「芸能界の大御所」だとか「文壇の大御所」といった風に「その道の第一人者」という意味で使われる「大御所」。実は日本史にも「大御所」と呼ばれた人物がいることを知っているか?しかも、「大御所」はひとりじゃなのです。

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に日本史上の「大御所」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。徳川吉宗が主人公の時代劇を見て育ったので、徳川吉宗に関連する「大御所」について詳しく勉強してきました。

1.日本史における「大御所」の定義

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始まりは引退した親王の尊称

「大御所」と聞くと、たいていの人は桜木先生のおっしゃったように「その道の第一人者」や「その世界を引退しながらも大きな存在感を持ち続ける人物」という意味で捉えるでしょう。

しかし、日本史で「大御所」と言う場合はちょっと違います。しかも、「大御所」の意味合いは時代を経るごとに変化していきました。

まずは、「大御所」の最初の意味から見ていきましょう。

本来、「大御所」は天皇の住まい「おほみもと」を指す言葉でした。そこから親王(皇族の男性)の隠居場所を「御所」と呼ぶようになって、やがて隠居した親王その人を呼ぶときの尊称として使われるようになったのです。

武士たちに受け継がれた「大御所」

それが鎌倉時代に移ると、前将軍「源頼朝」の御所(邸宅)に対して「大御所」と呼ぶ記述が鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にありました。このころになると、天皇家だけでなく、将軍の居所にも「大御所」が使われるようになっていたんですね。

そして、室町時代では、「足利幕府の将軍の実の父」が大御所と呼ばれるようになりました。名前を上げると、足利義満、足利義政、足利義視、足利義晴の四人です。

室町時代の最盛期を築き、金閣(鹿苑寺)でも有名な三代目将軍「足利義満」は引退後も実権を持ち続け、武士として二人目、そして足利家では最初で最後の太政大臣に任命されます。

ここから将軍職を引退しても、「大御所」として権力を振る性質が生まれたのでした。ただし、室町時代は「将軍の実の父」という意味のほうがまだ強いです。

武士の「大御所」を引き継いだ江戸時代

それからさらに時間を下った江戸時代。ここでも室町時代の「大御所」の存在は健在です。

初代将軍となった徳川家康は、早くから将軍の座を息子の徳川秀忠に譲って「大御所」になります。その後の江戸幕府では、八代将軍徳川吉宗、九代将軍徳川家重、十一代将軍徳川家斉が「大御所」となりました。

江戸幕府が受け継いだ「大御所」は室町幕府からさらに変化して、「将軍経験者」に限定されます。

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2.室町時代の大御所たち

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室町時代序盤をざっくり解説

室町時代がスタートした当初、朝廷が京都の北朝と吉野(奈良)の南朝に別れて争っていました。この時期を室町時代とはまた別に「南北朝時代」といいます。

そんな時代なので、初代将軍足利尊氏が室町幕府を開いても、将軍に従う大名は多くありません。そのため、室町時代が始まった最初のころは「今日の味方が明日の敵」なんてことが頻繁に起こります。足利尊氏や、二代目将軍足利義詮は南北朝の戦いを治めるために一生を費やしました。その念願をかなえたのが、三代目将軍足利義満です。

1392年、義満は勢いの衰えた南朝に対して「今後は北朝と南朝から交代で天皇を出すことにしよう」と提案します。弱っていた南朝はその提案を受け入れ、天皇の証になる「三種の神器」を義満と北朝に渡してしまうのです。こうして、足利義満は南北に分かれていた朝廷がひとつにまとめ、南北朝時代を終わらせたのでした。

室町幕府最初の大御所「足利義満」

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パブリック・ドメイン, リンク

現役時代の足利義満は「南北朝の統一」の大偉業を持つため、将軍を引退したあとも実権を握り続けました。

まず、引退と同じ年に武士として史上二人目、そして足利家で唯一の太政大臣に任命されました。また、大臣を辞任したあとには中国を支配する大国「明」との「勘合貿易」の開始します。

さらに義満は、みなさんご存じの京都の金閣(鹿苑寺)を造営しました。もともと金閣は義満が将軍職を引退した後の別荘で、ここを拠点として活動を続けます。ちなみに、鹿苑寺は室町時代に発展した北山文化を代表する建築物です。

「応仁の乱」の引き金を作った足利義政

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掃部助久国 Kamonnosuke Hisakuni - Shinshō Gokuraku-ji Temple, Kyoto. 国宝 大絵巻展, 2. The Japan Times article [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

足利義満の次に「大御所」と呼ばれたのが、室町幕府八代将軍の「足利義政」でした。

さて、義満と同じ「大御所」と呼ばれるのですから、義政もどんな大偉業があったのか期待してっしまうところですね。しかし、足利義政は室町幕府の弱体化を決定的にしてしまうダメな将軍だったのです。

というのも、義政には跡継ぎとなる息子がいませんでした。そこで弟の足利義視(よしみ)を養子にして次の将軍にしようとしたのです。ところが、そのあとになって正妻との間に念願の息子・足利義尚(よしひさ)が生まれてしまったのでした。

ここで義政がどちらを真の後継者にするのかハッキリ決めれば多少はマシになったでしょう。しかし、彼はどちらも指名せずに趣味の庭や建築に没頭して跡継ぎを宣言しませんでした。

大きな傷跡だけを残した「応仁の乱」

かくして、次の将軍の座を巡り京都を戦場とした「応仁の乱」が始まってしまったのです。11年にも及ぶ長く大きな内乱で、当時の都だった京都は大ダメージを受けて荒廃してしまいます。

しかし、こんなに大惨事になりながらも、戦いは勝敗をつけずに和睦という形で終わりました。後に残されたのは荒廃しきった都だけ。それまで緩やかに衰えていた室町幕府の権威は一気に墜落してしまったのです。

結局、義政の跡を継いで十代目将軍となったのは息子の足利義尚。室町時代の「大御所」は「将軍の実父」という位置付けでしたから、足利義政も「大御所」といえば「大御所」だったわけですね。

一方、乱のあとに美濃国(岐阜県南部)に退いた足利義視もまた、のちに「大御所」となります。これは、義視の息子・足利義稙(よしたね)が十代将軍となったためでした。「大御所」となって義視は義満のように政治に関わり始めるのですが、その翌年の一月に亡くなってしまいます。

\次のページで「室町幕府最後の将軍足利義昭の父・足利義晴」を解説!/

室町幕府最後の将軍足利義昭の父・足利義晴

十二代将軍・足利義晴は、室町幕府最後の将軍となった足利義昭の父にして、室町幕府最後の「大御所」となりました。

しかし、そこはもう室町時代の終わり、戦国時代へとさしかかったころのこと。各地の有力者たちによる争いはすでに始まっていた時期でした。内乱に裏切り、そこへ重ねて「一向一揆」と落ち着く暇もなありません。

「大御所」となった以降、幼少で十二代将軍となった息子・足利義輝の後継人となりましたが、やはりそこは戦国の世。戦いの果てに都を追われた足利義晴は、京都奪回の最中に病に倒れて、そのまま帰らぬ人となりました。

3.「大御所」と引き継いだ江戸幕府

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江戸時代の「大御所」は、室町時代から引き継がれつつもまた少し条件が違ってきました。江戸幕府ではじめて「大御所」となった徳川家康から徳川家斉まで、全員将軍職に就いたことのある将軍経験者だったのです。

江戸時代の始まり

1600年、徳川家康率いる西軍が、石田三成が率いた東軍と「関ヶ原の戦い」で激突しました。結果は、東軍の小早川秀秋による裏切りで西軍の勝利。豊臣秀吉亡きあとの豊臣家は衰退していきます。

江戸幕府初めての「大御所」徳川家康

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1603年、徳川家康は征夷大将軍に就任。自領の江戸に幕府を開きました。これが江戸時代の始まりです。

しかし、家康が現役の将軍だったのはわずか二年だけ。息子の徳川秀忠に将軍を継がせて早々に「大御所」となったのでした。

けれど、ただ意味もなく引退したわけではありません。徳川家康が将軍を引退してその息子・徳川秀忠に継がせたことで、「将軍職は徳川氏が世襲していく」ということを朝廷や大坂の豊臣家に知らしめたのです。

それから家康は駿府城(静岡県)に移り、江戸の秀忠と共に二頭政治を行うようになりました。

徳川家康の大御所政治

二代目将軍徳川秀忠に配慮しつつも、徳川家康は政治の中心となったため「大御所政治」と呼ばれます。

そうして、徳川家の親戚筋の大名を「親藩」関ケ原の戦い以前からの味方大名を「譜代大名」関ヶ原の戦いのあとに従うことになった大名を「外様大名」として、江戸の近く、要所、遠隔地の順に配備していきました。将軍(幕)と大名(藩)の封建的主従関係のため、この体制を「幕藩体制」と呼びます。

さらに、豊臣家滅亡後には「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を作って京都の天皇家や公家を幕府に従わせることに成功したのです。

米将軍「徳川吉宗」の引退後

徳川吉宗は、江戸時代の三大改革のひとつ「享保の改革」を行い、江戸幕府の財政状況を建て直し、「目安箱」などで民衆の意見を広く聞き入れたことで有名ですね。

引退後、吉宗は将軍職を長男の徳川家重に譲りましたが、家重は言語不明瞭で政治にあまり積極的には関わりませんでした。

吉宗には家重の他に次男・宗武、四男・宗尹など他に優秀な息子がいたのに、なぜ長男の家重にこだわったのでしょうか?

それは、吉宗自身が徳川本家出身ではなく、紀伊徳川家から来た人間で後継者争いの当事者だったからだと考えられています。将軍の能力に依らない長子相続は、熾烈な後継者争いを避けると同時に、外から来た吉宗が守らなければならないルールだったのです。

また、家重の代りに「大御所」となった吉宗が実権を握り続けることとなりました。その期間は1745年から1751年までの六年。長いようで短い期間ですね。

その家重もまた息子・徳川家治に将軍職を譲り「大御所」となりましたが、翌年の1661年に「田沼意次を重用せよ」との遺言を残して亡くなっています。

\次のページで「徳川治済と十一代将軍・徳川家斉」を解説!/

徳川治済と十一代将軍・徳川家斉

将軍、そして「大御所」として五十年もの間、幕府の政治を執り続けた十一代将軍「徳川家斉(いえなり)」。本来は一橋家といって、徳川吉宗の四男・宗尹から始まる徳川家の支流の生まれでした。しかし、十代将軍徳川家治に子どもがいなかったことから、家治の養子になり、15歳で十一代将軍となったのです。

江戸の三大改革のひとつ「寛政の改革」を行ったのも家斉の時代。田沼意次が罷免され、代わりに松平定信が老中首座となると、松平定信は幕府の財政立て直しをしようと厳しく風紀を取り締まり、果ては庶民にまで倹約を強いたのです。その結果、あまりに厳格な取り締まりに上から下まで大ブーイングが巻き起こり改革は失敗。家斉は父の徳川治済(はるさだ)と協力して松平定信を罷免したのでした。

徳川治済を「大御所」にしたい!

徳川家斉は、将軍職を経験していない父・治済に「大御所」の待遇をするよう求めました。しかし、そのころ朝廷と江戸幕府の間で「尊号一件」という紛議事件が起こります。

「尊号一件」をざっくり説明すると、家斉と治済とよく似た境遇にあった光格天皇が、天皇に即位していない父に太上天皇の尊号を贈ろうとしたことをきっかけに、江戸幕府と朝廷の関係にヒビを入れてしまった事件です。結局、光格天皇は父に太上天皇の尊号を贈れず仕舞いに終わります。

そして、光格天皇の手前、幕府もまた同じような状況にあった治済にも「大御所」の尊称をもらうことができなくなりました。この事件を担当していたのが、先述した「寛政の改革」の松平定信。「尊号一件」によって家斉に嫌われたため、後に失脚することとなったのでした。

徳川家斉の「大御所時代」

徳川家斉の治世を「大御所時代」と呼びますが、実際に隠居して家斉が「大御所」だったのはそのうちのたったの四年間のみ。「大御所時代」には家斉の50年の現役将軍の期間が含まれるのです。ただし、長いからと言ってその治世が善政となったかはまた別の話。

さて、この「大御所時代」は江戸時代後半。時期的には「寛政の改革」と「天保の改革」の間。家斉が任命した老中首座水野忠成によるワイロの横行、財政破綻、政治腐敗と大変な事態に陥ります。しかし、肝心の家斉はそれを尻目に贅沢な生活を送るという始末。なので、不満を持った人々によって「大塩平八郎の乱」や「生田万の乱」など一揆や反乱が多発した時期でもありました。

幕府がやっと立ち直ったのは、そんな家斉の死後。水野忠邦による江戸時代の三大改革最後のひとつ「天保の改革」がはじまったのです。しかし、この改革も根本的解決に至らず、失敗してしまいました。

引退後も政治を手放さなかった人々

「足利義満」や「徳川家康」など絶大な影響力を及ぼした「大御所」たち。時代を築き、また長く存続させるための政策を打ち出した優れた政治家でした。

その一方で、足利義政や徳川家斉には頭を抱えてしまいますね。同じ「大御所」という括りにありながらも、やはり同じような期待を抱いてはいけないという良い教訓となりました。

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日本史上にも「大御所」と呼ばれる人物がいた!?歴史オタクがわかりやすく5分で解説

「芸能界の大御所」だとか「文壇の大御所」といった風に「その道の第一人者」という意味で使われる「大御所」。実は日本史にも「大御所」と呼ばれた人物がいることを知っているか?しかも、「大御所」はひとりじゃなのです。

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に日本史上の「大御所」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。徳川吉宗が主人公の時代劇を見て育ったので、徳川吉宗に関連する「大御所」について詳しく勉強してきました。

1.日本史における「大御所」の定義

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始まりは引退した親王の尊称

「大御所」と聞くと、たいていの人は桜木先生のおっしゃったように「その道の第一人者」や「その世界を引退しながらも大きな存在感を持ち続ける人物」という意味で捉えるでしょう。

しかし、日本史で「大御所」と言う場合はちょっと違います。しかも、「大御所」の意味合いは時代を経るごとに変化していきました。

まずは、「大御所」の最初の意味から見ていきましょう。

本来、「大御所」は天皇の住まい「おほみもと」を指す言葉でした。そこから親王(皇族の男性)の隠居場所を「御所」と呼ぶようになって、やがて隠居した親王その人を呼ぶときの尊称として使われるようになったのです。

武士たちに受け継がれた「大御所」

それが鎌倉時代に移ると、前将軍「源頼朝」の御所(邸宅)に対して「大御所」と呼ぶ記述が鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にありました。このころになると、天皇家だけでなく、将軍の居所にも「大御所」が使われるようになっていたんですね。

そして、室町時代では、「足利幕府の将軍の実の父」が大御所と呼ばれるようになりました。名前を上げると、足利義満、足利義政、足利義視、足利義晴の四人です。

室町時代の最盛期を築き、金閣(鹿苑寺)でも有名な三代目将軍「足利義満」は引退後も実権を持ち続け、武士として二人目、そして足利家では最初で最後の太政大臣に任命されます。

ここから将軍職を引退しても、「大御所」として権力を振る性質が生まれたのでした。ただし、室町時代は「将軍の実の父」という意味のほうがまだ強いです。

武士の「大御所」を引き継いだ江戸時代

それからさらに時間を下った江戸時代。ここでも室町時代の「大御所」の存在は健在です。

初代将軍となった徳川家康は、早くから将軍の座を息子の徳川秀忠に譲って「大御所」になります。その後の江戸幕府では、八代将軍徳川吉宗、九代将軍徳川家重、十一代将軍徳川家斉が「大御所」となりました。

江戸幕府が受け継いだ「大御所」は室町幕府からさらに変化して、「将軍経験者」に限定されます。

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