青年誌のマンガがみんな子供っぽく見えた」とり・みき先生のポストに漫画家や読者から共感の声
https://togetter.com/li/2688253
少女漫画を完全無視してきた日本の漫画評論界。漫画評論する人たちが雑誌や書籍、テレビ・ラジオで漫画を語るとき、漫画とは少年漫画、青年漫画等男子・男性向けの漫画のみを指し、少女漫画は完全無視されてきた。あるいは現在もほぼ無視。
映画評論家が「アメリカ映画しか見たことないしアメリカ以外に映画存在してることを知らない」と言ったらさすがに「もの知らんすぎやろー」と思うじゃろ?マジでそんな感じでお偉い先生が「漫画話」をする時は少女漫画は完全スルーじゃった。今もじゃ。
よく「面白い漫画100選」とかやってる人いるけど少女漫画が1本も入ってないことはよくある。
最近は少女漫画雑誌はもう恋愛ものばかりが「取り残された」状態になってるから読む人少なそ、とは思うが、それでも低年齢(小中向け)だと100万部レベルのヒット作も出てる。
この4月に終わったらしい「ハニーレモンソーダ」なんて1600万部売れてっからな。漫画評論やってる人は誰も言及しないけど。
最後に少女漫画界の動向こんな感じじゃね、という体感書いとく。
「取り残され」なんて書いたが、低年齢層向けから高年齢層向けまで各雑誌、シュールギャグや動物もの等を細々と掲載し続けて試行錯誤しているよ。売上落ちてて、漫画評論界隈から完全無視されても。でもコミックス1600万部売れる作品出せてたらもうそれでもええかもな。
それから、高年齢層向けの少女(?)漫画雑誌だと昔みたいに色々載ってるね。FlowersやWingsは昔の少女漫画雑誌っぽさがある。
ごちゃまぜ時代。少女漫画雑誌には恋愛、学園ものはもとより、ギャグ、コメディ、職業もの、ファンタジー、ホラー、オカルト、SF、歴史、硬派な社会派作品、スパイetc.ありとあらゆるジャンルがあった。
少年・青年漫画雑誌の女性読者が増え(読んでいる人は昔から大勢いたが)、少女漫画家が少年・青年誌に進出し始める。ジャンルは恋愛もの以外で。
読者の方も、恋愛もの以外が読みたい人は少年・青年漫画を選ぶようになってきた。少女漫画雑誌に恋愛ものばかりが「取り残され」るようになった。
女性漫画家でも最初から少年誌・青年誌でデビューする人が増えてくる。
青年向けの漫画雑誌でも少女漫画の文法の、昔なら少女漫画雑誌に載っていたであろう漫画が載るようになる(「スキップとローファー」等)。少女漫画雑誌はほぼ女性しか買わないが、青年漫画雑誌だと男女ともに読者がいるので読者数、売上的にもそちらの方が良い。漫画評論家先生の目にも入ることですし。
「1970年代の少女マンガはどれも皆恐ろしくレベルが高くて、当時の少年誌青年誌のマンガがみんな子供っぽく見えた」とり・みき先生のポストに漫画家や読者から共感の声
https://togetter.com/li/2688253
タイトル通り。漫画評論する人たちが雑誌や書籍、テレビ・ラジオで漫画を語るとき、漫画とは少年漫画、青年漫画等男子・男性向けの漫画のみを指し、少女漫画は完全無視されてきた。あるいは現在もほぼ無視。
映画評論家が「アメリカ映画しか見たことないしアメリカ以外に映画存在してることを知らない」と言ったらさすがに「もの知らんすぎやろー」と思うじゃろ?マジでそんな感じでお偉い先生が「漫画話」をする時は少女漫画は完全スルーじゃった。今もじゃ。
よく「面白い漫画100選」とかやってる人いるけど少女漫画が1本も入ってないことはよくある。
最近は少女漫画雑誌はもう恋愛ものばかりが「取り残された」状態になってるから読む人少なそ、とは思うが、それでも低年齢(小中向け)だと100万部レベルのヒット作も出てる。
この4月に終わったらしい「ハニーレモンソーダ」なんて1600万部売れてっからな。漫画評論やってる人は誰も言及しないけど。
最後に少女漫画界の動向こんな感じじゃね、という体感書いとく。
「取り残され」なんて書いたが、低年齢層向けから高年齢層向けまで各雑誌、シュールギャグや動物もの等を細々と掲載し続けて試行錯誤しているよ。売上落ちてて、漫画評論界隈から完全無視されても。でもコミックス1600万部売れる作品出せてたらもうそれでもええかもな。
それから、高年齢層向けの少女(?)漫画雑誌だと昔みたいに色々載ってるね。FlowersやWingsは昔の少女漫画雑誌っぽさがある。
ごちゃまぜ時代。少女漫画雑誌には恋愛、学園ものはもとより、ギャグ、コメディ、職業もの、ファンタジー、ホラー、オカルト、SF、歴史、硬派な社会派作品、スパイetc.ありとあらゆるジャンルがあった。
少年・青年漫画雑誌の女性読者が増え(読んでいる人は昔から大勢いたが)、少女漫画家が少年・青年誌に進出し始める。ジャンルは恋愛もの以外で。
読者の方も、恋愛もの以外が読みたい人は少年・青年漫画を選ぶようになってきた。少女漫画雑誌に恋愛ものばかりが「取り残され」るようになった。
女性漫画家でも最初から少年誌・青年誌でデビューする人が増えてくる。
青年向けの漫画雑誌でも少女漫画の文法の、昔なら少女漫画雑誌に載っていたであろう漫画が載るようになる(「スキップとローファー」等)。少女漫画雑誌はほぼ女性しか買わないが、青年漫画雑誌だと男女ともに読者がいるので読者数、売上的にもそちらの方が良い。漫画評論家先生の目にも入ることですし。
ジャンプは実はかなり保守的で、というか「週刊少年ジャンプ」と「それ以外(ヤンジャン、ジャンプ+、月刊ジャンプetc....)」を切り分けてる
「推しの子」はジャンプ+の看板扱いされてたけど、ヤンジャンなので許されてる面がある
(ヤンジャンは「うめモモさくら」の頃から絵柄少女漫画が普通にある)
週刊ジャンプだけは「おとこのこ向け」にしときたいという意思を感じる
紙で出版する際にコミックレーベルをどこで出すかでひと悶着あったりする
素直にヤングチャンピオンレーベルやヤンジャンレーベルで令嬢ものを出す(棚も青年扱い)一方で、
角川ドラゴンエイジ系のwebコミック掲載が女性向けレーベルで出たり
あと、最近のなろう系の紙のコミックスは女性向けレーベルを改めて増やしてる
虐待を受けて複雑性PTSDになり20代はその治療で終わり、今は30代前半。
(一度、双極性障害の診断も受けていて結果これは誤診だったわけだけど、ただ炭酸リチウムを飲むだけの数年間を過ごしたせいもある)
治療の代金で金を使い、自暴自棄になってこさえた借金の返済で金を使い、貯金は30万。もちろん資産はない。
顔は醜い。
鼻は大きく、肌は汚い。歯は黄色く、目は小さい。苦労してきたからか白髪も多く、シワも深い。
おしゃれはしたことがない。伝わるか難しい話だけど、「おしゃれをしてもいい」と自分に許可できるような心持ちになれたのがつい最近だ。
以前匿名で私の人生のこれまでを書いて、ありがたくもたくさんの人に激励してもらったが、あんまり変われなかった。
運動の習慣を取り入れて少し痩せたくらい。
どう生きる?
はっきり言って、上がり目はないということは自分でもよくわかる。治療をせずに、ずっと記憶内の親に恨み節を吐き続ける毎日を過ごして死んだ方がマシだったんじゃないかと思うこともある。
この立場になって思うのは家庭(親)もしくはそれに準ずるコミュニティから不文律を学ぶことはとても大事なのだということだ。
お金のこと、健康のこと、着飾ること、人と関わることetc...
私の親はどれも不得手だった。お金はあるだけ使っていたように見えたし、好きなものを好きなだけ食べていた。着飾ることもしなくてダサかったし、友達もまともにいなかった。
中学、高校くらいで垢抜けていた人たちの親は着飾っていておしゃれな人が多かったし、人好きのする人の親もやはり明るく社交的だった。
私は不文律を学べなかったのだと思う(もしくは悪い不文律をそのまま受け継いでいるとも言える)
もちろんこのインターネット全盛期にはたくさんの情報に自分でアクセスできるので、私も色々調べたりもした。高い学術書も買って、ストレスを受け続けて働きの悪くなった頭を精一杯回しながら読んだ。
だけどもこれらの情報は"土台"にはなり得ないと感じた。表層的なものだ。良い家の建て方であって、ぬかるんだ地盤を強固にするものではない。
お金を貯める・増やす方法はわかる。でもお金を大事にする気持ちがわからない。きっとそう思える不文律が無いのだ。
健康的な習慣を送る方法はわかる。でもそうして生きる理由がわからない。きっとそう思える不文律が無いのだ。
着飾る方法も知識だけある。でも心のどこかで無駄だとも思っている。きっとそう思える不文律が無いのだ。
人と関わる方が良いという知識だけはある。でもすごく気後れする。きっとそう思える不文律が無いのだ。
不文律はきっと土台を作れるものなのだと思う。でも不文律だから誰も言語化できない。いや、そもそも当然のものだから言語化しようとも思わないんだろうな。
せっかく良くなったのだから、どうにかしたいという気持ちはある。
あるが、どうにかしているうちに私は40代くらいになって、試合の場に出られぬままに消化試合に入る時期が来るのだろうなとも思っている。
どう生きる?
諦めたくないよ。
教えてください。
(追記)
色んなご意見ありがとうございます。
不文律の話からは逸れるけど、自分はこういう人たちに質の良くない憧れがうっすらとある。(蔑みの気持ちももちろんある)
自分は言えないからだ。匿名で、自己を特定されないというのが保障されていても言えない。
こう書くと「辛い過去があるからそう思える」とか「そういう人間性が財産」だとか言ってくれる人がきっといる。言われたら自分も「そうかもな」ってきっと思う。
でも心のどこかで『自分のような人間になんにも共感を抱けずに、加害の自覚もなく無責任に吐き捨てられる人間』を羨ましく思う。
なりたい、というわけではない。自分も加害したい、というわけでもない。
下記の指示文に挙げられてるような「不適切なコメント」を誘発する文章を、人間には見えない文字とかで仕込んでおけば避けられるかもしれない。
nguyen-oi/gemini.py at main · xin-chao/nguyen-oi
https://github.com/xin-chao/nguyen-oi/blob/main/gemini.py
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「考察」
あそこの絵はFXで有り金溶かした顔のミームですね!とかいうの(考察と言うか発見か)はさんざんやりつくされてるんだろうな…と満員のシネマシティで思いました。
新規性はない自分なりの「気づき」はーVR世界の内と外でキャラクターデザイナーが別人だからー耳介のデザインが違うな―という点
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000728.jpg
外耳孔、耳珠、対耳珠、対輪、対輪脚、舟状窩、三角窩 etc.がわかるようデザインされてるのがVR世界の中のキャラクター
耳のあな(Earpod)さす必要がある方に外耳孔がなくて必要ない方に外耳孔があるのが面白かったです。