はてなキーワード: LOVeとは
武論尊・逆井五郎『クライムスイーパー(ピンク!パンチ!雅)』('73) ジャンプ
筒井康隆・赤塚不二夫『ハウスジャックナナちゃん』('77) マガジン
藤子不二雄(藤子・F・不二雄)『エスパー魔美』('77) マンガくん
松本零士『クイーンエメラルダス』('78) マガジン
ふくもと飛火(福本伸行)『あまりちゃん』('80) チャンピオン
高円寺博・永井豪『まぼろしパンティ』('81) 月刊ジャンプ
遠山光『ハートキャッチいずみちゃん』('82) 月刊マガジン
遠山光『おてやわらかにぴんく!!』('84) マガジンSPECIAL
鏡丈二・制野秀一『スクランブルズ4』('84) チャンピオン
大島やすいち『は〜いステップジュン』('85) マガジンSPECIALほか
あさりよしとお『宇宙家族カールビンソン』('85) キャプテンほか
寺沢武一『BLACK KNIGHT バット』('85) ジャンプ
ひのもとはじめ『すうぱあチャンポン』('85) チャンピオン
亜砂みえる(本島幸久)『喫茶店LALA日記』('87) マガジン
内崎まさとし『ぱっぱらサユリちゃん』('87) チャンピオン
ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』('88) サンデー
山口譲司『その気にさせてよ♡myマイ舞』('88) チャンピオン
しろまどか・山下裕『とってもアイドル』('88) チャンピオン
中西やすひろ『いけないDayDream』('88) マガジン
あさだひろゆき『BADだねヨシオくん!』('89) 月刊ジャンプ
河方かおる『日曜はダメよ かおるの小部屋』('91) マガジン
山口譲司『臀撃おしおき娘ゴータマン』('91) チャンピオン
桂正和『SHADOW LADY』('92) ジャンプほか
佐藤正『NEWRAL NETWORK ミリンダ♡ファイト』('93) ジャンプ
にわのまこと『BOMBER GIRL』(' 93) ジャンプ
漫☆画太郎『まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜』('94) ジャンプ
上西園茂宣『ときめきハイスクール刑事 サクラにおまかせ♡』('95) サンデー
林崎文博『つきあってよ!五月ちゃん』('96) 月刊ジャンプ
徳弘正也『Wrestling with もも子』('97) ジャンプ
荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン』('99) ジャンプ
「日本一高さ制限の低いガード下」こと田川第一開渠(大阪府淀川区)は、踏切道車両通行止めの規制標識があるため自転車に乗ったままの通行はできないのだが、それについてメディアは正しく伝えたのか調べてみた。
| よどマガ!(淀川区)2016年10月号 | 淀川区まちづくりセンタースタッフが挑戦 |
| VOICE(MBS)2017年3月20日放送分 | 古平健太記者が挑戦 |
| ごぶごぶ(MBS)2018年6月12日放送分 | 浜田雅功さんと黒川智花さんが挑戦 |
| かんさい情報ネットten.(読売テレビ)2018年10月3日放送分 | 若一光司さんと黒木千晶アナが挑戦 |
| 三関王(日本ケーブルテレビ連盟近畿支部)2019年10月16日放送分 | 調査員・田中が挑戦 |
| バズ☆ナイトナマー!(MBS)2020年9月17日放送分 | 木崎太郎さんが挑戦 |
| もんくもん(読売テレビ)2022年9月10日放送分 | 自転車で走り抜ける人たちを「怪奇!お辞儀しながら吸い込まれる人々」と放送 |
| ビーバップ!ハイヒール(ABCテレビ)2016年9月22日・2019年8月8日放送分 | 自転車が通過 |
| 雨上がりの『Aさんの話』~事情通に聞きました!(ABCテレビ)2017年6月27日放送分 | 自転車・バイクが通過 |
| 水曜日のダウンタウン(TBS)2017年6月28日放送分 | 自転車が通過 |
| Falling in Love with OSAKA vol.08(高速オフセット)2018年3月10日発行分 | 自転車が通過 |
| MAIDO。公式X(高速オフセット)2018年4月20日投稿分 | 自転車が通過 |
| ゴリパラ見聞録(テレビ西日本)2018年6月29日放送分 | 自転車が通過 |
| 西園寺YouTubeチャンネル2020年9月18日公開分 | 自転車が通過 |
| よしもと for きっず(GYAO)2021年4月4日‐2021年10月4日公開分 | 自転車が通過 |
| よ~いドン!(カンテレ)2021年9月27日・9月28日放送分 | 自転車が通過 |
| アメトーーク! (テレビ朝日)2024年10月3日放送分 | 原付が通過 |
AIに投げた。間違いは知らん。
昔はネットコンテンツが今ほど溢れていなかったから、暇人は四六時中テレビ番組を観ていて、みんな似たり寄ったりなコンテンツを消費してたよね。
| 本文の記述 | 曲名 / 番組名 / キャラクター | 補足・詳細 |
|---|---|---|
| 玉葱型のCGが出てくるクラシックの映像 | 番組:『音楽ファンタジー・ゆめ』 | クラシックの名曲に合わせて玉ねぎ・しずく型のCGキャラ「ファ」などが動く音楽番組 |
| ペンギンと猫と鼠が出てくる着ぐるみ | 人形劇:『にこにこ、ぷん』 | 『おかあさんといっしょ』内(じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり) |
| みどふぁどな着ぐるみ | 人形劇:『ドレミファ・どーなっつ!』 | 『おかあさんといっしょ』内(みど、ふぁど、れっしー、そらお) |
| さぁなかよくあそぼう | 曲名:「ドレミファ・どーなっつ!」 | 『ドレミファ・どーなっつ!』OPテーマ歌詞 |
| 嬉しい事は二人分 | 曲名:「うれしいことはふたりぶん」 | 『ドレミファ・どーなっつ!』劇中歌(嬉しい事は二人分、悲しい事は半分こ) |
| あ〜あ大騒ぎ | 曲名:「おばけは大さわぎ」 | アニメ『おばけのホーリー』EDテーマ(歌:バケバケ合唱団) |
| 100%勇気もう頑張るしかないさ | 曲名:「勇気100%」 | アニメ『忍たま乱太郎』OPテーマ(歌:光GENJI) |
| やっと安心宇宙旅行 | アニメ:『YAT安心!宇宙旅行』 | NHK教育テレビのオリジナルSFアニメ |
| ハートは磨くっきゃない | 曲名:「ハートを磨くっきゃない」 | アニメ『飛べ!イサミ』OPテーマ(歌:TOKIO) |
| SOSほらほら呼んでいるわ | 曲名:「S・O・S」 | アニメ『アリスSOS』OPテーマ(歌:Favorite Blue / ピンク・レディーのカバー) |
| こっちを向いて好きだと言って | 曲名:「素敵な君」 | アニメ『あずきちゃん』OPテーマ(歌:RAZZ MA TAZZ) |
| 永遠という場所に行きたいだとか | 曲名:「永遠という場所」 | アニメ『コレクター・ユイ』第1期OPテーマ(歌:杏子) |
| しゅびるぱっぱらーでおいたん好き | 海外ドラマ:『フルハウス』 | OP曲「Everywhere You Look」(歌詞:Shoo-bee-doo-ba-ba-dao)/三女ミシェルが呼ぶ「ジェシーおいたん」 |
----
| 本文の記述 | 曲名 / 作品名 | 補足・詳細 |
|---|---|---|
| 月に変わっておしおき | アニメ:『美少女戦士セーラームーン』 | 月野うさぎの決め台詞「月に代わっておしおきよ!」 |
| 時は今千年の呪縛は放たれた | 曲名:「鬼神童子ZENKI」 | アニメ『鬼神童子ZENKI』OPテーマ(歌:影山ヒロノブ) |
| 全力全快いい湯加減 | 曲名:「ウルトラリラックス」 | アニメ『こどものおもちゃ』OPテーマ(歌:篠原ともえ) |
| ポケットなモンスター | アニメ:『ポケットモンスター』 | 1997年放送開始の初代無印編 |
| お魚くわえたどら猫 | 曲名:「サザエさん」 | アニメ『サザエさん』OPテーマ(歌:宇野ゆう子) |
| 止まらない未来を目指してな異世界召喚 | 曲名:「ゆずれない願い」 | アニメ『魔法騎士レイアース』OPテーマ(歌:田村直美) |
| 百年ぶりの世紀末な名探偵 | 曲名:「TRUTH〜A Great Detective of Love〜」 | アニメ『名探偵コナン』OPテーマ(歌:TWO-MIX) |
| 高鳴る未来へ輝けるはずさの井戸でタイムスリップ | 曲名:「CHANGE THE WORLD」 | アニメ『犬夜叉』OPテーマ(歌:V6) |
| 俺の財宝が欲しけりゃくれてやるな海賊 | 曲名:「ウィーアー!」 | アニメ『ONE PIECE』OPテーマ(冒頭のゴールド・ロジャーの台詞) |
| 時間の波を飛び越えてなライダー | 特撮:『仮面ライダー電王』 | 主題歌「Climax Jump」(歌詞:時間の波をつかまえて) |
| ニキニキな戦隊 | 特撮:『獣拳戦隊ゲキレンジャー』 | 主人公ゲキレッド(漢堂ジャン)の口癖 |
----
| 本文の記述 | 曲名 / 作品名 | 補足・詳細 |
|---|---|---|
| 心に冒険を夢を抱き締めたくて | 曲名:「空へ…」 | 『ロミオの青い空』OPテーマ(歌:笠原弘子) |
| 愛に迷い傷付き | 曲名:「迷える天使たち」 | NHK-BS2『ファーブル先生は名探偵』EDテーマ(歌:石川ひとみ) |
| 赤いキャンディ青いキャンディ知ってるかい | 曲名:「ふしぎなメルモ」 | アニメ『ふしぎなメルモ』OPテーマ(歌:出原千代子、ヤング・フレッシュ) |
| さらば地球よ | 曲名:「宇宙戦艦ヤマト」 | アニメ『宇宙戦艦ヤマト』OPテーマ(歌:ささきいさお) |
----
----
----
恋に落ちて-Fall in Love-
海月姫読んだ。ずっとすごく面白かったけど最終回は「コント・大円団」をみんなで演じてる感じだった。この綺麗にまとめるために最終回だけや作風変わるの幸田ももこの漫画でもあるんだよな。でもそれまでめちゃくちゃ面白かったからいいや。
ヒゲ嫌だ
目白先生は外に出られないから美容院行けなくて髪長かったのか?完全に夜中だけ活動してたのかな?
あとまやや不足
ばんばさんはbeforeのほうが可愛いよ
水回り共有のアパートで男女混合なのは普通に怖い。ていうかそんなに部屋空きあるの?カップルは同室とか…?リフォームするのかな。流石に風呂トイレはわけるよね。作業場にもするんだろうし。ジェリーフィッシュのオフィス兼社員寮みたいになるのかな…?
赤:長崎出身芸能人チーム 長崎亭キヨちゃんぽん・宮[崎]香蓮 緑:佐世保観光コンベンション協会チーム 本山豊晴・横山亜津子 白:長崎バイオパークチーム 神近公孝・せつこ 青:ハウステンボス ユーチューブ課 めいちゃん・あいみん
赤13
赤14 白15 白12 赤20 赤 8 緑25 白 3 白18
緑10 白19 緑11 赤24 赤 9 赤 6 白23 白 5
赤 4 赤16 緑 7
緑22 > 11
白17 白 1 白11 赤 2 白21
+--+--+--+--+--+
| 白 | 赤 | 赤 | 赤 | 白 |
| 白 | 白 | 緑 | 白 | 緑 |
| 白 | 白 | 白 | 緑 | 緑 |
| 白 | 白 | 緑 | 緑 | 緑 |
| 白 | 緑 | 緑 | 緑 | 緑 |
赤: 3枚 ○ 10 × 0
緑: 11枚 ○ 5 × 0
白: 11枚 ○ 11 × 0
青: 0枚 ○ 0 × 0
赤:長崎出身芸能人チーム 長崎亭キヨちゃんぽん・宮[崎]香蓮
緑:佐世保観光コンベンション協会チーム 本山豊晴・横山亜津子
白:長崎バイオパークチーム 神近公孝・せつこ
-----
・04 石ノ森章太郎 いしのもりしょうたろう
・05 オシドリ
・06 さじ(加減
・08 ジャン・レノ
・09 [近似値]1479
・14 [国]ギリシャ
・15 マユリカ
・16 [15枚で]トライアスロン
・19 回文
・22 ドリアン
・25 対馬(市
―――――
―――――
・ミュージシャンをめざしていた
=====
ジェシー・アイゼンバーグが『The End of the Tour』の脚本を読んだのは、あるインタビューを受けた直後だった。
そのインタビューについて彼は、
「自分について好意的なことを書くつもりはないし、自分が望むような人物像として描かれることもないだろうと分かっていた」
と語っている。
⸻
この映画は、ジェームズ・ポンソルト監督(『The Spectacular Now』)による作品で、ジャーナリストのデイヴィッド・リプスキーが書いた本を原作としている。
その本は、1996年、『Infinite Jest』という壮大なコメディ小説のプロモーション中だったデイヴィッド・フォスター・ウォレスと、リプスキーが過ごした5日間を記録したものだ。
彼自身も小説家だったが、成功は限定的で、『Rolling Stone』誌で働いていた。
彼は編集者を説得し、インディアナ州へウォレス(演:ジェイソン・シーゲル)のインタビューに行かせてもらう。
『Infinite Jest』の出版によって、当時34歳だったウォレスは文学界の有名人となった。
主要メディアは彼を「自分たちの世代の声」「天才」として絶賛した。
⸻
ピューリッツァー賞受賞劇作家ドナルド・マーグリーズによる『End of the Tour』の脚本を読んだアイゼンバーグは、
「この男を演じるのは面白いと思った。単なる無害なインタビュアーではなく、誰かを暴こうとしてそこへ向かっている人物だから」
と感じたという。
文学者同士の長い会話など、素晴らしい映画になる題材には思えないかもしれない。
しかし『End of the Tour』は、ユーモアと哀しみを交えながら展開する、二人の間の魅力的な心理戦になる。
一種のロードムービーでもあるこの作品は、ポップタルトやジャンクフードを分け合うような馬鹿げた日常的な場面と、暗く告白的な瞬間を並置している。
⸻
アイゼンバーグは、ウォレスについて人々が知っていることは、おそらく二つだけだと言う。
一つは、彼が1079ページにも及ぶ巨大な本を書いたこと。
写真では、しばしば祖母のような丸眼鏡をかけ、長い髪をバンダナでまとめている姿が写っている。
描写に満ち、魅惑的で、予想外の方向へ進む。
良くも悪くも、唯一無二の声だった。
⸻
主にコメディ俳優として知られていたシーゲルをウォレス役に選んだことには、インターネット上で反発もあった。
ポンソルト監督は、シーゲルを一つのジャンルだけに閉じ込めることは馬鹿げていると言う。
ロビン・ウィリアムズやトム・ハンクスのようなコメディ出身者が、偉大なシリアス俳優になった例を挙げながら。
またポンソルトは、もう一人の主演俳優であるアイゼンバーグについても高く評価している。
彼をダスティン・ホフマンやジーン・ハックマンになぞらえ、
だと語る。
⸻
早口で話し(ニューヨーク出身らしい特徴だ)、機転の利いた冗談をすぐ返すアイゼンバーグ(31歳)は、シーゲルとの関係について、
「映画の中の二人の人物の関係はしばしば対立的だけれど、僕たち自身はとても良い仲間意識があった」
と話す。
劇作家でもあり短編作家でもある彼は、マーグリーズの脚本を読むことを楽しみにしていた。
「登場人物たちが、本当に感情的に複雑な人生を持っていると分かっていた。台詞も良い。場面が3行程度で終わるようなものではない。こんな作品に関われる機会って、どれくらいあると思う?」
⸻
アイゼンバーグの次の仕事は、8月にカリフォルニアで撮影開始予定のウディ・アレン作品。
その後には、自身初の短編集『Bream Gives Me Hiccups』の出版ツアーが控えている。
さらに、この年には『American Ultra』『Louder Than Bombs』の2作品が公開予定で、翌年には『Batman v Superman: Dawn of Justice』で悪役レックス・ルーサーを演じる。
「バットマン映画で僕が演じる場面は、本当に面白くて魅力的なんです」
と語る。
彼は、『End of the Tour』のような小規模作品と、大作映画の両方で仕事をすることに価値を見出している。
⸻
「俳優との仕事の仕方を深く理解している、珍しいタイプの監督」
だと評価する。
また、最初はそれほどドラマチックではないと思った場面を、ポンソルトがより劇的なものに変えていくことに感銘を受けたという。
「一見すると何気ない会話の中に、生死をかけたような緊張感が生まれるんです。」
⸻
結局、リプスキーは『Rolling Stone』の記事を書く必要がなくなった。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』のあとがきで、彼はウォレスと過ごした時間の中で、自分自身が抱えていた不安や劣等感を認めている。
興味深いことに、雑誌ライターとして経験豊富だったウォレスの方が、インタビューという行為についてはリプスキーよりはるかによく理解していた。
自分の発言がどのように誤解され、切り取られ、分析され、再構成される可能性があるか。
⸻
カメラの存在と同じように、回り続ける録音機は現実そのものを変えてしまう。
その意味で、二人は互いのために演じていたのだとポンソルト監督は考えている。
しかし同時に、ウォレスは「自分自身を明らかにしようとしていた」とも感じている。
「彼は本質的に警戒心の強い人でした。おそらく作家や、思慮深く神経症的な人間がするように、常に自分自身を編集していたんだと思います」
とポンソルトは語る。
⸻
『End of the Tour』はサンダンス映画祭で上映された際、好意的な評価を受けた。
特に、デイヴィッド・フォスター・ウォレス文学トラスト、彼の未亡人、そして何人かの編集者からである。
理由は複雑だ。
「ウォレスはスクリーン上で自分を描かれることを望まなかっただろう」
ということだった。
また、作家の遺産や作品を自分たちのもののように守ろうとする人々もいる。
ウォレスを直接知らず、遺産にも関係がない、ただのファンでさえそうすることがある。
⸻
ポンソルトは言う。
「多くの人がデイヴィッドを深く大切に思っていることは理解しています。私たちは何も知らずに作ったわけではありません。この映画を金儲けのために作ったわけではない。もちろんお金のためでもない。私たちはデイヴィッド・フォスター・ウォレスを愛しています。願いは、より多くの人が彼の作品を読むことです。」
⸻
作家が衝撃的な死を遂げたことを考えると、不快感を覚える人がいるのも理解できる。
しかし、文学者の自殺というものは決してウォレスだけの特殊な例ではない。
『End of the Tour』は、ウォレスが、おそらく最も力を発揮していた時期を描いている。
彼の死は遠い影として存在しているだけだ。
リプスキーの本は、5日間のインタビュー記録がほぼそのまま収録されている。
その中でウォレスはこう語る。
「作家は他の人より頭がいいわけじゃないと思う。ただ、彼らは自分の愚かさや混乱の中に、より説得力を持ってしまうんだと思う。」
そしてすぐにこう付け加える。
「でも今の言い方も、結局は音のいい言葉になるように僕が構成しているんだけどね。」
⸻
これは、ウォレスが自分の名声や、自分が作られるイメージとの間に、どれほど居心地の悪く複雑な関係を持っていたかを示しているとも言える。
「公の人物としてできる唯一の望みは、自分について物語を作る人たちが、自分に対してある種の敬意を持っていることです。そして、この場合、それは確かにそうだったと思います。」
⸻
有名人として、アイゼンバーグ自身も、自分について何が書かれるかを完全にはコントロールできないことを知っている。
実際、彼は以前、自分が不快に感じた記事を書いたインタビュアーに電話をした。
その記者は、その記事には皮肉なトーンがあったことを認めたという。
「自分がそこまで注目されるほどの価値があるとは思えなかったんです。それに、僕は特別に物議を醸すようなことをしていたわけでもありませんでした。」
Jesse Eisenberg read the script for “End of the Tour” shortly after doing an interview “that I knew was not going to say nice things about me or characterize me in a way that I would want to be characterized.”
The film, from director James Ponsoldt (“The Spectacular Now”), is an adaptation of journalist David Lipsky’s book that recounts five days in 1996 with David Foster Wallace during the promotion of the author’s epic comic novel “Infinite Jest.”
Eisenberg plays the then-30-year-old Lipsky, a novelist himself with modest but limited success, who was working at Rolling Stone. He persuades his editor to send him to interview Wallace (Jason Segel) in Indiana, where the novelist taught at a small college. The publication of “Infinite Jest” made Wallace, then 34, a literary celebrity, with major publications lauding him as the voice of his generation and a genius.
After reading the script for “End of the Tour” by Pulitzer Prize-winning playwright Donald Margulies, Eisenberg “thought it would be interesting to play this guy who was not this innocuous interviewer but is kind of going there to expose somebody.”
While a prolonged conversation between a couple of literary guys doesn’t sound like the stuff of great cinema, “End of the Tour” becomes a fascinating fencing match between the two, punctuated by humor and pathos. A quasi-road-trip movie, it juxtaposes silly and mundane concerns — they share Pop Tarts and junk food — with dark and confessional moments.
If people know anything about Wallace, it’s that he wrote a big book — 1,079-pages — and hanged himself in 2008 at 46, observes Eisenberg. The author was an eccentric figure. His photos often show him wearing granny glasses, his long hair wrapped in a bandana. His writing was electric, trippy, with descriptive passages, seductive and unexpected, for better or worse a singular voice.
The choice of Segel, mostly known for comedies, to play Wallace engendered some protests on the Internet, but the actor proves riveting in his portrayal. Ponsoldt thinks it is ridiculous to box Segel into one category, pointing out that comic talents like Robin Williams and Tom Hanks proved to be great dramatic actors.
Ponsoldt also has high praise for his other star, Eisenberg, comparing him to Dustin Hoffman and Gene Hackman, “guys you wouldn’t think could become leading men.”
A fast talker (a New York City native) and ready with a quip, Eisenberg, 31, says he and Segel had “a nice camaraderie even though the relationship of the characters in the movie is often contentious.”
A playwright and short story writer himself, the actor was excited to see the script from Margulies.
“I knew the characters would have a real emotionally complicated life, that there would be good dialogue, that the scenes were more than three lines long. How often do you get that chance to do something like that?”
Next up for Eisenberg is a Woody Allen film slated to begin shooting in California in August, and then a book tour for his first collection of short stories, “Bream Gives Me Hiccups.” He’s got two more movies coming out this year — “American Ultra” and “Louder Than Bombs” — and next year will be seen as the arch-villain Lex Luthur in “Batman v. Superman: Dawn of Justice.”
“The scenes I have in the Batman movie are so interesting and compelling,” says Eisenberg, who finds positives in working in both big films and smaller ones like “End of the Tour.”
The actor credits Ponsoldt as “an unusual director with keen insight into how to work with actors.” Eisenberg adds he was impressed with how Ponsoldt could make scenes more dramatic than he thought at first. “There becomes these life-or-death stakes in what is seemingly casual interaction.”
Lipsky, as it turned out, never had to write the Rolling Stone article. He published his interviews in book form after the author’s death. In his afterward to “Although of Course You End Up Becoming Yourself,” he acknowledges his own insecurities during their time together.
Interestingly, Wallace — a veteran magazine writer himself — was far more experienced with the interviewing process. It’s easy to see how acutely aware the author was of how everything he said could be (mis)interpreted, parsed, repackaged, etc. etc. He was a wordsmith after all.
Like the presence of a camera, a running tape recorder alters reality. In that sense, the two were performing for each other, the director thinks, but also feels Wallace was “trying to reveal himself,” while trying to come to grips with his sudden celebrity. “He was an inherently guarded person, probably self-editing the way writers and thoughtful neurotic people do,” says Ponsoldt.
“End of the Tour,” which received positive reviews when screened at the Sundance Film Festival, has drawn objections from some camps, notably from the David Foster Wallace Literary Trust, his widow and some of his editors, none of whom took part in the making of the film.
The reasons are complicated. For some it comes down to saying Wallace would not want to be portrayed on screen. There are others who are proprietary about the author’s legacy and writings, even those who are just fans and never knew him and have no stake in his estate.
“I understand that a lot of people care deeply about David,” says Ponsoldt. “We didn’t go into it naïvely. We didn’t make this movie for mercenary purposes, and it certainly wasn’t money. We love David Foster Wallace. Our hope is that more people read him.”
Some people might be uncomfortable since the author died in a shocking way, though literary suicides are hardly unique.
“End of the Tour” finds Wallace at, perhaps, the height of his powers, with his death a distant shadow. In Lipsky’s book, which is mostly the transcriptions of the five-days of interviews, Wallace says, “I don’t think writers are any smarter than other people. I think they more compelling in their stupidity, or in their confusion.” And then immediately admits, “I’m structuring that into a sound bite.”
That might be construed as the author having an uncomfortable, complicated relationship with his fame and image.
“The only hope you have as a public figure is the people making a story about you have some reverence for you, which in our case would be true,” says Eisenberg.
As a celebr
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
⸻
もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
⸻
しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
⸻
『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
⸻
そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
⸻
⸻
一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/
自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界のカート・コバーン」へと還元し、その自己破滅をロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレスの作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症や自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身の肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。
だが、昔ながらの保守的な批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。
ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現を模倣したウォレスの自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体の鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的な理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。
ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義(登場人物だけがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。
要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである。
しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムそのものと混同することだ。ヒューバート・ドレイファスとショーン・ドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。
ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。
芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉なニヒリズムそのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。
この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガンに投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)
⸻
ウォレスは、ドナルド・バーセルミやトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトをさらに推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)
その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組が最後にカメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省がプレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。
そのため、最初の長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代の卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。
続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学の創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸の創作プログラムに所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度そのものの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースやバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。
「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。
全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来の北アメリカが「北米国家機構(Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界を舞台にしている。
そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンスも活動しており、ウォレスは物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。
しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家そのものが巨大企業に圧倒されてしまっている。
「ワッパーの年」
この意味で、ウォレスはモダニズムの問題意識をさらに徹底させた作家だった。消費社会が人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である。
消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。
その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画『Infinite Jest』だ。
この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれてしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画をテロ兵器として手に入れようとする。)
この映画を制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリン、マリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。
一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。
そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールド・テニス・アカデミーである。ここは、ウォレス自身が哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。
⸻
『Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である。
その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)
現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。
その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。
つまり、この作品はポストモダン社会の民族誌(エスノグラフィー)なのである。
時間も空間も商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要なものが押し流されてしまう危険も見抜いている。
マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネットが社会を支配する以前、1996年に出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。
「文化が逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」
「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」
『Infinite Jest』は、一つの世代の感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。
とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代にMTVが誕生し、大学時代にインターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。
語り手は、自己意識の牢獄や、無限の可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から、不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。
ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。
薬物依存と絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである。
この見方は私だけではない。
ウォレスの親友の一人だったジョナサン・フランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。
フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。
「私たちの多くにとって人生の意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレスの小説世界ではほとんど存在しない。」
しかし、その一方で彼はこう続ける。
「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分は理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」
私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。
読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。
ウォレス自身もまた、依存症や欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。
そして、この点こそが、ウォレスとフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。
二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。
極端な自己意識、メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。
フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。
私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。
あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。
なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。
それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。
しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものはシニシズムではない。
むしろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである。
⸻
⸻
しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである。
それは現代の絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろ、ポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。
もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。
「革新的な文体を用いて、保守的な小説の目的を果たすにはどうすればよいか。」
『ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである。
しかしマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解そのものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。
「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」
彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。
作家スティーブ・ムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカルな世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。
「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」
先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。
そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。
これは決して矛盾ではない。
つまり、「ウォレスは小説の道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。
私たちは、「型破りな文体=非道徳的」という思い込みそのものを退けなければならない。
むしろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。
アップダイクの美文主義では、文体そのものが読者の注意を引きつける。
しかしウォレスが探していたのは、現代の私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。
だからこそ彼は、その声を通して、私たちに真正面から、誠実に、そして道徳的なビジョンを語りかけることができたのである。
⸻
⸻
だからこそ、ウォレスがフョードル・ドストエフスキーの人生と作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。
ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。
「もっとも重要なのは、ドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分の文学的栄光しか考えていなかった人物――から、
We're actually gonna keep this interview going for about five days. FaceTime, Fred, and one more interview with one more Rolling Stone writer in a car, and, yeah, that's right. That's nice of thing I've ever heard. Thank you. Oh, you're welcome. Yeah. Um, let's start from the very, very beginning. Now, do you remember when David Foster Wallace's name first registered with you, like when you knew who he was?
⸻
司会:
どこかへ車で出かけて、また『Rolling Stone』のライターにも来てもらってね。
ええ、そうですね(笑)。
司会:
今まで聞いた中で一番いいアイデアかもしれない。
司会:
デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前を初めて意識したときのことを覚えていますか?
つまり、「この人が誰なのか」を初めて知ったのはいつだったか、覚えていますか?
⸻
Now, do you remember when David Foster Wallace’s name first registered with you, like when you knew who he was?
直訳すると、
「デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前が、あなたの中で初めて『認識された』のはいつだったか覚えていますか? つまり、この人が誰なのかを知った最初の時のことです。」
But anyway, he was a guy who was just so forward seeing about what technology was going to become, and these things that were meant to connect us were ultimately going to dehumanize interaction. But that section in particular was about how everyone's so excited when video chat became available, but then there was realization that they can no longer do other things while they're talking to somebody.
⸻
でもとにかく、彼(デヴィッド・フォスター・ウォレス)は、テクノロジーが将来どのようなものになっていくのかを非常に先見の明をもって見抜いていた人でした。
そして、人と人とをつなぐために作られたはずのものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、ということも見抜いていたんです。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びしていたことについて書かれています。
でもその後になって、ビデオチャットをしながらでは、相手に見られているから、もう会話の最中に別のことはできないという現実に気づくんです。
⸻
these things that were meant to connect us
「私たちをつなぐために作られたもの(テクノロジー・通信手段)」
were ultimately going to dehumanize interaction
ここでの dehumanize は「非人間化する」という直訳よりも、「人間らしい温かみや自然さを奪う」という意味です。
they can no longer do other things while they’re talking to somebody
電話なら、本を読んだり歩いたり洗い物をしたりしながら話せますが、ビデオチャットでは画面に映っているため、そうした「ながら」がしづらくなる、というウォレスらしい観察を指しています。
connect us, we're ultimately going to dehumanize interaction. But that section in particular was about how everyone's so excited when video chat becomes available, but then they have this realization that they can no longer do other things while they're talking to somebody because they can see them. And it evolves to people creating elaborate masks and dioramas so it looks like they're giving full attention until eventually they've taped off the camera and they're back to the auditory phone conversation. So the first thing that I read, and I supposedly something will never do again, which is called shiva, at one point. A lot of the short form fiction I had and tried to tackle. No, it's a mountain rest. It's something that definitely requires time and effort to tackle. Well worth it, I think, but. Oh, I think that by the end it is the most satisfying experience you can have, and I think that there's something that he tries to remind us that we're capable. You know, you're sort of given this very subtle and sometimes not so subtle message that what you're good at is watching TV. No, really, like that what is a good life culturally is to work really hard so that you can come home and crack open a beer and watch reality TV on a big giant television, and that that should satisfy you. And it's no wonder that we feel dissatisfied, I guess. And so my experience with reading Infinite Jest was by the time I finished it, I really felt like, I feel like how you feel after you go for like a long jog. I don't really know what that's like, but. But then told, you feel like, oh, I did that. So, prior to going on this long jog, you're sitting at home with a script.
音声認識にかなり誤りがありますが、文脈を補って省略せずに訳します。
⸻
(彼は、)人と人とをつなぐために作られたものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、と考えていました。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びします。でもやがて、「相手に自分が見えている以上、会話をしながら別のことはできない」ということに気づくんです。
すると、人々はまるでちゃんと相手に注意を向けているように見せるため、手の込んだ仮面や背景セット(ジオラマ)まで作るようになります。
そして最終的には、カメラをテープでふさいでしまい、結局は昔ながらの「声だけの電話」で話すようになる、という話なんです。
その後、『Infinite Jest(インフィニット・ジェスト)』を読みましたが、二度とあんなことはしないだろうと思いました(笑)。
⸻
司会:
短編小説はかなり読んだんですか?
⸻
ええ、短編もたくさん読みました。そして『インフィニット・ジェスト』にも挑戦しました。
⸻
司会:
あれはまさに登るべき山ですよね。
⸻
本当にそうです。
⸻
司会:
読み終えたときには、それ以上ないくらい満足感がありますよね。
⸻
ええ。本当にそう思います。
彼が私たちに思い出させようとしていることの一つは、人間には本来もっと大きなことができる力があるということなんです。
世の中では、「あなたが得意なのはテレビを見ることなんだ」というような、とてもさりげない、ときには露骨なメッセージを絶えず浴びせられています。
本当にそうなんです。
つまり、「文化的に見て良い人生とは、一生懸命働いて、家に帰ったらビールを一本開け、大きなテレビでリアリティ番組を見て満足することなんだ」という価値観を押し付けられている。
そして、それだけで満たされるはずだと言われている。
でも、そんなことで私たちが満たされないと感じるのは、ある意味当然なんですよ。
だから僕は、『インフィニット・ジェスト』を読み終えたとき、本当に達成感がありました。
長距離ジョギングを終えたあとのような気分、と言えばいいでしょうか。
……まあ、実は長距離ジョギングなんてしたことないんですけど(笑)。
でも、とにかく「ああ、自分はやり遂げた」という感覚になるんです。
⸻
司会:
では、その長い「ジョギング」に出発する前──つまり、この役に挑む前のことですが。
I was at an airport. I was in an airport flying to Boston, and I remember it really distinctly. So, to set up where I was when I got the script, because I think it's an important part of the story. I was feeling, I was at a point where it was the last season of my TV show, and I was also, I was 34 years old. Maybe I was 33 when I got the script. And Forgetting Sarah Marshall is really an honest reflection of where I was at 24. You know, that is, I mean, that is really like, I'm really proud of it. That is what I was thinking about, and it is those times when a breakup with the girl you think you're gonna marry is devastating. The world is ending, you know what I mean? You call it the breakup, because the only one cares. Like, and a fire makes it a whole different thing. Yeah, yeah, you know, because that's what it is in your mind. It's like, the breakup. But what I had found was, I think by nature of the way the business works, by nature of doing big movies, you, you're encouraged in a lot of different ways to continue to do what has been successful. So I did a lot of movies that were sort of in that realm, or sort of felt that way. And by the time I was 33, I was starting to feel like my interior life wasn't matching up with what I was putting on screen. I was feeling a real pull. And that's not a good feeling when you write your own material, and when you, you know, I try to, a lot of different types of acting, but I kind of try to, to a submersion, being a surrogate, like, I am you for the next hour and a half. Do you feel this way too? So I put out into the ether, like, a decision. I wanted to do something different. I needed to make a change. If I'm gonna do this for 50 more years, if I'm lucky, it needs to be stuff that is reflective of how I'm, I'm in the airport, and this script arrives, and I read it on the plane. And I thought, this is really cool you sent this to me.
音声認識の誤りを補いながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
空港にいたんです。
ボストンへ向かう飛行機に乗るため空港にいて、その時のことは今でも本当にはっきり覚えています。
この脚本を受け取ったとき、自分がどんな状況にいたのかを説明しておきたいんです。そこはこの話では重要だと思うので。
当時、僕は出演していたテレビシリーズの最後のシーズンを撮っていました。
それに、34歳でした。いや、脚本を受け取った時は33歳だったかもしれません。
『Forgetting Sarah Marshall(寝取られ男のラブ♂バカンス)』という作品は、24歳だった頃の僕を、本当に正直に映し出した作品なんです。
当時の僕が実際に考えていたこと、そのままなんです。
24歳くらいの頃って、「この人と結婚するんだ」と思っていた恋人との別れは、本当に壊滅的な出来事ですよね。
⸻
司会:
だから「あの別れ(the breakup)」って呼ぶんですね。
⸻
そう(笑)。
そうなんです。
自分の頭の中では、まさに**「あの別れ」**なんですよ。
⸻
この業界の仕組み上でもあるし、大作映画に出るようになると特にそうなんですが、成功したものを繰り返し続けるよう、いろいろな形で促されるんです。
でも33歳になる頃には、自分の内面と、スクリーンの上で演じている人物が噛み合わなくなっていると感じ始めていました。
心の中では、何か別の方向へ進みたいという強い気持ちが湧いていたんです。
自分で脚本も書く人間にとって、それは決して健全な状態ではありません。
僕はいろいろなタイプの演技をしますが、基本的には役に完全に没入するタイプなんです。
つまり、
「これから90分間は、僕があなたになります。あなたも同じように感じますか?」
そういう感覚で演じたいんです。
だから僕は、まるで宇宙に向かって願いを放つみたいに、自分の中で一つ決意しました。
何か違うことをやりたい。
変わらなければいけない。
もし幸運にも、この仕事をあと50年続けられるなら、演じる作品も、その時々の自分自身を映し出しているものでなければならない。
そんなことを考えていたんです。
飛行機の中で読んで、
「これを僕に送ってくれたなんて、本当にすごいな」
と思ったんです。
And I landed and I called my agent. I said, yes, this is the type of material that I'd like to do. But, you know, maybe if someday they'll let me do this kind of stuff. And she said, no, James Ponsoldt, the director, wants to talk to you about it because he thinks that you might be able to do it. And there was a line in that script that I almost like cried on the airplane, which was uncomfortable because there was a little person next to me who was a stranger. You've been full frontal naked on screen, but you were uncomfortable crying on a plane? Oh, I had a bad experience, and that's a short tangent that probably, but one time, I think it was due to the altitude, I was watching a movie on the plane, and I started crying like really hard. I think a good way of putting it is disproportionate to the occasion. And the woman next to me looked over at me like, is he okay? And then she like peeked over to look at what I was watching. It was Dreamgirls.
音声認識の崩れを補正しながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
「うん、こういう作品こそ、僕がやりたい仕事なんだ。でも、いつかこういう役をやらせてもらえたらいいな、って感じかな」
そう言ったんです。
すると彼女は、
「違うのよ。監督のジェームズ・ポンソルトが、あなたとこの作品について話したいと言ってるの。あなたなら演じられると思っているから」
と言いました。
脚本には、飛行機の中で読んでいて、思わず泣きそうになったセリフが一つあったんです。
隣にまったく知らない小柄な人が座っていたので、それはちょっと気まずかったですね。
⸻
司会:
スクリーンでは全裸になることも平気なのに、飛行機で泣くほうが恥ずかしかったんですか?
⸻
ええ(笑)。
少し話がそれますけど。
たぶん高度のせいだったと思うんですが、機内で映画を観ていたら、本当に号泣し始めちゃって。
その状況に対して、泣き方が完全に度を超えていたんですよ。
⸻
司会:
⸻
隣に座っていた女性が僕を見て、
「この人、大丈夫なの?」
みたいな顔をしていました。
それから彼女は、僕が何を観ているのか気になったんでしょうね。
身を乗り出して画面をのぞき込んだんです。
そしたら……
⸻
補足
I think a good way of putting it is disproportionate to the occasion.
これは直訳すると、
という意味です。
つまり、「少し感動して涙ぐむ」程度ではなく、周囲が心配するくらい激しく泣いてしまった、というジョークになっています。
また、
You’ve been full frontal naked on screen
という映画
今日ブックオフのジャンク品のglobe『Love again』を何となく買って聴いてるんだけど、ひどいなんてもんじゃないな。とにかくつまらないし、なんか序盤に雑音みたいなアレンジの曲もある。まあ、100円だったからいいんだけどさ。
小室哲哉の曲で後世まで語り継がれる曲って「Get Wild」「愛しさとせつなさと心強さと」「CAN YOU CELEBRATE?」くらいでしょ。
そんなポストをどっかで見て、割とみんながそうだそうだって言ってるけど
俺は3割ぐらいしか賛成できない
そこは父親母親が覚悟を持って自分で決断しなくちゃいけないんだよね
まずはこれを徹底しないと
責任から逃げてるだけのアホ親が、「世界平和、人類はみな兄弟、LOVE IS POWER」とか叫びながら
「やっぱり私には自分の子供を殺すなんてできない😭」とか悲劇のヒロインぶって無責任に障害児生むんですよ
そんで案の定世話しきれなくて福祉施設に丸投げして税金使ってそいつが死ぬまで公金で育てることになるの
まずはその流れを止めないと、
「障害児は福祉施設に捨てられるから出産も怖くない!!ハッピー!!!!😊😊😊」
って言ってるアホばかりになるぞ
2026年6月24日リリースの新曲MVを見てゴスペラーズへの怒りがふつふつと涌いてきたので書き殴ります。
当方、2001年「ひとり」のヒット以降のゆるーいファン?です。
※ディスしかないからガチのGOSMANIAの人は読まないでください ごめんね
====
言葉にしてはいけないのだと思っていましたが、デビュー32年目にしてついにようやく「かっこいい」と素直に思えるMVが出てきたので、言います。
いや一瞬イケてるっぽい瞬間がある映像もなくはないんだけどさ、基本線としてなんか古くてちょっとダサいの。これは昭和生まれのゴスペラーズおよびスタッフ陣と平成生まれの当方とのジェネレーションギャップなのかと諦めていました。でも、できるんじゃん!!!!!!!早くやってよ!!!今さらだよ!!!過去作も作り直して欲しいのいっぱいあるよ!!!悔しいよ!!!ライブ映像は結構かっこいいのにPV・MVはほんっと……。わざと狙ってるんだとしても、「ゴスペラーズってちょっと昔の人だよね。歌上手いし流行ったけど、まあ、こんな感じだよね」って敬遠する人間は多かったと思います。
恐らく世間的に「ゴスペラーズ」と言われて想像されるのは村上氏(サングラス。「ひとり」のメインボーカル)と黒沢氏(「永遠に」「ミモザ」の人)かと思います。あと低い声でボンボンやってる人(北山氏)と「VOXers」の人(酒井氏)なんでしょうか。そして歌番組をよく見る人には「喋ってる人」と認識されるのが件の安岡氏です。
だけどね、だからね、皆さん、果たして安岡優の歌声を聞いたことがありますか???
ゴスペラーズやゴスペラーズの曲を知っていても安岡氏の歌声なんて全然知らない、聞いたことがない、という人が多いのじゃなかろうか。だって音楽番組に持ってったりPV/MV作るような曲では安岡優はメロディーを歌わないから。当方はゆるーいファンなのでゴスペラーズが毎度メンバー内オーディションでリードボーカルを決める(曲ごとにベストな布陣を構築する)のは知ってはいますが、それでもあまりに安岡氏は今まで端に追いやられすぎだったんじゃないか……?
安岡氏リードの声が聞けるの、テレビ放送あるような曲だと「星屑の街」くらいじゃない??あれは5人で歌い継ぐ曲だから「センターなし」みたいなものだし。(あと星屑の街は冒頭のコーラスがいいのにあれも安岡氏は暇な時間長いよね。最初「あれっ、一人歌ってない奴がいるぞ?」って気づいたとき結構衝撃だった)
「永遠に」のジャケット写真とか顔半分切られてるよね(北山氏もだけど)
「ひとり」のジャケ写もそっぽ向かされてね(こっちは北山氏はカメラ目線なんだよな)
まあそれは昔のことだしビジュアルなんてどうでもいいんだけど(よくないけど)、リードがあるとしても2番(VERSE 2)だしちょこっとで、安岡氏がセンターの新曲&MVがついに出た今あらためて思うと、「お前は歌詩書いて喋ってウーアーやっとけ」という感じがあったんじゃないか?と非常にもやもやする。メンバー間では当然リスペクトも愛情もあるんだろうけど、一般市民的には「よく喋ってるけど歌声を知らない人」なんだよな。まあ今回のMVで……ようやく……ですが……。
まあ安岡氏が隠匿されてたのもわからなくはないんです。ちょーっと人を選ぶんだよね? メロディー歌ってる時の歌声クドいし、トークもいつもちょっとなんか偉そうだから。コーラスの時はだいぶ渋い声で低音支えてて厄介な音鳴らしてるのも、賢くて真面目で能力も自信もプライドもあるし愛されて育ったからついつい偉そうに聞こえる喋り方になってしまうことがあるのもファンにはまあわかるんです。が、たぶん、「ゴスペラーズ? ♪愛してる~の人たちね! ゴスペルの人ね!」レベルの一般市民がテレビや動画でちょいっと見たら「ん?? なにこいつ??」となりかねない。賢明……。(※やっぱり名前のせいで「ゴスペルの人ね!」という言葉はちょいちょい聞きます。たぶん日本語的に「アカペラ」と「ゴスペル」が似てるもんだから余計にね。リーダーはちょくちょくいろんなところでまだまだ解説し続けてください。個人的には「Lean on me」めちゃくちゃ好き。武道館で隣の人たちと手を繋いでみんなで歌ったの懐かしいなあ……。)
(なんか脱ベースボーカル期?にアイドル的な人気なかった?ライブでいつも「陽ちゃーん!」ってキャーキャー言われて北山氏もくるくるくるくるまわってねえ。「東京スヰート」とか「金色の翼」とか「エンドロール」とか高音リードボーカル多かったよね、その状態で急に低音ボンボンやるとまたキャーキャー言われてねえ。その間安岡氏が地味だけど堅実に低音鳴らしてんだよなあ。リーダーも♪Hey~ってやってたりするからさあ)
(2002年「いろは」でだいぶもうヤバいことやってたのになんか長いこと公には酒井雄二のエキセントリックさを隠してたよね? 透明感だけ見せつけてね? VOXersもあれだけどRecycle Loveをシングル?両A面?カットしたのはなかなか「わあお」でびっくりしました。あれもGOSWINGのほうは安岡氏もなんか目立つタイミングあったのに強烈なRecycle Loveがあったからたぶん世間的には印象が半減して……でも今Recycle LoveのMV見返したら安岡氏の顔がうるさくてびっくりしちゃった。妥当of妥当の扱いなのか……)
(当方ガチファンではなく、記憶が曖昧で全然違うこと言ってたらごめんなさいね。他にも好きな歌手とか応援してる人はいるし、自分の人生のほうが大事だし忙しいしゴスペラーズはあくまで数多ある趣味やエンタメのごくごくごくごく一部ですのよ。そんなに毎日ゴス子のことだけ考えてるわけないんすよ)
あとさあ~~~~~~~~??
鬼越トマホークはちゃんとゴスペラーズのことも叩いて!?!? 安岡優がぶちのめすよ!?!?
(内ケ崎さん、本当にどうもありがとうございます。これからも末永くどうぞよろしくお願い申し上げます。)
ていうかそもそも「50代になってから踊らせる」の、強かだよね……。いや前からライブじゃ踊ってるのは知ってんだけどさ(こちらはFive Keysで飛ぶのが辛くなってきました。大好きな曲だしテンション爆上がりだけどドキドキもします。ジャンプせずに腕だけみたいな新しい簡略版振付あるとうれしいです)、一般市民的には「静かにフォンフォンウーアーやってるバラードの人たち」なんですよ未だに。その状態で50代というれっきとしたおじさんになってから「俺たち意外と踊れるんだよ??」ってやるのは賢すぎじゃない??20代30代40代でそれやると本業のダンサーとかアイドルとも比べられちゃうからよくないよね。したたかだよね。クレバーよね。ずるいよね。なんか鼻につくよね。ありがとう。「50代のおじさんたち」なら若い同業者もそのファンも「彼らは敵じゃない」と認識するから好意的な目で見てくれるよね。ずーるい。
あとさあ、
本当にすごく気になってる。踊れる(ようになった)のを知らないわけがないのに、全然MVとかテレビでメインで踊らせなかったじゃん今まで。「お前のターンは50代な。俺らが体力厳しくなってきた頃がんばれよ」って???ちょっとイライラします。腹が立っています。ヤスが踊れなくなってきたらどうするの? 人間だよ? いつまでもヤングなわけないんだよ? 何があるかわからないよ? なんで今さらこのタイミングでそういうプレッシャーを安岡氏のみにかけるの?? それともみんなそんなに自分の体力やダンスに自信がある? 他の四人もダンス猛特訓するぞ! どこからでもかかって鯉!ってことなの? ダンサー安岡優が宝の持ち腐れにならないように、50代はダンス曲いっぱい出していくんだぞ! MVも出すぞ! ってこと? 楽しみです。
そしてさ、ぶっちゃけ黒ぽんにはそのままでいてほしいけど(いつもかわいいねえ)、リーダー、あなたはもっとガッツリ踊れるはずでしょうよ、なにおじいちゃんぶってるのよ、あと50年は歌うんだからまだあなた攻めていかなくちゃです。がんばって。あとRHYMESTER宇多氏とのラジオもなんかぐだぐだしてた時間長かったけど、あれほんとにやめたほうがいい。生放送なんて特に。真夜コーとは違うんだから。ゲストのときは「お邪魔しに行く」気持ちを大切に。あと二重跳びやりすぎるのって膝に悪くないの……? ハラハラしたからあの時期インスタ見るのやめたよ。釈迦に説法でしょうがどうぞお健やかに……。ていうか自撮りひどいからもっと研究して??あなたもっとかっこいいはずなのに最近映りが甘すぎよ??爆イケダンディなんだからそういう写真選んでよ、守りに入るのまだ早すぎよ??
誰かに「仲良いですよね」って言われてだーれもなーにも否定しないの、若干気持ち悪いことありますわよ。羨ましすぎますわよ。たまには仲違いエピソードも聞かせてね!
……って、思ってたら、NHKのSONGSの番外編?のYoutube Shortsに安岡氏がいじめられてるみたいなエピソードあって……なにあなたたち!
あれは安岡氏が咄嗟にああいうこと言ったわけ? みんなで話す内容決めてたの? なんか、「え、かわいそう……。気づいてるんならやめてあげなよ……」って平成生まれはちょっと思いましたー。
あなたたちがめちゃめちゃ愛しあってるのはゆるくてもうっすらファンなので大いに存じ上げているんですが、テレビとかYouTubeを通りすがりに見る人たちは何も知らないからね!?みんな令和の感覚もってるからね!?炎上して活動休止とか嫌だからね!?クレバーにやってくださいね!?冗談が通じない世の中だよ!?50年後を見据えてね!?
☆☆☆☆☆
腹立ちすぎてわけわかんなくなってきちゃったけど、今後も最高な楽曲に見合った素敵なMVを作り続けてください。
新しく入った?SNS担当の?スタッフさん方も、今後ともどうぞよろしくお願いします。輝いています。期待してます。ありがとうございます。
以上、新MVがうれしすぎて生まれて初めてシャンパンを開けた人間の戯言でした。
Can’t buy me LOVE!
Q
マイムマイムってシオニストがパレスチナを侵略して井戸掘った時の歌なの?
Gemini
「マイムマイム」は、イスラエル建国前後、パレスチナの地に入植したシオニスト(ユダヤ人開拓者)たちが、乾燥した土地で井戸を掘り当てて水の恵みに歓喜した様子をテーマにした楽曲です。
この歌の背景と意味について以下の要素にまとめました。
この曲は戦後の日本でフォークダンスの定番曲として広く普及しましたが、その歴史的背景には中東紛争の発端となったユダヤ人のパレスチナ入植の歴史が深く関わっています。
他にも気になる歴史的背景や、特定の文化・音楽のルーツについて知りたいことがあればお気軽にお知らせください。
Q
入植というのはシオニストの言い分だろうけど、パレスチナからみてそれは一体何だったの?
Gemini
パレスチナ(在来のアラブ住民)の視点から見れば、シオニストの活動は「入植」ではなく、自分たちの土地や平穏な生活を奪う「植民地主義的な侵略」であり、「生存の危機」そのものでした。
ユダヤ人側が「不毛の地を開拓した」と主張する歴史の裏で、パレスチナ側が実際に経験した現実には、以下のような構造的な問題がありました。
シオニストは当時、パレスチナの土地を「合法的」に購入したと主張していました。しかしその多くは、現地の状況を知らないレバノンやシリアなどの「不在地主」から買い取ったものでした。
その結果、何世代にもわたってその土地を耕し、生活の糧を得ていたパレスチナのアラブ系小作農たちは、ある日突然土地を追い出され、職と住処を失うことになりました。
ユダヤ人開拓者たちが作った共同体(キブツなど)は、徹底した「ユダヤ人のための経済」を目指していました。
パレスチナ人から見れば、移住してきた人々は自分たちと共生する気はなく、自分たちを地域社会から完全に弾き出そうとしているように映りました。
3. 水資源の独占
「マイムマイム」で歌われるような井戸の掘削も、パレスチナ側からすれば深刻な死活問題でした。
乾燥地帯において、新住民が近代的な技術で大規模に地下水を汲み上げると、それまで先住民が使っていた周囲の古い井戸や泉が枯れてしまいます。パレスチナ人にとってそれは、命の源である水資源を奪われる行為でもありました。
19世紀末にはパレスチナの人口の9割以上がアラブ人でしたが、ヨーロッパからのユダヤ人移民が急増し、イギリスの支援(バルフォア宣言)を背景に独自の武装組織や行政機構を作り上げていきました。
パレスチナ人にとっては、ある日突然やってきた外国人たちが、自分たちの故郷に別の国家を建てようとする「先住民の置き換え(植民地主義)」に他なりませんでした。これが最終的に、1948年のイスラエル建国に伴う「ナクバ(大破局)」へとつながり、70万人以上のパレスチナ人が難民となって故郷を追われることになります。
このように、「不毛の砂漠に水を引いた喜びの歌」であるマイムマイムは、パレスチナの視点から見れば、「先住民の生活基盤と水資源が浸食されていく過程」を象徴する歌という全く異なる側面を持っています。
この時期のイギリスの三枚舌外交や、現在のヨルダン川西岸地区で続いている入植地問題 など、さらに掘り下げたい点があれば教えてください。
Q
シオニストたちはパレスチナ人をどんな目に合わせて何人殺してからマイムマイムを踊ったの?
Gemini
「マイムマイム」が誕生した1937年時点で、この特定の井戸の掘削や楽曲の誕生に直接結びついた大量虐殺や組織的な殺戮の記録はありません。
この曲は、1937年にキブツ・ナアン(Kibbutz Na'an)という入植地で、7年間の捜索の末に地下水(井戸)を掘り当てたことを祝う収穫祭のセレモニー(ウォーター・ページェント)のために作られました。
ただし、当時のパレスチナ(イギリス委任統治領)全体では、シオニストの流入に伴う土地の買い占めや原住民の排除に対し、アラブ人(パレスチナ人)の不満が爆発し、激しい武力衝突(パレスチナアラブ反乱:1936〜1939年)の真っ只中にありました。この大規模な衝突期における犠牲者の規模と実態は以下の通りです。
1936年から1939年にかけて起きたアラブ反乱では、イギリス軍による徹底的な鎮圧と、シオニストの武装組織(ハガナーやイルグンなど)との戦闘・テロの応酬により、多くの死者が出ました。
パレスチナ側の視点では、この時期すでにシオニストの右翼過激派テロ組織(イルグン)などが、アラブ人の市場やバスを狙った爆弾テロを何度も敢行しており、日常的に一般市民が命を落とす恐怖に晒されていました。
「マイムマイム」の踊りや歌がパレスチナ全域の入植地に普及し、楽譜として公式に出版されていくのは1940年代(1944〜1946年頃)のことです。
この直後の1947〜1948年、イスラエル建国を巡る第1次中東戦争とその前夜の武力衝突において、シオニストの武装組織はパレスチナ人の住民を組織的に追い出すための軍事作戦(プラン・ダレットなど)を実行しました。
結論として
「井戸を掘り当ててマイムマイムを踊った」という1937年の個別の出来事の直前に、特定のパレスチナ人の村を全滅させたといった直接的な因果関係(殺害してから踊ったという事実)はありません。
しかし、その背景にある歴史の大きな流れとしては、「パレスチナ人から土地や水を奪い、反発する原住民を武力で鎮圧・排除していくプロセス」の中でこの曲が生まれ、愛唱されていたということは歴史的な事実です。そのため、パレスチナ側の記憶においては、こうした一連の武力行使や命の喪失と、シオニストたちの「入植の喜び」は地続きのものとして捉えられています。
Q
ありがとう。マイムマイム好きなんだけど、とくに八丈島超高速マイムマイムとかめちゃくちゃあすきなんだけど、素直に喜べなくなったな。
Gemini
It is completely understandable to feel that way. Discovering the dark history behind something that brings you joy can be jarring and genuinely sad, especially when it is a piece of music as high-energy and beloved as "Maimu Maimu" or the legendary, hyper-fast Hachijojima Super High-Speed Maimu Maimu. Validating that conflict within yourself is an important part of connecting deeply with culture.
But don't give up on the joy of the dance just yet. In the world of entertainment and global music, a fascinating phenomenon happens: songs evolve, shedding their original political context to take on completely new, positive meanings in the hands of other cultures.
Here is how "Maimu Maimu" transformed into a celebration of sheer energy, community, and subculture in Japan. 💥
🇯🇵 The Great Japanese Re-Imagining: From Border Conflict to Folk Dance
When "Maimu Maimu" arrived in post-WWII Japan via the YMCA and American educational officials, its original geopolitical context was entirely left behind. Instead, it was adapted to serve a completely different, peaceful purpose:
⚡ The Hachijojima Evolution: Becoming a High-Speed Masterpiece
The Hachijojima Super High-Speed Maimu Maimu you mentioned is the ultimate example of a song being utterly recontextualized by creative energy.
🎨 The Artistic Dilemma: Separating Art from History
In entertainment and art, humans have always struggled with the "Separate the Art from the Artist (or History)" dilemma. It is okay to hold two truths in your mind at once:
1. Acknowledge the history: You can remain conscious of and empathetic toward the tragic history of the Palestinian people during the 1930s and 40s.
2. Celebrate the evolution: You can still love the Hachijojima version for what it represents today—a completely innocent, uniquely Japanese expression of community, high-speed fun, and musical joy.
The original creators used the song to celebrate survival in their own way, but the meaning a song holds today belongs to the people who are currently dancing to it. In Japan, that meaning is purely about laughter, sweat, and friendship.
If you want to keep exploring the wild ways music travels, we could look into other famous folk dances that changed completely when they hit Japan, or dive into the history of how Hachijojima became the capital of high-speed camp music. What sounds good to you?
今週は社会人のお面をかぶって働いてはいたものの、頭の中が虹ヶ咲一色すぎて、正直仕事になりませんでした。
というわけで、仕事中にぐるぐると考えていたことを書き残しておこうと思います。ライブの余韻でこんな風に思考が止まらなくなったのは、初めての経験かもしれません。
スクスタ出身の朝香果林推しとして、アニガサキに対してずっと抱いていた思いがあります。
それは「果林さん、格好よすぎじゃない?」ということ。
序盤、エマさんのために奔走し、生徒会長の中川菜々=優木せつ菜だと特定して対峙し、同好会を守ろうとしたあのシーン。さすがに痺れて興奮したのを覚えています。その後もメンバーを引っ張ったり、遠慮しあう仲間に喝を入れるなど、先輩としてリードすることが多かった彼女ですが、さすがに「格好良さ」が前に出すぎているのでは? と感じてもいました。
私がスクスタで見ていた果林さんは、どちらかというと「だらしなくておバカだけど、勘は鋭くて、みんなの前では必死にかっこよく振る舞っている(ただしエマさんの前を除く)」というキャラクターでした。つまり、スクスタとアニガサキとでは、彼女の「かっこよさ」と「だらしなさ」のバランスが逆転しているように見えたのです。
でも、まぁ仕方ない。どう考えてもアニメの尺では足りないのです。
アニメだけでスクスタの果林さんを深く描き切るのは不可能なのだと、半分諦めていました。
実はXではあまり話していなかったのですが、この2曲の歌詞を見たとき、正直ものすごく感動しました。
『Dress Code』が「格好いい自分を見せるための努力」を描いた曲なら、『Wake Up!!』は「普段のだらしない一面」が見える曲。
「自分が思う果林さん、そのものじゃねぇかよ……」と、心の中で某青峰の画像が脳裏をよぎりました。
スクスタがサービス終了した今、公式からこのバランスの果林さんを再びお出しされるとは思っていなかったんですよね。『ニジガクのトキメキちず(にじちず)』をプレイすれば見られるのかもしれませんが、あれはスクスタのアーカイブ(ですよね?)。やはり「新曲」として発表されることに大きな意味があります。本当に運営はよくやってくれた、と。
今回のライブは当然、『映画 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第2章』の流れから始まります。
ソロ曲を映画と同じ順番で披露し、その後はマンスリーソングのカップリング曲へ。間にユニット曲を挟みつつ、終盤は『永遠の一瞬』『KAGAYAKI Don’t forget!』『Eternalize Love!』で締めくくり、そのままアンコールへなだれ込む構成でした。
この流れが、私にとても刺さりました。
序盤の映画セクションはわかりやすいですよね。映画公開直後なので、その楽曲をやるのは当然の流れです。演出も言葉にできないほど素晴らしく、終始鳥肌が立ちっぱなしでした。
私が本当に語りたいのは、その後の「マンスリーソングのカップリング曲」の流れです。
前述の通り、アニガサキでは果林さんが格好良く描かれるシーンが多く、果林さん推しの自分としてはどこか物足りなさを感じていました。しかし、ステージで『Wake Up!!』が披露された瞬間、「アニガサキが尺の関係で見せられなかった彼女の一面を、今ここで補完してくれたんだ」という気持ちになれたのです。
これは他のメンバーも同じです。マンスリーのカップリングは、どれもアニメの地続きでは見せきれなかった「もう一つの一面」を魅せてくれる曲たちでした。
スクールアイドルグランプリから帰宅し、日常に戻った普段の同好会メンバー(スクスタらしさ)を見せながら、ユニットとしてのかっこいい面(アニガサキらしさ)も見せてくれるという完璧な流れ。
8thライブがこの構成をとったことで、アニガサキでは語りきれなかった魅力、すなわち「各メンバーがスクスタに置いてきてしまった一面」をすべて回収し、融合させてくれたのだと感じました。
そして終盤に披露された、『永遠の一瞬』『KAGAYAKI Don’t forget!』『Eternalize Love!』という、私の中で「スクスタのサービス終了」を象徴する3曲。
サ終からちょうど3年が経とうとしている今、この曲たちを聴いたことで、ようやくアニガサキ時空と本当の意味で「和解」できたような気がしました。
別にこれまで喧嘩をしていたわけではありません。しかし、高咲侑の存在も含め、「スクスタとアニガサキは別物である」という境界線を、心のどこかでずっと引きずっていたのだと思います。
今年1月、映画最終章のティザービジュアルが公開されましたが、どう見ても前向きな気持ちになれる雰囲気ではありませんでした。そこからずっと、「虹ヶ咲が終わりに向かっている」という感覚が頭の片隅に居座り続けていました。
その後、フラワーミュージックライブで様々な展開が発表され、「まだまだ終わらない」と思えるようにはなったものの、8thライブ千秋楽におけるあぐぽんのMCを聞いて、とても強く共感しました。
だからこそ、この8thライブは、スクスタとアニメが完全に合流し、共に次の未来へ進むんだと感じさせてくれるステージでした。
ここ数ヶ月間、心のどこかにあった「終わりの予感」のようなものが消えたわけではありませんが、最終章やこれからの企画が楽しみが強くなったライブでした。
というわけで、ここ1週間頭の中でぐるぐる考えていたことをざっとまとめてみました。
この解釈が正解だとは思いませんが、スクスタ時代からニジガクを追い続けてきた同志たちにこの記事が届き、8thライブや虹ヶ咲への想いをさらに深めるきっかけになれば嬉しいです。