3-3、家茂、病に倒れて急死
慶応2年(1866年)、家茂は第二次長州征伐のために、家康以来の金の馬印を掲げ大軍を率いて上洛しましたが、その途上で大坂城で病に倒れてしまいました。孝明天皇からは典薬寮の医師たちが、江戸城からは、天璋院や和宮からは侍医たちが大坂城へ。ここで漢方医は脚気と言い、蘭方医はリューマチというなどで治療方針がはっきりまとまらなかったのか、手遅れになったのか、家茂は7月20日に享年21歳で死去。
遺体はイギリスから8月に購入した長鯨丸で江戸に運ばれましたが、このときに家茂が和宮に京土産として約束したという西陣織の織物が一緒に贈られたということは有名。
4-1、家茂の逸話
松平春嶽は将軍継嗣問題では慶喜を支持していたし、他人の批評が好きな人でしたが、家茂の人柄については「この人のために涙を流せない人は、石ころや木と同じで心がない」という言葉を残しているほどで、家茂は短い命ながら周りの人を感心させる何かを持っていたことがうかがわれますね。
4-2、勝海舟の回顧
勝海舟は明治後も長生きして、色々な回想談を残していますが、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれぬ。武勇にも優れていた人物であった」と賞賛して、訃報に接した際は悲嘆のあまりに日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記したそう。晩年は家茂の名を聞いただけで、激動の時代に若くして重責を背負わされたことで「お気の毒の人なり」と目に涙を浮かべたくらいだということです。
文久3年(1863年)4月、家茂は朝廷に命じられた攘夷実行への準備として、幕府の軍艦「順動丸」に乗って大坂視察を行いましたが、艦を指揮していた海軍奉行の勝から軍艦の機能の説明を受けて非常に優れた理解力を示したということ。勝はこのときに、軍艦を操縦する人材の育成を直訴したのですが、家茂は即座に神戸海軍操練所の設置を命令。そして同年12月に上洛するときに、勝の進言から順動丸を使って海路で向かうことを決断。勝は家茂の信頼を得たのですが、航海の途中で海が荒れ、船に酔う者が続出したために家茂の側近から陸行への変更を奨められたときも家茂は、「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と厳命、こういった家茂の信任に勝は感激し忠誠心を新たにしたということです。
4-3、フランスの養蚕業のために蚕を贈る
今も昔も欧州のファッションの中心地で、絹の産地として知られたフランスやイタリアでは、1850年代にノゼマという原生動物が原因の蚕の伝染病が流行して、養蚕業は壊滅状態になりました。このことを聞いた家茂は、蚕の卵を農家から集めてナポレオン3世に寄贈。フランスでは、細菌学者のパスツールが、昆虫学者のファーブルの助言を元にして、贈られた蚕を研究、病気の原因を突き止めるとともに、生き残った蚕同士をかけあわせて品種改良を行ったということ。
当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、謝礼として慶応3年(1867年)に、幕府に対して軍馬の品種改良のためのアラビア馬26頭を贈呈。飼育の伝習も同時に行われて小金牧(現千葉県松戸市)で飼育される予定が、戊辰戦争の混乱で散逸したのは残念です。
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4-4、仲が良かった2歳年上の「養子」
紀州徳川家の連枝である西条藩9代藩主松平頼学(よりさと)の6男、徳川茂承(もちつぐ)は、家茂が将軍になった後、紀州家を継いだ人ですが、2歳下の家茂(形式的には養父になる)と気が合ったようで、家茂の最も親しい友人のような間柄だったということ。茂承も家茂を慕っていて、第二次長州征伐で御先手総督として芸州口に出陣する際、大坂城の御座の間で家茂から直々に采配と陣羽織を授けられた後、人払いして2人だけで対面したということです。
4-5、家茂の肖像画
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By 不明(狩野派の絵師) – The Japanese book “Gems from the Shimadzu Family Documents and the Age of Atsuhime (島津の国宝と篤姫の時代)”, Kyushu National Museum (九州国立博物館), 2008, パブリック・ドメイン, Link
この肖像画は、和宮旧蔵とも言われていて、制作には、家茂に父のように慕われた徳川茂徳(高須4兄弟の一人で尾張家、後に一橋家を継承)が関わった可能性が極めて高いということ。茂徳は肖像画の元となる似顔絵を家茂の死後に天璋院篤姫に贈っています。長州征伐で大坂の陣中にいる際に描かれたもので、陣羽織を着た立姿ということ。茂徳は和宮にもこの軍装に近い絵を贈ったけれど、和宮は陣羽織姿を「異風」とみて、「異人の御まねにては御心外」だという感想を述べ、お気に入らなかったらしく、「御有り来りの御姿」にするよう描き直しを要求して制作されたということで、茂徳の号をとって「玄同本」と言われています。
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