堺焼き討ち(さかいやきうち)は、豊臣家と江戸幕府の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。
この戦いで豊臣方の武将大野治胤が、2000もしくは5000の兵を率いて申の刻(午後3時から午後5時頃)に堺や住吉(住吉大社は無事)、周辺の港を焼き討ちした。堺を焼き討ちした際には、大坂の港を封鎖していた向井水軍・九鬼水軍との間で、撃ち合いになった。この時、向井忠勝は右の乳辺りに、陣幕にあたって逸れた二十匁の鉄砲の弾を被弾して負傷している。
焼き討ちを行った理由については、徳川方の兵站となっていた堺への報復[注釈 1]、また冬の陣で消費した兵糧・弾薬等の略奪も兼ねていた。
大坂城落城後、大野治胤は逃走を図ったが、5月21日に京都で徳川方に捕らえられた。治胤捕縛の報を受けた堺衆は、かつて平重衡が南都を焼き討ちした際、南都衆に引き渡された例を挙げ、京都所司代の板倉勝重に訴えた。板倉勝重は堺衆の訴えを認め、大野治胤を引き渡した結果、治胤は慶長20年6月27日に堺において火あぶりの刑に処された。しかし、その残虐な処刑方法を事後に知った勝重は、「南都の者たちも重衡に同じことをしてたのか?」と堺衆の過剰な報復を叱責したという。
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