みんなはウィリアム・ハーベーという人物を知っているでしょうか。高校生物ではほとんど登場することはないが、動物の血液は体内を循環していることを発見した医者なのです。そんなウィリアム・ハーベーはどんな人だったのか、どのように血液循環を発見したのかなどについて、生物に詳しいライターききと一緒に解説していきます。

ライター/きき

大学生の頃は農学部に所属し植物のことを勉強した。現在は大学院に進学し植物のことを研究中。生物や植物の面白さを伝えられるライターを目指している。

ウィリアム・ハーベーの生い立ち

医師であるウィリアム・ハーベーはどういった人生を送ってきたのでしょうか。ここでは、まず、彼の生い立ちについて解説していきます。

誕生から幼少期まで

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ウィリアム・ハーベー(William Harvey)は1578年4月1日にイングランド南東部のケントにある港町・フォークストーンにて、市長の長男として誕生しました。10歳頃にグラマースクールに通い、そこでラテン語と弁論について学んだそうです。

学生時代

1593年から1599年までケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで自然哲学・政治学・道徳・修辞学を学び、学士号を取得しました。しかし、次第に大学に行かなくなってしまったと言われています。次に、イタリアのパドヴァ大学へ留学し、解剖学者であるファブリキウスの下で学び、1602年に医学博士の学位を取得しました。

医師になる

医学博士の学位を取得した年に、イングランドに帰国し、ロンドンで病院を開業しました。1604年にイングランドで最も古い医師会である英国王立内科医師会へ入会。順調に昇進し、医師会の外科講座の講師を約40年も務める、ヨーロッパで最古の病院である聖バーソロミュー病院の内科に選出されるなど、医師として様々な実績を残していきました。

国王の侍医になる

ウィリアム・ハーベーは、国内で名医として有名になり、1618年に当時の国王であったジェームズ1世侍医になりました。国王以外にも有名な貴族や官僚にも仕えたと言われています。

ジェームズ1世が亡くなった後、1625年からチャールズ1世に仕えることに。ウィリアム・ハーベーはチャールズ1世の数多くの遠征や狩猟に同行したと言われ、そこで多くのシカの死骸を解剖し、観察と実験を行いました。この経験を生かして、1628年にあの「血液循環説」を発表したのです。しかし、当時の多くの学者はこの説を反対していたと言われています。

\次のページで「苦難の日々から亡くなるまで」を解説!/

苦難の日々から亡くなるまで

1645年に、国王の勧めにより、オックスフォード大学マートン・カレッジの学長を務めることになりました。しかし、国内で繰り広げられていた内戦で王党派が敗北したことでウィリアム・ハーベーはオックスフォードを脱出することに。また、1644年には聖バーソロミュー病院からの解任、妻や弟を亡くす、痛風を患うなど、様々な苦悩にさいなまれました。そんな中でも、発生学を研究し、動物の発生について新たな説を唱えたのです。

医学の世界で数々の功績を残し、1657年6月3日に脳出血により79歳でこの世を去りました。

血液循環説とは?

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ウィリアム・ハーベーの代表的な実績である「血液循環説」。これはどういった説なのでしょうか。ウィリアム・ハーベーがこの説を発表する前まで広く人信じられていた学説と、血液循環を証明した実験方法についても解説していきます。

16世紀までの学説

16世紀までの学説

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16世紀までは、古代ローマの名医・ガレノスによる学説が強く支持されていました。ガレノス医学では、肝臓で発生した血液が体の各部に広がり、循環せず、その場所で消費されると考えられていました。つまり、血液は体の末端に行くと「消えてしまう」とされていたのです。

ウィリアム・ハーベーの実証

William Harvey (1578-1657) Venenbild.jpg
By Unknown author - Sigerist, Henry E. (1965) Große Ärzte, München, Deutschland: J.F. Lehmans Verlag (5. Auflage) (1. Auflage 1958) plate 26 p 120, Public Domain, Link

「血液は体の各部で消費される」というガレノス医学が主流であった時代に、ウィリアム・ハーベーは「血液循環説」を唱えました。その名の通り、心臓によって全身に送り出された血液は再び心臓に戻るといった内容です。この説は、当時の多くの学者の反感を買うことになりました。しかし、ウィリアム・ハーベーは実験で自身の説を証明したのです。

彼は自分の説を立証するために、被験者の腕を固く縛る「結紮(けっさつ)」という方法で、血管の様子を観察するという実験を行いました。実験の手順と結果は以下のようになりました。

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<動脈を結紮する場合>
実験:心臓から全身に送り出される血液が通る動脈を紐などで強く縛り上げる。
結果:血液が心臓側に停滞した。

<静脈を結紮する場合>
実験:体の末端から心臓に戻る血液が通る静脈を紐などで強く縛り上げる。
結果:血液が末端側に停滞した。

この実験結果から、血液は一方向に向かって流れるのではなく、体内を循環していることを証明することができたのです。

人間以外にも魚やヘビと言った128種類に及ぶ動物の観察と実験を通して、血液の流れはもちろん、心臓の動き方まで立証しました。

その他の功績:発生学

ウィリアム・ハーベーは血液循環説のほかにも、発生学でも大きな功績を残しました。ここでは、まず、ウィリアム・ハーベーが新たな説を唱える前の発生学で主流だった学説について解説します。その後、彼が行った観察で導かれた説について学習していきましょう。

それまでの動物の発生の学説

ウィリアム・ハーベー以前の動物の発生の考え方は、古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスが唱えた説が最も有力とされていました。アリストテレスの説とは、月経血が固まることで胎児ができるというものです。最初は構造がなにもない状態から徐々に胎児の形になっていくと考えられていました。

すべては卵から!

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1651年、ウィリアム・ハーベーは「動物の発生」を発表しました。そこには、シカの交尾前後から発生の段階を観察し、その結果「卵はすべての動物の共通な原基である」と記されていたのです。ここでいう卵とは、生物の最初の未分化の状態を表します。例えば、鳥の卵は外に放出された卵で、人間は中に残ったままの卵であるとし、どちらの「卵」も鳥や人間に成長しうる動物であると定義したのです。

実際に哺乳類の「卵」を見つけ出すことができませんでしたが、アリストテレスの発生学の説を否定し、現代の生理学の発展に大きなヒントを与えてくれました。

\次のページで「常識を覆した名医、ウィリアム・ハーベー!」を解説!/

常識を覆した名医、ウィリアム・ハーベー!

それまで当たり前だと思われていた学説に対して疑いを持ち、実験して真っ向から立ち向かったウィリアム・ハーベー。常識を疑うことは、決して簡単なことではありません。しかし、ウィリアム・ハーベーは、自身の好奇心の赴くままに解剖や観察、実験を行ったことで、正しい知識を世の中に広めることができたのです。そんなウィリアム・ハーベーはまさに、研究者の鏡であるといっても過言ではありませんね。

イラスト引用元:いらすとや

" /> ウィリアム・ハーベーってどんな人?血液循環の実験についても現役理系学生がわかりやすく解説 – Study-Z
体の仕組み・器官理科生き物・植物生物

ウィリアム・ハーベーってどんな人?血液循環の実験についても現役理系学生がわかりやすく解説

みんなはウィリアム・ハーベーという人物を知っているでしょうか。高校生物ではほとんど登場することはないが、動物の血液は体内を循環していることを発見した医者なのです。そんなウィリアム・ハーベーはどんな人だったのか、どのように血液循環を発見したのかなどについて、生物に詳しいライターききと一緒に解説していきます。

ライター/きき

大学生の頃は農学部に所属し植物のことを勉強した。現在は大学院に進学し植物のことを研究中。生物や植物の面白さを伝えられるライターを目指している。

ウィリアム・ハーベーの生い立ち

医師であるウィリアム・ハーベーはどういった人生を送ってきたのでしょうか。ここでは、まず、彼の生い立ちについて解説していきます。

誕生から幼少期まで

image by iStockphoto

ウィリアム・ハーベー(William Harvey)は1578年4月1日にイングランド南東部のケントにある港町・フォークストーンにて、市長の長男として誕生しました。10歳頃にグラマースクールに通い、そこでラテン語と弁論について学んだそうです。

学生時代

1593年から1599年までケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで自然哲学・政治学・道徳・修辞学を学び、学士号を取得しました。しかし、次第に大学に行かなくなってしまったと言われています。次に、イタリアのパドヴァ大学へ留学し、解剖学者であるファブリキウスの下で学び、1602年に医学博士の学位を取得しました。

医師になる

医学博士の学位を取得した年に、イングランドに帰国し、ロンドンで病院を開業しました。1604年にイングランドで最も古い医師会である英国王立内科医師会へ入会。順調に昇進し、医師会の外科講座の講師を約40年も務める、ヨーロッパで最古の病院である聖バーソロミュー病院の内科に選出されるなど、医師として様々な実績を残していきました。

国王の侍医になる

ウィリアム・ハーベーは、国内で名医として有名になり、1618年に当時の国王であったジェームズ1世侍医になりました。国王以外にも有名な貴族や官僚にも仕えたと言われています。

ジェームズ1世が亡くなった後、1625年からチャールズ1世に仕えることに。ウィリアム・ハーベーはチャールズ1世の数多くの遠征や狩猟に同行したと言われ、そこで多くのシカの死骸を解剖し、観察と実験を行いました。この経験を生かして、1628年にあの「血液循環説」を発表したのです。しかし、当時の多くの学者はこの説を反対していたと言われています。

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