マイルス・デイヴィス 生誕100年、研究も新境地に 大谷能生

トランペットを吹くマイルス・デイヴィス=1960年ごろ、Photofest/AFLO

 「モダンジャズ」という音楽を半世紀近くにわたって牽引(けんいん)したトランペッター、マイルス・デイヴィス(1926~1991)。今年は生誕100年に当たるわけだが、リアルタイムで彼の活動に接した最後の世代の一人として、あらためて、「マイルスが亡くなってもう35年も経つのか……」と感慨を覚えている。

 アメリカ的なポップ・ミュージックを定礎したスウィング全盛時代にミュージシャンを志し、ニューヨークに出てビバップからモダンジャズへと発展してゆく潮流の第一線に飛び込み、自身のグループを率いてメジャーレーベルのコロムビアと契約。ジョン・コルトレーン、トニー・ウィリアムス、マーカス・ミラーなど数多くの才能を見出(みいだ)し、ともに演奏しアルバムを作り独り立ちさせてシーンに送り込み、そのようにして彼が生み出した音楽的山脈は21世紀に入ってもしっかりと「ジャズ」の屋台骨であり続けている。昨年の「モントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパン」ではハービー・ハンコックが「フットプリンツ」を演奏していたが、マイルス・サウンドのエコーは彼の名盤とともに今でも現役で鳴らされているのだ。

詳細に横顔紹介

 そんなマイルスの遺産を聴くに当たって座右に置いておきたい一冊が『マイルス・デイヴィス自伝』(マイルス・デイヴィス、クインシー・トゥループ著、中山康樹訳、シンコーミュージック・エンタテイメント・3300円)である。キャリアの全時期が満遍なく、レコーディング・セッションの内容、一緒に演奏したミュージシャンの個性、その時々の社会状況、女性遍歴など多彩なトピックが驚くべき詳細さで語られており、これが残されていなかったら「マイルス」というミュージシャンの印象は随分と違ったものになっていただろう。配信サイトで音源を手軽に聴くことが出来る現在においてこそ、このような本に当たって「歴史」に立ち会う作業は重要であると思う。

静寂を聴き取る

 マイルスの音楽についての批評と研究もここ数年であらたな段階に入ったように感じている。2025年に出版された『アンビエント/ジャズ』(原雅明著、Pヴァイン・2640円)は、和声進行に頼らない「モード技法」以後にマイルスが試みていたサウンドを、ブライアン・イーノが提唱・牽引した、「空間と調和して響く」ことを重視した「アンビエント・ミュージック」に接続させることで捉え直そうとする意欲作である。著者原氏は、膨大な録音物に触れることを通して「音楽だけが生み出す静けさ」を聴き取る耳を育てていったのではないかと思う。スピーカーに取り囲まれ、さまざまな音響を一方的に浴びせられ続けるぼくたちの日常にあって、マイルスから「静寂」を聴き取るこの感覚はとても大切なものであるはずだ。

 今年刊行された『マイルス・デイヴィス研究入門』(小室敬幸著、星海社新書・1870円)は、海外における「マイルス研究」の成果を反映させながら、60年代以降のマイルスの音楽の構造解析を行った著作である。新書であるにも拘(かか)わらず、特にエレクトリック期のマイルスを「研究」するための「入門」に必要なデータおよび見取り図の完備が図られた労作であって、例えば、ポール・バックマスターおよびカールハインツ・シュトックハウゼンがマイルスの「作曲」と「即興」に対して与えた影響についてなど、この本においてはじめて「研究」に相応(ふさわ)しい資料が提出されたのではないかと思う。

 これからのマイルスを巡る「批評」と「研究」がますます豊かになり、彼が残した音楽と「ジャズ」が、またあらたな文脈でもって21世紀生まれのリスナーの耳に届けられることを楽しみにしている。=朝日新聞2026年7月18日掲載