筑紫平野
筑紫平野(つくしへいや[1][2]、ちくしへいや[1])は、福岡県南部から佐賀県南部にかけて広がる、九州最大の平野。面積は約1,200平方キロメートル[1]。


エリア分け
編集地域ごとにより狭い範囲の平野名で呼ぶこともあり、大きく分けて、佐賀県側を「佐賀平野」、福岡県側を「筑後平野」と呼ぶ[1][3][4][5][注釈 1]。
佐賀平野の六角川水系以南を「白石平野」と呼び[4][7]、白石平野を除いた地域を狭義の「佐賀平野」と呼ぶこともある[7]。
筑後平野は、背振山地と耳納山地により平野部がくびれる久留米市付近を境に、筑後川の上流側を「両筑平野」[注釈 2]、下流側を「南筑平野」と呼ぶ[1][3][4][8][6]。両筑平野は、さらに、筑後川支川の宝満川・小石原川流域を「北野平野」[注釈 3][注釈 4]、筑後川本川の流域を「筑後川中流平野」[注釈 5]と呼ぶ[3]。南筑平野は、南部の柳川市周辺を「柳川平野」と呼ぶこともある[3][注釈 6]。
まとめると以下のようになる[11]。
| 筑紫平野 | 筑後平野(広義) | 筑後平野(狭義)(南筑平野・柳川平野) |
| 北野平野(両筑平野) | ||
| 佐賀平野(広義) | 佐賀平野(狭義) | |
| 白石平野 |
地形
編集南東は筑肥山地や耳納山地、北東は古処馬見山地、北西は脊振山地に囲まれている[1]。
筑紫平野では3段の段丘面が見いだされている[1]。ただし、全体的に沈降傾向にあるため多段化せず、地下に埋没しているものがほとんど。そのため、詳しい段丘面の編年学的研究は、Aso-4を鍵層として大まかにされてきたに過ぎないが、地下地質については、ボーリングコア解析などで詳しく検討がなされている。
古処馬見山地の山麓にあたる両筑平野の北東側には、ところどころに段丘化した扇状地がある[1]。段丘面は主に河成礫層とAso-4二次堆積物からなり、前者は筑後川右岸側に広く発達するが、後者は残丘状に散在している。段丘面の下位は非海成の沖積層からなる沖積低地が広がっている。
耳納山地の北麓には小規模な扇状地が連続して分布する。ここにも高位・中位・下位の計3面が発達しており、下位扇状地上面は水縄断層系の活動による低断層崖が発達している。
南筑平野では、中位段丘の平坦面が主に茶畑、低位段丘の平坦面が主に水田となっている。佐賀平野では段丘の分布は少ない[1]。
筑後川や矢部川などが形成した平坦な沖積低地が広がり、この地帯にはクリーク(水路)が発達している。その海側には人為的に開拓された干拓地が分布する。干拓は鎌倉時代から始まった(有明海#歴史も参照)[1]。筑紫平野最後の干拓地は1972年完工の国造干拓(国造搦)である。隣接する平和搦とともに、当初の目的だった稲作圃場への放出を政府が断念し、長年放置された末、1998年に佐賀空港用地への転用が決まった経緯がある。
100年あたり1 kmのペースで陸化してきたと推定されている[1]。沖積低地は、海成層である島原海湾層と有明粘土層からなる。段丘面は、河成礫層・砂礫層からなるものと、Aso-4火砕流堆積物(八女粘土層)からなるものに分けられる。
農業と産業
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筑紫平野は九州最大の米と麦の産地。米麦の二毛作が早くから定着している地域で、麦類の県別産出額では福岡県が2位、佐賀県が3位(ともに2009年)となっている[12]。
福岡県側では野菜、花卉、山麓も含めて果樹、茶などの多角的な農業生産が早期に展開されてきた。一方、佐賀県側では米作に重きが置かれてきた経緯があり、現在も米と麦、野菜が生産の主体。両県で農業は特色を異にする[1]。
筑後平野の野菜生産は、筑後川の自然堤防地帯で始まり、生産調整の影響で水田地帯にも広がって、ハウスでの促成栽培も普及した[1]。久留米市は市町村別農業産出額が10位(2009年)。久留米市を中心に、イチゴ、トマト、ホウレンソウなどの生産が盛ん[12]。同市田主丸町は苗木の国内有数の生産地[12]。矢部川下流域では、電照菊やカーネーションなどの花卉[12]、ナスの生産も盛んである。
耳納山地北麓の扇状地[1]、みやま市の山麓では、果樹園芸が盛ん。八女市の丘陵地帯では、高級茶である玉露を中心として茶の生産が盛んである[12]。
多角化の背景には、1戸当りの耕地面積が狭かったことがある[1]。また、この地域では都市的土地利用が拡大しているために、農地集積を行おうとしても、農地売却を期待する農家がいて進展しない例が発生している[12]。
また、久留米絣、家具・建具、清酒、瓦、仏壇、提灯、竹製品など、伝統的な地場産業の盛んな地域でもある[1]。これ以外では、久留米でゴム工業が盛ん[5]。
佐賀平野は、昭和期に1935年ごろと1965年ごろの2度、面積当たりの米の収量が全国一となるピークをみた。生産調整の影響を受けた1970年代以降は食味重視に視野が向けられた[1]。米麦二毛作のため、日本で最も耕地利用率の高い地域となっている[13]。
佐賀平野でも、土地改良事業を通じて用水が安定確保されたことも後押しして、米・麦から大豆、イチゴ、アスパラガスなどへの転作も進んでいる。また、2000年代からは法人などの組織経営体が米・麦・大豆を機械化一貫体系で大規模に生産する例が増えつつある[12][13]。
農業史・文化史
編集堀(クリーク)
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筑紫平野のうち、佐賀地域(白石地区を除く佐賀平野)や筑後地域(南筑平野)の[14][15]海抜約5 m以下[16]の低地では、かつて堀またはクリーク(英: creek)と呼ばれる水路が発達、平野を網の目のように巡らして独特の水郷景観を形成し、農業をはじめとしてこの地域の生活に密接に関わっていた[16][17][18][19][20][21]。
「クリーク」の呼称は戦中(昭和初期)以降に使われるようになった外来語で[16]、従前は専ら「堀」(ほり、または訛って ほい[16])と呼んだ。現在は両方が用いられる[20]。一方、「水郷柳川」と称される柳川市をはじめとした福岡県域では、水郷景観や観光について語るときに「掘割」の呼称が定着している。ただし、農業や土木・水利の面で語るときにはクリークと呼び分ける場合がある[22][23]。
堀の形成
編集筑紫平野の低地に堀(クリーク)が発達したのは、水田の面積に対して山地の面積の比率が小さく水源が不足しがちであること[17]や、開墾される以前、筑紫平野の低平地はアシ原のような水はけの悪い湿地が広がり、開墾のためには排水と利水が不可欠だったこと[注釈 7][16]、また1/4000 - 1/7000と極めて勾配が小さい平坦地が広がるため自然灌漑が難しく、水路網が必要なこと[24][25]などが挙げられる。自然に形成された「流れ堀」や「江湖」(共に後述)を中心として、縦横に堀(クリーク)が掘り進められた[16]。
クリーク網の規模は1955年(昭和30年)頃、佐賀平野では総面積約1,900 ha・総貯水量は2,200万トン(北山ダムに匹敵)[26]、南筑平野では花宗川流域だけで総面積約350 ha・総延長560 km[27]だった。堀の密度(面積比)が高いのは、佐賀平野では佐賀市兵庫町・巨勢町や神埼市千代田町付近、南筑平野では大木町付近で、いずれも河川や海から遠く貯水の必要性が高いところである[28][29]。
堀(クリーク)は自然に形成された側面と人為的に造成された側面があり、成因は複合的である。
- 干潟の澪筋や河川の旧河道が発達して残ったもの。幅が比較的広い。「流れ堀」[注釈 8]や「江湖」[注釈 9]、「江湖堀」などと呼ばれる[16][21][30]。
- 奈良時代以降、条里制により方形に区画された田畑に沿って人為的に掘られたもの(条里遺構)。当時陸化していた平野の中部以北に分布[21]。開墾当初の土は均一かつ軟弱質なため、普通の土よりも掘削が易しかったと考えられる[31][30]。
- 戦乱の多い中世に、城館や集落の周囲に防御のため設けられたもの。あるいは、農村における土取り堀として集落単位で設けられたもの。どちらも環濠の形状[21][32]。
- 鎌倉時代末期以降、干拓地の遊水池(潮遊び)として設けられたもの。主に堤防沿いや、集落の内陸側に接するように位置する(干拓地の集落は旧堤防上に帯状に並ぶことが多く、その内陸側に残存する)[21]。
- 中世・近世以降、城下町全体の政治の一環として、ばらばらに管理されていた各地の堀が体系的に整理され、利水・治水の問題解決が図られた。(例:蒲池城下の堀の開削と牛土居[33]、佐賀藩内成富兵庫茂安の佐賀江改修・三千石堰と周辺などの事業[34]、田中吉政による柳川城掘割・花宗川・太田川開削と周辺水利[30][23]など)
堀の利用と長所・短所
編集筑紫平野の堀(クリーク)は、水田の灌漑や治水(=水路や流れ堀の機能)、水運(運河の機能)、生活用水、食料・肥料の供給源という多くの機能を持っていた[17][16]。
農業では、用水をすべて堀に依存するため独特の作業や農具を用いた(クリーク農法)。
- 揚水灌漑 - 概して堀の水面は水田面より低いため、水田の水はすべて堀から汲み上げて賄う。古くは「汲み桶(くみおけ)」を用いた手作業、江戸中期からは新たに発明された「踏み車」(足漕ぎ動力の水車)による人力作業で大きな労力を要した。大正末期に電力を用いた揚水ポンプが普及した[16][25][35]。
- 通常のため池と異なり堀は水田に直接接している。水田から排出された堀に溜まった水を灌漑水として揚水し、繰り返し何度も利用(還元利用)することで、川の水やアオの取水量が節減された[31]。
- 水田馬耕 - 代掻きの際、牛や馬に牽かせた「水田犂(みずたすき)」「馬鍬(まが)」などを用いて土を入念に耕す。乾燥して硬い粘土質の土の表面を耕すと同時に、耕盤(土の底部)の亀裂を埋め、貴重な水が漏れないようにする[25][35][36]。
- 泥土揚げ(俗に「ごみくい」「ごみあげ」) - 毎年稲刈り後の12月頃堀の水を抜き(「堀干し」)[37]、翌年2月 - 3月頃、堀に沈殿した泥土を汲み上げ(=浚渫)、田に客土として加えると共に、堀の水の流れを良くして貯水量を増やす[25][35]。
- 水田からの排水は肥料分を含んでいるので泥土も肥沃で、客土にした場合平均で2割程度の増収があり、「秋落ち」の防止につながった。ただし、泥土は自然に堆積し堀の容量は年々小さくなっていくため、堀の機能を保つためにも必要な作業だった[31]。
- 早晩二期作 - 春の揚水と馬耕には多大な労力を要するため、田植えを1か月開けて2度に分けることで、労力を分散させた[25]。
- アオ取水 - 満潮時に川から水路へ塩水くさびに押し上げられて逆流してくる淡水を「アオ」といい、これを堀に取り入れる潮汐灌漑が行われた。昭和期、筑後川下流域には200箇所の取水口があり、アオを使う灌漑面積は約17,000 haに上っていた[13]。
個人の所有地(田)の地先にある堀の泥土はその個人のものとなるが、労力の大きい泥土揚げ作業は協同作業を必要とする。そのため村落には一種の共同体が形成され、各村内の堀を順番に協同作業で泥土揚げしていく習慣があった[25][35]。
クリーク網での取水・排水や水位の管理は、堰や樋門・樋管により行われる。例えば南筑平野の柳川藩・久留米藩域では、藩政期の旧村ごとに(あるいはいくつかの村を単位として)取水・排水を行う堰や樋門・樋管を設け、複数の水源から取水し、連結された村内のクリークで水を共有する「水囲い」が特徴で、上流から下流へ順番に満水にし、余水を下流に流すという水利慣行があった[38]。
春夏の灌漑期は排水樋門等を閉めて水位を高く保ち貯水、秋冬の非灌漑期は開放して常時排水し水位を下げた。これにより、低湿地でありながら秋冬は乾田化し麦など裏作が栽培できた。また、灌漑期は高水位ながらも満水よりやや下の水位に留め、洪水時の一時的な貯水池の役割を持たせていた[31]。
その反面、灌漑期の洪水の際は排水樋門等を閉めることにより排水が難しくなり、その結果地下水位が高くなって稲の生育に悪影響を及ぼす。さらに、盛夏期の堀の水はほとんど循環がないため時に水温35度を超える高温になり、これも稲に悪影響がある[31]。
また、堀(クリーク)の水は雨水とより上流の堀の余水に依存する仕組みなので、上流部になるほど[注釈 10]、水の配分が肝要となり水争いが起きやすかった[31]。一方で、排水樋門等を操作する権利はそのクリークの所有者・村落が管理するため、下流で樋門が閉じられると上流は排水困難となり湛水(=不要な水を溜めざるを得ない状態に)してしまう。この操作の権利を巡っても争いが起きやすかった[38]。
また、複雑な配置の堀により、農道はしばしば迂回するため農作業には非効率な面があり、多くの橋も必要となって維持管理を要した。同様に、堀により水田の形は複雑に区画されて広げることが難しく、近代になると大型機械の足枷となった。さらに上流からの排水・汚水が流れ込むため衛生上好ましくない面もあった[25][31]。
生活・文化
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特に江戸時代は、蔵入米を運ぶため堀を利用した水運が盛んだった[39]。生活面でも、堀の水は炊事や風呂などの生活用水に利用されていた。近代に上水道が普及するまで、ハンズーガメ(飯胴甕)に貯めた水を濾して飲用した。堀端で水を使う場所はカワジやタナジ、地域によってはクンバ(汲場)と呼ばれ、数段の段があって水位が変わっても使えるようになっていた。汚れた水は堀に直接流れ込まないよう、穴を掘って流すなどしていた[39][40][41]。
また、コイやフナ、ウナギやドジョウなどの川魚、エビやタニシ、ヒシやクワイなどの水生植物を採って食用にしたり、堀岸のヨシや藁を葺き屋根材にしたりしていた[39][42][43]。
ヒシの実は、戦前をピークに換金作物として盛んに栽培されていた。ヒシの実を取るための「ハンギリ」「ハンギー」と呼ばれるたらい船も知られている。その昔、漬物や穀物を入れていた桶を半分に切って作ったのが名前の由来と言われていて、後に専用のものが作られるようになった。直径1メートルほどのたらいで、不安定では慣れない者は乗りこなすのが難しいが、農婦らは上手な身のこなしで操作しながら実を取った[41][44][45]。
平野部では、くまなく開拓された森林が少ないために薪が手に入りづらく、近代まで農家では煮炊きに主に稲藁・麦藁や葦などを用い、榎や柳の枝も重用された。少なくとも近世初期以降、囲炉裏がほとんどみられなかった[42][46]。
堀が多い地域では水神信仰や水難除けの習俗も盛んであった。「川神祭」「水神祭」などと称して、藁や竹などの祭具を飾ったり、水神への供え物をしたり、水天宮などにお守りを求めたりする。子供の水難事故は河童の仕業とされ、お供えをすることで「うちの子供を引いてくれるな」と祈願したり、特に佐賀平野ではこの信仰を「ヒャアランサン」と称して川に「入り込まぬ」[注釈 11]よう祈願したりすることが行われてきた[47][48][49][41]。
柳川市の旧柳川城の「掘割」は、田中吉政によって計画的に配置されたもので、城の防御、生活利用、治水の役割をもつ。後に、町を縦横に走る掘割と、これに沿う古い町並みや柳の並木の景観で知られるようになった。現代では、「ドンコ船」による川下りなどが行われ、積極的に観光利用されている[22][23][50]。
堀の統廃合と現代の管理
編集農業や生活の近代化が起こると、堀(クリーク)の環境は一変する。明治中期の1890年頃から、水争い防止のため水利組合の設立が各地で活発化した。1920年代、電気灌漑や窒素肥料が導入されて省力化され、佐賀平野では米の1反(10a)当り収量が急伸し日本一となる(「佐賀段階」)。一段落の後、1960年代頃に化学肥料が本格的に普及し農業機械も普及、地下水位を稲の生育に悪影響が出ないレベルに下げるため堀の水位を下げ間断灌漑を行い、再び収量を伸ばした(「新佐賀段階」)。この頃から、農業の省力化により堀の泥土揚げが不要になり、上水道の普及で生活用水としての利用も遠ざかった。鉄道や道路などに代替されて水運の利用はなくなり、流通事情の変化と冷蔵庫の普及により漁労も行われなくなった[32][30]。
また、化学肥料や家庭で普及した合成洗剤、産業排水も堀に流れ込んで水質が悪化、宅地化と下水道整備の遅れにより排水路と化したり、不法投棄によりごみ捨て場と化すものも出てくるなど荒廃、身近だった堀が生活から遠ざかる「クリーク離れ」が起きた。水害の原因ともなりうることから、堀(クリーク)を悪とする「クリーク征伐論」も一時出ていた[16][32]。
実際、機械導入のため細かく区切られた水田を統合する圃場整備が戦後始まったことで、堀の統廃合が進み、多くは碁盤の目状の直線的な農業用水路で代替された[16][32][30][12]。
同時に用水・排水系統は計画的に再編され、戦後建設された河川上流の堰(筑後川:筑後大堰、嘉瀬川:川上頭首工など)から取水し、国営導水路(筑後導水路・佐賀導水路など)、国営幹線水路、県営幹線水路、一般水路を経て分配されるシステムが作られた。これに伴い、アオ取水は廃止された[12][51]。この再編は「国営筑後川下流土地改良事業」として行われた。受益面積が40,899 haに上る国営としては最大級の土地改良事業で、1976年度に着工し、43年をかけて2019年3月に完工した[51]。
こうして、古くからの堀の光景を留めている場所は数少なくなっている[30][14]。一方、堀の価値を再考する動きも出てきた。自然や生物の宝庫であることから、一部を保全して公園などに改修したところもある[37]。
しかし、「クリーク離れ」に伴い維持管理が放棄されると、年々進行していく堀の護岸(畦)崩壊や(泥土堆積に伴い)容積減少による洪水時の貯水機能低下が問題化した。また、管理を担う土地改良区の構成員の高齢化や兼業化という課題もある。クリークの修繕は、防災対策の名目で県(佐賀県・福岡県)主体の「クリーク防災機能保全対策事業」や農林水産省管轄の国営「総合農地防災事業」(筑後川下流左岸農地防災事業、筑後川下流右岸農地防災事業)として公共工事で行われている現状がある[13][52][53]。
クリークという用語
編集クリーク(creek)は小川や川の支流、入江を指すのが本来の意味だが、灌漑(かんがい)や水運を目的として人手の入った水路や運河を指す場合がある。筑紫平野の例は後者[17]。後者の意味で日本語訳に「溝渠」が充てられることもある。筑紫平野の例も含めて「溝渠」と記す資料もいくつかある[20][21]。
世界では、長江、メコン川、チャオプラヤ川最下流のデルタ地帯に、灌漑や水運を兼ねた大規模な水路網が分布しており、地理用語として「クリーク」を使う場合もある[18][24]。
一方日本でも、濃尾平野(木曽三川下流の輪中地帯)や北関東の掘り上げ田が類似するが、こちらは水田面のかさ上げを主目的とするもので、クリークとは呼ばれない[54]。
日本で水田地帯の水路がクリークと呼ばれ始めたのは、1932年(昭和7年)の第一次上海事変以降だとされている。日本人による中国の地理学研究が行われる中、江南の水路網について使われたものが、筑紫平野にも移入された形である。上峰村(当時)出身の地理学者米倉二郎は、江南の水路を「外人によってクリーク(Creek)と呼びならわされた溝渠が縦横に広がって、わが筑後川下流平野の景観をいっそう大規模に展開している」とした。ただし、当時の欧米の論文では江南の水路をcreekではなくcanal(運河)とするものがみられ、この経緯は必ずしも明確ではないと元木 (1997)は指摘している[55]。
佐賀平野では、クリークの呼称は1938年(昭和13年)に米倉二郎の解説が新聞紙上に載ったことが契機となって広まったと、東与賀町史 (1982)に記載がある[56]。
脚注
編集注釈
編集- ↑ 『百科事典マイペディア』の「筑紫平野」の項[6]には、筑紫平野の福岡県側を「福岡平野」と呼ぶという記述があるが、一般には、福岡平野は、博多湾に面した福岡市を中心とした平野を指す。
- ↑ 「両筑」の名は、筑前国と筑後国にまたがることに由来する。したがって、筑後平野は筑前国を一部含むことになる。
- ↑ 両筑平野全域を指して「北野平野」と呼ぶように読み取れる資料もある[1][6][4]。
- ↑ 北野平野を「三井平野」または「三井郡平野」と呼ぶ資料もある[9][10]。
- ↑ 両筑平野全域を指して「筑後川中流平野」と呼ぶように読み取れる資料もある[6][8]。
- ↑ 南筑平野の一部、旧八女郡周辺を「八女平野」と呼ぶ記述も見られる。参照:筑後川#分水界。
- ↑ 実際に、この地域の水田の下にはアシの地下茎を含んだ泥質の堆積物の層(蓮池層上部)がある。
- ↑ 塩分を含む江湖に対して、塩分を含まない堀を指す。
- ↑ 海から塩分を含んだ水や浮泥が遡上してくる川のこと。感潮河川。
- ↑ ただし、アオ(潮流に乗り遡上する淡水)を取水する有明海沿岸や筑後川最下流付近では異なる[33]。
- ↑ ヒャアランは(水に)「入り込まぬ」の方言。
出典
編集- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 赤木祥彦「筑紫平野」, 『改訂新版 世界大百科事典』 2007
- ↑ “地名集日本(GAZETTEER OF JAPAN)”. 国土交通省国土地理院. 2022年5月15日閲覧。
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- 1 2 3 4 川崎茂「筑紫平野」, 『日本大百科全書(ニッポニカ)』 1994
- 1 2 3 宮浦正「筑紫平野」, 『福岡県百科事典』 1982
- 1 2 3 4 「筑紫平野」『百科事典マイペディア』平凡社。コトバンクより2026年5月19日閲覧。
- 1 2 川崎茂「佐賀平野」, 『日本大百科全書(ニッポニカ)』 1994
- 1 2 宮浦正、千足恭平「筑後平野」, 『福岡県百科事典』 1982
- ↑ 伊奈健次『筑後郷土通史 上巻』筑後郷土研究会、1936年、4頁。全国書誌番号:46063971、NDLJP:1185988/9。
- ↑ 大刀洗町郷土誌編纂委員会 編『大刀洗町史』大刀洗町、1981年12月、1頁。全国書誌番号:82033172、NDLJP:9574958/21。
- ↑ 佐賀市史 第1巻 1977, pp. 17–18.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 野澤, 堂前 & 手塚(編) 2012, pp. 75–76.
- 1 2 3 4 野澤, 堂前 & 手塚(編) 2012, pp. 213–214.
- 1 2 佐賀地域の地質, pp.4-5.
- ↑ 増野 2001, p. 615.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 佐賀県大百科事典, p.230 宮島昭二郎「クリーク」
- 1 2 3 4 川の百科事典, pp.289-290 木村達司「クリーク」
- 1 2 地形の辞典, p.212 海津正倫「クリーク」
- ↑ 地形の辞典, p.830 「ほり 堀,濠」
- 1 2 3 図解 日本地形用語事典, p.76,p.79.
- 1 2 3 4 5 6 日本地誌 20, pp.52-56
- 1 2 泉秀樹『風と海の回廊 : 日本を変えた知の冒険者たち』広済堂出版、1994年9月、77-87頁。ISBN 4-331-50448-4。NDLJP:13216596/42。
- 1 2 3 田島よしのぶ『筑後川紀行』葦書房、1988年4月、58-61, 124-129頁。全国書誌番号:88045196、NDLJP:13109076/67。
- 1 2 伊藤ほか 1969, p. 123.
- 1 2 3 4 5 6 7 佐賀県大百科事典, p.231 宮島昭二郎「クリーク農法」
- ↑ 荒木 & 古賀ほか 1990, p. 33.
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- 1 2 3 4 5 6 大木町堀なおし計画 2016, p.6.
- 1 2 3 4 5 6 7 伊藤ほか 1969, p. 124.
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- 1 2 江口 1977, pp. 96–121.
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- ↑ 川の百科事典, p.601「掘り上げ田」
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- ↑ 東与賀町史 1982, p. 47.
関連項目
編集参考文献
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- 『大木町堀なおし計画 ~次世代に自信をもってバトンタッチできるために~』大木町、2016年3月。オリジナルの2023年3月8日時点におけるアーカイブ。