『みいちゃんと山田さん』は、貧困や夜職を描いた作品として語られることが多い。 けれど終盤まで読み進めるうちに、私の関心はみいちゃんではなく、山田へと移っていた。 最近、市川沙央の『ハンチバック』を読んで以来、「誰が誰を描くのか」という当事者性の問題を意識するようになった。 ただし『ハンチバック』が問うのは主に「語る権利は誰にあるのか」であるのに対し、『みいちゃんと山田さん』が私に突きつけてきたのは少し違う問い「なぜ他人を語りたいと思うのか、その欲望はどういう形をしているのか」だった。 近い問題圏にありながら焦点はずれている。 その前提でこの作品を見ると、これは露悪的に貧困や夜職を描く漫画であると同時に、「他者の人生を創作へ取り込むこと」の倫理を問う作品にも思えてくる。 この作品で一番秀逸だと感じたのは、山田を「才能のある漫画家志望者」ではなく、凡庸な創作者として描いたことだ(持ち込み作品は
昨日は漫画を1ページ描いていた。仕事でもない漫画だ。しかも前後の繋がりの無い、何かを1ページ切り取ったような無意味な1ページ。 何故こんなことをしたかというと、それは絵の練習の成果を確認する為だ。 私は7月の一ヶ月間、絵の練習をしていた。自分の漫画を好きな漫画家さんと比べて分析し、ダメなところを洗い出して、練習して、練習を活かした確認用の絵を描き……とやっていた。それが昨日終わった。 では本題だがこの一ヶ月間のビフォーアフターでもやろうかな。人類はビフォーアフターが好きなのでね。やるぞ。 これが7月2日に描き終えた漫画 そしてこちらが8月2日に描き終えた漫画。セリフや流れは同じ内容です。 どうだろうか? そんなに変わってないと言えば変わってないけど、上手くなったと言えば上手くなっているように見える。 女の子を1人思い切って画面にでかく映して、男を見せないというのは画力というかカメラワークや
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