「鈴木梅太郎」という人物を知っているか。テストで出題されることはないでしょうが…ある重要な成分を発見した人物です!

それは「ビタミンB1」です。ビタミンB1はある病気を治すために重要な成分です。
その病気は「脚気」です。脚気は明治・大正時代に大流行し、結核と並び「二大国民亡国病」と呼ばれ、多くの日本人を苦しめた病気です。

今回は日本人を苦しめた「脚気」と脚気に有効な成分の発見者「鈴木梅太郎」の功績を化学に詳しいリックと一緒に紹介していきます。

ライター/リック

高校生で化学にハマり、大学院までずっと化学を勉強してきた化学オタク。今は化学メーカーで働きながら化学の楽しさを発信する。

鈴木梅太郎って何を発見した人?

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不明 - http://www.ryouken.or.jp/history/3.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

鈴木梅太郎は戦前の日本の農芸化学者で、「ビタミン」の概念を初めて発見した人物です。今では、当たり前の知識ですが、ビタミンという分子を世界で初めて発見したのが「鈴木梅太郎」だったんですよ。

ビタミンの発見が鈴木梅太郎の最も大きな功績としてよく取り上げらます。この功績により、鈴木は日本の十大発明家にも選ばれているんです!

そして、鈴木梅太郎の発見した分子「ビタミンB1」は当時人々を苦しめていたある病気を回復させる効果もありました。今回は鈴木梅太郎氏の生涯とその功績についてご紹介していきますね。

鈴木梅太郎の生涯を紹介

鈴木は1874年、静岡県で生まれました。1896年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)を卒業します。1901年~1906年の5年間ベルリン大学に留学し、タンパク質やアミノ酸の分析技術を学びました。帰国の際、ベルリン大学の教授に「アジアにしかないものを研究しなさい」というアドバイスをもらい、日本の特産物で主食のお米を研究することにしたんです。

ベルリンから帰国後、コメの研究を始めた鈴木は米ぬか中に脚気を予防・治癒する成分が存在することを発見します。そして1911年「この成分についての論文」を世界で初めて発表したんです。

鈴木はその後、日本の基礎科学力の向上のため、理化学研究所の創設に尽力しました。1917年から理化学研究所の主任研究員としてコメを使わない合成酒の研究を始め、1924年日本農芸化学会を創設し、初代会長に就任。1943年文化勲章を受賞したのち、同年の9月腸閉塞のため死去。享年は69歳でした。

鈴木梅太郎が発見したのは「ビタミン」ではない?

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撮影者不詳 - scanned from Wielka Encyklopedia Powszechna PWN, Warsaw, Poland, 1964, vol. 4, page 55, パブリック・ドメイン, リンクによる

鈴木はビタミンB1を発見した人物であることは間違いないんですが…実はビタミンの名付け親は鈴木ではないんです!

ビタミンの名付け親はポーランドの化学者「フンク」という人物。フンクは鈴木が論文を発表した1910年の翌年、1911年に同じ栄養成分を「ビタミン」と名付けて発表しました。そして、こちらの名前が有名になり、ビタミンB1として鈴木の発見した成分は世界に知られていきました。

ちなみに、鈴木は論文を発表したとき、この成分を「オリザニン」と名付けて発表していたんです。鈴木も世界に向けて、「オリザニン」の論文を発表していました。しかし、論文がドイツ語に翻訳される際、「これは新しい栄養成分」であるという一文が翻訳されてなかったんです!

なので、オリザニンは世界的な注目を受けることなく、「フンク」の発表した「ビタミン」という名前が世界的に広がっていったんです。

人々を苦しめた「脚気」とは

人々を苦しめた「脚気」とは

image by Study-Z編集部

明治時代から大正時代にかけて、日本ではある病気が蔓延して深刻化していました。その名は「脚気」。脚気はビタミンB1欠乏症であり、心不全や末梢神経障害をきたし、最悪の場合死に至る疾患です。

脚気が蔓延した原因は、江戸から明治にかけて食生活が変わったことでした。江戸時代後期ごろから、精米技術の発達と米の生産量が増加したことで、庶民の間でも白米が食べられるようになりました。

ビタミンB1が多く含まれる「糠」を取り除いてできる白米を食べるようになり、ビタミンB1欠乏症の「脚気」の流行が始まっていきます。

\次のページで「脚気の原因を初めて突き止めた鈴木の研究」を解説!/

脚気の原因を初めて突き止めた鈴木の研究

脚気は、現在は治療法や予防法も確立していますが、鈴木がビタミンB1を発見する以前は江戸・大阪を中心に大流行し、大正時代には結核と並び二大国民亡国病と呼ばれ、多くの死者を出している恐ろしい病気だったのです。

その当時、脚気は原因不明の病として恐れられていました。

脚気の死者数がピークになった大正12年(1923年)は、死者2万9千人を超えていました。「伝染病が原因ではないか」「ウイルスが原因ではないか」など、様々な原因説が浮上する中、鈴木は1910年「白米の食品としての価値並に動物の脚気用疾病に関する研究」を報告し、ニワトリやハトを白米で飼育すると、脚気同様の症状が出て死ぬことや糠と麦と玄米には、脚気を予防して回復させる成分が含まれていること、白米にはいろいろな成分が欠乏していることを実験的に初めて証明したんです。

これが脚気の原因に迫る初めての報告でした。「伝染病説」や「ウイルス説」を実験を通して否定して、必須成分の欠乏が原因だと報告したんです。

1910年に鈴木によって「ビタミンB1」が発見され、脚気を回復させることが報告されましたが、脚気の死者数のピークは…実は1923年でした。どうして10年以上も脚気が改善されなかったのか…原因は3つあると思います。

・脚気の原因が医学界に受け入れられなかった

・ビタミンB1が単離できなかった

・ビタミンB1製造の値段が高かった

実は…日本の政策は脚気患者を増やしていた!?

image by iStockphoto

明治・大正時代に脚気が増えた大きな理由は、実は日本の政策でした。江戸から明治の世になり、政府は西欧列強に追いつくため、「富国強兵」や「殖産興業」を国のスローガンに掲げました。明治6年に公布された「徴兵令」では、全国の農村から若者を集め、若者たちに1日白米6合を約束したんです。

江戸から明治にかけて白米を主食にする文化が広がり始めましたが、白米を食べることができたのは一部の富裕層のみ。お腹いっぱいご飯を食べることも難しい時代に、1日白米6合は非常に魅力的な条件だったんです。

軍隊に入った若者たちは白米を食べまくり…このことが脚気患者を著しく増やす原因になりました。

「三日坊主」という言葉は脚気から生まれた?

image by iStockphoto

多くの日本人を苦しめた脚気は、いったん患うと数日で死んでしまうこともありました。脚気を患って3日で亡くなり坊主(僧侶)を手配しなければならないことから…脚気は「三日坊主」とも呼ばれていました。

今では、飽きっぽくて何事も長続きしない人の例えとして使われていますが、元は脚気から生まれた言葉ともいわれているんです。

「脚気」から日本人を救った「鈴木梅太郎」をチェック!

今回は明治・大正時代に日本人を苦しめた「脚気」の原因と有効な成分を発見した鈴木梅太郎の功績と生涯をご紹介しました。

脚気は今でこそ治療法も確立され、治る病気になりましたが、当時は一度患えば死に至ることもある原因不明の病気でした。脚気から日本人を救ったのが、鈴木最大の功績ですが、ほかにも理化学研究所や日本農芸化学会の創設など、多くの業績を残しました。

テストで出題されることは、ほとんどないと思いますが…ぜひ、鈴木梅太郎をチェックしてみてください!

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化学理科

日本を救った鈴木梅太郎とは?功績や生涯を理系ライターがわかりやすく解説


「鈴木梅太郎」という人物を知っているか。テストで出題されることはないでしょうが…ある重要な成分を発見した人物です!

それは「ビタミンB1」です。ビタミンB1はある病気を治すために重要な成分です。
その病気は「脚気」です。脚気は明治・大正時代に大流行し、結核と並び「二大国民亡国病」と呼ばれ、多くの日本人を苦しめた病気です。

今回は日本人を苦しめた「脚気」と脚気に有効な成分の発見者「鈴木梅太郎」の功績を化学に詳しいリックと一緒に紹介していきます。

ライター/リック

高校生で化学にハマり、大学院までずっと化学を勉強してきた化学オタク。今は化学メーカーで働きながら化学の楽しさを発信する。

鈴木梅太郎って何を発見した人?

Suzukiumetaro.jpg
不明 – http://www.ryouken.or.jp/history/3.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

鈴木梅太郎は戦前の日本の農芸化学者で、「ビタミン」の概念を初めて発見した人物です。今では、当たり前の知識ですが、ビタミンという分子を世界で初めて発見したのが「鈴木梅太郎」だったんですよ。

ビタミンの発見が鈴木梅太郎の最も大きな功績としてよく取り上げらます。この功績により、鈴木は日本の十大発明家にも選ばれているんです!

そして、鈴木梅太郎の発見した分子「ビタミンB1」は当時人々を苦しめていたある病気を回復させる効果もありました。今回は鈴木梅太郎氏の生涯とその功績についてご紹介していきますね。

鈴木梅太郎の生涯を紹介

鈴木は1874年、静岡県で生まれました。1896年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)を卒業します。1901年~1906年の5年間ベルリン大学に留学し、タンパク質やアミノ酸の分析技術を学びました。帰国の際、ベルリン大学の教授に「アジアにしかないものを研究しなさい」というアドバイスをもらい、日本の特産物で主食のお米を研究することにしたんです。

ベルリンから帰国後、コメの研究を始めた鈴木は米ぬか中に脚気を予防・治癒する成分が存在することを発見します。そして1911年「この成分についての論文」を世界で初めて発表したんです。

鈴木はその後、日本の基礎科学力の向上のため、理化学研究所の創設に尽力しました。1917年から理化学研究所の主任研究員としてコメを使わない合成酒の研究を始め、1924年日本農芸化学会を創設し、初代会長に就任。1943年文化勲章を受賞したのち、同年の9月腸閉塞のため死去。享年は69歳でした。

鈴木梅太郎が発見したのは「ビタミン」ではない?

Casimir Funk 01.jpg
撮影者不詳 – scanned from Wielka Encyklopedia Powszechna PWN, Warsaw, Poland, 1964, vol. 4, page 55, パブリック・ドメイン, リンクによる

鈴木はビタミンB1を発見した人物であることは間違いないんですが…実はビタミンの名付け親は鈴木ではないんです!

ビタミンの名付け親はポーランドの化学者「フンク」という人物。フンクは鈴木が論文を発表した1910年の翌年、1911年に同じ栄養成分を「ビタミン」と名付けて発表しました。そして、こちらの名前が有名になり、ビタミンB1として鈴木の発見した成分は世界に知られていきました。

ちなみに、鈴木は論文を発表したとき、この成分を「オリザニン」と名付けて発表していたんです。鈴木も世界に向けて、「オリザニン」の論文を発表していました。しかし、論文がドイツ語に翻訳される際、「これは新しい栄養成分」であるという一文が翻訳されてなかったんです!

なので、オリザニンは世界的な注目を受けることなく、「フンク」の発表した「ビタミン」という名前が世界的に広がっていったんです。

人々を苦しめた「脚気」とは

人々を苦しめた「脚気」とは

image by Study-Z編集部

明治時代から大正時代にかけて、日本ではある病気が蔓延して深刻化していました。その名は「脚気」。脚気はビタミンB1欠乏症であり、心不全や末梢神経障害をきたし、最悪の場合死に至る疾患です。

脚気が蔓延した原因は、江戸から明治にかけて食生活が変わったことでした。江戸時代後期ごろから、精米技術の発達と米の生産量が増加したことで、庶民の間でも白米が食べられるようになりました。

ビタミンB1が多く含まれる「糠」を取り除いてできる白米を食べるようになり、ビタミンB1欠乏症の「脚気」の流行が始まっていきます。

\次のページで「脚気の原因を初めて突き止めた鈴木の研究」を解説!/

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