ルー・ゲーリッグ

アメリカ合衆国のプロ野球選手 (1903-1941)

ヘンリー・ルイス・ゲーリッグHenry Louis Gehrig, ドイツ語: Heinrich Ludwig Gehrig(ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲーリヒ), 1903年6月19日 - 1941年6月2日)は、メジャーリーグプロ野球選手内野手)。ニューヨーク州ニューヨーク市生まれ。左投左打。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースで活躍した。三冠王をはじめ、打撃タイトルを多数獲得し、史上最高の一塁手と称される[1][2][3]

ルー・ゲーリッグ
Lou Gehrig
ルー・ゲーリッグ (1923年撮影)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
生年月日 1903年6月19日
没年月日 (1941-06-02) 1941年6月2日(37歳没)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
初出場 1923年6月15日
最終出場 1939年4月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1939年
選出方法 BBWAAによる特別選出

概要

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毎日プレーを厭わないその頑丈さから鉄の馬 Iron Horse(または、"Columbia Lou"、"Biscut pants"、"Larrupin' Lou"とも)と呼ばれ、1925年から1939年の14年間に渡り、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たした。しかし、1939年、体調異変を感じて自ら欠場を申し入れ、記録は途切れた[4]。後の診断で筋萎縮性側索硬化症と診断されたゲーリッグは引退を決意した(この病気は「ルー・ゲーリッグ病」と称されることもある[4])。

現役生活末期にレントゲン撮影を行ったところ、手だけで17もの骨折箇所が見つかった。連続出場はそれほどにも身体に負担を強いており、筋萎縮性側索硬化症の発症がなくとも、遠からずその記録は途切れていたものと推察される。

記録のためにただ出場を続けていたわけではなく、MLB史上に残る非常に優れた打者でもあった。17年間で2000近い打点を挙げ、生涯打率は.340(歴代17位)。通算の長打率OPSは歴代3位、出塁率でも歴代5位の.447と、打席に立てばほぼ2回に1回は塁に出た。オールスターに7回選ばれ(オールスターは1933年が初開催)、1927年1936年にはアメリカンリーグMVPを受賞、1934年には三冠王を獲得している。

1939年に当時史上最年少で殿堂入りを果たし、MLB史上初めて自身の背番号4」が永久欠番に指定された選手にもなった。

1941年6月2日に37歳で死去し、翌1942年にその半生を描いた『打撃王』が公開された。

連続試合出場記録は当初、不滅の記録とみなされていたが、1987年6月13日日本衣笠祥雄広島)に、MLBでは1995年9月6日カル・リプケン・ジュニアボルチモア・オリオールズ)にそれぞれ更新された。

野球人生

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プロ入り前

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ルーテル教会信者でありドイツ系移民である父ハインリヒ・ウィヘルム・ゲーリッグ(1867-1946)と母アンナ・クリスティーナ・ファク(1881-1954)の息子としてニューヨーク市に生まれる。姉妹が2人、兄弟が1人いたが、いずれも早逝している。父親はアルコール依存症てんかんを患っていたため板金工の職を中途解雇されることがたびたびあり、母親が一家の大黒柱としてメイドをして糊口をしのいでいた。幼いゲーリッグは、母に手伝って、洗濯物を畳んで近所の店に届けるなどしていた。両親は野球で息子が食べていけるとは思っておらず、母親は叔父がドイツで建築家として成功していたため、息子にも同じ道を歩ませようとしていた。

初めて野球で全国の注目を集めたのは、1920年6月26日にカブス・パーク(現在のリグレー・フィールド)で行われた試合であった。ゲーリッグの所属していたニューヨークの商業高校と当地シカゴのレーン工業高校との対戦で、1万を超える観衆を前に、9回表に場外満塁本塁打を打って12-6として勝利を決定付けた。

大学時代のゲーリッグ(1921年)

ゲーリッグはコロンビア大学で工学を専攻したが、学業に困難を覚え、大学をはなれてプロの野球選手になることを目指した。同チームの野球部では試合に出場することができなかった。その原因は大学1年生の夏休みに夏季プロリーグでプレーしてしまったことにあり、当時の彼は、そうした事由で大学において野球のみならず全てのスポーツをプレーできなくなる可能性を認識していなかった。しかし、結果的にはアメリカンフットボール部での試合出場が認められ、フルバックとして活躍した。

ゲーリッグの野球での活躍が新聞などで報じられるにつれ、母親も息子が野球選手を職業にできるかもしれないと思うようになっていた。当人も、当時熱心に誘ってくれたヤンキースと契約を結ぶか大学に残って卒業するか迷っていたが、母親が肺炎を患ったのを機に、契約金を医療費に充てるべくヤンキースへの入団を決断し、1923年4月30日に契約を取り交わした。さらに、その残余金で両親に初めての旅行をプレゼントした。

ヤンキースでの活躍

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1923年の途中からヤンキースの一員となり、同年6月15日には代打としてメジャーデビューを果たす。入団後の2年間は出場機会も限られており、1923年のワールドシリーズのメンバーには登録されなかった。 1925年には、当時の看板選手であるベーブ・ルースの直接指導の甲斐もあってレギュラーに定着し、437打席で打率.295、20本塁打68打点を挙げた。

1926年に主力打者として大きく開花し、打率.313に47本の二塁打と、アメリカンリーグでトップの20三塁打、16本塁打、112打点を挙げた。セントルイス・カージナルスと対戦した同年のワールドシリーズでは打率.348で4打点を挙げるものの、ヤンキースは3勝4敗に終わり、世界一にはあと一歩届かなかった。同年、渡米していた日本のセミプロ野球チームの大毎野球団がヤンキースタジアムを訪れており、その際にゲーリッグを「偉大なる体格の持ち主であって打撃は将来恐るべきもので、第二のルースとの噂が高い」と記している[5]

1923年。ニューヨーク・ヤンキースのユニフォームを着用するゲーリッグ
1927年。少年達に囲まれるゲーリッグ(右端)とベーブ・ルース(ゲーリッグの隣)

1927年は記録的な年であった。打率.373、47本塁打175打点に218安打を挙げ、同年のシーズン117長打はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位であり、また447塁打も歴代3位の数字である。ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」と呼ばれ、この強力打線を武器にヤンキースは110勝44敗の成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズも4連勝で制覇。この年のヤンキースこそMLB歴代最強のチームだと評されることもある。シーズン60本塁打を放ったルースを差し置いて、ゲーリッグはア・リーグの年間MVPに選出された(ちなみにゲーリッグとルースの2人でこの年のア・リーグの全本塁打439本の1/4近くを叩き出している。また、この年のア・リーグの本塁打ランキングでルース、ゲーリッグに続いたのが18本のトニー・ラゼリであり、ゲーリッグがルースと並ぶ傑出した長打力の持ち主であることは間違いなかった)。

ルースの陰に隠れがちではあったが、ゲーリッグの得点能力は球史でも随一のものだった。本塁打王に3回、打点王に5回輝き、打率.350以上6回、150打点以上7回、100四球以上11回、200安打以上8回、そして40本塁打以上が5回もあった。1931年の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。1934年には三冠王も獲得している。「アイアン・ホース」「静かなる英雄」と呼ばれ、陽気なルースと物静かなゲーリッグとは好対照でよく比較された[6]

私生活では、1933年9月にシカゴ・パークスの支配人フランク・ツイッチェルの娘エレノアと結婚している。後年、エレノア夫人はゲーリッグの最期を看取り、その時の回顧録を執筆している。

2130連続試合出場

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1925年6月1日、ゲーリッグは貧打の遊撃手ポール・ワニンガーの代打として登場。翌日にはスランプのレギュラー一塁手ウォーリー・ピップの代役として先発出場した[8]。この時のゲーリッグ起用はチームが不振であったための応急処置的な措置であり、当時のミラー・ハギンス監督が折々行っていたスターティング・メンバー〔スタメン〕変更の一環であった。しかし、ゲーリッグはこの1試合でチャンスをものにしてスタメンの座をつかみ、爾来14年に及ぶ連続試合出場記録が始まった。なお、ピップはこのシーズン終了後シンシナティ・レッズにトレードされている。

ゲーリッグの連続出場は、全試合フルイニングではなく(全試合フルイニング出場は1931年の1シーズンのみ)、時には代打出場によって続けられた。例として、腰痛の発作に襲われた際には「1番・遊撃手」で登録され安打を打った直後に交代したり、審判に抗議して退場となる(連続出場期間中にも6回退場を記録している)が既に打席に立っていたため出場と記録されたりしたこともあった。

「何かがおかしい」

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1938年シーズンの半ばから、ゲーリッグの成績は段々と下降線をたどり始める。これについて本人は当時、「シーズン半ばで疲れてしまった。なぜかはわからないが、何か頑張れる気がしない」と述べている。また、エレノア夫人には30歳の誕生日以来脚に力が入らなくなっていると伝えている。夫人はゲーリッグが脳腫瘍にかかったのかもしれないと心配していた。対戦相手であるデトロイト・タイガースの投手エルデン・オーカー英語版は後年、「ルーが病気になったと聞いたので、私は彼がいつからおかしくなったのか考えた。具体的な日時を言えと言われたら、1938年7月1日頃(この年のシーズン半ば)から、明らかに彼のプレイはおかしくなっていた」と回想している。

ゲーリッグはシーズン前の1938年1月に、西部劇映画『ローハイド』に主演俳優として出演している。映画の中でゲーリッグはビリヤードの球を投げつけたりするなど、一見問題ないようにアクションをこなしていたが、椅子から立ち上がるのに手を付いたり、歩くときに少しふらついたりするなどしており、下肢筋力低下の軽い症状があらわれていた。

ゲーリッグは次第に弱々しくなっていき、ロッカールームやフィールド上でさえ突然倒れてしまうこともあった。ほとんどの記者やファンは連続試合出場による疲れだと信じていた。35歳になってはいたが、周りのチームメイトもまだまだ限界ではないと思っていた。結局ゲーリッグは、1938年7月1日を境に、一時的に復調はするものの、低調のままシーズンを終えることになる。同年のワールド・シリーズでヤンキースはシカゴ・カブス に4連勝したが、ゲーリッグ自身の成績は14打席中、打率.286、4単打という散々なもので、祝勝会でゲーリッグはウィスキーを何杯もがぶ飲みしてひどく荒れていたという。

同年のゲーリッグの成績は打率.295、29本塁打、114打点とリーグ全体の平均値を遥かに上回っており、ルースの引退間際の成績さえ大きくしのいでいた。ただ、親友でもあったビル・ディッキーはゲーリッグの異変に気づいており、ある日ケチャップのボトルを持ち上げられず、代わりにディッキーが取り上げてやったエピソードが残っている。同年暮れには、道路のわずかな段差でもたびたびつまずくようになり、得意だったアイススケートでも頻繁に転ぶようになった。

シーズン終了後、ゲーリッグがニューヨークの専門家に話を聞きに行ったところ、胆嚢に問題があるという専門家の診断を受けた。エレノア夫人はこの見立てに疑いを隠さなかったものの、ゲーリッグはその診断を信じて治療を任せた。健康を取り戻してヤンキースの勝利に貢献することを自身の大きな目標とし、それに全力を注ごうとしたのである。ヤンキースに対する忠誠心は強く、球団が年俸の3000ドルダウンを提示してもゲーリッグは素直にそれを受けている。

翌1939年のスプリングトレーニングが開幕しても、ゲーリッグの気力が回復することはなく、例年通りに激しいトレーニングを行って心を奮い立たせようとしても、状況は改善されなかった。当時、注目の若手選手だったジョー・ディマジオによれば、動作全てが緩慢になり、打撃練習では、以前であればはるか彼方まで弾き飛ばしていたような投球ばかりであったにもかかわらず、19回も続けて空振りしたという[9]

同年のゲーリッグの成績は自己最低の34打席4安打1打点、打率.143であった。走塁面でも、キャリアを通じて積極的な走者であったゲーリッグだったが、同年には筋肉のコントロールを失いつつあり、走ることさえ困難となっていた。

記録の終わり

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ジョー・マッカーシー監督は球団首脳部からのゲーリッグをベンチに下げろとの圧力には従わなかったが、ゲーリッグ自身は次第に一塁守備を普通にこなすことも難しくなった。 同年4月30日、2130試合連続出場となったワシントン・セネターズ戦では無安打に終わった。そして、同試合での一塁守備で、なんでもないゴロを捕り、一塁ベースのカバーに入った投手ジョニー・マーフィーにトスして打者走者をアウトにした際、このプレーに対して二塁手のジョー・ゴードンや捕手のビル・ディッキーが口々にナイスプレーと言ってゲーリッグを元気づける場面があった。 同年5月2日、2日前のチームメイトからのそうした励ましに違和感を感じたゲーリッグは引退の潮時と悟り[9]、自ら監督のもとに出向き「俺は下がるよ、ジョー」と申し出た。マッカーシーはこれを承諾し、代わりにエルスワース・ダールグレンを一塁手として起用。ゲーリッグには、もし出たくなったらいつでも出すと言い渡した。そして、ゲーリッグ自身が責任審判に当日のラインアップ表を渡し、この日をもって彼の14年間に及ぶ大記録は途絶えた。試合開始前にタイガー・スタジアムの場内アナウンサーが「皆さん、これは2130試合ぶりにルー・ゲーリッグが試合に出ない日です」とアナウンスすると、デトロイトの観客はベンチにいるゲーリッグにスタンディング・オベーションで大記録の終焉しゅうえんを称え、ゲーリッグ本人は涙を浮かべた。

筋萎縮性側索硬化症の診断

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映画『ローハイド』に主演(1938年)

連続出場が途切れた後もゲーリッグはチームに帯同するものの、病状はさらに悪化。同年6月中旬にはエレノア夫人も再度脳腫瘍の可能性を疑っていた。エレノア夫人は、友人からミネソタ州ロチェスターメイヨー・クリニックにいるチャールズ・メイヨー医師への紹介を受け、同医師に相談をした。メイヨーもゲーリッグの突然の変貌に関心を抱いていたようで、すぐに本人を連れて来るように伝えた。エレノアはここで自分にしかゲーリッグの病状を伝えないようにとの条件をつけた。メイヨーはこれに難色を示し、「家の長にしか伝えられない」と述べると、エレノアは「自分が家計簿を握っているので自分が唯一の家長だ」と反論した。

同年6月13日、エレノアは直ちに当時ヤンキースが滞在していたシカゴからロチェスターへゲーリッグを連れて行き、メイヨーの診断を受けさせる。最初にゲーリッグを見たハベイン医師は、一目見た瞬間に歩き方や姿勢が明らかにおかしいのを見抜いていた。ゲーリッグの症状は、数か月前に自身の母をむしばんでいた筋萎縮性側索硬化症の症状に酷似しており、顔の表情機能の低下や奇妙な歩き方は母親と全く同じように見受けられた。筋萎縮性側索硬化症とは、嚥下や発語が困難になるなど、急激に運動機能が低下する一方、精神機能の低下は一切なく、急速に不自由になっていく身体を明晰な意識によって認識させられるという難病である。患者の約半数は、発症後3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する。

その後6日間、ゲーリッグはメイヨー・クリニックで過ごし、自身の36度目の誕生日にあたる6月19日、エレノア夫人とゲーリッグ本人に病名が告知された。 ただし、ゲーリッグはエレノア夫人に向けた手紙で以下のように記しており、詳しい症状はエレノア夫人にのみ通達されていたという説もある。

悪いニュースがある。筋萎縮性側索硬化症だという事だ。治療法はない……珍しい病気らしいし、感染したのかと思うけどでもチームメイトに伝染したとの話は聞かない。……今のまま暮らせる可能性は半々らしく、10年から15年後には松葉杖の生活かもしれない。野球を続ける事は論外だ……

ゲーリッグは、チームに復帰するために到着したワシントンの駅でボーイスカウトの集団に出迎えられたことがあった。その際、彼らに手を振って応えたが、かたわらの記者に「彼らは俺に幸運を祈っているよ、俺は死にそうなのに」と洩らしたという。

同年6月21日にヤンキースはゲーリッグの引退を発表。しかし、キャプテンとしてチームに帯同すると述べた。

「私はこの世で最も幸せな男です」

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ゲーリッグの背番号「4」。
ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番1939年指定。
映像外部リンク
ルー・ゲーリッグの引退スピーチ(MLB.comによる動画)

同年年7月4日のセネターズとのダブルヘッダーで、ヤンキースはルー・ゲーリッグ感謝デーを制定し、メジャーリーグの他チームを含む多くの人々がゲーリッグを祝福しに球場を訪れた[4]。同式典では、ゲーリッグが初めて栄冠をつかんだ1927年のワールドシリーズ制覇の記念旗が掲げられ、当時のヤンキースのナインもゲーリッグのために列席した。

また、ニューヨーク市長フィオーレロ・ラガーディアや、当時すでに現役を引退していたベーブ・ルースもスピーカーとして招かれた。ゲーリッグの成績上昇期はルースの下降期と重なったため、ルースはゲーリッグの連続出場記録を皮肉って、たまには休んだり釣りに行った方がいいんじゃないかと記者に述べることもあった。しかし、この日のスピーチでは、皮肉ではなく、心から一緒に釣りに行きたいと述べ、ライバルを称えた。2人がこのように親密さを示したのは、ゲーリッグの妻がルースと関係を持っていると一部メディアで報じられて以来初めてのことだった。

一方、マッカーシー監督はスピーチをしたら泣き出してしまいそうだとして、スピーチの依頼をなかなか受けようとはしなかった。しかし、最終的にはその要請に応え、ゲーリッグについて、「野球人、スポーツマン、そして一般市民としての素晴らしい例であり、野球というスポーツが出会った最良の人材である」と述べ、その後ゲーリッグに「ルー、君が『チームに迷惑をかけるので辞めます』と言いにきたあの日の悲しいデトロイトでの夜が、俺の人生の中で最も悲しい日のうちの一つだった。他に何が言えるかい?」と泣き顔で振り返った。

ヤンキースはゲーリッグの背番号「4」をMLB史上初の永久欠番に指定[4]。背番号制が導入されたのがゲーリッグのキャリア開始後の1929年であったため、彼の他にヤンキースで背番号4を付けた選手はいない。当日、ゲーリッグは、さまざまなVIPのみならず、スタジアムのグラウンドキーパー、用務員などの裏方からも贈り物をもらい、球団は銀のトロフィーをプレゼントした。

式典の後、この日の担当者マーサーはゲーリッグが泣き崩れているのを見て、「今日はゲーリッグにスピーチをしてくれとは言わないことにします。そうしない方が良いと思います」と述べ、マイクを片付けた。ゲーリッグもマッカーシーとフィールドを去っていったが、観客からゲーリッグコールが湧き上がり、本人もフィールドに戻りスピーチを始めた。ゲーリッグは歴史に残る名スピーチを行った。

ファンの皆様、ここ2週間に私が経験した不運についてのニュースをご存知でしょう。しかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています。私は選手として球場へ17年間通い続けてきましたが、いつもファンの皆様からご親切と激励をいただきました(Fans, for the past two weeks you have been reading about a bad break. Yet today I consider myself the luckiest man on the face of the Earth. I have been in ballparks for seventeen years and have never received anything but kindness and encouragement from you fans.)。……こちらにいらっしゃる偉大な方々をご覧下さい。例え一日でもこのような方々とともに同じ場所にいられることは最高の栄誉ではないでしょうか? 私は間違いなく幸せ者です。ジェイコブ・ルパートと知り合えて名誉だと思わずにいられない人がいるでしょうか? 最上の野球帝国を築き上げたエド・バローと知り合えたことを名誉だと思えない人は? 6年間過ごしてきた素晴らしい小さな仲間でもあるミラー・ハギンスと知り合えたことは? その後の9年間を、卓越した指導者であり、人の心理を読むことに長けた、知る限りもっとも素晴らしい監督ジョー・マッカーシーと知り合えたことを名誉と思わない人は? そんな人はいないでしょう。私は間違いなく幸せ者なのです(Look at these grand men. Which of you wouldn't consider it the highlight of his career just to associate with them for even one day? Sure, I'm lucky. Who wouldn't consider it an honor to have known Jacob Ruppert? Also, the builder of baseball's greatest empire, Ed Barrow? To have spent six years with that wonderful little fellow, Miller Huggins? Then to have spent the next nine years with that outstanding leader, that smart student of psychology, the best manager in baseball today, Joe McCarthy? Sure, I'm lucky.)。……ニューヨーク・ジャイアンツという、常に闘争心を駆り立ててくれたチームの選手から贈り物をいただき、グラウンド整備の担当者やホットドッグ売りの少年たちからも記念のトロフィーを貰えるなどということも素晴らしいという以外にありません。妻との口喧嘩の際に自分の娘よりも私に味方してくれた素敵な義母、さらに両親が懸命に働いてくれたおかげで私が教育を受けられ、そして立派に育つことが出来ました。私は神の祝福を受けたのです。比類のない強さを持ち、考えていた以上に勇気のある女性を妻に出来たことほど嬉しいことはありません(When the New York Giants, a team you would give your right arm to beat, and vice versa, sends you a gift - that's something. When everybody down to the groundskeepers and those boys in white coats remember you with trophies — that's something. When you have a wonderful mother-in-law who takes sides with you in squabbles with her own daughter — that's something. When you have a father and a mother who work all their lives so you can have an education and build your body — it's a blessing. When you have a wife who has been a tower of strength and shown more courage than you dreamed existed - that's the finest I know.)。……つまりは、私を不運だとおっしゃる方もいるかもしれませんが、数え切れないほど多くの人々からの愛情を受けている私の人生は本当に幸せなものなのです(So I close in saying that I might have been given a bad break, but I've got an awful lot to live for.)。……ありがとう(Thank you.)。[10]

観客は立ち上がり、約2分間スタンディングオベーションが続いた。ゲーリッグはマイクから離れて大きくよろけ、頬から流れる涙をハンカチでふき取った[11]。球場内で「あなたを心から愛してる英語版」が演奏され、聴衆が「ルー、私たちはあなたを愛してます」と歌詞を替えて歌う間、ルースはゲーリッグにかけ寄り、彼を優しく抱きしめた。翌日の『ニューヨーク・タイムズ』は「今まで野球場で見た光景の中で最も感動した場面の一つ」と報道し、ハードボイルドで知られた非情な記者たちさえも「懸命に涙をこらえていた」と伝えた[12]ダブルヘッダーの第2試合が終了して、ビル・ディッキーと一緒にヤンキー・スタジアムを後にしたゲーリッグは、彼の親友にはっきりとした口調で「ビル、今日のことはずっと先まで覚えておくつもりだ」と語った[13]。ジョー・ディマジオは野球場で二度涙を流したが、最初に泣いたのがこのゲーリッグのイベントであった(2度目は1949年10月1日のジョー・ディマジオ感謝デー)[14]

当時はテレビが普及していなかったため、「私はこの世で最も幸せな男です」というフレーズは、3年後に公開された映画『打撃王』の台詞として引用されて、世間に広く知られることとなった。この台詞はアメリカ映画協会(AFI)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として選定した『アメリカ映画の名セリフベスト100』の38位に選ばれた[15]。しかし、映画と実際のスピーチには異なる点があり、映画では、スピーチでの元オーナーやGMや球団の裏方、相手チームへの謝辞が削られる一方、新聞記者への謝辞が加わっている。また、実際のスピーチ冒頭の「最も幸せな男」というフレーズは、映画では締めくくりの言葉へと変更されている[4]

引退後

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野球殿堂博物館にあるレリーフ
1941年6月4日。葬儀にて一般公開されたゲーリッグの遺体
ゲーリッグ夫妻の墓。ニューヨーク州ヴァルハラケンシコ墓地に建てられている

ゲーリッグの引退後、ヤンキースの首脳部はゲーリッグが経済的に困らないよう全ての手を尽くすと述べ、フロント入りすることになっていた。当時の規則によると1939年の年俸は全て支払われることになっており、また病の進行によって歩けなくなるまで試合の観戦も続けた。アメリカ野球殿堂への投票権を持つ全米野球記者協会(BBWAA)もゲーリッグの病の状況を考慮し、特例としてゲーリッグに対する特別投票が行われ、殿堂入りが決定した。36歳という当時史上最年少での殿堂入りにもかかわらず、病により式典に参加することはできなかった。

ゲーリッグの病状を診断したメイヨー・クリニックもデスクワークならまだ出来ると想定していたものの、首脳部はフロント入りの約束を反故にして、ゲーリッグに違う仕事を探した方が良いと示唆。これに対しゲーリッグは激怒した。 同年10月、ラガーディアに請われて、10年任期の仮釈放委員会委員に就任した。ゲーリッグはこの仕事に意欲的に取り組んだ。同僚委員の回想によると、ゲーリッグは夫人同伴で出勤し、夫人の介助の下で囚人との面談や仮釈放審査の業務に当たっていた。囚人との面談の際はいつも、動かない両手を机の上に乗せたま彼らの話を熱心に聞いた。囚人が「俺の人生はツイていないんだ」と愚痴や同情を引くような話を長々としても、終始静かに耳を傾け、「俺もツイていないんだぞ」などとは決して口にしなかったという。ラガーディアはゲーリッグの仕事ぶりに大変満足していたと伝えられている。ゲーリッグは死の1か月前まで仮釈放委員会のオフィスに出勤して仕事をしていたが、次第に歩けなくなり、車椅子の利用も拒否したことから、ニューヨーク郊外・リバーデイルの自宅で完全に寝たきりの生活を送らざるをえなくなった。このころ、発見されたばかりのビタミンEが奇跡を願って投与されたが、何ら効果をあげることはなかった。

1941年5月下旬、ヤンキースの外野手、ジョージ・セルカークが病床のゲーリッグを見舞った折、最盛期には93kgあった体重がわずか41kgしかなかったという。それでも、ゲーリッグは「良くなったらトレーニングを始めるよ」と弱々しく語った[9]

同年6月2日に死去。37歳。38歳の誕生日の17日前だった。ラガーディア市長は市内全域に半旗を掲げるよう命じた[6]

エレノア夫人は、ゲーリッグの死後、誰とも再婚することはなく、余生を筋萎縮性側索硬化症の研究への支援に捧げた。彼女は1984年3月6日、自身の80歳の誕生日、夫の死から43年後に息を引き取った。晩年に出版した回顧録の中では「他の男性に20年間どんなに尽くしていただいたとしても、あの方と過ごした2分間に得ることのできた喜びや悲しみと引き替える気にはなれません」と述べている[16]

ゲーリッグが達成したMLBでの歴代1位記録は2つあり、いずれも後年、記録を塗り替えられている。

それでも、通算打点1995打点は、2022年シーズン終了時点で現在MLB歴代6位で、これを上回るのはハンク・アーロン(2297打点・755本塁打)、アルバート・プホルス(2217打点・703本塁打)、ベーブ・ルース(2213打点・714本塁打)、アレックス・ロドリゲス(2086打点・696本塁打)、バリー・ボンズ(1996打点・762本塁打)の5人で、いずれもが歴代通算本塁打トップ5であり、ゲーリッグ自身通算本塁打は493本塁打であること、また、ゲーリッグ自身の現役が17シーズン、出場機会の少なかった最初の2年間と引退した1939年を除けば実質14シーズンだったことを考えれば驚異的な記録と言えよう。

1999年にはMLBオールセンチュリー・チームに選ばれている。得票数は全選手中でトップだった。

2009年、引退70周年を記念して、MLB機構はALS関連の4団体を支援し、7月4日の試合ではセブンス・イニング・ストレッチの時にゲーリッグのスピーチが放送された[4]

2010年にゲーリッグは筋萎縮性側索硬化症ではなくCTEMという症状の似た別の病気だったという説が提唱されたが、CTEMは特殊な状態の組み合わせでしか発症しない極めてまれな病気であるためその可能性は低いと否定されている[17]

2021年、MLBは「ルー・ゲーリッグ・デー」を制定し、以後、毎年6月2日にALSの啓発運動や募金を行っている[18][19][20]。この6月2日は、1925年にゲーリッグがヤンキースの一塁手としてレギュラー選手に昇格した日であり、1941年にゲーリッグが死去した命日にあたる[19]

日本との関わり

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1931年1934年読売新聞社主催の日米野球において、全米選抜チームの一員として2度来日。大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)のルーツとなる全日選抜チームに対し、9戦全勝と圧倒している。沢村栄治の好投による「あわや完封負け」の危機から全米軍を救ったのがゲーリッグのソロ本塁打による1点だった。しかし、沢村にまつわる不滅の伝説である「全米軍のクリーンナップを4連続奪三振」の中には、ゲーリッグもその名を連ねている。

伝記映画

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死去の翌年の1942年、サム・ウッド監督による伝記映画『打撃王』(The Pride of the Yankees)が制作・公開された。原作はポール・ギャリコの『ルー・ゲーリッグ ヤンキースの誇り』。ゲーリッグ役をゲイリー・クーパーが演じた。ベーブ・ルースはじめ、ヤンキース時代のチーム・メイトの何人かも本人役で出演している。

1978年には、米NBCのテレビ映画『栄光のホームベース』(A Love Affair: The Eleanor and Lou Gehrig Story)が制作・放映された。妻エレノアの自伝書『ゲーリッグと私 ルー・ゲーリッグ伝』(著者:エレノア・ゲーリッグ、ジョセフ・ダーソー、訳者:宮川毅、ベースボール・マガジン社、1978年初版第1刷)が原作で、妻エレノア役をブライス・ダナー(晩年の未亡人役はパトリシア・ニール)、ルー・ゲーリッグ役をエドワード・ハーマンが演じた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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S
1923 NYY 132926611411209001--2--05--.423.464.7691.233
1924 1013122610075000--1--03--.500.538.5831.121
1925 12649743773129231020232686312--46--249--.295.365.531.896
1926 1556965721351794720163141126518--105--173--.313.420.549.969
1927 15571758414921852184744717510821--109--384--.373.474.7651.239
1928 15467756213921047132736414241116--95--469--.374.467.6481.115
1929 1546945531271663210353231264312--122--568--.300.431.5841.015
1930 154703581143220421741419174121418--101--363--.379.473.7211.194
1931 15573861916321131154641018417122--117--056--.341.446.6621.108
1932 156708596138208429343701514111--108--338--.349.451.6211.072
1933 1526875931381984112323591399131--92--142--.334.424.6051.029
1934 15469057912821040649409165950--109--231--.363.465.7061.171
1935 149673535125176261030312119870--132--538--.329.466.5831.049
1936 15571957916720537749403152343--130--746--.354.478.6961.174
1937 15770056913820037937366159430--127--449--.351.473.6431.116
1938 15768957611517032629301114611--107--575--.295.410.523.933
1939 833282400041000--5--012.143.273.143.416
MLB:17年 2164966380011888272153416349350601995102100106--1508--45790*2.340.447.6321.080
  • 「--」は公式記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度があることを示す。
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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背番号

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  • 4(1923年 - 1939年)

関連項目

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脚注

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  1. All-Time #MLBRank: The 10 greatest first basemen (英語). ESPN.com (2016年7月16日). 2017年8月27日閲覧。
  2. Best first basemen of all time (英語). Fox Sports (2016年10月20日). 2017年8月27日閲覧。
  3. Top 10 First Basemen in Major League Baseball history (英語). ThoughtCo. (2017年7月23日). 2017年8月27日閲覧。
  4. 1 2 3 4 5 6 「アメリカ野球雑学概論」『週刊ベースボール』2009年4月20日号、ベースボール・マガジン社、68頁、雑誌20445-4/20。
  5. 大毎野球団『野球の米國』大阪毎日新聞社、1926年、44頁。
  6. 1 2 伊東一雄『メジャー・リーグ紳士録』ベースボール・マガジン社、134-135頁。ISBN 4583034113
  7. 千葉功『プロ野球 記録の手帖』ベースボール・マガジン社、2001年、[要ページ番号]頁。ISBN 458303637X
  8. ピップが頭痛のため、欠場を訴えたという説もある。実際にピップ自身が「歴史上で一番高いアスピリンを飲んでしまった」と後に語っている[7]
  9. 1 2 3 伊東一雄、吉川達郎(監修)『メジャーリーグこそ我が人生 パンチョ伊東の全仕事』産経新聞ニュースサービス、2003年、202-204頁。ISBN 4594041175
  10. Full text of Lou Gehrig's farewell speech (英語). SI.com (2009年7月4日). 2014年7月16日閲覧。
  11. The Day He Retired (英語). Tripod.com. 2014年7月19日閲覧。
  12. John Drebinger, "61,808 Fans Roar Tribute to Gehrig", The New York Times
  13. Larry Schwartz. Gehrig legacy one of irony (英語). ESPN.com. 2014年10月2日閲覧。
  14. People & Events Lou Gehrig (英語). PBS.org. 2014年10月2日閲覧。
  15. AFI'S 100 GREATEST MOVIE QUOTES OF ALL TIME (英語). AFI.com. 2014年7月15日閲覧。
  16. Tara Krieger. Eleanor Gehrig (英語). SABR.org. 2014年7月20日閲覧。
  17. “Namesake Disease May Not Have Killed Lou Gehrig”. TIME (英語). TIME. 2010年8月17日. 2010年8月18日閲覧.
  18. MLB、毎年6月2日を「ルー・ゲーリッグ・デー」に」『AFPBB News』2021年3月5日。2025年6月2日閲覧。
  19. 1 2 Anthony Castrovince (2021年6月2日). Inaugural Lou Gehrig Day: All the details”. MLB.com. 2025年6月2日閲覧。
  20. Jeffrey Lutz (2025年6月1日). ルー・ゲーリッグ・デー開催でALS支援活動を強化”. MLB.com. 2025年6月2日閲覧。
  21. 当時の日本では「ゲーリッ」と呼ばれていた。

外部リンク

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