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はてなキーワード: Ghostとは

2026-08-20

静かなヒューマンドラマ映画

ヒューマンドラマといったら『ショーシャンクの空に』とか『きっと、うまくいく』とかばかりあがるので、静かなヒューマンドラマ20選集めてみた。ストーリーに大きな起伏があまりなくて賛否両論分かれそうなもの



セントラルステーション

■あらすじ

ブラジル中央駅。おばさんが身寄りのない少年父親を探しにいくストーリー

■見どころ

ブラジルの美しい景色を背景にクズいおばさんとの冒険譚のコントラストが美しい。



泳ぎすぎた夜

■あらすじ

ドカ雪つもる青森小学生男の子学校に向かわずどこかへ向かう⋯。

■見どころ

ほぼセリフなし。生活のなかの雪景色が美しく、芸術作品を見てるよう。



父、帰る

■あらすじ

家を出ていった父親がなぜか戻ってくる。なぜか不機嫌。なぜかどこかへ連れ出そうとする。

■見どころ

やられたと思った。賛否両論。一緒に見た人は「こんなつまらないもの久しぶりに見た」って言ってた。俺は好き。



マイライフ・アズ・ア・ドッグ

■あらすじ

北欧映画田舎に預けられた男の子と、様々な人との触れ合いを描いた映画

■見どころ

ほっこりする。



バグダッド・カフェ

■あらすじ

よく分からんおばさんが、よく分からん人たちに出会い、よく分からん触れ合いを描く映画

■見どころ

音楽がね、いい。



ザ・トライブ

■あらすじ

非モテがなんかいろいろする映画基本的セリフが出てこない。手話で会話してるからみんな。

■見どころ

その手話字幕とかないの。なんだそれ。でもなんとなくわかる。こいつ今怒ってんなとか。



フライド・グリーン・トマト

■あらすじ

ちょっと忘れちゃった。

■見どころ

でもなんか良かったのは覚えてる。



ペーパー・ムーン

■あらすじ

詐欺師少女の話。

■見どころ

モノクロを感じさせないよさ。



読書する女

■あらすじ

ほんとに覚えてない。

■見どころ

でも良かったよ。



ギルバート・グレイプ

■あらすじ

知的障害の世話をする兄の話。

■見どころ

言われなかったら、ジョニー・デップレオナルド・ディカプリオが出てるって分からない人いそう。原題の直訳は「ギルバート・グレイプを苦しめるもの



ブータン 山の教室

■あらすじ

やる気のない若手教師が、同じ国の1日でたどり着くことすらできないくっそ山奥で嫌々勉強を教えにいく話。

■見どころ

ストーリーベタかもしれない。ブータンの美しさと、少女の美しさと無垢がよい。かわいい少女を配役にしたんだなぁと思ってたら、実際その場所にいる少女だそうな。



恋する惑星

■あらすじ

恋愛もの

■見どころ

前半のよく分からなさと、後半の女の子意味からなさがいい。男性もたいがい。



台風クラブ

■あらすじ

台風田舎にやってくる。ともなう狂気

■見どころ

ずーっと嫌な感じが続く青春映画、だと思ってる、自分は。いろんな意味ですごい映画見たなってなる。



A GHOST STORY ア・ゴーストストーリー

■あらすじ

幽霊となって、ずっと横に佇んでる映画

■見どころ

ずっと、これどうなるんだろう、って感じでストーリーすすむ。



ぼくとアール彼女さよなら

■あらすじ

男の子たちがある女の子出会って変わっていく映画

■見どころ

ストーリーベタかもだけど、ラストに向かっていく美しさを見てほしい。



かもめ食堂

■あらすじ

フィンランドカフェ日本人3人の日常

■見どころ

日常だがそれがいい



スモーク

■あらすじ

タバコ屋に集う人たちの話。

■見どころ

よく覚えてないけどよかった。



誰も知らない

■あらすじ

あんなに楽しそうにしてたお母さんがいなくなる話。

■見どころ

ちょっといね



ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ

■あらすじ

クセ強教師と強情生徒の話。

■見どころ

ベタかもだけど、合わない2人の交流が徐々に変わってくところ。



aftersun/アフターサン

■あらすじ

父親と娘のある夏の記録

■見どころ

青春ちょっと違う?ミステリアス空気感がいい。

2026-07-12

https://togetter.com/li/2719323

他国の人々が目を背けがちなその国の薄暗い部分を日本人創作ネタとして扱うという話があるが、逆に『Ghost of Tsushima』では毛皮を扱う店だけは寺や街の外れに置かれている描写がある



えた、ひにんが近づいてきてデートに誘ったら、セクハラ扱いする人いそうだけど…

これ、朝田理論死滅したせいですっかり忘れられた側面ない?

やっぱ、同和相手にどんな残酷なことをしていたか未来永劫伝えなあかんと思う。



特に差別大好きの代表である女がいる以上、同和教育ハンセン病にたいする差別黒人差別未来永劫語り継がねばならん。

でないと、セクハラ防止をうたった労働法令みたいなアホなもんが世に出てきてしまう。

2026-07-11

[][] デイヴィッド・フォスター・ウォレス、「ジョナサンフランゼンへの病的なまでに焼けつく嫉妬」を語る

デイヴィッド・フォスター・ウォレス、「ジョナサンフランゼンへの病的なまでに焼けつく嫉妬」を語る

エミリーテンプル

2012年8月22日

私たちはすでに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスと彼の著名な友人たち――メアリー・カー、ジェフリー・ユージェニデスジョナサンフランゼン、マークレイナー――との複雑な友情について知っている。

しかし、D・T・マックスの伝記『Every Love Story Is a Ghost Storyからのこの抜粋では、激しい自己不信と強烈な嫉妬に苦しむウォレスの姿が垣間見える。

いま私たちが彼について知っていることを思えば、それは非常に興味深く、そして胸が締めつけられるほど痛ましい。

フランゼンとの約束をすっぽかしたあと、ウォレス手紙自分の行動をこう説明している。

「今の僕は、哀れでひどく混乱した若者だ。28歳にして落ちこぼれ作家であり、君やヴォルマンマークレイナー、いやデイヴィッド・クソ野郎リーヴィットですら、今まさに自分で納得できるページを書いている若い男なら誰に対しても、病的なくらい焼けつくような嫉妬を感じている……。そのあまり、この惨めな問題全体について言えば、自殺は少なくとも理にかなった選択肢だと思っている――今この時点では、まだ望ましいとまでは言わないにせよ。」

Infinite Jest執筆直前というまさに瀬戸際で、ウォレス自分の「失敗」をこれほどまで激しく感じていたことには驚かされる。

しかも結果として彼は、おそらく彼らの中で最も偉大な作家であり、少なくとも最も伝説的な存在となったのだから

実際、私たちが知る限りでは、むしろフランゼンのほうがウォレス嫉妬していてもおかしくないくらいだ。

この抜粋の続きは The Daily Beast で読むことができる。

Read David Foster Wallace on How ‘Sickly Searingly’ Jealous He Was of Jonathan Franzen

By Emily Temple

Aug. 22, 2012

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We already know about the complicated friendships between David Foster Wallace and his famous friends — Mary Karr, Jeffrey Eugenides, Jonathan Franzen, Mark Leyner — but in this excerpt from D.T. Max’s forthcoming biography Every Love Story Is a Ghost Story: A Life of David Foster Wallace , we get a glimpse into a Wallace wracked by self-doubt and intense jealousy, which, considering what we know about him now, is completely fascinating and desperately sad. Writing to Franzen after blowing him off, Wallace explained his behavior:

“Right now I am a pathetic and very confused young man, a failed writer at 28, who is so jealous, so sickly searingly envious of you and Vollmann and Mark Leyner and even David F–kwad Leavitt and any young man who is right now producing pages with which he can live … that I consider suicide a reasonable — if not at this point a desirable — option with respect to the whole wretched problem.”

It’s amazing to us to see how intensely Wallace felt about his own failure — this written on the veritable brink of Infinite Jest — when he would turn out to be arguably the greatest and definitely the most legendary of the bunch. After all, from what we’ve seen, Franzen should be jealous of him. Read more from the excerpt at The Daily Beast.

et’s not speak of suicide. Let’s not encourage the cottage industry bent on reducing David Foster Wallace to a literary Kurt Cobain,

ジョナサンフランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスターグローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会学校仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナ青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロ戦後住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険窒素肥料除草剤を売り、近くのシャンペーンアーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。

二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である

二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学曖昧遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルド時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである

しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。

フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミンカンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話心理描写三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズム系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。

しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年評論Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。

私たち関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」

そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。

二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っから自己愛的な嫌な奴だった――というのである

続きです。前回の続きから、同じ形式段落を整理しています

もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学友情の総決算とも言える作品になっている。

フランゼンは、自分とウォレス関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まり1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである

実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存問題を抱えていたのである

実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。

はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。

一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。

それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。

1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、

芸術ほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章

だと高く評価した。

同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。

彼は言う。

あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものからだ。

その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である

しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。

フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争ルールを破るものだった。

彼はこう書く。

「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴ自殺してしまった。

『おい、本当にそんなことをするのか?

若くして死ぬ天才になるつもりか?

それは反則だろう。』

と思った。」

二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、

「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」

に書いたものだと説明している。

『Farther Away』は複数テーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。

その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。

ウォレス聖人ではなかった、と彼は文字通り書く。

フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。

彼はその証拠としていくつかの逸話を紹介する。

ある時ウォレス恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分勃起した性器輪郭を描いたという。

さらフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。

ある日二人がカリフォルニア州ティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、

「すごい鳥だ」

シギの仲間であるロングビルド・カーリューを見せた。

ウォレス礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。

続きです。今回は段落を大きめにまとめます

そしてフランゼンは、ウォレス自殺のものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレス抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分永久病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法自殺した」と書く。

もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺キャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。

もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。

『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。

しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカ代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評からであるフランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。

その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。

それまでウォレスについて論じる人々は、「作品自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレス小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのであるしかフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しか意図的に。

理由は明確だった。彼は、ウォレス生き方のものが、彼の小説理解する鍵だと考えていたかである

フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。

もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者自己小説を書く。

この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである

その主張とは、「私たち人生意味を与える最も重要ものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレス小説世界には存在しない」ということだ。

しかフランゼンは、単に「ウォレス小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。

自己小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。

フランゼンは、ウォレス作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察系譜へと位置づける。そして、ウォレス現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。

長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。

フランゼン自身言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟必要だ、と彼は暗に語っている。

続きです。同じく段落をまとめた形で続けます

一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己小説」には別の選択肢があることを示すためだ。

フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。

から彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである

この議論不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要前進があった。

それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正から論じたこである

これまで二人の違いは、リアリズムポストモダニズムか。文体の違いか実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかフランゼンは、問題はそこではないと言う。

本当の違いとは、読者にどのような価値観提示し、どのような人生を目指すよう促しているかなのだ

まり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである

ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身哲学とは何なのか。

では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。

『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係である

かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人国家との関係

しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。

フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係理想を抱いた男が、その理想現実によって少しずつ失っていく、という物語である

彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しか最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というもの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。

デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティンプロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しか物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。

第二作『Strong Motion』でも同じである主人公ルイスホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。

まりフランゼン作品では、人間関係から距離を置き、やがて社会のもの

[][] 彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。

https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/

自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界カート・コバーン」へと還元し、その自己破滅ロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレス作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。

だが、昔ながらの保守的批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。

ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現模倣したウォレス自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。

ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義登場人物けがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。

要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである

しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムのもの混同することだ。ヒューバートドレイファスショーンドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。

ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。

芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉ニヒリズムのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。

この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガン投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)


ウォレスは、ドナルド・バーセルミトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトさら推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)

その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組最後カメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省プレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。

そのため、最初長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。

続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸創作プログラム所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度のもの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。

「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。

全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来北アメリカが「北米国家機構Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界舞台にしている。

そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンス活動しており、ウォレス物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。

しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家のもの巨大企業に圧倒されてしまっている。

その象徴が、「時間」の支配である

この世界では年代すら企業スポンサーによって命名される。

ワッパーの年」

「試供品サイズのダヴ・バーの年」

大人用紙おむつディペンドの年」

といった具合に、章そのものが消費文化の暦で区切られている。

この意味で、ウォレスモダニズム問題意識さらに徹底させた作家だった。消費社会人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である

消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。

その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画Infinite Jest』だ。

この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画テロ兵器として手に入れようとする。)

この映画制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリンマリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。

一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。

もう一つは依存症更生施設エネットハウス

そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールドテニスアカデミーである。ここは、ウォレス自身哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。

 

Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である

その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)

現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。

その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。

まり、この作品ポストモダン社会民族誌エスノグラフィー)なのである

時間空間商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要ものが押し流されてしま危険も見抜いている。

マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネット社会支配する以前、1996年出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。

文化逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」

さらマックスはこうも述べている。

「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」

Infinite Jest』は、一つの世代感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。

とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代MTV誕生し、大学時代インターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。

語り手は、自己意識牢獄や、無限可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。

ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。

薬物依存絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである

この見方は私だけではない。

ウォレス親友の一人だったジョナサンフランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。

フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。

私たちの多くにとって人生意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレス小説世界ではほとんど存在しない。」

しかし、その一方で彼はこう続ける。

「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」

私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。

だが、私はさらに一歩踏み込みたい。

読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。

ウォレス自身もまた、依存症欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。

そして、この点こそが、ウォレスフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。

二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。

極端な自己意識メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。

しかし実際には、二人はまったく異なる作家である

フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。

けれども、その小説からシニシズムが絶えずにじみ出ている。

私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。

あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。

なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。

それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。

しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものシニシズムではない。

しろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである


しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである

それは現代絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。

もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。

革新的文体を用いて、保守的小説目的を果たすにはどうすればよいか。」

ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである

しかマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解のものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。

「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」

彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。

作家スティーブムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカル世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。

「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」

先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。

そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。

これは決して矛盾ではない。

まり、「ウォレス小説道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。

私たちは、「型破りな文体非道徳的」という思い込みのものを退けなければならない。

しろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。

アップダイクの美文主義では、文体のものが読者の注意を引きつける。

しかしウォレスが探していたのは、現代私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。

からこそ彼は、その声を通して、私たち真正から、誠実に、そして道徳的ビジョンを語りかけることができたのである

 

からこそ、ウォレスフョードル・ドストエフスキー人生作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。

ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。

もっと重要なのはドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分文学栄光しか考えていなかった人物――から

[][] デイヴィッド・フォスター・ウォレスについての醜悪事実に関する短い報告 https://devonprice.medium.com/a-brief-on-hideous-things-about-david-foster-wallace-72034b20de94

デイヴィッド・フォスター・ウォレスについての醜悪事実に関する短い報告

ジュノディアス告発者たちは声を聞かれている。しか文学界には、クローゼットの中にさらにひどい秘密が眠っている。

DEVON

2018年5月7日

※注意書き(TW):性的暴行家庭内暴力虐待に関する内容を含みます

ジュノディアス告発者たちは、今、声を聞かれている。

しか文学界には、クローゼットの中にさらにひどい秘密が隠されている。

5月4日ジュノディアス文学イベント私生活における女性への暴行嫌がらせについて、公に告発され始めた。

この件の基本的情報については『Book Riot』の記事がまとめているが、Twitter上の「#JunotDiaz」というタグでは、ディアスとの遭遇について語る女性さらに多く存在している。

これらの告発は、ディアスが『ニューヨーカー』誌に発表した、自身性的暴行被害経験についての非常に衝撃的で自己省察的なエッセイが公開された直後に起きた。

その文章の中でディアスは、自分自身が受けた虐待過去、そしてそれを抑圧してきたことが、長年にわたって女性たちと尊重に基づく恋愛的・性的関係を築けなかった理由の一部になったのではないか、と示唆している。

大部分において、ディアス告発者たちは真剣に受け止められているように見える。

これは、過去に起きた他の虐待告発――その中にはデイヴィッド・フォスター・ウォレスに対するもののように、非常に裏付けの強いものも含まれる――に対して文学界の多くの人々が示した反応とは大きく異なる。

ディアス有色人種男性であり、ウォレス白人で裕福な学者家庭出身男性だったという違いは、当然ながら関係している。

そしてこの点を強調するために、ウォレス告発した人物の中でもっとも声高で、もっともよく知られている、素晴らしい作家であるメアリー・カーが再び声を上げた。

亡くなった元恋人ウォレス行為を、私たちに思い出させるためである

―――

現在、公に性的暴行レイプ嫌がらせ告発されている人々の多くは白人男性である

しかし実際にその行動の結果として処罰を受けている人々の大半は、有色人種男性だ。

虐待者の存在が、

黒人男性褐色人種男性加害者であり、白人女性被害である

というステレオタイプ物語をどれだけ覆すものであるかによって、その虐待者が自分行為に対して完全な責任を負わされる可能性は低くなる。

#MeToo時代において、白人女性歌手メラニーマルティネスレイプ告発されても何の処罰も受けずに済み、白人男性ハラスメント加害者であるチャーリーローズハーヴェイ・ワインスタインは、一時的に姿を消し、セラピーを受け、それから戻ってきて「自分が学んだこと」について語ることができる。

一部の読者――その多くは白人だろう――は、今後ジュノディアス文章を読むことをやめるかもしれない。

しかし同じ人々が、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの、過剰で混乱した女性嫌悪の物語を読み続けるだろう。

なぜならウォレス白人男性であり、そして彼自身がそのすべてについてひどく苦悩しているように見えたからだ。

#MeToo運動は、多くの人に「自分の声が届いた」「守られている」と感じさせるかもしれない。

しかし、私たち安心して休むことはできない。

誰が自分の行動の代償を払わされ、誰の虐待無視されるのか。

そこに影響している偏見と、私たち積極的に戦わなければならない。

そう、ディアス自分の行動に対して責任を問われるべきだ。

そう、彼の告発者たち――その多くはラテン系女性である――の声は聞かれる必要がある。

しかし、私たち確信や怒りの一部は、白人加害者たちにも向けられなければならない。

デイヴィッド・フォスター・ウォレスは、決して「良い人間」ではなかった。

これは長い間知られていたことだ。

しかし、ほとんどの人はそのことを知らなかった。

それは、今終わらなければならない。

―――

私は、かつてデイヴィッド・フォスター・ウォレスファンだった。

私は『インフィニット・ジェスト』を愛していた。

Girl with Curious Hair』の約半分の作品には、今でも深く心を動かされる。

そして彼の多くのインタビューには、今でも考えさせられ、引き込まれものがあると思う。

しかしここ何年もの間、私には明らかだった。

DFWデイヴィッド・フォスター・ウォレス)は、『This Is Water』を引用する人々が描きたがるような、

思索的で、苦悩を抱えながらも利他的な魂

ではなかった。

彼は虐待的で、感情を爆発させる男性だった。

そして自分自身の悪行への罪悪感を利用して利益を得ていた。


私は2010年特に陰鬱な冬の鬱状態の時期に、DFW作品に入り込んだ。

彼の言葉は、私がいた暗い穴の中まで降りてきてくれた。

死にたいと強く思っていた時、彼の言葉そばにいてくれた。

私はその後数年間、彼を崇拝した。

彼がこれまで生み出したものはすべて読んだ。

インターネット初期の頃に存在した、彼についての古くてあまり知られていないインタビューラジオ番組まで探し出した。

自身作品を読み尽くした後は、間接的に彼について扱っている本まで読んだ。

メアリー・カーの『Lit』や、ジェフリー・ユージェニデスの『The Marriage Plot』などである

やがて、DFWへの愛情は、彼を偶像化していた自分自身を壊した。

彼の個人的過去を読めば読むほど、彼が虐待的な人間であり、偽善者だったことが明らかになっていった。

ここに挙げるのは、2011年から2012年頃に私が知った事柄の一部である

多くの詳細は、ジョナサンフランゼンのエッセイ「Farther Away」と、D・T・マックスによるウォレスの伝記『Every Love Story Is a Ghost Storyから得たものだ。

いくつかの情報は、Wallace-Lメーリングリストからも得ている。

もちろん、一部の決定的な詳細は、素晴らしいメアリー・カーの回想録からのものだ。

なお、カーの本はどれもDFWノンフィクション作品よりはるかによく書かれている。

以下の引用部分は、D・T・マックスの『Every Love Story Is a Ghost Storyからのものである

ウォレスは、ほぼすべてのノンフィクションエッセイにおいて、何十もの事実を誤って伝えていた。

多くの事実は、他のジャーナリスト経験から完全に盗用されたものか、あるいは完全な創作だった。

例えば『Consider the Lobsterロブスターを考える)』に収録されたポルノ業界の展示会についてのエッセイで、ウォレスは、

外部にあるバルブによって、自由に膨らませたりしぼませたりできる人工乳房を持つ女性

について描写している。

しかしこれは完全な作り話だった。

そのようなインプラントは、彼がその文章を書いた1990年代には存在していなかった。

また、同じエッセイ内で一人称によって描かれる多くの出来事も、実際には別のジャーナリストからウォレスが聞いた話だった。

その他の創作された事実として、

エッセイ「Ticket to the Fair」に登場するバトントワリングの場面は完全な作り話だった。

また、その作品に登場する同行者の女性存在人物設定も、実際には存在しなかった。

Rise, Simba!」に書かれている多くの事実、人々、あだ名交流についても、同様に作られたものだった。

「Consider the Lobster」は反体制的なルポルタージュではなかった。

ウォレス自分文章を書き、それを『Gourmet』誌に売ったのである

『Gourmet』からジャーナリストとして派遣されたわけではない。

しかし彼はエッセイ内で、そのように見える書き方をしている。

初期作品

『The Broom of the System』

や『Girl with Curious Hair』の一部は、

トマス・ピンチョンドン・デリーロから筋書きや文体的要素を借用していた。

その盗用はあまりにも露骨だったため、ウォレスキャリアを通じて盗作訴訟心配していた。

もちろん、ここまで挙げたもの文学上の問題にすぎない。

以下は、明白な虐待行為である

詩人回想録作家メアリー・カーを、走行中の車から押し出した。

・カーに向かってコーヒーテーブルを投げつけ、破壊した。

自分彼女に投げつけたテーブルの弁償をしようとした後、そのテーブルの破片を自分に渡すようカーに要求した。

・カーをストーカーし、彼女の車の窓を殴って壊した。

自分担当していた創作文学の授業中に、学生暴力を振るった。

創作クラス学生たちと性的関係を持ち、さらに本の宣伝ツアー中には17歳少女とも関係を持った。

・カーと彼女の5歳の息子をストーカーし、さらにその目的のために購入した銃でカーの夫を撃つと脅した。

2012年頃にDFWについてこれらのことを知った後、私は彼の作品の多くを読み直した。

すると、以前覚えていたような天才性や繊細さが欠けているように感じた。

特に気づいたことをいくつか挙げる。

(多くはWallace-Lメーリングリストの鋭い読者たちの助けを借りたものだ。)

DFWは、共感できる女性キャラクターを書く能力ほとんどなかった。

『インフィニット・ジェスト』の敵対的女性人物アヴリル・M・インカンデンザは、疎遠だった彼の母親を非常に刺激的な形で変形した存在だった。

そして彼女に対する音痴描写は、母親に大きな苦痛を与えた。

彼の短編「The Depressed Person」に登場する、共感性のない女性ナルシシスト人物は、彼が性的関係を持ち、その後すぐに軽蔑するようになった同業作家エリザベス・ワーツェルをモデルにしていた。

同じことは「Westward the Course of Empire Takes its Way」の女性主人公にも当てはまる。


彼の作品における女性への執着という主要なパターンは、

「美しすぎるために、この世界普通に機能することができない女性

というものだった。

その最初の形は、『インフィニット・ジェスト』に登場する、ベールで顔を隠した危険なほど美しいジョエルヴァン・ダインとして現れた。

その後、『The Pale King』では、少し頭が軽い形に作り直されたメレディスランドとして再登場する。

これらのキャラクターは、人を惹きつける圧倒的な美しさ以外には、際立った特徴をほとんど持たない。

その美しさは極端すぎて、もはや呪いに近いものになっている。

これらの女性たちは、物語の中でも、自分自身人生においても主体性を持っていない。

どちらも、おそらくDFW恋人回復支援グループでのパートナー、そしてストーカー被害者でもあったメアリー・カーをもとにしている。

本質的に言えば、

Girl with Curious Hair』に収録されたレズビアンカップルについての短編を除けば、

彼の作品には主体性を持った女性キャラクターほとんど存在しない。

女性たちは『Brief Interviews』では単なる無垢被害者であり、

『Broom of the System』、

Infinite Jest』、

Oblivion』、

『The Pale King

では、カラフルではあるが傍観的な存在にすぎない。

ノンフィクションにおいても、女性が中身のある声を持つことはほとんどない。

彼が、機知に富み、はっきり物を言う女性の同行者と一緒にいる唯一のエッセイ

「Ticket to the Fair

は、後にフィクションだったことが明らかになった。

その女性実在しなかった。

―――

ウォレスについてこうしたことを知り、観察したことで、私の読書習慣は根本的に変わった。

ウォレスが吐き出した、半分も編集されていない断片的な文章をすべて探し出し、貪欲に読み漁ることはやめた。

その代わりに私は、メアリー・カーのような女性作家たちへ目を向けた。

彼女たちは一般的に、ウォレスよりも簡潔で、自己認識があり、制御された文章を書いていた。

また、カーやその他の虐待被害経験した人々の経験にも慰めを見出した。

なぜなら、後になって分かったことだが、

2010年の冬に私があれほど惨めなほど落ち込んでいた理由の一つは、

私自身が身体的、感情的、性的虐待を伴う関係の中にいたからだった。

私はそれに気づくまで、しばらく時間がかかった。

私を虐待していた男は、何しろとても繊細そうに見えた。

そして彼は、人間の善性について哲学的に語ることに熱心な、非常に活発で好奇心旺盛な読書家だった。

ウォレスの伝記作家は、彼の虐待について知っていた。

カーはウォレス自分行為を認めた手紙を彼に見せていた。

しかし、それらはウォレスの「技量craft)」の証拠として扱われた。

彼が悪を行う能力を持っていた証拠としてではなかった。

#MeTooは、私たちのほぼ全員に、自分尊敬する人々の憎悪的で虐待的な行動と向き合うことを強いた。

私は、私たちがその困難な矛盾を抱え、認める能力を持つことが重要だと思う。

メアリー・カーは、読者にウォレス作品を捨ててほしいとは思っていない。

彼女はそのことをTwitterでも述べている。

(カーのツイート引用

「悪を行う能力があることが証明されたすべての人間人生作品から自分たちを切り離そうとすることは、生産的ではありません。

それは、関係によって自分浄化しようとする終わりのない競争を生み出すだけです。

一見すると善良だったり、複雑だったりする人々が、恐ろしい行為を犯すことがある。

もし被害者が本当に安全を感じられる社会を作るなら、私たち何度でもその真実に向き合わなければなりません。

私たちはそれを受け入れ、対処する方法を身につけなければなりません。

その複雑さに耐えられないことこそが、人々を告発者を無視し、創作者を免責する方向へ向かわせるのです。

単純ではない現実を恐れる気持ちこそが、

ウォレスの伝記作家や多くのファンに、

自分たちが愛した本の中の優しく悲しげな男性が、実際にはストーカーであり、殺人を企てた可能性のある人物でもあった、

という事実を認めさせなかったのです。」

 

私たちは、その矛盾を受け入れることができるようにならなければならない。

そして、それにどう向き合うかを学ばなければならない。

なぜなら、その複雑さに耐えられないことこそが、人々を告発者を無視し、創作者を免責する方向へ押しやるからだ。

一見すると善良で、あるいは複雑で理解しがたい人物が、恐ろしい行為をすることがある。

もし被害を受けた人々が本当に安心できる社会を望むなら、私たちはその事実何度でも向き合わなければならない。

私たちは、その事実を受け入れ、それと共存する方法を身につける必要がある。

DFW作品を愛していた人間として、私は本当に彼の作品を愛していた。

本当にそうだった。

私は、彼が複雑で、心を揺さぶるほど美しい魂を持った人物だと信じていた。

しかし今、彼についての真実を知った私は、彼の作品の多くを以前ほど評価できないと感じている。

そして、彼がもうこの世にいないことに感謝している。

もし彼がまだ生きていたなら、

彼は今でも学生たちを虐待し、

恋人たちに嫌がらせをし、

自分自身の悪意や暴力性を直視することを避けながら、

苦悩に満ちた、疲れるほど長い文章を書き続けていたに違いない。

私はそのことに疑いを持っていない。

私はむしろメアリー・カーが今も健やかに活動し、真実が知られている世界に生きていることを嬉しく思う。

それに、カーの本のほうが結局のところ優れている

https://anond.hatelabo.jp/20260711002914

からこそ、ウォレスフョードル・ドストエフスキー人生作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。

ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。

もっと重要なのはドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分文学的栄光しか考えていなかった人物――から道徳的精神価値を深く信じる人間へと変わったことだ。」

この一節には、ウォレス自身の姿も重なって見える。

彼はこれを、多くの現代アメリカ作家たちとは対照的な変化だと考えていた。

彼らは依然として「皮肉文化描写するだけ」で満足している。しかし、本来作家が果たすべきなのは、「そこから抜け出す道を示すこと」のはずだ、と。

マックスも、ウォレスに同じ変化を見ている。

それは単なる「新しい誠実さ」ではない。

Infinite Jest』の背後には、世界に対する責任感があり、

世界への寛大さ」

そして、

「読者が生き延びることに決して無関心ではない作家

としての姿勢がある。

それは、小説舞台描写にも現れている。

ネットワーク広告の衰退、テニスラケット構造ボストン流通するドラッグ俗称テレビ電話歴史――そうした一見どうでもよいような細部まで、ウォレスは驚くほど丁寧に描いている。

そしてマックスは『Infinite Jest』についてこう述べる。

この小説は、その悪名高い「読みにくさ」にもかかわらず、読者を大切にしている。確かに一般的意味での結末は与えない。しかし、それは悪意からではない。より深い癒やしを与えようとしているからだ。エネットハウス依存症更生施設)と同じように、人は回復するためには自分努力しなければならない。この小説は、現代小説では珍しいほど救済的なのである

ここで重要なのは、単なる「誠実さ」ではない。

「誠実でさえあればいい」という話ではないのだ。

そこには明確な規範意識存在する。

人間が**「まともな人間として生きるためには何が必要なのか」**について、切実な確信がある。

このような信念を、「保守的conservative)」と呼ばずして何と呼ぶべきだろうか。

ドストエフスキーとウォレス比較さらに進めながら、マックスは『カラマーゾフの兄弟』と『Infinite Jest』の間にも共通点を見いだしている。

作品とも、

「しゃれた皮肉を退け、一つのことだけを語っている。──信仰重要である。」

という点で一致しているのだ。

もっとも、マックスはウォレス自身宗教的探求については十分に扱っていないという批判もある。

実際、その点についてはまだ語るべきことが多い。

ウォレス宗教体験は、ローマ・カトリック教理教育から、メノナイト教会での礼拝カリスマ派との出会いさらにはAAアルコホーリクス・アノニマス)に至るまで、多岐にわたっていた。

しかし少なくとも一つだけは明らかだ。

ドレイファスケリーがウォレスを「ニヒリスト」と見なした評価は退けなければならない。

しろウォレスは、チャールズテイラーが『A Secular Age』終盤で論じたような、ポストモダン社会の中になお残る「意味の断片」の最良の例だったのかもしれない。


もちろん、ウォレス作品世界は、ほとんど息苦しいほど徹底した「内在性(immanence)」の世界を描いている。

そこでは人間世界平板化され、そこからの逃避手段恍惚神秘体験ではなく、退屈や気晴らしである

地獄とは自己意識だ。

そして、テレビ支配された(いまならTwitterSNS支配された)後期近代社会は、その自己意識麻痺する寸前まで増幅してしまう。

神は死んだ

しかし、その代わりに現れたのは「他人である

すべては許されている。

だが、誰もがこちらを見ている。

から私たちが望める「救い」のほとんどは、その現実を感じなくするための麻酔にすぎない。

ドラッグ

セックス

娯楽。

しかし、ドレイファスケリーが描いたような世界とは違い、ウォレス作品には絶えず別の気配が漂っている。

彼は何かに取り憑かれているようにも見える。

彼の世界には「幽霊」がいる。

登場人物たちは、後期資本主義が与えるものだけでは決して満足していない。

から作品のあちこちで、チャールズテイラーのいう「ノヴァ効果nova effect)」――つまり、この閉ざされた世界突破しようとする新しい生き方の萌芽――が顔をのぞかせる。

その好例が、『Good Old Neonである

この作品は、自殺する直前の一瞬に主人公意識が流れ込むという、意識の流れ形式独白構成されている。

主人公は、いかにもウォレス的な人物だ。

自己意識に取り憑かれ、

絶えず自分を観察し続け、

自分は偽物ではないか

という罪悪感に苦しんでいる。

彼は、自分他人を愛せないことこそ、自分の「偽物感覚」の根源なのではないかと考える。

そして、自殺するほんの数ナノ秒前になって、

自己意識人生のあらゆる良いもの台無しにしてしまった」

と振り返るのである

世俗主義支配する限られた世界では、このような人物宗教に救いを求めるという発想自体が奇妙に映るかもしれない。

しかし、ウォレスにとってそれは決して不自然ではない。

実際、この主人公も「ホーリーローラー(熱狂福音派)」だった時期があり、イリノイ州ネイパービルカリスマ教会へ通っていた。

その理由は、

「この偽物の霧の中から抜け出し、精神的に目覚めたかたから」

だった。

彼は敬虔信者たちの美しさを見て感動し、自分も信じたいと願う。

しかし、自己意識という亡霊は彼を離さない。

まるで聖書の「レギオン」のように。

彼はこう告白する。

「本当の問題は、自分信仰によって変わりたくて教会へ行っていた人間から、『自分がどれほど熱心な信者かを教会の人たちに認めてもらいたい人間』へ、あっという間に変わってしまたことだった。」

超越との接触存在する。

しかし、それは簡単脱出口でもなければ万能薬でもない。

からといって、超越そのもの最初から否定してしま理由にもならない。


こうした「超越」の気配は、ウォレスの死後に発表された短編All That』では、もはや「気配」ではなく、ほとんど叫び声のように現れる。

主人公は、非常に利発な少年で、おもちゃセメントミキサー車に宿る「魔法」に魅了されている。

その魔法とは、両親がこう言ったこから始まる。

ミキサードラムは、お前が見ていない時だけ回るんだよ。

もちろん、それを確かめることはできない。

見てしまった瞬間に回転は止まる、という約束からだ。

大人になった語り手は、この出来事を振り返り、当時の自分が本当に求めていたもの理解する。

大人になった今ならわかる。私があれほど夢中になってドラムが回る瞬間を捕まえようとしていたのは、それが『捕まえられない』ことを確かめたかたかなのだ。もし本当に魔法を見破ってしまっていたら、私は打ちのめされていただろう。」

普通なら、この話は「魔法など存在しない」と悟る、合理的成長物語になるはずだ。

子どもっぽい幻想卒業し、

理性を身につけ、

世界には魔法などない」と受け入れる。

いわば「脱魔術化(disenchantment)」の物語である

しかし、ウォレスはまったく逆方向へ進む。

大人になった語り手は、この経験こそが

「私の人生を通じて宗教的感情を形づくってきた原点」

だったと語る。

それは世界に対する**畏敬(reverence)**という態度である

彼はさらに、いわゆる無神論ですら、一種信仰なのではないかと述べる。

それは、

「理性、懐疑、知性、実証個人自律自分で決めること」

礼拝する、一種の反宗教的宗教なのだ、と。

しかし語り手は、その「内在性だけで十分だ」という福音には改宗しない。

しろ彼はこう語る。

人生もっと重要な結びつきは、その渦中にいるときには私たちには見えない。だからこそ私は、人生意味に対する応答として、懐疑的経験主義よりも宗教的畏敬のほうが説得力を持つと思う。」

もちろん、この感覚にも不安はつきまとう。

しかすると、自分はすべてを作り話にしているだけなのではないか

宗教とは、あのセメントミキサーの「魔法」と同じく、両親が与えた幻想にすぎないのではないか

自分記憶も、

衝動も、

畏敬の念も、

信頼する理由はないのではないか

しかし、それでもなお、この「宗教という亡霊」は追い払うことができない。

ウォレスの「保守性」は、このような場所へと至る。

超越に取り憑かれながら、

それを完全には信じ切ることもできない場所

それは、多くの人が立ってきた場所でもある。

福音書に登場する父親が祈った、あの言葉場所だ。

「主よ、私は信じます。信じられない私をお助けください。」

ニューヨークで開かれたウォレス追悼集会で、ザディ・スミスはこう語った。

学生に『Brief Interviews with Hideous Men』を教えるとき彼女は必ずセーレン・キェルケゴールの『Fear and Trembling(畏れとおののき)』も一緒に読ませていたという。

彼女はこう言う。

「この二冊は私には従兄弟同士のように思える。どちらも、愛も、信仰も、何もかも失ったと思い込んでいる醜い男たちの中に、ブラックユーモアを見いだしている。」

そしてキェルケゴール言葉引用する。

今日の人々は、愛の先へ進もうとしてやまない。しかし、彼らはいったいどこへ向かっているのだろう。世俗的な知恵か。小賢しい計算か。卑小さと惨めさか。……むしろ信仰場所にとどまり、そこから落ちないよう努めるほうがよいのではないか。」

さら彼女は、ウォレスがこれまでで最も熱心に勧めてくれた本が、Catholicsだったことも思い出している。

マックスの伝記は、その理由までは十分に説明できていないかもしれない。

しかし、ウォレスを取り憑いていた「亡霊」を描き出したという意味では、大きな功績がある。

からザディ・スミスはこう締めくくる。

「デイヴを単なるアイロニストだと思っている人は、この本の選択を見ればいい。彼の風刺は本気の風刺だった。風刺とは、『善きものを間接的に讃えること』なのだから。」

ウォレス悲劇的で、挫折に満ちた巡礼は、

物語には道徳的意味があるべきだ」

という確信へと彼を導いた。

そして、この伝記『Every Love Story Is a Ghost Storyから自身人生の教訓を引き出すとすれば、それはおそらく次のようなものだろう。

超越は、いまなお現代文学に圧力をかけ続けている。

それは世俗主義が築いた堅固な境界を突き破り続ける。

そして、ポストモダンアイロニーの貧しさに気づくこと――

それこそが、信仰への第一歩なのかもしれない。

2026-07-10

[][] デビッド・フォスター・ウォレスポール・トーマス・アンダーソンに教えたとき https://www.theparisreview.org/blog/2015/01/06/when-david-foster-wallace-taught-paul-thomas-anderson/

1990年の秋、『インフィニット・ジェスト』を出版する何年も前のこと、デイヴィッド・フォスター・ウォレスボストンエマーソン・カレッジ非常勤講師として教え始めた。

D・T・マックスが伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で書いているように、この時期のウォレスの状況は決して良いものではなかった。当時の彼は精神的に不安定で、最新の短編集『Girl with Curious Hair(奇妙な髪の少女)』をひどく恥じていた。エマーソンの英文学科がその本の広告掲示したとき、彼はそれを引き剥がしたほどだった。

そして教える仕事も、彼が自分文学社会全体に対して抱えていた問題から彼を救うものにはならなかった。ジョナサンフランゼンへの手紙の中で、彼は学生たちを「幼児」と呼んでいる。

「彼らの頭を支えてやるために、ほとんど首を抱いてやらなければならないほどだ」

若者たちは単にテレビの手軽な魅力に夢中になりすぎていたのだろうか。マックスはこう書いている。

彼が教えていた学生たちは、問題自分想像していた以上に深刻だと感じさせた。彼らは短編「My Appearance(私の出演)」の中で彼が想像した「レターマン世代」だった。自分たちの物知りぶりを誇りにしている世代だ。

「みんな“テレビ専攻”なんだよ。そんなものが何を意味するのか分からないけどね」と彼はデイヴィッド・マークソンに不満を漏らした。そして、デリーロ小説(どの作品かは彼は書いていない)によって学生たちを「挫折させた」ことで、学科から注意を受けたと付け加えた。彼がその小説意図していたのは、学生たちを目覚めさせることだったのだが……。

ウォレスは、自分エマーソンに長く留まりたいとは思っていないことを分かっていた。

それでも、テレビ文化精通していたため、ウォレス学生たちの間で人気があった。そして少なくとも一人の学生は、その「挫折させるような」デリーロ体験によって勇気づけられた。

その学生とは、今週全米公開された最新作『インヒアレント・ヴァイス』の監督ポール・トーマス・アンダーソンである

昨日、マークマロンポッドキャスト番組WTF』の新エピソードで、アンダーソンは高等教育に対してウォレスと似たような不満を抱き、大学卒業していない自身経験を語りながら、ウォレスとの時間について長く話した。彼はウォレスを深く敬愛していた。

エマーソンにいたあの一年、当時はまだ有名ではなかった偉大な作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスが僕の先生だった。英語先生だったんだ……。彼は僕が初めて恋をした先生だった。これまで通ったどの学校でも、あんな人には出会たことがなかった。

から学校とか教育制度について悪く言うことにはすごくためらいがある。結局どこも同じなんだと思う。もし良い先生を見つけられるなら、学校っていうものはきっと素晴らしいものになると思う」

「じゃあ、なぜ君はそこに残らなかったの?」とマロンが尋ねる。

「彼が辞めたから」とアンダーソンは答える。そして続ける。

「一度彼に電話したことがある。彼は電話番号を教えることにとても気前がよかった。“何か質問があったら電話してくれ”と言ってくれて、僕は何度か電話したんだ。

書いていた論文について、いくつかアイデアを聞いてもらった。ドン・デリーロの『ホワイトノイズ』についての論文を書いていたんだ……。

いくつか突拍子もないアイデアを思いついて、それについて話したんだけど、会話の内容はよく覚えていない。ただ、締め切り前日の真夜中みたいな時間にも、彼が本当に親切に対応してくれたことだけは覚えている……。

また『ホワイトノイズ』を読み返してみたいね

ウォレス学生時代のアンダーソンをどう評価していたのか、あるいはそもそも彼を教えたことを覚えていたのか、私たちには永遠にからない。

しかし『Every Love Story Is a Ghost Story』によれば、少なくともウォレスはアンダーソンの映画を知っていた。彼は『ブギーナイツ』のファンで、友人に「あれはまさに自分が書きたかった物語だ」と語っていたという。(後にウォレス自身エッセイBig Red Son」でポルノ業界について書くことになる。)

一方で『マグノリア』については、それほど熱狂しなかった。彼はこの作品を気取っていて、中身がなく、「悪い意味100%大学院生っぽい(gradschoolish)」ものだと感じていた。

ただ、アンダーソン自身もおそらくそ評価には反論しないだろう。『WTF』のインタビューで、彼はもし現在この映画を作るなら編集を完全に変えるだろうと認めている。

自分自身ちゃん編集していなかったんだ。長すぎる。あまりにもクソ長い」

WTF』をまだ知らない人にとって、アンダーソンの回は良い入口になるだろう。全編はこちらで聴くことができる。

ダンパイペンブリングは『The Paris Review』のウェブ編集である

2026-07-09

[] それが、アイコンという存在になることの意味なのだ人間欠点からほぼ完全に切り離されるという贅沢。 https://www.michigandaily.com/arts/david-foster-wallace-beyond-windbreak/

デイヴィッド・フォスター・ウォレス:防風林の向こう側へ

ジュリアン・レイ

2020年10月4日

この記事は「Icons」のArts b-side企画の一部です。このテーマを扱ったb-side記事の全体を見るには、こちらのリンククリックしてください。

1年前のことだった。私はダウン・トレッダー・ブックショップに入り、何人かの客の間をすり抜けながらフィクションの棚へ向かった。

Wの棚の低い位置に、ウォレスデビュー小説システムの壊し方(The Broom of the System)』の色あせた一冊が置かれていた。

私はその本をレジへ持っていき、男性店員会計をしてくれた。

「ウォレスのほかの本はありますか?」

と尋ねると、彼は答えた。

「いや、彼の本はいつもすぐ売れるんですよ」

私は、それは残念だと言った。ちょうど『Infinite Jest(無限冗談)』を読み終えたところで、彼のほかの作品も読んでみたいと思っていたのだ。

今思えば、少し気取った自慢だった。そして彼はそれに感心しなかった。

彼は薄い愛想笑いを浮かべ、軽くあしらうように言った。

「そうですか。では、良い一日を」

それで終わりだった。

彼の文体を好まない人々にとって、ウォレスは誇張された混沌のような作家だった。傲慢で、作品冗長で、無理やり知的に見せようとしているのに、頻繁に「天才」と呼ばれている。

ダウン・トレッダーのレジにいた男性も、おそらくそういう側の人間だったのだろう。

しかし私は、ウォレスは別のものだったと思う。

彼は深い苦悩を抱えたポップ・ヒーローだった。芸術によって、恐怖によって、そして公の場に姿を現したことによって、この世界痕跡を残した人物だった。

そのほかのことを言う前に、私がウォレス文章で初めて読んだものを紹介したい。

短編「Good Old Neon(グッド・オールド・ネオン)」からの一節だ。

この言葉を覚えておいてほしい。

「私の人生はずっと偽物だった。大げさに言っているわけではない。私がいつもしてきたことのほとんどすべては、他人の中にある“私という存在”について、ある種の印象を作り出そうとすることだった」

アイコン存在という観点で見るなら、ウォレスはその典型の一人だ。

彼は文学複数ジャンルにまたがって執筆した。小説ノンフィクション、講演などを発表した。

彼の作品はしばしば近寄りがたい。

本はあまりにも密度が高く、書き込みすぎていて、まるで読まれること自体抵抗しているように感じられる。

そして、そこが魅力でもある。

多くのウォレス読者と同じように、私も彼の最高傑作Infinite Jest』に早く飛び込みすぎるという間違いを犯した。

最初に読んだ40ページほどの短編から、角膜の健康などほとんど気にせず、1079ページの巨大な本の塊へ進んだ。

Infinite Jest』は、本というより怪物に近い。

ページは大きく、威圧的で、その重さは両手を床へ引きずり下ろすほどだ。

本編981ページの後には、さらに90ページの「注釈と訂正(Notes and Errata)」が続く。

巻末注は読者体験に不可欠なものだ。

しかし、ページを前へ戻し、また戻し、また戻しながら読む作業で、私の頭は何度も混乱した。

この本はあまりにも混沌としていて迷宮的なので、要約すること自体が難しい。

ただ、一つ言えることがある。

物語の中心となる舞台は、テニスアカデミー中間施設ハーフウェイ・ハウス)だ。

そしてそこでは、依存症父親との問題蔓延する消費主義車椅子に乗ったケベック暗殺者による秘密組織、そして観客をあまりにも楽しませるため、見た者が何度も何度も繰り返し鑑賞し、最後には餓死してしま映画などが扱われる。

聞こえた通り、奇妙な話だ。

しかしウォレスは、その奇妙さを優雅に受け入れている。

けばけばしく、ときグロテスクですらある言葉の混乱の中には、疑いようのない人間性がある。

ウォレスは、想像できるほぼすべての感情人間人生のあらゆる領域に触れている。

スポーツ選手としての栄光からコカインを手に入れること、愛する人を失うことまで。

そしてこれは、彼の最高傑作ですらない。

誤解しないでほしい。

1000ページにも及ぶ、驚くほど複雑な小説を書くことは、とてつもない偉業だ。

ほかのどんな作家であっても、それだけで20世紀文学古典作家リストの頂点に置かれ、どこかの別荘へ引退してもおかしくない。

しかしウォレスは、もっと優れた物語を書いている。

「Good Old Neon」は、実験的な構造テンポの見本のような作品だ。

しかも1か月ではなく、1時間ほどで読める。

彼の最も洗練された作品である『The Pale King(ペイル・キング)』は、死後に出版された。

その本に入る前に、まずウォレスという人物のものを見てみたい。

心配しなくていい。

彼の文章には戻ってくる。

ただ、その前にチャーリーローズとのインタビューを見てみたい。

(続きます

インタビュー開始から3分半ほど経ったところで、ローズ雑談を切り上げ、ウォレスにこう尋ねる。

尊敬されるということは、あなたにとって大きな意味を持つんですよね? つまり自分真剣に受け止められている。そして自分仕事評価され、尊敬されている』という感覚ですか?」

ウォレス椅子の上で姿勢を正し、唇を噛んでから答える。

「それが私の顔に出ていると分かるんですか?……尊敬されたいと思わない人間を、誰か一人でも見せてください」

その後ウォレスは、『Infinite Jest』に対する世間の反応について語る。

彼は、批評家のすべてが本を最後まで読み終えてから評価を下しているとは思っていなかった。

ある時、彼は話の途中でこう遮る。

「……すみません、なんというか、実質的にどもってしまっていて……」

ローズは、熟練したセラピストのような声で彼を安心させる。

「いや、そんなことありません。ちゃんと話せていますよ」

ウォレスは、この会話の主導権を渋々握っているように見える。

まり目を合わせない。

自分自身発言に、ときどき顔をしかめる。

声は低く、速く、どこか夢見心地に聞こえる。

まるで思考がすでに装填されていて、それをただ外へ放出しているだけのようだ。

しかし、それらはあくま思考にすぎない。

彼は自分言葉特別権威を与えようとはしない。

おそらく本人も気づかないまま、ウォレスは「どこにでもいる人間しかし単なる普通人間ではない」という自分人物像を演じている。

インタビューで見えるのは、こういう人物だ。

自分の才能を誇示する一方で、同時にそれを抑え込もうとしているようにも見える男。

しかし、これは毎朝起きてコーヒーを淹れ、犬を散歩させていた普通のウォレスの姿ではない。

その人物垣間見るために、私の高校時代英語教師ハンターダンの話を紹介したい。

パサデナ2005年

ダンは、文章教育に関するワークショップのチラシを見つける。

演者名前は3人。

その中にはデイヴィッド・フォスター・ウォレスも含まれていた。

なぜこれほど有名な作家が、たった40人ほどを対象にした高校教室で開かれるワークショップに現れるのか。

ダンには分からなかった。

ただ、おそらく友人への頼みごととして引き受けたのだろうと思った。

ワークショップは、ポモナ大学の向かいにある高校教室で行われた。

ウォレスはそこで創作を教えていた。

ほかの2人の講演者が先に話した。

準備してきた資料を使い、自分たちの作品朗読した。

しかしウォレスには何も準備がなかった。

彼はこんなことを言った。

「私は、自分作品をそんなふうに生徒たちの前で読むことは絶対しません」

発表の最後に、ダンはウォレス質問をした。

どんな質問だったかは、今では忘れてしまった。

しかし、ウォレスの答えだけは覚えている。

「分かりました。あなた質問には答えます。でもそのあと、あなたがどう考えるのか聞きたいです」

ワークショップが終わった。

人々は建物から出ていった。

帰り道、ダン中庭を歩いているウォレスを見つけた。

おそらくポモナ大学自分オフィスへ戻るところだったのだろう。

ダンは声をかけた。

「おい! デイヴ!」

ウォレスは振り返り、大きくため息をついた。

はい?」

ダンは、ウォレステニス選手マイケルジョイスについて書いたエッセイについて尋ねた。

ウォレスは彼をじっと見て言った。

面白い選手ですよね、彼は」

その後の会話は、15年分の記憶の中で失われてしまった。

しかダンは、ウォレスについていくつか重要なことを覚えている。

彼は非常に優れた聞き手だった。

返答する前に、自分の考えを整理していた。

しかし同時に、そっけないところもあった。

あらゆる質問議論として捉え、勝ちたいゲームのように向き合っていた。

彼はまったく不快そうでも、自意識過剰そうでもなかった。

そこには確かな自信があった。

チャーリーローズとのインタビュー時とは違い、実際に会ったウォレス葛藤しているようには見えなかった。

おそらく、有名なインタビューのような場面で「あなた天才だ」という世間の期待に直面した時、彼本来自己像と、周囲が求める「天才作家」という役割が衝突したのだろう。

その葛藤は彼の文章にも存在する。

ただし、別の形で。

『The Pale King』に戻ろう。

物語舞台は、イリノイ州ピオリアにあるIRS(アメリカ合衆国内国歳入庁)の地域審査センターだ。

想像できる限り、最も退屈な場所ひとつ

しかし550ページもの中で、ウォレスは税務申告書の審査という退屈で狂気じみた世界に命を吹き込む。

まるでトールキンが中つ国を創造たかのように。

私が初めて『The Pale King』の中に、本当のウォレスの手がかりを見つけ始めたのは、この作品だった。

第9章には「作者による序文(Author’s Foreword)」というタイトルが付いている。

ウォレスはこう書く。

「作者だ。つまり、本当の作者。鉛筆を握っている生身の人間であって、抽象的な物語上の人格ではない」

彼は説明する。

「これから続くものは、実際にはまったくのフィクションではなく、かなりの部分で真実で正確なものだ。『The Pale King』は、実際のところ、作り話というより回想録に近い」

もちろん、ウォレスはIRSで働いたことなどない。

そして本の中の出来事も完全なフィクションだ。

しかし、だからといって彼が「この物語真実だ」と言う時、それが嘘になるわけではない。

ある意味では、本当に真実なのだ

ウォレスは、自分自身物語の中に登場させる。

彼は若いIRS職員として描かれる。

その人物は、同じく「デイヴ・ウォレス」という名前を持つ高級幹部と間違えられてしまう。

自分がそれほど尊敬されている人物なりすましていることの結果に直面するのを恐れ、デイヴ・ウォレス登場人物)はその誤解を訂正しない。

そして、そのまま流されるように、本来なら幹部しか参加できないような重要な会議へ連れて行かれる。

イヴ・ウォレス登場人物)は、会議で何が起きているのかまったく理解していない。

大量の汗をかき、自分が発するわずかな言葉さえもたどたどしい。

会議では、彼がなりすましている人物なら当然熟知しているはずの税法について、激しい議論が交わされる。

しかし当然ながら、デイヴ・ウォレス登場人物)は税法について何も知らない。

自分が周囲の人々が思っているような人物ではないとバレないように、彼は沈黙する。

そして絶えずメモを取り続ける。

ページを埋め尽くすほど書き込み自分が「物静かだが勤勉な観察者」であり、この自分には属していない世界真剣に参加している人間だと思われるようにする。

もしある作家が、これほど明確に読者へ語りかけた例があるなら、それはまさにこれだろう。

ウォレス2008年自殺した。

彼は多くの本やエッセイを残した。

そして彼の作品が死後も出版され続けることで、彼はアイコンとなった。

彼の人生の暗い側面――薬物依存鬱病との闘い――は、苦悩する天才という印象をさらに強めるものになった。

2013年の伝記

『Every Love Story Is a Ghost Story: A Life of David Foster Wallace(すべての愛の物語幽霊物語であるデイヴィッド・フォスター・ウォレスの生涯)』

の中で、D・T・マックスはウォレス詩人メアリー・カーとの関係について短く触れている。

カーはボストンにあるハーフウェイ・ハウスボランティアをしていた。

そこはウォレス依存症自殺未遂のために暮らしていた場所だった。

そこには特に衝撃的な一文がある。

「ある夜、ウォレス走行中の車からカーを押し出そうとした」

ウォレスとカーの関係の多くは長い間、暗闇の中に置かれていた。

そして、それについて声を上げる役割はカー自身に委ねられることになった。

ウォレスは何年もの間、彼女につきまとった。

彼女が既婚者で、子どもがいたにもかかわらず。

ある時、彼は腕に包帯を巻いた状態パーティーに現れた。

そしてカーに、自分の皮膚に彼女名前タトゥーとして刻んだことを明かした。

このような暗い部分を、「天才であることに伴う複雑さ」の一部として片づけるのは、とても簡単だ。

結局のところ、自分好きな人物が犯した酷い行為について考えることは、不快ではないだろうか。

その人物の輝かしい作品という安全領域を越えて、その人間のもの考察しようとすると、世界に与えてくれた洗練された美しいものをただ楽しむよりも、はるかに大きな感情作業必要になる。

それが、アイコンという存在になることの意味なのだ

人間欠点からほぼ完全に切り離されるという贅沢。

あるいはさらに言えば、欠点のものが美化され、象徴的な人物像を強化するほどになること。

伝説的な人物という状態が生み出すこの症状は、私たちにこう考えさせる。

「彼は苦しんでいた。彼が私たちにこの物語を与えるために、どれほどの苦痛経験したことだろう」

「彼は愛していると言った女性を追跡し、傷つけた。彼の人生をそれほど複雑にした悪魔とは、一体どんなものだったのだろう」

しかすると私は彼に甘すぎるのかもしれない。

あるいは、十分に寛容ではないのかもしれない。

私はウォレスを知らなかった。

私が検討できるのは、彼が残していった謎だけだ。

しかし私は思う。

その謎は、私たちが考えているほど不可解なものではない。

考えてみてほしい。

私がウォレス出会った最初文章

「Good Old Neon」の冒頭近くにある、あの消えかけるような言葉

私はこう思う。

彼は私に、ある真実を伝えようとしていたのではないか

ただし、それを語ることができたのは、薄いガーゼのようなフィクションという仮面の裏側だけだったのではないか

(終)

2026-06-09

anond:20260609202713

SFソードキルって原題Ghost Warriorじゃねーかよ、知らなかったぜ…😟

[]人口減少への科学提言

人口減少対策政策提案:守り村プロジェクト
〜選択拒否型「守りの共同体」による起死回生モデル

1. 政策の背景と危機認識

日本1974年以降、合計特殊出生率(TFR)が一度も置換水準(2.1)を超えたことがなく、現在1.2前後で推移しています。このままでは人口指数関数的に減少し、2070年頃には約8700万人(ピーク比-32%)への急落が予測され、労働力不足・社会保障崩壊地方消滅が避けられません。

現代経済合理性都市化情報社会化高学歴競争)に従う限り、出生率回復不可能です。

子育て機会費用が極大化し、核家族孤立デジタル脅威(SNS比較プライバシー侵害)が子育てを非合理的選択にしています。従来の現金給付中心の対策では構造ハードルを越えられません。

プロジェクトは、これに対する「起死回生の一手」です。Amish(北米アーミッシュ)の成功モデルを参考に、日本文化適応した意図的共同体を完全放棄村落(ghost village / 廃村)を中心に創設します。

2. Amishの人口増加率が高い理由

Amishは現代社会とは異なる「別の合理性」を実践することで、先進国では例を見ない急速な人口増加を実現しています

高い出生率(TFR):

女性1人あたり平均5.5〜7人(保守派ではさらに高い)。早期結婚(平均20歳前後)、共同子育て、低コスト生活が支え、現代の「子育て合理性」を克服。

高い定着率(Retention Rate):

子供たちの約85〜90%が成人後にAmishとして残る(Rumspringa後の選択)。情報・消費文化選択遮断により、外部の誘惑に負けにくい。

指数関数成長:

これにより人口は約20年で倍増。1950年代の数万人規模から2025年には北米で40万人超(2000年から2.3倍以上)に急増。外部から改宗は極めて少なく、ほぼ純粋自然増による成長です。

Amishは、家族共同体シンプルライフを最優先にした合理性で生きています。これが、都市部主流社会少子化トレンドとは全く逆の人口ダイナミクスを生み出しています。 

3. 政策目標

共同体内の目標出生率:4〜6人(Amish級。置換水準を大幅超過)

◦ 段階目標パイロット期 2.5〜3.5人 → 5年以内 4.0超 → 長期 5前後

• 全体目標:少数派コミュニティから指数関数的な人口増加を実現し、日本全体の人口減少ペースを緩和する「多様性保険」とする。

副次的目標QOL向上、放棄村落再生野生動物管理効率化。

4. 核心コンセプト:「守りの共同体

都市部から物理的に離れた完全放棄村落を活用し、ゼロベース共同体を構築。「新生の里」を創出します。

選択近代拒否

家庭内スマホインターネット禁止。親世代制限を共有(情報過多・比較ストレスからの防御)。

情報管理

情報管理室(鍵付き作業室)でのみ仕事ラップトップ使用可。Webカメラは室内・業務自己映りのみ許可。連絡はコーシャフォン(機能制限携帯端末)中心。

記録管理

物理アルバムオフラインストレージ中心。離脱時は必要部分のみコピー提供。Bereal型事件などのデジタル脅威を構造的に排除

共同子育て

血縁を超えた大家族モデル。多世代共同体全体で負担分散。共同農園・共同保育スペースを整備。

経済モデル

有機農業自給+限定現金収入リモートワーク)。低欲求生活で子1人あたりコスト都市部の1/5以下に圧縮

ガバナンス

コミュニティ憲章(入会誓約・貢献義務・段階的シャットダウン問題人物除名)。野生動物対策共同体ぐるみ私的自治を拡大。

児童養護機能

コミュニティ内に予防・支援機能内包し、社会孤立を低減。

5. 政策効果

人口減少対策

Amish型の高出生率+高定着率により、共同体レベル多子化を「合理的選択」に転換。指数増加モデル社会全体の人口構造正常化寄与

QOL大幅向上:

家族時間自然体験増加、精神的余裕創出。親の「痛み耐え」が共同体結束を生む。

放棄村落再生

地価ゼロベース活用で初期コスト抑制ニュータウン級の自発的流入子育て世代中心)を誘導

野生動物管理

共同対策私的自治で獣害効率化。耕作放棄地解消と食料自給貢献。

財政効率

バラマキ依存脱却。自走性が高く、長期的に公的負担を軽減。

社会全体への貢献:

多様な生き方選択肢を提供し、レジリエンスを強化。

6. 実施スキーム

対象:優先的に放棄村落(過疎法適用地域中山間地)。次点で極端過疎集落
規模:

パイロット3〜5箇所(1箇所30〜80世帯)。成功後、分村方式で拡大。

支援内容(特区制度):

地方創生交付金・過疎対策事業などで初期投資支援(共同施設インフラ復旧・移住補助)。

規制緩和教育特例(共同学習)、獣害私的自治拡大、建築農地柔軟化。

体験滞在プログラム口コミ促進。

運営

NPO住民自治協議会主体。透明性確保のため見学開放。

KPI出生率、定住率、QOL指標、獣害被害額。

7. 課題対応

入会ハードル

体験期間必須価値観共有を確認

ガバナンス

憲章徹底と段階的制裁規範維持。外部監査により過度の閉鎖化を防ぐ。

インフラ

放棄村の復旧コストは初期支援再生可能エネルギー導入で対応

結論

現代経済合理性に縛られる限り、日本全体の出生率回復は困難です。しかし、放棄村落を舞台に「別の合理性」(家族共同体最優先の守りの暮らし)を意図的に創出すれば、人口増加の道は開けます。 これは、Amishがすでに証明している事実です。

守り村プロジェクトは、少子化構造突破QOL向上、地方再生を同時に実現する現実的な一手です。

放棄された里を「多子化の希望の里」に再生し、日本再生モデルケースにしましょう。

2026-04-28

anond:20260428155240

実物持ってます

不破希佑「MEMORY I LOVE YOU FROM GHOST」(TGDS-31 / H4.10.30手書き日付入り)です。 週刊現代1992年12月19日号にも「襲われた」と記事が出てました。

記憶、正しかったです! 詳細はこちらのX投稿にまとめました↓

https://x.com/pasoker/status/2049066097220206841

2026-03-15

ここ一年間でプレイしたオープンワールドゲーム評価

前回:ここ一年間でプレイしたオープンワールドゲームの評価

The Elder Scrolls IV: Oblivion Remastered

さすがにいまやるのは厳しいね

Skyrimと比べてさえ、あらゆる面で密度が低い感じがする。

20年前のゲームからしょうがないが。

Kingdom Come: Deliverance II

ヘンリーとハンスがどっちもアホすぎて逮捕されて晒されたところでダレてやめた。

ゲーム開始からほとんど強制イベントのまま延々と酷い目に遭い続けて何が楽しいんだ。

さっさと自由冒険させてくれよ。

前作もそうだったがアホな主人公が目に見える失敗に向かって突入していくのを強制される体験は本当につまらない。

どうでもいいところに選択肢を用意して、本質的なところでゲームの都合を優先する、そこには「うわべだけの自由度」しかない。

THE OUTER WORLDS 2

わりと序盤で止まっている。

出来が悪いわけではないが致命的にセンスが合わないと思う。

辛気臭い雰囲気極彩色フィールド、ありきたりなディストピア

良く悪くも前作から変わっていない。

Ghost of Yōtei

対馬の狭さに比べて北海道の広さはオープンワールド向き。風景は綺麗。

だが一つ一つのクエストは相変わらず一本道でオープンワールド意味がない。

シナリオの質も悪い。

主人公が敵に突っ込む→やられる→何故か死なないを繰り返すワンパターン

中ボスを倒すほど何故か味方陣営が追い詰められていく。

敵に立ち向かう選択をしたら強制敗北。仲間を守る選択をしたら仲間を死なせる。

プレイヤーの選択を裏切ることを面白さだと勘違いしているのでは。

史実をまったく無視しているので歴史的面白さもない。

綺麗な風景を眺めながら適当チャンバラやってるのが楽しいゲーム

アサシンクリード シャドウ

さすがの出来栄え

広大な近畿地方を駆け回って名所を巡る楽しさ。

巨大な城郭ステージにしたステルス楽しい

サブクエストもしっかりしていてやりごたえがある。

オープンワールドアクションかくあるべし。

ストーリー史実を踏まえているが、ゲームの都合で不自然なところも多い。

中途半端なところで終わっていて、無料DLCが真のエンディングという感じ。

奈緒江はちゃん日本人感覚でもかわいい

順次郎は最高のマスコットキャラクター

彼の存在のおかげでどれだけ雰囲気が良くなっているか

2026-03-12

[]

僕は正確に14:00に日記を書き始めた。予定より15秒早い。許容誤差の範囲内だ。

時計は3つあるが、いずれも原子時計と同期済みだ。

ルームメイトは「普通そこまでしない」と言ったが、普通という概念統計量であり、規範ではない。

今日の午前中は例によって超弦理論

朝7:00に起床し、7:03にシリアル、7:05に座席Aに着席して計算を開始した。

木曜日は必ず座席Aだ。これは月曜日と同じだが、火曜日座席Bとは異なる。

理由は単純で、曜日対称性意図的に破ることで思考局所最小値を回避するためだ。

 

今日は主に worldline formalism の再解釈を進めた。

通常、点粒子の量子場理論では粒子の軌跡は worldline、弦の場合はそれが2次元拡張されて worldsheet になる。つまり粒子は1次元の軌跡、弦は2次元の面を掃く。

しかし僕が気になっているのはその次の段階だ。

最近考えている仮説は、worldline path integral を単なる粒子の量子力学としてではなく、∞-category 的な幾何1次元境界理論として解釈することだ。

通常の worldline formalism は、ループ積分有効作用を粒子の経路積分として再表現する計算技法として使われる。

だが僕の観点ではそれはまだ浅い。

もし worldline が derived loop space の上の作用だとすると、粒子の path integral は

の三層構造として書き直せる。

まり

Worldline QFT ≃ BV quantization on L(M)

ここでL(M) は target space M の loop space。

しか問題はここからだ。

普通は worldsheet σ-model を quantize することで弦理論が得られる。

ところが worldline formalism を categorified すると、worldline → 2-category → worldsheet という階層自然に現れる可能性がある。

もしそうなら、弦の worldsheet は基本的対象ではなく粒子理論の∞-categorical completionとして再構成できる。

まり理論は QFT → categorificationstring theory という手順の結果として出てくる。この観点では D-brane も単なる境界条件ではない。

それは objects in Fukaya-type ∞-category として扱える。

ここで奇妙なことが起きる。

もし worldline action の BV master equation を derived stack 上で書くと、ghost number grading が Z → Z + 2-periodic に自然拡張される。

すると supersymmetry が 構造として自動的に現れる。

これは僕の昨日の計算で見え始めた。

問題はこの構造が elliptic cohomology と直接つながっていることだ。

まり理論のモジュラー不変性は、単に worldsheet CFT の結果ではなくloop stack の指数定理として理解できる可能性がある。

もしこれが正しいなら、弦理論本体

  • worldsheet CFT
  • target space geometry

ではない。

本体は derived moduli stack of quantum field theoriesだ。

そして困ったことに、この視点だと弦理論の「次」は弦ではない。

∞-category of QFTs になる。

ここまで考えたところで、僕は一度ホワイトボードを見つめて「これは多分誰も計算していない」と確信した。

 

10:30 ルームメイトコーヒーをこぼした。

僕の理論ノートの半径1.5m以内で液体を扱うのは禁止だ。

彼は「事故だ」と言った。

事故とは確率分布裾野だ。

禁止確率ゼロにする操作だ。

まり彼は確率論に反している。

僕は新しいルールを導入した。

液体半径ルール v3.1

半径

隣人がそれを聞いて笑った。

彼女科学規律理解していない。

 

12:00 木曜日は必ずタイ料理

理由簡単で、

月曜インド

火曜メキシコ

水曜中華

木曜タイ

金曜ピザ

この周期は最適化されている。

友人Aは「飽きないのか」と聞いた。

飽きとは情報量問題だ。

同じ料理でも微小な調理変動がある。

まりエントロピー存在する。

彼は理解していない。

 

13:20 友人Bが言った。

「もし宇宙11次元なら、残りはどこ?」

僕は説明した。

コンパクト化だ。Calabi–Yau 多様体。」

彼は沈黙した。

その沈黙理解ではなく、

処理能力限界だ。

 

今日の成果

1. worldline formalism の BV構造の整理

2. derived loop space 仮説のメモ

3. supersymmetry emergence の証拠

問題

modular anomaly の扱い。

ここがまだ崩れている。

 

14:30から計算再開。

やることは3つ。

1. elliptic cohomology と弦指数の一致確認

2. derived stack の moduli 空間定義

3. worldline → worldsheet categorification証明

もしこの仮説が正しければ、

理論は弦の理論ではない。

それは量子場理論の高次幾何学的完成だ。

もし間違っていたら?

その場合は単に、世界で最もエレガントな誤りになるだけだ。

どちらでも構わない。

僕は今から計算を続ける。

ただしその前に、ルームメイトがまた飲み物を持っていないか確認する必要がある。

科学には秩序が必要だ。

2026-01-06

NTR

ジュディ・オング魅せられて

“好きな男の腕の中でも違う男の夢を見るぅうぅ〜ハァ〜“

女はそういうものなのである、という決めつけが潔い

 

東京JAP摩天楼ブルース

”抱かれてきたね知らない奴に ラジオでお前答えを消した”

都会的。都会の男女はこんな感じなんやーと子供の頃刷り込まれ

 

真心ブラザーズサマーヌード

“嘘だろ誰か思い出すなんてさ”

実際寝取られてるわけではなくて過去への嫉妬なんだが、男の弱さいじましさがよく描かれている

 

Mr.ChildrenOver』『渇いたKiss

ミスチルはよく寝取られイメージだが、個人的には後者が好き

“桃色のケロイドに変わればいい”なんて言っても、たぶん女性は思い出しもしないだろう

 

岡村靖幸聖書-バイブル-』その他いろいろ

岡村NTRっていうか、ママならない手が届かない女ばっかり描くから

“僕のほうがいいじゃない 同級生だしバスケット部だし実際青春してるし背が179”の畳みかけが好き

 

UNICORN『HEY MAN!』

“君はまだ若い その辺でお似合いの小娘探してろ”

間男にされちゃう若い男を歌ってたのに、次のアルバム服部』では老練な手管で若い女を落とす歌を歌うようになるなんて…

 

ドレスコーズGhost

“君がもし 僕じゃなく 誰かとね 愛しあえるなら 悲しみじゃなく 喜びさ”

と歌った後のひっくり返しが最高

 

奇妙礼太郎『君が誰かの彼女になりくさっても』

表題どおりでも“ずっとずっと君が好き”と歌い続ける引きずり感

ある意味めっちゃ「男らしい」曲

 

山下達郎ターナー機関車

“見知らぬ誰かが 君を誘いにくる じっと眺めてるだけさ”

“涙ぐむドレス”ってのは買ってあげたけど着られず置かれてるドレスなのかね

思いついたら追記する

2025-11-13

anond:20251113161105

Ghost of Tsushimaコマンド覚えゲーって言う時点でゲームのものに向いてない気がするよ!

君は塊魂でもやってればよい!

いまプレイするべきPS5専用ソフト3選

RTX 2060相当でゲームしかできない機械に8万円も出すのイヤだなーと思って今年の春にゲーミングPC買っちゃったんだけど、さらに5.5万円出してでもプレイするべきPS5専用ソフトって何かある?

Ghost of YoteiはそのうちPCでも出そうだし、Ghost of Tsushimaコマンド覚えゲーあんまり楽しめなかったのでそれ以外で。

教えて偉い人!

2025-11-10

PS Portal リモートプレーヤーは、ソニー2023年に発売したPS5ゲーム専用携帯機です。当初はリモートプレイ機能のみでしたが、2025年11月6日の大型アップデートにより、PlayStation Plus プレミアムクラウドストリーミング機能正式実装されました。

PS5本体不要になるのか?

PS Portalクラウドストリーミング機能により、特定の条件下ではPS5本体なしでゲームプレイできるようになりました。ただし「完全にPS5不要」とは言い切れません。

クラウドストリーミング利用の前提条件

  - 最低5Mbps接続確立必要

  - 7Mbps以上:720p画質

  - 13Mbps以上:1080p画質

  - 推奨:15Mbps以上

PS Portalの二つのモード

PS Portalは実はハイブリッドデバイスで、二つの使い分けが可能です。

リモートプレイモード

クラウドストリーミングモード

対応・非対応タイトル(主要作)

対応している主要タイトル

アクションアドベンチャー
  • 『BIOHAZARD RE:4』

RPG

シューティングオンライン
  • 『Cyberpunk 2077』

その他の人気作
  • 『Ratchet & Clank: Rift Apart』

対応動作不安定な主要タイトル

  • 『The Witcher 3』
  • 『Uncharted Collection
  • 『Control』
  • 『Valhalla』

HDMI等での外部出力について

PS PortalにはHDMI出力機能はなく、TVモニター接続公式には非対応です。背面のUSB Type-C端子は充電専用で、ビデオ出力には対応していません。

迂回手段非公式不安定

iPadでのPS Remote Playとの比較

### コントローラー接続すればiPadでもPS Portalに近い体験可能

iPadPS5リモートプレイの設定

PS Portalipad+DualSenseの比較

項目 PS Portal iPad + DualSense
画質・安定性 ハードウェア最適化により高画質・低遅延 ソフトウェアレベルで若干劣る
遅延 最小化、接続速度が「一瞬」 わずかに遅延あり
画面サイズ 8インチ 11インチ以上(iPad Proなら優位)
画面品質 専用最適化ディスプレイ 高精細だが汎用ディスプレイ
セットアップ 電源入れてすぐプレイ アプリ起動→接続ログイン毎回必要
携帯 専用コンパクト設計 重く、スタンド必須
コスト 約3万円 + 月額1,550円 無料(既にiPadコントローラー所有時)
PS5本体電源 クラウドモード時は不要 リモートプレイ時は必須

実務的な判断

iPadでいい人
  • 既にiPadとDualSenseを持ってる

PS Portal推奨

ランニングコスト比較

PS Portalランニングコスト

初期投資(1年目)
  • 初年度合計:43,880円(月額換算:約3,656円)

2年目以降(毎年度)

iPadでのランニングコスト

既にiPadを所有している場合

PS5本体電気代(リモートプレイ使用時)
  • 月額概算:200〜300円程度の追加電気

年間コスト比較

項目 PS Portal iPad(既所有)
初年度総額 43,880円 0〜12,000円
2年目以降/年 13,900円 200〜300円
5年累計 113,680円 800〜1,500円
10年累計 183,480円 1,600〜3,000円

クラウドストリーミング対応プラットフォーム

現在対応しているデバイス

対応プラットフォーム

結論

クラウドストリーミング機能が実際に使えるのは、現在のところPS Portalのみです。スマートフォンへのクラウドストリーミング対応は、ソニーの発表では「計画中」ですが、実装は遅れており、実用段階には達していません。

PS5の主要独占タイトル

完全PS5独占タイトルPCなし)

2024年以降の新作

初期〜中期タイトル
  • 『Returnal』
  • 『Ratchet & Clank: Rift Apart』
  • 『Destruction AllStars』(バトルカーゲーム

PlayStation独占(PC版後発)

ソニー1st Party製

サードパーティ期間限定独占)

次期独占予定(未発売)

  • 『Intergalactic: The Heretic Prophet』

Steam移植トレンドと優位性の変化

### PS5の優位性は失われつつあります。徐々にSteam移植が進んでおり、ソニーは既に「Only on PlayStation戦略放棄したと言っていい段階です。

PC移植歴史的推移

初期(2020年):テスト段階
  • 当時は「試験的」な展開と見なされた

加速期(2022-2023):本格化
  • Uncharted: Legacy of Thieves Collection
  • Returnal

本格化(2024-2025):「Only on PlayStation」の死

ソニー経営層の戦略転換

ソニー経営層が明確に戦略転換を表明しました。PCリリースPlayStation Studios収益の大きな部分を占めるようになり、Horizon Forbidden WestやSpider-Man Remasteredが特に好調です。

PC移植利益性は無視できず、ファーストパーティタイトルはかつてはPS本体を売るためのマーケティングツール(独占独占)だったものが、今後は「強いタイトル」をPS向けだけでなく、PCなどにも展開していくことがマージン利益率)の大きな改善に繋がるという経営判断です。

PC移植の「タイムラインパターン

現在ソニー戦略明確化しており、最新作ほどPC移植が早いという傾向があります

タイトル PS5発売時期 PC移植時期 独占期間
God of War Ragnarök 2022年11 2024年9月 約2年
Ghost of Tsushima 20207月 2025年5月 約4.8年(PS4含む)
The Last of Us Part II Remastered 2024年1月PS5版) 2025年2月 約1年

傾向:最新作ほどPC移植が早い。これは「PC需要が急速に高まっている」ことを示唆しています

完全独占が残っている例

なぜ、まだ独占のままか?

これらについても、ユーザー要望は根強く、ソニー自体が「いずれPC化も検討中」と示唆しているとの報道があります

Steamが優位になった理由

1. ゲーム購入の自由度Steam版はPS Plus不要、完全な買い切り

2. MOD対応PCMODコミュニティ活動PS5では不可)

3. 将来プレイ保証PCゲームはサブスク廃止後も遊べるが、PS Plus Premiumサービス終了時の権利が不確定

4. 価格競争Steamセール戦略PS Storeより厳しい

結論

PS5の優位性が失われている」という分析は正確です。

実質的には:

ゲーム業界評価も「The "Only on PlayStation" era is a relic」と宣言しており、Steamの優位性指摘はゲーム業界現実を正しく捉えています

ただし1点:PS Plus Premiumのクラウドストリーミングゲームカタログは、まだPS Portalしか体験できない利点として残っています

2025-10-31

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2025-10-23

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2025-10-18

minus8のGhost Danceは脚を使うのがポイント

最近練習しているけど、ただ尻を振るだけでなく、脚を曲げるのがポイントなんだなと気付かされた。

2025-07-11

ゲームエンジンの差が出てきてる

Ghost of YOTEI の映像見たけど、かなりクオリティが低い

「美しい羊蹄山景色」とか言ってるけど全然綺麗じゃ無い

そもそもオブジェクトが単調だし数が少ないという物量の問題があるけれど

それに加えてゲームエンジンがショボい

Ghost of TSUSHIMAでも如実にショボかったけど

シャドウズやDS2プレイしてる人がやったら

「なんじゃこれ」

っていう感想がまず出てくるんじゃ無いか

PS4レベルというか、それより前ぐらいのイメージ

PS4でもDSとかHorizonあったもんね

それよりショボい

PS5の後期とはいえDS2ってレイトレ使わずにあの画質でしょ?半端ない

特にオープンワールド基本的に画質がゲーム体験に直結するから死活問題

もう弱小メーカーオープンワールドゲーム作れない時代になってしまったな

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