ダフト・パンク(Daft Punk)の解散以降、トーマ・バンガルテル(Thomas Bangalter)は素顔で世界を渡り歩いている。即興のDJセット、ハイブリッドな創作活動、バレエのために制作されたニューアルバム、そしていかなるカテゴリーに分類されることも頑なに拒むその姿勢とともに。ダフト・パンクが活動に終止符を打ったとき、その知らせは従来のような発表という形では届かなかった。長い説明も、最後のインタビューもなく、あったのは不可解なビデオと数枚の画像、そして言葉はほとんどなかった。消え去る瞬間に至るまで、このデュオは神話に最後の一枚のヴェールを重ねたのだ。その後、デュオの片割れであるトーマ・バンガルテルは、まるでマスクの裏側にいた人間もまた、異なる条件で世界に戻ってくる前にしばらく姿を消さなければならないかのように、表舞台から姿を消した。
ここ数カ月間におけるカムバックは、大々的なプロモーションのようでもなければ、華々しいカムバックのショーのようでもなかった。それは、いくつもの小さな、目立たないように行われた身振りが積み重なって、一連の活発な動きへとつながっていくような形をとっていた。ヘルメットを被らずに数枚のレコードを回すこと、即興のパフォーマンス、ダミアン・ジャレと名和晃平が手掛けたバレエのために彼が制作した、ダークで儀式的なエレクトロニック・スコア『Mirage – Ballet for 16 Dancers』、そして『インターステラ5555』の4Kリマスター版から『エレクトロマ』の20周年記念4Kリマスター版に至るまでの、ダフト・パンクの映画作品の新たな形での延命である。彼は、パリジャンたちがボーブールと呼ぶ近代美術館のランドマーク、ポンピドゥー・センターの閉館イベントと、ダフト・パンクの遺産を管理するレーベルである〈Because Music〉の20周年のためにパリに現れ、ロンドンではアレクサンドラ・パレスでフレッド・アゲインと共演し、そしてつい最近では、即興のセットを披露するためにニューヨークのThe Lot Radioに現れた。披露されたトラックの数々は、まるで彼が30年前にやっていたような、自由な初期衝動を感じさせるものだったが、当時とはひとつだけ決定的な違いがあった。「もうロボットではなく」ひとりの人間として、飾らない形で交流する自由を感じながらセットを行うことができた、と彼は言う。
おそらく、神話のあとの人生が形作られるのはそこなのだ。こうした計画されていない身振りの中に、クラブミュージック、バレエ、現代アート、エレクトロニクス、そして交響楽の間を行き来する動きの中に、フィクションを否定することなく置き去りにし、コントロールされたイメージから存在そのものへ、伝説から即興へと移行するこの手法の中に。かつてのキャラクターが、割り当てられたノスタルジーから解放され、誰かの型にはまりたいという欲求もほとんど持たずに、素顔で動き回るその流動的な空間において、会話は始まる。
The Lot RadioでのDJセット常識やルールに縛られない音楽観ー最近、あなたはまた素顔で、しばしば予期せぬ場所でDJブースの前に姿を現していますね。それは、ダフト・パンクの巨大な仕組みから離れて、音楽や人々と再びつながるための方法のように感じられましたか?トーマ:できるだけシンプルな方法で、見世物にすることなく、ひとりの人間として戻ってこようとしていたのだと思う。ダフト・パンクにおいて、姿を隠すことは美的な主張であり、同時にイデオロギー的、政治的、芸術的な主張でもあった。今でもそのすべてを支持している。しかし、それはフィクションでもあった。私は自分自身の人間性を、もう一度ごくシンプルに主張する必要があったのだ。おかしなことに、控えめでありたいからマスクの裏に隠れるのに、どういうわけか、そのマスクがそれ自体の神話を作り出してしまうんだ。
ーパリのポンピドゥー・センターにヘルメットなしでサプライズ登場したことは、世界中で大きな話題となりました。16年ぶりのDJセットでしたが、その反応をどう感じましたか?トーマ:心底驚いたよ。みんなはロボットやダフト・パンク、あるいはそのすべてが象徴するものに興味があるのだと思っていたから。ああいったメディアの注目からは距離を置くようにしているんだ。以前にも似たようなことがあった。コーチェラのピラミッド・ステージのときだね。その前、1997年に僕らが最後に行ったライブはパリのクラブ、エリゼ・モンマルトルでの1000人規模のものだった。それから10年後、ほぼSFのような演出とともに戻ったら、僕が予想もしなかった規模で観客がその物語に入り込んでいくのを目の当たりにした。ダフト・パンクが解散したとき、僕は『オズの魔法使い』のカーテンの裏にいる小さな老人、つまり中年で平凡な男になるということに完全に納得していた。研究の道へ戻り、より個人的でアンダーグラウンドな仕事に打ち込む準備ができていたんだ。
ーなぜポンピドゥー・センターでのあの瞬間が、美術館の閉館記念と〈Because Music〉の20周年の狭間で、しっくりくるものだと感じたのでしょうか?トーマ:パリジャンとして、僕はポンピドゥー・センターが形成期の一部となっている世代に属している。子供の頃、あの場所が僕の教育のあり方や、世界との出会い、そしてのちにエレクトロニック・ミュージックと出会う感性を形作ったんだ。あの祝祭に参加することは、とても個人的なことだと感じられた。それに、僕らと長い間一緒にいて、今はダフト・パンクの遺産を管理するレーベル〈Because Music〉を共同運営しているペドロ・ウィンターの存在も大きかった。ボーブール(ポンピドゥー・センター)、〈Because〉、ペドロ、共有された歴史、そしてこのごくシンプルで、ほとんど偶然のような身振り。すべてに納得がいったんだ。観客の反応にはもちろん感動したけれど、終わったあとにボーブールのスタッフたちと話したことのほうが、もっと深く心に刺さったかもしれない。彼らは何かパワフルで、非常に感情的な経験をしていたんだ。そこには、クラブや音楽の枠を超えたつながりがあった。
ーもうひとつ、ほとんどシュールに感じられる瞬間がありました。ジャック・シラク元フランス大統領が文化やポンピドゥー・センターについて語った演説と、ダフト・パンクのトラックをミックスしたことです。あの二つが共存しているのを聴いて、私自身、驚きを隠せませんでした。トーマ:1995年に僕らがレコードを出したとき、僕たちの音楽はシラクに対する反抗であり、自分たちのサウンドが政治政党に利用されることへの拒絶でもあったと記憶している。関わりたくないことのひとつだったんだ。でも、世界は変わった。政治は当時よりもずっと低いレベルに落ちてしまった。だからこそ、今では自分の主義主張に閉じこもることなく、物事を違った角度から聴き、違った方法で組み合わせることができるんだ。
ーそうしたセットでプレイするトラックは、どのように選んでいるのですか?トーマ:僕は音楽を愛しているけれど、自分をDJだとはあまり思っていない。これまでいろいろな時期に、いろいろなものを聴いてきた。だから、それらの間に境界線があるようには感じないんだ。最近は創造的な面でより自由を感じているし、好奇心を後回しにするのではなく、それに従う意欲も強くなっている。実践としては、連想ゲームのように次から次へと移っていく。30年前でさえ、僕はいつも自分の聴きたいものをプレイしていた。「その曲の次にその曲をかけるのか?」と、それを大胆なことだと捉える人もいたけれど、実際はただ、愛する曲をかけて、そのあとにまた別の曲をかけるというだけの話なんだよ。
今年2月、フレッド・アゲインとロンドンのアレクサンドラ・パレスで共演ーご自身を音楽愛好家と表現されていますが、その聴き方はどのように形作られたのでしょうか?トーマ:長い間、音楽は僕の人生において、自分が通り過ぎるあらゆるものの背景に流れるサウンドトラックのような、やや周辺的な位置にあった。音楽との関係はかなり偶然の産物だったんだ。時間が経つにつれて、僕は音楽を尊重すること、そして他の表現形態と比較したときの音楽ならではの独自の力を認識することを学んだ。音楽は非言語的で、神秘的で、中毒性がある。それは反復や快楽に関係しており、文学や映画(僕がより愛していたかもしれないものだね)とは全く異なる一種の条件づけを伴う。音楽には、ほとんどシャーマニズムに近い何かがある。僕はそれを徐々に理解していったのだと思う。それは僕の人生の中心にはなかったけれど、僕が理論を経ることなく探求し続けたいと思うような、魔法の力を持っていた。
ある時点でヴェルヴェット・アンダーグラウンドに衝撃を受けたけれど、そこに至るまでには多くの段階があった。スティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、ザ・ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス……。そうして一つのことが次へとつながっていく。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴いて、それからスーサイドやアラン・ヴェガと出会う。糸をたぐり寄せていくんだ。僕は昔から、ディスコ、パンク、ニュー・ウェイヴ、そしてロックが、どちらかの陣営を選ぶことを強いることなく共存できるあり方が大好きだった。極めてニッチで、極めてシャープなものと、極めてメインストリームなものを、すべて並列に愛しているんだ。