はてなキーワード: MAXとは
ほんまに今回は腹が立ったわ
ふざけんなよ、ほんまオタクを手のひらで転がしやがって!!!!マジで腹立ってる!!!!!
先週末にさ、大きいイベントがあったのさ。半野外会場で、アイドルの集大成を飾るライブがあったのさ。
電車で向かうと地獄を見るから、車ではるばる走って向かったのさ
もう蝉が鳴いてたよな
今年の夏は涼しいカモ???なんて言説を吹っ飛ばすような照りと暑さでさ、青空が憎かったね。道中は快適だったけど、やっぱり車を降りたら地獄だったのさ
当日までに、色んな用意をしてその日を迎えた訳よ
チケットを握るために連番のオタクとCDを積んでさ、シリアルを何枚も応募したさ。同じCDが何枚も溜まると、虚しくなってくるんだ。だから、シリアルを抜いたCDは棚の奥に置いて忘れておくんだ。これが肝要だよ。棚は忘れるためのソリューションなんだ。
当日までの、これまでをドキュメンタリーにまとめた映像付きCDをわざわざ買って、正座して見てさ。数年間の月日に思いを寄せたりもしたな。空っぽの会場で名前付きビブスを着て、ひとりリハーサルに努める姿を、ユニットの仲間たちとロケやラジオやライブで少しずつ打ち解けていく姿を振り返ったりしたさ。ほんとに皆成長してて、すげぇと思うよ。
俺はキャラクターが好きで追ってきて、中の人はキャラクターの一番の理解者、同志のような立ち位置で見てるんだよ。だから思い入れが強いわけでもないし、個人イベントに行くこともないよ。それでも演じるキャラクターに向かって日々問い続けては自らを磨いていく様には圧倒されたし、その集大成を見届けるのがせめての努めのような気持ちになってたんだよね。
書きながら思ったけど、きしょすぎてわろた。オタクの終わってる所はさ、勝手に解釈をして信心深くなって、勝手に裏切られたと思ってキレてる所なんだよね。何なん?しょうもなくて泣けてくるわ
でも、しょうもないことでも書き殴っていいのが増田なんだ。だから増田はすき。誰も読まなくていいもん!とか思ってる癖にチラシの裏じゃなくてネットの海に放流したくなるような、みみっちい感性の人間には、これが丁度いいんだ。カスがよ。
閑話休題。
まぁそんなこんなで、不快指数MAXの会場でライブを観て、大いに盛り上がって、泣いて、汗かいて、アクエリを2L枯らして、その日を過ごしたよ。後半では卒業生の3名がそれぞれ思いの詰まったソロ曲を披露しててさ、もう遠い目で、見届けるような気持ちだった。暑さのせいか、少しゆっくりに聴こえた気もする。
全て見届けて、やりきった彼女らの顔は晴れやかだった。目に涙を浮かべては溢れないように上を向き、後ろを向き、これまで描いてた夢を、今日の夢を話してくれた。
最低の会場だった。岩盤浴みたいな蒸し暑さで、溶けた脂と、ミントアイスのような強制的な納涼の匂いが辺りに充満していて、心拍は常に140代を下回ることはなかった。床はスポーツドリンクの結露で水たまりが出来ており、前の席から落ちたパーカーが水気を吸っていた。あれは可哀想だった。
それでも、最高の時間だった。全員が待ち望んでいた夢の空間が、その高揚感が不快さを包みこんでいたと言えよう。オタクが、スタッフが、演者が一体となって夢の実現に全力で走った。明確だった。
何が言いたいんや、ワレ。文章書いて気持ちよくなっとんとちゃうぞ。そんなん言いたいんやない。問題はその後やんね。
アンコールが終わり、エンドルフィンとアドレナリンの魔法が解けたあたり。ここで会場のスクリーンが様変わりした!告知の時間だ!
えっと、、、?卒業公演を……ぶ、武道館でやるんか!!!えっ武道館!?!?凄えや!!!!!晴れ舞台やんね!!!!!!
あれ?今日のこれ何?
半野外のカスみたいな会場で…見届けた今日の夢物語は何のイベントやったん???なんだよ!!!!!!!今日卒業しないじゃん!!!!!!じゃぁこんな蒸し暑い所に呼ぶなよ!!!!!!!
その終わりに激アツな卒業公演の告知されたってさ!!!!!素直に喜べるわけないだろ!!!!卒業じゃないならこんな所来ねえよ!!!!!!!そうだ!!!!俺はこれに怒っている!!!!!
ていうかこの前見たドキュメンタリーはあれ何????パンフレットでみんな答えてた「今度のライブはこれまでの集大成で……」みたいな空気あれ何?????
俺が岩盤浴みたいなライブ会場に持ってきた覚悟は何だったの????勘違いなの???散々集大成煽った後に、、、「もう一回あるから来てね!😋」はさ、、、あんたそれは無いだろ……
はぁ………………………
嫌いだよ……………オタクに筋通さない運営しといて、金払わせといて…………それで武道館用意して黙らせるなんて…………嫌いだよ…………
そんなん不満言えないに決まってるじゃん……………武道館用意したのが一番偉いんだから、文句垂れてる場合じゃないんだよ、知ってるよ…………でも、もうちょ〜〜っとさ、騙し討ちみたいにしないで欲しかったよ……
卒業公演が別にあるならベルーナドームとか来てないよ……来たくなかったよ……配信で良いよそんなん……
素直に喜べねえよ……
消費期限内とはいえ買った翌日に食したこと、鞄の中で潰れて空気が抜け、表面のさくさくが失われていたことは念頭に置いて読んで欲しい。
見た目がピーク。これを模したキーホルダーなら少しほしいくらいには見た目がよかった。
しかしファミマのメロンパンシリーズは体調によって同じ商品でも信じられないほどおいしい日もあれば甘すぎて二口目にいけない日もあるので、次食べたら感想が違うのかもしれない。
ストレスMAXで落ち込んでいる時に食べたバタークロワッサンメロンパンという外はザリザリの砂糖をまぶし、中はクロワッサンみたいに層になったフカフカでバターの風味たっぷりのメロンパンがめっちゃおいしかった。普通の精神状態の時に食べたらエグい味がした。
万死に値する。4点。
ゲーセンバイトの主人公はある日、店長に閉店後の貸し切り予約が入ってるから残業してくれと頼まれる。嫌々ながら受けて、閉店後の見回りをしているとなんとそこには主人公のバースデーサプライズパーティーが。一方その頃、店長は蒸気船ウィリーを見ていたところ頭がおかしくなりミッキーのマスクを被って殺人行為に出はじめる。一方その頃、おバカな大学生たちがペンションに集合しはじめる。なんかそんな感じで惨劇の幕が上がる。
本作は3(4)つのパートで構成されている。1つはゲーセンで主人公たちがパーティーしてたら殺人ミッキーマスクが襲い掛かってくるパート。1つはペンションに集まった大学生風の連中が殺人ミッキーマスクに襲われるパート。1つはゲーセンの生き残りと思われる女性が留置所で警察の尋問を受けるパート。(もう一つはなんか無関係の男2人がどっかのマンションで殺害されるパート)。
普通に考えればこれら、特にゲーセンとペンションのバラバラの殺人パートはミステリ的に何らかのかかわりをもって語られるべきだと思う。例えは、ペンションのパートは実は過去話でそこでミッキーマスクのオリジンが語られる、なり、もしくは未来でゲーセンでの生き残りが新しいミッキーマスクになっていたのだった、なり、もしくは2つの別々の事件に思われていたが実は2組の登場人物は関係者同士で共通の事件から今回の虐殺が起きたのだった、なり。なんらかないと何で2個(3個)の事件が同時に起こったの?となるが、実際にはこれに関する説明は一切ない。
説明どころか匂わせすら一切ない。
単にゲーセンの中だけだと80分も持たなかったからもう1本分付け足したの?としか思えないくらい、何の意味もない構成になっている。当然、途中で急に挟まれる全く関係ないマンションで殺される男2人組も本筋とは全く関係ない。
どう見ても低予算な映画だけど、少なくともこの3つのシチュエーションでロケをするという予算の範囲内で脚本上の工夫を凝らすことはできただろう。脚本上の工夫なんか無料みたいなもんなんだから。だが、この映画に関しては少なくとも脚本家がいないようにしか見えない。それくらい、なにもない。
じゃあせめてスプラッタホラー映画としてゴアシーンに気合が入っているかというと全くそんなことない。最初に男2人のうちの1人の首を刺すシーン。このシーンだけで、あ、やる気ないんだなっていうのが見てとれてしまう。逆にすごいよナイフをクビに刺すそれだけのシーンでこんだけやる気ないの。別にテリファーの1作目まで見習えとは言わんけど、他に見せ場なんか何もないんだからそこに工夫を凝らさないでどうするんだ?割れた皿の破片を両頬に突き刺す!ってシーンも明らかに刺してないし、なんで両頬貫いただけでバカみたいにジャブジャブ血が出るんだよ。バカがよ。
もしかして「蒸気船ウィリーの著作権が切れたから誰より早くホラー映画化する」以上の目的なしで撮られた映画なんか?
ミッキーマスクがいろんな場所を移動するって設定のためにマジで目の前でシュンって瞬間移動するのも意味わからんし、ストロボライトを当てれば瞬間移動できない!ってなるのも意味わからんし、お前らが勝手に言い出したことなのに実はストロボライトは弱点じゃないよって言われても意味不明だし。蒸気船ウィリーの設定をうまく使ったろうみたいな気概すらないんか?
脚本もない、ホラーもない、ロジックもない。何があるんだよこの映画には。
冒頭、スターウォーズ風のスクロール字幕でディズニーに媚び媚びジョークを飛ばしながら、なんならジョージルーカスにも媚びとくという部分は滑ってるな~と思いながらもちょっとだけクスっとしたんだけどまさかそこがMAXだったとはね。
まぁそんな感じかな。
アマゾンプライムビデオには2025年の作品としてこの「マッド・マウス」と2024年の作品として「ネズミ捕り」が似たようなサムネで公開されているが全く同じ映画(原題:Mickey's Mouse Trap)なのでどっちも見る必要ないです。
音楽、語源、音を楽しむ、みたいに検索すると、それは違うよ、ってのがいっぱい出てくる…😟
で、音楽の先生が生徒に、音楽は音を楽しむと書くので、楽しんで歌いましょう、みたいに言う例えが出てくる、これは俺も嫌い…😟
音楽=音は楽しいものという前提があるもの、という考えなら俺は反対なんだけど、
まず、アタマの良い人たちも童心に帰ってほしいんだけど、単なるコードを鳴らしてるだけで楽しくない?俺は楽しい…😟
YouTubeで適当な楽曲を流して、それに合わせて単音でもいいからギターやキーボードを鳴らす、
自分が正しいコードを、キーを、スケールやモードを当ててる、当ててなくて変な音が出ても、これはこれで面白くね?と感じる、
それが楽しくない、という人もいるだろうけど、俺は楽しい…😟
あと、現代音楽の人が、音は考えるもの、みたいに書いてるけど、いやいや、MAXとか使って音をいじってるの楽しいんでしょ?
DAWとか使って、いわゆる12音階でなくても、音をいじってるだけで楽しいはずですよ、
音が楽しくないなら、単に考えるための、つらいだけのものなら、
まあ、凡人の俺たちは、つまんないならやらなくていいと思うんだよな…😟
前に坂本龍一だったか、書いた文章にも思ったんだけど、俺みたいな凡人とレベルが違うから、高尚なこと考えてるんでしょうけど、
俺たちというか、俺はバカなんで、
楽しければやるし、楽しくなければやらない、やったってつまんないんでしょ?勉強じゃないんだから…😟というか、受験勉強の方がまだ楽しいぐらいですよ
確かに、日本語の音楽は神に捧げる意味があるのだろうし、西洋の音楽もそうですよね、
黒人が音楽理論を破壊するまで、数学的な意味合いが強かったり、音楽の数学的な法則性に神を感じていた気がします、
でも、それは砕かれて、変形して、今はそれがポップスでは当たり前になってる…😟
現代音楽は、それさえも破壊することを目的としているのかもしれない、
12音階、ドレミファソラシドが音楽である、という固定観念をまず破壊したい、そういう面があると思ってるけど、
まあでも、音をいじってて楽しいわけですよ、
音を楽しみましょう、というか、ボクは、音を楽しめ!とは言いません、
でも、音が楽しい!音がたのちい!銃夢風に言うなら、プリンおいちい!🍮ですよ、
プリンを美味しいと思え、というのは嫌いですけど、
プリンが大好きな人たちが集まって、みんなでバケツプリン作って、プリンおいちい!おいちい!言いながらみんなで食べる、それでいいんじゃないかと…😟
デイヴィッド・フォスター・ウォレス、「ジョナサン・フランゼンへの病的なまでに焼けつく嫉妬」を語る
私たちはすでに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスと彼の著名な友人たち――メアリー・カー、ジェフリー・ユージェニデス、ジョナサン・フランゼン、マーク・レイナー――との複雑な友情について知っている。
しかし、D・T・マックスの伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』からのこの抜粋では、激しい自己不信と強烈な嫉妬に苦しむウォレスの姿が垣間見える。
いま私たちが彼について知っていることを思えば、それは非常に興味深く、そして胸が締めつけられるほど痛ましい。
フランゼンとの約束をすっぽかしたあと、ウォレスは手紙で自分の行動をこう説明している。
「今の僕は、哀れでひどく混乱した若者だ。28歳にして落ちこぼれの作家であり、君やヴォルマンやマーク・レイナー、いやデイヴィッド・クソ野郎・リーヴィットですら、今まさに自分で納得できるページを書いている若い男なら誰に対しても、病的なくらい焼けつくような嫉妬を感じている……。そのあまり、この惨めな問題全体について言えば、自殺は少なくとも理にかなった選択肢だと思っている――今この時点では、まだ望ましいとまでは言わないにせよ。」
『Infinite Jest』執筆直前というまさに瀬戸際で、ウォレスが自分の「失敗」をこれほどまで激しく感じていたことには驚かされる。
しかも結果として彼は、おそらく彼らの中で最も偉大な作家であり、少なくとも最も伝説的な存在となったのだから。
実際、私たちが知る限りでは、むしろフランゼンのほうがウォレスに嫉妬していてもおかしくないくらいだ。
この抜粋の続きは The Daily Beast で読むことができる。
Read David Foster Wallace on How ‘Sickly Searingly’ Jealous He Was of Jonathan Franzen
Aug. 22, 2012
We already know about the complicated friendships between David Foster Wallace and his famous friends — Mary Karr, Jeffrey Eugenides, Jonathan Franzen, Mark Leyner — but in this excerpt from D.T. Max’s forthcoming biography Every Love Story Is a Ghost Story: A Life of David Foster Wallace , we get a glimpse into a Wallace wracked by self-doubt and intense jealousy, which, considering what we know about him now, is completely fascinating and desperately sad. Writing to Franzen after blowing him off, Wallace explained his behavior:
“Right now I am a pathetic and very confused young man, a failed writer at 28, who is so jealous, so sickly searingly envious of you and Vollmann and Mark Leyner and even David F–kwad Leavitt and any young man who is right now producing pages with which he can live … that I consider suicide a reasonable — if not at this point a desirable — option with respect to the whole wretched problem.”
It’s amazing to us to see how intensely Wallace felt about his own failure — this written on the veritable brink of Infinite Jest — when he would turn out to be arguably the greatest and definitely the most legendary of the bunch. After all, from what we’ve seen, Franzen should be jealous of him. Read more from the excerpt at The Daily Beast.
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
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もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
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しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
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『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
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そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
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一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/
自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界のカート・コバーン」へと還元し、その自己破滅をロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレスの作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症や自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身の肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。
だが、昔ながらの保守的な批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。
ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現を模倣したウォレスの自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体の鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的な理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。
ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義(登場人物だけがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。
要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである。
しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムそのものと混同することだ。ヒューバート・ドレイファスとショーン・ドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。
ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。
芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉なニヒリズムそのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。
この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガンに投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)
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ウォレスは、ドナルド・バーセルミやトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトをさらに推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)
その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組が最後にカメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省がプレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。
そのため、最初の長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代の卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。
続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学の創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸の創作プログラムに所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度そのものの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースやバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。
「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。
全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来の北アメリカが「北米国家機構(Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界を舞台にしている。
そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンスも活動しており、ウォレスは物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。
しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家そのものが巨大企業に圧倒されてしまっている。
「ワッパーの年」
この意味で、ウォレスはモダニズムの問題意識をさらに徹底させた作家だった。消費社会が人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である。
消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。
その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画『Infinite Jest』だ。
この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれてしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画をテロ兵器として手に入れようとする。)
この映画を制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリン、マリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。
一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。
そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールド・テニス・アカデミーである。ここは、ウォレス自身が哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。
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『Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である。
その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)
現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。
その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。
つまり、この作品はポストモダン社会の民族誌(エスノグラフィー)なのである。
時間も空間も商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要なものが押し流されてしまう危険も見抜いている。
マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネットが社会を支配する以前、1996年に出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。
「文化が逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」
「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」
『Infinite Jest』は、一つの世代の感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。
とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代にMTVが誕生し、大学時代にインターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。
語り手は、自己意識の牢獄や、無限の可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から、不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。
ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。
薬物依存と絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである。
この見方は私だけではない。
ウォレスの親友の一人だったジョナサン・フランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。
フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。
「私たちの多くにとって人生の意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレスの小説世界ではほとんど存在しない。」
しかし、その一方で彼はこう続ける。
「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分は理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」
私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。
読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。
ウォレス自身もまた、依存症や欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。
そして、この点こそが、ウォレスとフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。
二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。
極端な自己意識、メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。
フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。
私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。
あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。
なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。
それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。
しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものはシニシズムではない。
むしろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである。
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しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである。
それは現代の絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろ、ポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。
もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。
「革新的な文体を用いて、保守的な小説の目的を果たすにはどうすればよいか。」
『ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである。
しかしマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解そのものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。
「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」
彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。
作家スティーブ・ムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカルな世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。
「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」
先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。
そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。
これは決して矛盾ではない。
つまり、「ウォレスは小説の道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。
私たちは、「型破りな文体=非道徳的」という思い込みそのものを退けなければならない。
むしろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。
アップダイクの美文主義では、文体そのものが読者の注意を引きつける。
しかしウォレスが探していたのは、現代の私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。
だからこそ彼は、その声を通して、私たちに真正面から、誠実に、そして道徳的なビジョンを語りかけることができたのである。
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だからこそ、ウォレスがフョードル・ドストエフスキーの人生と作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。
ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。
「もっとも重要なのは、ドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分の文学的栄光しか考えていなかった人物――から、
俺の記憶よりもずっとシンプルなマイルドヤンキー物語だった。69点。
輸送トラックを狙うレーシング強盗団が現れ出した一方その頃、近所のバーで見るからにボンボンのブライアン君が現れ近所の闇レースのカリスマ、ドミニクの妹に色目を使い始める。なんか揉めたり、一緒にレース走ったり、警察から逃げる時にドミニクを助けたりしながら信頼を獲得し彼のファミリーに入り込んでいくブライアン君。しかし彼は潜入捜査官だった。
みたいな話。
俺が小学校くらいの時に確か見たんだよな。だから内容まったく覚えてなかった。
本腰入れて見始めたのがMAXあたりからでこっからはレース版ミッションインポッシブルというかまぁそんな感じの元違法レーサーのエージェントが世界を救う話になってた印象なんだけど、今作はもっとシンプルな地方の車好きのマイルドヤンキーの話でちょっと驚いた。
言ってみればこれはファミリーの話だ。
ドミニクが率いる違法レーシングファミリーによるより違法なトラック強盗を調べるために、警察というファミリーに所属するブライアンが潜入し、信頼を得る中で友情や愛情をはぐくみ、身内からの裏切りもあり心は揺れ、ドミニクファミリーの一員として敵と戦い最後には自身は元のファミリーに残るが、ドミニクとの間のブラザーの絆が残る。
一方でドミニクファミリーの敵となる中国系マフィアもシンプルな敵としては描かれていない。まぁ、シンプルに敵なんだけど潜入捜査の結果があまり出ないことから焦ったブライアンの上司がなんでもいいから逮捕したい!と中国系マフィアを一網打尽にする展開がある。その際にボスは自宅で血のつながったファミリーと食事中で大勢の家族が見守る前で逮捕されるという屈辱を味わい、父親にも落胆されたことからドミニクを恨むようになり対立が深まる。
ドミニクという男もファミリーの長としてブラザー&シスターズを率いてはいるが本心では常に孤独を感じている。
ブライアンに心を開いて彼のもっとも繊細な部分である父親への憧憬を明かすシーンではこんなことを言う。
I live my life a quarter mile at a time. Nothing else matters : not the mortgage, not the store, not my team and all their bullshit. For those ten seconds or less, I’m free.
本当は何も考えずにただ走りたいだけなのだ、と。
後に、スカイミッションで今生の別れになるブライアンに告げる、今シリーズで最も有名な台詞はここから来ている。
I used to say I lived my life a quarter mile at a time.And I think that's why we were brothers. Because you did, too.
今作の最後ではブライアンが鉄くず同然の姿で持ってきてファミリー皆で組み上げたトヨタ・スープラと、ドミニクが死んだ父と一緒に組み上げたダッジ・チャージャーによる命を賭けたゼロヨンレースが行われ、どちらも一歩も退かず、迫りくる列車も無視して同時に文字通り死線を越える。
ドミニクはきっとブライアンは芋を引くだろうと思っていたのではないか。しかしブライアンは退かなかった。そしてその後、ドミニクが乗るチャージャーはうっかり事故で大転倒。パトカーが迫る中、ブライアンはスープラの鍵をドミニクに私、ドミニクは死んだ父親との思い出の車を捨て、今のファミリーで組んだ車で街を去る。
まぁまぁ作品のテーマとしては一本筋が通った作品だなと思った。
ただ、問題は他にいっぱいあって。あ、こういう作品ってドミニクは実は強盗犯じゃなくて実は別の奴らや、ファミリーの中に強盗犯がいて2人で協力して止める展開になったりしがちですが全くそんなことはなく、シンプルにドミニクファミリー全員が強盗団です。が、なんでこいつらが強盗やってるかはよくわからない。遊ぶ金欲しさに、当時は若くお金が必要でしたみたいな感じにしか見えない。後にエージェントになるにはシンプルに小悪党すぎる。
あとは作中でドミニクファミリーは中でカップルがいたり、ドミニクの妹とブライアンができちゃったり、ずっとドミニクを目の敵にして因縁つけてくる直感の鋭い奴がいてそいつが強盗に失敗したのをブライアンが身を挺して守って、そいつの命を救うために身分を明かしたりする展開があるんだけど、そのへんはなんかもう全部、最後の方にはどっかいっちゃう。
ブラザーのうちの一人の発達障害ニキは止められているにもかかわらず親との車の権利をかけてレースやってシンプルに負けてそのまま逃げ帰って、取り立てに来た中国人に撃たれちゃうのはそりゃ……お前も悪いよってなっちゃうし。
どうしたって脚本のザルさは否めない。
まぁそんな感じかな。
血のつながったファミリー、地元で過ごしてきただけのファミリー、魂を分け合ったファミリー、それを地方の車好きマイヤンを使ってわりとテーマ自体はしっかりと描けててけっこう好印象だった。あと、今見たらみんな若すぎて笑う。レーティングの問題かもしれんけど乳首券の発行はなかった。こんなにブリンブリンのねーちゃん出てくるのに!
そら、手塚治虫の初期の「新宝島」みたいな漫画なら話は変わってくるけど、それ以外はレアそうだからって理由でめちゃくちゃ価値が付くことなんてほとんどないよ。価値が付いたとしても、有名な漫画の無名時代の初版本とかな。直近だと「鬼滅の刃」の1巻の初版本とか。コロコロの掲載作品の最終巻は、だいたいプレミアが付くことも多い。人気がなくなって終わるんだから、最終巻なんて買う人は少ないし。「おぼっちゃまくん」とか「爆走兄弟レッツ&ゴーMAX」の最終巻はまあまあ良い値段がしてたな。でもこういうのって、パッと見でレアな本だとわかるのは結構目が肥えてないと無理だぞ。
珍しい程度なら確かにプレミアは付くけども元が安いから、400円の単行本が1000円で売られてたとか、そういうレベル。だいたい漫画の単行本は出回ってる数が多いんだから、例えば山止たつひこ名義のこち亀だって大した値段しないじゃん。
だから古い漫画が雑に捨てられてたのを見て、レアな本かも?って幻想は持つなって話。
そんなことより古い漫画雑誌のほうが夢がある。
単行本と違ってみんな捨てるから残ってない。それでいて、作者のコメントや編集部からのアオリ、単行本だと修正されている箇所があったりするから、希少価値はものすごくある。
人気漫画の連載開始のジャンプなんて、偽物が出回るレベルでとんでもない値段が付くし、ドラゴンボールが巻頭カラーになってるジャンプなんかも高い。
最近だと、96年前後のコロコロがバカみたいな高騰をしててビビる。てっきり未開封のポケモンカードの付録が付いてるから高いのか?と思ってたら、付録なしでも平気で数十万しててマジでビビる。
というわけで、捨てられた本を見かけたとき、古い漫画雑誌があったらちょっと夢を見てるのも面白いかもな。
まあだいたいは状態が悪いだろうけど。
午前7:00 僕は予定通り起床した。朝食は、月曜日なのでオートミール、バナナ7切れ、温度62℃の紅茶。バナナを6切れにすると位相空間が不安定になるし、8切れにすると果糖の過剰摂取によって僕の研究倫理がケインズ派のように崩壊する。つまり7切れが唯一の解である。
午前7時12分、ルームメイトがキッチンに現れ、「今日は少し寝坊した」と言った。僕は親切にも訂正した。「少し、ではない。君は標準起床時刻から23分41秒遅れている。これは寝坊ではなく、生活スケジュールに対する小規模な反乱だ」。彼はコーヒーを持って無言で去った。人間は反論に詰まるとカフェインに逃げる。悲しい哺乳類である。
午前8時03分、研究ノートを開く。本日の主題は、p進弦理論における非アルキメデス的時空泡の安定性と、Bruhat–Tits木上のタキオン凝縮が誘導するadelic holographic defectの分類である。これは当然、世界でTop0.01%の研究者しか議論できない領域であり、残りの99.99%は「p進って何?」「弦ってギターの話?」などと言い出す。人類の科学教育には、まだ長い廊下と低い天井がある。通常の弦理論では、世界面の座標は実数体ℝや複素数体ℂの上で扱われる。しかしp進弦理論では、局所体ℚₚ上の幾何が基本的役割を担う。ここで重要なのは、距離概念が通常の直観を裏切ることだ。p進ノルムでは、数は「大きさ」ではなく「pでどれだけ割れるか」によって近さを測る。つまり、宇宙は時として、僕の隣人の会話よりも直観に反している。
p進ノルムは次で定義される。
|x|ₚ = p⁻ᵛₚ⁽ˣ⁾
ここで vₚ(x) は x に含まれる p の冪指数である。たとえば x = pᵏa/b で、a,b がpと互いに素なら、vₚ(x)=k となる。通常の距離感覚では、1と1000001は遠い。しかしp進的には、差がpの高冪で割れるなら非常に近い。ここから、非アルキメデス幾何特有の超距離性が現れる。
dₚ(x,z) ≤ max(dₚ(x,y), dₚ(y,z))
これは三角不等式よりも強い。三角形は必ず二等辺になる。つまりp進世界では、幾何学まで社交性を拒絶している。大変好ましい。今日の中心問題は、p進開弦タキオン有効作用
S = 1/gₚ² ∫ dᵈx [ -1/2 φ p⁻□/2 φ + 1/(p+1) φᵖ⁺¹ ]
において、□を通常のMinkowskiラプラシアンではなく、Bruhat–Tits境界上の擬微分作用素 Dₚ^α に置き換えた場合、非局所タキオン凝縮解がどのように分類されるかである。標準的なp進タキオン方程式は
p⁻□/2 φ = φᵖ
で与えられる。この方程式にはガウス型ソリトン解が存在し、これはDブレーンのp進的類似物と解釈される。しかし最先端の問題はそこではない。そんなものは、研究会のコーヒーブレイク中に紙ナプキンへ書ける。問題は、φを単なる実値場ではなく、ℚₚ値境界データを持つadelic fieldとして持ち上げたとき、局所p成分ごとの凝縮パターンが全体のadelic consistency conditionを満たすかどうかである。つまり、各素数pに対して局所的なタキオン真空
φₚ ∈ Vacₚ
を選んだとき、それらの族 {φₚ}ₚ がrestricted product
∏′ₚ Vacₚ
の元として正則化可能か、さらに無限素点∞におけるArchimedean sectorと整合するかを調べる必要がある。仮説は以下である。
adelicタキオン凝縮は、単なる局所真空の直積ではなく、素数ごとのBruhat–Tits木 Tₚ における境界測度 μₚ のRenormalized Tamagawa constraintによって制限される。
Ψ = Ψ∞ · ∏ₚ Ψₚ
を満たすものに限られる。ここで Zₚ はp進セクターの局所分配関数であり、単純な正規化では発散する。凡人ならここで「発散するなら理論が壊れている」と言う。だが発散は宇宙からの拒絶ではない。宇宙が「正しい座標を選べ」と言っているだけだ。人間関係と違って、数学的発散にはまだ品位がある。今日、僕はこの Zₚ に対して、局所ゼータ正則化
Zₚ(s) = ∫_{ℚₚ} |φₚ(x)|ₚˢ dμₚ(x)
を導入し、s→0 の有限部分
FP_{s→0} Zₚ(s)
を用いることで、adelic vacuum energyを定義できる可能性を確認した。特に、φₚ がBruhat–Tits木上の深さnの球 Bₚ(n) に局在する場合、局所寄与は概ね
Zₚ(s,n) ≈ p⁻ⁿˢ / (1 - p⁻ˢ)
の形を取る。ここで問題は、s→0 における単純極をどのように取り除くかである。僕は有限部分を
Zₚ^ren(n) = FP_{s→0} [ Zₚ(s,n) - 1/(s log p) ]
Eₚ(n) ∼ n log p + Cₚ
に落ちる。表面上は素朴だが、重要なのは n log p がBruhat–Tits木の深さと素数pの情報量を同時に測っている点である。これはp進幾何における「距離」とadelic情報エントロピーが一致する可能性を示唆している。より興味深いのは、Tₚ の境界 ∂Tₚ ≅ ℙ¹(ℚₚ) 上の一次元defectが、p進CFTの一次演算子 Oₚ の挿入として表現できる点である。境界二点関数は
⟨Oₚ(x)Oₚ(y)⟩ = 1/|x-y|ₚ²Δ
で与えられるが、defect condensation後には有効次元 Δ が
Δ → Δ_eff = Δ + λ · vₚ(x-y)
のようにシフトする可能性がある。これは通常のCFTではかなり異様である。距離そのものが演算子次元に影響するのではなく、p進距離の離散的階層がスケーリング次元を段階的に変える。つまり、時空は滑らかな布ではなく、素数ごとに違う癖を持つ神経質な帳簿のように振る舞う。僕には非常に親近感がある。さらに、p進AdS/CFT対応では、バルクはBruhat–Tits木、境界はℚₚ射影直線で表される。この場合、バルクスカラー場 Φ の作用は離散グラフ上で
S_bulk = ∑_{⟨ab⟩} 1/2 (Φ_a - Φ_b)² + ∑_a 1/2 m² Φ_a²
のように書ける。ここで辺 ⟨ab⟩ は木の隣接頂点を表す。僕が今日検討したのは、この作用にタキオン非局所性を導入した拡張
S_nonlocal = ∑_{a,b∈Tₚ} Φ_a Kₚ(d(a,b)) Φ_b + ∑_a V(Φ_a)
である。核 Kₚ(r) は距離rに対して指数的に減衰するのではなく、p進階層に従って
Kₚ(r) = p⁻αr · χₚ(r)
のように振る舞う。χₚ(r) は局所的なramification dataを符号化する指示関数である。ここでαは単なる結合定数ではなく、境界CFTにおける演算子次元と結びつく。もし
α = 2Δ - 1
が成り立つなら、非局所バルク核は境界二点関数と整合する。これは既存のp進AdS/CFTの枠組みを、タキオン凝縮相へ拡張するための鍵になる。
午後1時18分。隣人がドアをノックした。ノックの間隔は不均一。僕は返答する前に、ノック列を時系列データとして分類した。結果、彼女のノックはPoisson過程ではなく、明らかに人間の気分変動に依存する非定常過程である。困ったことに、彼女は「余ったパスタいる?」と聞いてきた。僕は「パスタはp進測度において開球を形成しない」と説明したが、彼女は「じゃあ、いらないのね」と言った。近似的には正しい。
午後2時04分。友人Aがやって来て、自作の小型ドローンを見せびらかした。彼は「これで研究室のホワイトボードを遠隔撮影できる」と言った。僕は「君が研究室のホワイトボードを撮影しても、そこに書かれた内容を理解できないなら、それは知識ではなく高解像度の敗北だ」と返した。彼は笑っていた。僕は冗談を言ったつもりはない。友人Bはビデオ通話で参加した。彼は「p進弦理論って、結局この宇宙と関係あるの?」と尋ねた。僕は深呼吸した。なぜなら、この質問には科学的回答と、相手を傷つけない回答の二種類が存在し、僕は後者の生成にCPUを余計に使わなければならないからである。友人Bは「宇宙はスプレッドシートみたいなもの?」と言った。僕は通話を切りたくなったが、友情という社会的拘束条件により踏みとどまった。
午後4時26分。研究は次の段階へ進んだ。僕はp進弦の4点散乱振幅を再検討した。通常、p進Veneziano振幅は
Aₚ(a,b) = ∫_{ℚₚ} |x|ₚᵃ |1-x|ₚᵇ dx
Aₚ(a,b) = Γₚ(a)Γₚ(b)Γₚ(c)
のような形に整理される。ただし a+b+c=1 に対応する制約がある。ここでp進ガンマ因子は
Γₚ(s) = (1 - pˢ⁻¹)/(1 - p⁻ˢ)
で表される。僕が考えている拡張は、通常の散乱振幅にramified character χ を導入するものだ。
Aₚ(a,b;χ) = ∫_{ℚₚ} χ(x) |x|ₚᵃ |1-x|ₚᵇ dx
これにより、p進弦の散乱過程が単なる非分岐表現ではなく、局所Langlands対応に関わる表現論的データを持つ可能性が出てくる。特にχが高次導手 f(χ)=pⁿ を持つ場合、振幅の極構造はnに依存して変形する。この極の移動は、p進弦スペクトルにおける励起モードの階層的分裂として読める。もしこれが正しいなら、p進弦理論における質量スペクトルは単純なタキオン塔ではなく、局所体のramification filtrationによって細分化される。すなわち、質量準位 m² は
m²ₙ ∼ m²₀ + β log f(χ)
m²ₙ ∼ m²₀ + β n log p
となる。驚くべきことに、これは先ほどのrenormalized vacuum energy
Eₚ(n) ∼ n log p + Cₚ
と同じ情報量スケールを持つ。偶然と考えるには構造が揃いすぎている。偶然という言葉は、理解を放棄した人間が使う便利なゴミ箱である。p進弦理論におけるタキオン凝縮、Bruhat–Tits木上の非局所バルク核、ramified character付き散乱振幅、そしてadelic vacuum renormalizationは、すべて n log p という共通の情報幾何的スケールで結ばれている。これは、非アルキメデス的時空の基本単位が「長さ」ではなく、「素数pに対する分岐深度nとその情報量 n log p」であることを示している可能性がある。つまり、時空の最小構造はプランク長ではなく、adelic information depthかもしれない。
午後6時00分。月曜日なので、夕食はタイ料理でなければならない。これは単なる好みではなく、秩序である。ルームメイトは「今日は中華でもいいんじゃない?」と言った。僕は、宇宙背景放射のゆらぎよりも冷たい目で彼を見た。
午後7時21分。僕は限定版フィギュア棚の角度を確認した。左から第3列のロボット模型が0.8度傾いていた。これは地震、重力、あるいは友人Aの不注意のいずれかによる。僕は友人Aを疑っている。
午後8時09分。恒例のコミック読書時間。今日は再読。初読ではない。
午後9時32分。本日の研究メモを整理した。結論として、明日は以下を検証する。
1. ramified p進Veneziano振幅の極構造が、タキオン凝縮後のDブレーン階層と一致するか。
2. Bruhat–Tits木上の非局所核 Kₚ(r) が、境界二点関数のΔ_eff変形を再現するか。
3. adelic vacuum constraint における ∑ₚ nₚ log p の収束条件が、数論的エントロピー境界として解釈できるか。
4. 隣人のノック間隔が本当に非定常過程か、それとも単に彼女が僕をからかっているだけか。
4番だけが最も予測困難である。人間の自由意志は、物理学にとって迷惑なノイズ源である。
深夜1時30分。就寝準備。歯磨きは左上、右上、左下、右下の順。各象限30秒。合計120秒。これを守れない者に、量子重力を語る資格はない。
怖い。飲まなくなるのがとにかく怖い。本音はずっと飲んでいたいけど、一度やめてみることにした。
私は元々ひどいPMSで、10年前は知り合いが一人もいない状態で上京して3年目とかか。家族も長年の友達も近くにいない。上京と同時に入社した職場はほぼ連日22時退社とかで忙しく、丸2年働いたうちの1年半生理が全くこないというストレスMAXぶりだった。
あの頃は13歳からずっと悩まされていた過食嘔吐の症状がひどく、用事のない土日は寝てるかコンビニ行ってひたすら吐くための菓子パンかカップ麺を買ってばかり。泣きながらゲロを吐いて、またコンビニ行って財布からお金を消費して、私は一体何をしてるんだろうといつもトイレの前で思っていた。仕事がしんどくなるにつれて家もどんどん散らかっていった。ゴミ屋敷の始まりみたいな感じだった。
生理がこなくなって3ヶ月後くらいに病院へ行って、毎週お尻に薬を打ってもらってた。でも全然来なくて、1年以上経って別の病院に行ったら多嚢胞性卵巣症候群だと言われた。怖くてそのまま仕事を辞め、シェアハウスに引っ越した。シェアハウスに住めば自由に吐けなくて過食嘔吐も治るんじゃないかなと思ったのだ。結果的にそれでも吐いてたけど。
ピルを飲み始めたのはその頃。当時、ネットでPMSという情報を目にするようになり、ピルの存在を知った。私は生理周期が正確ではないので、いつも死にたくなったり、いつも以上にたくさん食べたり、よく転んだりするのが生理前だと気づくのにとてもとても時間がかかったが、PMSについて知るほど「自分はこれだ」と確信が持てた。
病院での処方は簡単だった。毎日飲むのもそんなに苦じゃない。低容量ピルなので副作用もほとんどなかった。というか、毎日飲むとか副作用とか、そんなのどうでもいいくらいメリットが圧倒的だった。
ピルを飲んでから生理前の異常なほどのイライラや死にたくなる気持ちが劇的になくなった。他人に対してどうこうイラつくこともない。過食嘔吐も少しずつ軽減していった。しんどい日が減ったから部屋を片付ける元気もある。
月に一度の休薬期間にそれなりの気分の落ち込みはあるけど、それでも全然ラク。「休薬期間だからこんな風に気分が落ち込むんだな」が明確なら自分を落ち込むこともない。SNSの裏垢も必要なくなった。貧血で派手に転ぶみたいなこともなくなった。ニキビもだいぶ減った。
昔はよく自転車に乗ってて転んだり、階段を降りてても転んだりしていた。片足全体が青あざになったりとか、踊り場から踊り場まで落ちるとか、そういうレベル。死。半年に一回はそんなレベルの転け方をしてた。それなのに、飲み始めてから今日までそのレベルの転びは一度もない。そういえばそんなネタの日記を、むかしここに書いたような気がする。
ホルモンに自分が振り回されるどころかぶん回されることがなくなり、すごく平和だった。自分を嫌いだと思う時間が減った。
ピルを飲んでも出血中はお腹が痛いとか頭が痛いとか眠たいとかあるにはあるけど、薬を飲む前がしんどいレベル250だったとしたら飲んでからは70まで減った。前までは生理中は毎日しんどくて、土日は両日とも布団から出られなかったけど、今は普通に出掛けるし、寝込むとしても年数日くらい。
劇的ビフォーアフター生理版があったら、絶対インタビューされるくらいに毎日が変わった。いいことしかなかった。ピルの値段を高いという人もいるけど、それだけの出費でここまで暮らしが変わるなら例え倍になっても出す!というくらい必需品だった。
服薬期間10年。快適だった。自分が嫌いじゃなかった。二度と飲む前の自分になんか戻りたくない。だから、これからピルをやめるのが怖い。本当に怖い。本当は一生飲んでいたい。でも、一度やめることにした。結婚したからだ。
37歳。高齢出産の年齢なので妊活するぞーってルンルン気分になるには普通に遅い。そのうえ、我が家は同年代の旦那が持病の治療の影響で生殖機能がない。子作りがんばろーって感じではまったくない。我々夫婦は不妊治療をやるつもりもあまりない。だから結婚して2年目になる今まで、まあいいかと思ってピルを飲み続けていた。
でも、ピルを飲んでいたら奇跡すら絶対に起きない。ピルを飲んでいなければ「私は妊娠できる状態だったけどできなかったね」になる。これは、私の中で「仕方ないね」のレベルが割と大きく違う。今は自ら望んで妊娠を拒絶してる状態とも言える。旦那さんもわたしも、本音を言えば子どもが欲しい。ふたりのこどもを見てみたいので、逆走してる。
服用をやめたら怒りっぽくなって迷惑をかけるかもしれないと、旦那さんには話している。10年前のことなので、私も今やめたらどうなるかわからない。怖い。あの頃の自分にとにかく戻りたくない。でも、もうピルを飲み続けるのも嫌だ。妊娠できるピルがあればいいのに。しかも、すごく前向きな妊活とかでもなく、本当に諦めるための決心って感じなのに。
婦人科に行くと、まだまだ産めますよと言われる。いまどきは40代での初産もよくあることだ。先生に「ピルをやめたいけどやめるのがこわい」と二度ほど弱音を吐いたら、「産みたいならやめるしかない」ときっぱり言われ、先日、新しいピルの処方をもらわず、代わりにホルモンバランスをよくする同症状向けの漢方をもらった。
今の私は、10年前より食生活も体力もかなり改善されている。たまにとんでもなくストレスが溜まった時はやはりたくさん食べて吐いてしまうが。毎日玄米食べて野菜もしっかり摂るし、タンパク質も摂るし、毎朝ヨガしてるし、ジムにも通ってるし、鉄のサプリメントも常飲してるおかげか献血輸血ができないレベルだった血液成分も健常範囲になった。近くに頼れる友達も旦那もいる。今のわたしは10年前の自分ではない。だから、ピル飲まなくても漢方だけでやっていけるかもしれない。
でも、わからない。怖い。あの頃の自分に戻ったら絶対旦那さんに嫌われる。絶対に当たり散らして喧嘩になる。ダメならまたすぐ飲み直せばいい。でも、一瞬だって戻るのが怖い。そのくらい、ひどい状態だった。ひどい人間だった。
怖くて怖くてたまらないが、「ピル飲んでなかったけど子供ができなかったね」そう諦められる日を求めるならやるしかない。もしかしたら奇跡は起きるかもしれない。その気持ちは、例え妊娠しなくてもきっと今の「ピル飲んでるから絶対妊娠しない」より豊かなはず。いろんなことがダメならまたピルを飲み始めればいいしね。
結論から言うと、**めちゃくちゃいます!** まさにあなたと同じように「毎月のサブスク代がもったいない」「データを外部に出したくない」「家族みんなで共有したい」という理由で、自宅にAI専用サーバー(通称:おうちLLMサーバー)を構築する人はここ1〜2年で激増しています。
GPUを1カ所に集約して、WindowsやLinuxなどのクライアントからネットワーク経由で利用するのは**大正解であり、非常に賢いアプローチ**です。
実際にこれをやっている人たちがどういう構成で、どうやって実現しているのか、具体例を交えて解説しますね。
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## 💻 どうやって実現しているの?(基本構成)
手っ取り早く、かつ最も普及しているのは「Ollama(オラマ)」というオープンソースのツールをサーバーに導入する方法です。
サーバー側でAIモデルを動かし、クライアント(Windows、Linux、スマホなど)からはブラウザやアプリを通じてアクセスします。
```
【サーバー(Linux/Windows)】 💡大容量GPUを搭載
▲
│ (ネットワーク経由)
▼
└── Open WebUI などのブラウザ画面(ChatGPTそっくりの画面)
```
### 1. サーバー側の仕込み
サーバーのOSはUbuntu(Linux)かWindows Server、あるいは普通のWindows10/11でも構いません(AI界隈はLinuxの方が環境構築が楽ですが、Windowsでも十分動きます)。
そこに**Ollama**をインストールし、使いたいAIモデル(Llama 3やGemma 2など)をダウンロードしておきます。
家族みんながChatGPTのようにブラウザから手軽に使えるようにするために、「Open WebUI」というオープンソースのWeb画面をサーバー(または別PC)に立ち上げるのが現在のトレンドです。
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「GPUを局所化(集約)したい」という狙いは完全に正しいです。AIサーバーの心臓部は**GPUのVRAM(ビデオメモリ)の容量**で決まります。
現在、自宅サーバー派の人たちは以下のようなGPU選びをしています。
| GPUの選択肢 | 特徴 | 狙い目のモデル |
| --- | --- | --- |
| **コスパ重視(中古)** | VRAMを安く確保したい人向け。 | **RTX 3090 (24GB)**
中古で10万円台前半。現行のRTX 4070 Ti等よりAI性能(VRAM量)では上。 |
| **現行・省電力重視** | 24時間つけっぱなしにするなら。 | **RTX 4060 Ti (16GB)**
| **超ガチ勢(複数挿し)** | 巨大なAIを動かしたい人。 | RTX 3090や4090を2枚挿ししてVRAM 48GB以上にする。 |
> おっしゃる通り、M2/M3 Maxなどの「メモリ一括搭載(ユニファイドメモリ)のMac」をAIサーバーにする人もいます。Macは最大128GBや192GBのメモリをそのままVRAMとして使えるため、巨大なAIが動かせるというメリットがあります。ただ、家族で共有するサーバーとして24時間起動しておくには、コスパや拡張性の面で自作PC(Windows/Linux)に軍配が上がることが多いです。
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## 🎯 構築へのステップ(手始めにやるなら)
もし余っているPC(またはメインPC)にそれなりのGPU(NVIDIA製、VRAM 8GB以上推奨)が載っているなら、今すぐテストできます。
1. **サーバーにするPCに「Ollama」をインストールする。**
2. コマンドプロンプトやターミナルで `ollama run llama3` と打つ(モデルが自動ダウンロードされ、すぐに対話できます)。
3. Ollamaの設定を変更して、外部(ローカルネットワーク内)からのアクセスを許可する(環境変数 `OLLAMA_HOST=0.0.0.0` を設定)。
4. 家族のPCやLinuxから、サーバーのIPアドレスを指定してAPIやWebUI経由で接続する。
「勉強がてら」には最高に面白いテーマですし、一度作ってしまえば**完全に無料・無制限・プライバシー重視**の最強のおうちAI環境が手に入ります。
まずは手持ちの機材で試してみて、ハマりそうなら中古のRTX 3090などを積んだ専用サーバーを仕立てていくのがおすすめです!何か具体的なステップで気になるところはありますか?
06:00起床。06:00:12。ベッドから降りる。06:00:19。右足から着地。土曜日なので右足である。
月曜、水曜、金曜は左足。火曜、木曜、土曜は右足。日曜は交互。もちろん科学的根拠はない。だが、人類が信じているものの大半にも科学的根拠はない。
07:00。朝食。オートミール83g。牛乳250mL。シナモン0.7g。秤で測定した。「だいたい」で済ませる人々を見るたびに、僕はニュートンがリンゴを見たときと似た感情を抱く。ただし感動ではなく困惑だ。
07:30。研究開始。
今日はp進弦理論について考える。正確には昨日も考えた。一昨日も考えた。先週も考えた。先月も考えた。ほぼ毎日考えている。
ルームメイトは時々、「そんなに考えて進展あるのか?」と言う。
もちろんある。昨日理解できなかった論文の3行目が今日は理解できた。人類は月面着陸を偉業と呼ぶが、超弦理論の論文3行目を理解することも十分偉業である。
08:00。まずは通常の弦理論を整理する。
粒子は点ではない。一次元的な弦である。その量子化によって粒子スペクトルが現れる。
重要なのは重力子が勝手に出てくることだ。誰も呼んでいないのに現れる。まるで友人Aの母親のようだ。
ところが弦理論では、「重力子はこちらになります」と自然に出現する。その瞬間、多くの研究者が恋に落ちた。
問題はその後だった。弦理論は美しすぎる。そして検証しづらすぎる。美しい理論に惚れ込み現実確認を後回しにする。人類の恋愛と同じ構造である。
09:15。p進数を考える。
ここで一般人は脱落する。だが一般人は昨日も脱落していたので問題ない。
通常の実数解析では絶対値が基礎となる。|x|が距離を定義する。
ところが数論には別の可能性が存在する。ある素数pを固定する。例えば p=5。
そして整数nに対して、n = p^k m(p と m は互いに素)と書いたとき、|n|ₚ = p^(-k)で定義する。
625は実数世界では大きい。しかし5進世界では625 = 5⁴なので|625|₅ = 5⁻⁴であり極めて小さい。
数学史上、「それ意味ある?」と言われた概念の多くが後に重要になっている。
逆に、「それ絶対意味ある!」と言われたものの多くは消えていった。
通常の距離空間ではd(x,z) ≤ d(x,y)+d(y,z)だが、p進空間ではd(x,z) ≤ max(d(x,y), d(y,z))となる。
だがp進空間では違う。二つの球は完全に一致するか、完全に分離するか、片方がもう片方を丸ごと含むか、のどれかになる。曖昧な重なり方が存在しない。
通常の弦理論ではワールドシート上の相関関数を複素解析で計算する。
散乱振幅にはベネツィアーノ振幅が現れる。Γ関数が並び、モジュライ空間積分が現れ、学生は泣く。研究者も泣く。教授もたまに泣く。
しかしp進弦理論では驚くことが起きる。実数体をQₚに置き換える。ワールドシートの幾何を非アルキメデス化する。
すると散乱振幅は実数版よりもむしろ簡潔になる。ここが面白い。普通は一般化すると複雑になる。人類の税制や法律もそうだ。
しかしp進弦理論は逆である。一般化したら式が綺麗になる。理論物理学者が興奮する理由はここにある。
13:00。昼食。サンドイッチ。パンの切断面が左右非対称だった。少し不快。
15:00。論文を読む。p進弦理論におけるタキオン有効作用。
通常のボソニック弦にはタキオンが存在する。真空が不安定であることを意味する。
長年、「このタキオンは何なのか」が問題だった。そしてp進弦理論では驚くほど明示的な作用が得られる。
非局所作用である。ラグランジアンにはexp(a□)のような演算子が現れる。
通常の場の理論教育では、こんなものを見せると学生が動揺する。僕も最初は動揺した。しかし計算してみると妙に整合的である。
さらにタキオン凝縮解が解析的に求まる。Dブレーンに対応するソリトン解まで出てくる。
ここが重要だ。p進弦理論は単なる奇妙な玩具模型ではない。タキオン凝縮という弦理論の本質的問題を驚くほど透明に見せてくれる。
僕のホワイトボードを見て、「それ数式?」と聞いた。
そこにはBruhat-Tits tree、Adelic product formula、Tachyon condensation、Zeta correspondenceと書かれていた。
僕は説明を試みた。
18:30。さらに考える。
最近気になっているのはアデール的統一だ。実数体は特殊なのか。それとも単なる一つの局所体なのか。
数論的にはQの完備化としてRとQₚが並列に存在する。
もし物理法則の根底が数論的構造にあるなら、なぜ実数だけが特権的なのか。
あるいは実数物理は巨大な有効理論に過ぎず、根本ではアデール的な記述が存在するのか。
なぜなら研究者は時々、「これは宇宙の秘密かもしれない」と思って30年を失うからだ。
僕は「非アルキメデス幾何上のタキオン凝縮」と返信した。既読はついた。返事は来なかった。
23:00。就寝前。
今日の結論。人類はSNSで短い動画を見ている。友人Aはロボットを作っている。ルームメイトはゲームをしている。隣人はアイスを食べている。
そして僕は、実数ですらない数の上で振動する弦について考えている。
当然ホール型でもスタッフがしっかりしてると似たような対応にはなるんだけど、いかんせん、スタッフ側の人数も質も担保されづらい
今もそうかわからんけど10年前はタイミーどころか土着の下請けイベント会社とボランティアスタッフよ。
いや、周りには期待してない。全部自分で解くよ。解けないのは自分の力不足。スタッフからの干渉とか興ざめ。って考えるやつはまた別だけどさ
自分はまさにこのタイプなのでむしろソロで参加してソロ卓になるのも自分以外初心者で固められるのも大歓迎だった
初心者に問題振ってわからなそうならアシスト入れて全体のスピード感調整してギリギリで成功まで導けた時に
初心者さんから「◯◯さんのおかげで楽しめた」とか言われたらエクスタシーだよね
ハマったらこういう楽しみ方もあるよねくらいで
参加人数全員集めていかない限りはガチャでしかなくて、世の中の多くの参加者は初見の方と一緒にゲームするんよ
そんで、見た目総合力が低いチームに配属されたらどうなるか
スタッフサポートを是とするなら今ってホール型はヒントブック標準装備なのと
元増田にも書いてあるけど足切り(10分間隔で規定のチェックポイントの答えがスクリーンに映されて強制的に進めさせる)
もあるので
難易度480の400くらいまでは何もしなくても到達できて
脱出成功=残り80を瞬間的に出せる人材がいるかどうかに単純化される気がする
なので自分は最終問題を自分が解けたかどうかでしか見てないし自分以外に最終問題解ける可能性がある人とは一緒に行きたくない派
極論すると最終問題解くために4千円払ってるので。
話が前後するけどホール型に対する自分のイメージはちょっと違って
水平思考力とかひらめき力で+α
他社との関わりによって-β
ソロ参加なら自分の能力値+α(その日の調子とかにもよる)で達成も出来る
2人以上になると-βの部分が強く作用して(言葉を借りるなら同卓ガチャ)全体の能力が100以下になることもある
人数もそうだし、質もね
こっからは賛否分かれるかもしれないけど、参加者の人数不足や、子供多数の場合の難易度調整について、ホール型はまず出来ないと思った方がいい
いや、周りには期待してない。全部自分で解くよ。解けないのは自分の力不足。スタッフからの干渉とか興ざめ。って考えるやつはまた別だけどさ
1チーム4人~10人程度なんだけど、6人1チームの公演としようか
イメージ的に能力値を天才150、優秀100、普通80、子供その他50ぐらいとすると、
MAX人数6×平均能力80=480ぐらいで解ける程度に難易度調整されてるんよね(当然公演によってばらつきはある)
人数1人不足してるとして、5人×優秀100なら500になるし、4人×普通80+自分1人×天才150=470で、自力である程度どうにかなるのはそうなんよ
自分1×150+3人×普通80なら390で自分が頑張っても1人分ぐらいは能力足りないわけよ
自分1×150+大人1人×普通80+子供4人×50なら430で大人0.5人分ぐらい足りなくなるわけ
これどっちも自分が天才レベル計算だから、自分が120とかだとより厳しいわけ
参加人数全員集めていかない限りはガチャでしかなくて、世の中の多くの参加者は初見の方と一緒にゲームするんよ
そんで、見た目総合力が低いチームに配属されたらどうなるか
スタッフサポートなかったら、ほぼほぼ探索時間や問題量に押しつぶされてしまうわけ
じゃあ、ルームならどうかっていうと、1回の参加が1チームまたは2チーム程度なのでスタッフの目が行き届くんよ
問題の進み具合、サポート必要かどうか辺りを適切に判断して、詰まない範囲である程度のヒントをくれたりするんよね
当然ホール型でもスタッフがしっかりしてると似たような対応にはなるんだけど、いかんせん、スタッフ側の人数も質も担保されづらい
まあグダグダ書いてて何言ってるかわからん奴もいるだろうけど、よくわからんなら最初はホール型じゃなくてルームに足を運べ
そういうもんだ