官田
日本
編集中国
編集宋代以降における朝廷所有の田地のこと。従来の公田に代わって用いられた概念である。
設立の経緯
編集官田の内容
編集官田の経営
編集官田の小作人には零細農民だけではなく、地主層も少なくなかった。彼ら地主層の中には、特権的地位と財力に物を謂わせて大量の官田の経営を国家から委ねられる者もいた。また官田の耕作権は、民田の所有権と同様に売買が可能であり、地主層による官田の耕作権の集約も行われた。地主は、こうして国家から官田の小作を請け負い、これを又小作に出した。従って、官田においても、民田の場合と同じく小作制(地主佃戸制)が発達した。
官田は全国各地に置かれたが、最も農業生産力が高い長江下流南岸のデルタ地帯では、南宋の頃から多くの土地が官田化され、明代の初めには、常州・鎮江・蘇州・松江・湖州・嘉興の6府の農地の45%が官田で占められた。
明代の官田の税は民間の小作料よりは低かったが、それでも例えば蘇州府では1畝当たりの平均税率がその4割にも達し、官倉への輸送費用も自弁であったため、その負担はかなり重く、官田の税の納入者への様々な優遇措置も、官田と民田との負担格差を是正する事は出来なかった。そのため、小規模農民や中小規模の地主を問わず、滞納や逃亡、民田への不正な登録変更などが相次ぎ、国家は安定した収入を得る事が出来なくなった。
官田の消滅
編集16世紀前半には、各地で県を単位とした官田と民田の税率一本化が進められ、中頃には官田は基本的に消滅した。
明・清代においては、官田の一部として皇室の直轄地(明代=皇荘、清代=内務府官荘)があるほか、両時代とも各軍営や辺境の要地には屯田が置かれ、府学・州学・県学など地方の官立学校にも学田が付設された。
清代には満州族の扶養のための旗地が設けられた。しかしこれらには宋~明中葉の一般官田のように国家財政収入を支える国有地としての意味はなく、学田を除くと、利用を許可された個人の私有地の性質を帯びた。官田の消滅には、明代後半期から長江デルタ地帯を中心に各地で強まった、土地に対する公課負担均等化への社会的要請が大きい。
金花銀(きんかぎん)賦課を嚆矢とする租税の銀納化や一条鞭法(いちじょうべんぼう)による金公課の一元化も官田問題の解決を重要な契機として推進された。