「棍棒」としてのソーカル事件——寓話化された『知の欺瞞』史観の批判的再検討

要約
本稿は、1996年のソーカル事件を、単なる「ソーカル 対 ポストモダン」の勝敗劇としてではなく、事件そのもの、『「知」の欺瞞』による事後的再解釈、そして後続の受益者による寓話化・棍棒化という三層の出来事として再検討する。Social Text 編集部の判断が重大な失敗であったこと、またラカンやクリステヴァらの一部テキストに科学・数学用語の誤用が存在することは否定しない。しかし本稿は、そこから「ポストモダン思想全体の破産」「人文学の欺瞞」「科学と理性の全面的勝利」へと進む通俗的推論には、証拠の射程を超えた飛躍があると論じる。
とくに本稿は、『「知」の欺瞞』的批判に含まれる複数の命題を分解する。すなわち、(A) 科学用語の誤用が存在すること、(B) その誤用が読者に深遠な科学性として受け取られたこと、(C) その印象が思想家の権威や影響力を高めたこと、さらに (D) 科学用語の濫用が彼らの知的権威の重要な源泉であったことは、それぞれ別個に検証されるべき命題である。ところが実際には、最初の命題 (A) を示すテキスト批判が、残る三つの命題 (B・C・D) をも証明したかのように扱われてきた。
本稿はさらに、ソーカル事件が他の学術ホークスや査読実験よりも巨大化した理由を、実証力の強さにではなく、寓話としての圧縮性、嘲笑のしやすさ、既存のサイエンス・ウォーズ/カルチャー・ウォーズとの接続、そして後続の受益者による反復使用に求める。受益者たちは、事件を「ソーカル 対 ポストモダン」という単純化された図式に押し込め、自らを「事件の外側」に置きながら事件を反復利用することで、ほとんどコストを負うことなく「科学の側」「理性の側」「欺瞞を見抜く側」に立つという利益を得た。本稿はこの過程を、事件の「棍棒化」と呼ぶ。
結論として、本稿は、ソーカル事件を相対化することはポストモダン思想を擁護することではなく、むしろ「主張は証拠に比例せよ」というソーカル的基準を、ソーカル事件の使用者自身に適用することだと主張する。ソーカル事件の本来の教訓は、「分からないものを分かったふりで使うな」であった。だが三十年後に見えてくるのは、「ソーカル事件」を分からないまま、知的・道徳的地位を得るための棍棒として使い続けた言説である。「分からないものを分かったふりで使うな」という教訓を残したはずの事件が、その事件をよく知らない人々によって繰り返し使われることで、他のホークスとは比較にならないほど長く生き延びた。本稿は、このイロニーこそが現在なお検討されるべき問題だと論じる。
序 三十年後の問い
1996年春、ニューヨーク大学の物理学者アラン・ソーカルが、カルチュラル・スタディーズ系の左派理論誌 Social Text に一篇のパロディ論文を掲載させた。「境界を侵犯すること——量子重力の変換解釈学に向けて」と題されたその論文は、科学用語とポストモダン理論の語彙を意図的にナンセンスに縫い合わせたものであり、掲載直後、ソーカル自身が Lingua Franca 誌上でホークス(悪戯)であることを暴露した[^1]。以来三十年、この「ソーカル事件」は、学術ホークスの代名詞であるにとどまらず、「ポストモダン思想の知的破産」「人文学の欺瞞」「科学と理性の勝利」を一語で喚起する記号として流通し続けている。
本稿の目的は、この事件を再び裁き直すことではない。Social Text 編集部の判断が失敗であったこと、ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『「知」の欺瞞』(仏語原著 Impostures intellectuelles、1997年)が収集した科学・数学用語の誤用の多くが実際に誤用であることは、本稿の前提である。問題はその先にある。すなわち、この事件と著作から実際に何が証明され、何が証明されていないのか、そして証明されていない部分がなぜかくも長期にわたり「証明済み」として流通してきたのか、という問いである。
本稿の中心命題は次のように定式化できる。
ソーカル事件が巨大化し、三十年にわたって影響力を保持したのは、それが最も厳密な実証だったからではない。事件は、後続の『「知」の欺瞞』によって「ポストモダン思想家による科学用語濫用」という大きな物語に接続され、さらに後続の受益者たちによって「科学 対 ポストモダン」「理性 対 反知性」の寓話——すなわち論争上の棍棒——へと変換されたからである。
重要なのは、事件そのものよりも、事件の使われ方である。あらかじめ用語を定義しておくなら、本稿で「棍棒化」とは、個別の引用・読解・論証を省略し、「ソーカル事件」という事件名そのものを、相手の知的資格を剥奪するための判決として用いることを指す。
この命題を検討するために、本稿はソーカル事件を単一の出来事としてではなく、三層の出来事として分節する。第一層は1996年のホークスそのもの、第二層は1997年以降の『「知」の欺瞞』によるテキスト批判、第三層は両者を素材とした後続の寓話化・棍棒化である。長期的に最も強く作用したのは、本稿の見るところ、第三層である。
層 内容 そこから直接に言えること 第一層 1996年のホークス(パロディ論文の掲載と暴露) Social Text の一回の編集判断の失敗 第二層 『「知」の欺瞞』(1997年〜)によるテキスト批判 一部思想家のテキストにおける科学・数学用語の誤用 第三層 後続の受益者による寓話化・棍棒化 事件が「科学 対 ポストモダン」の道徳的境界線として機能してきたこと
本稿がとりわけ問題化するのは、この三層の接合部、すなわち科学用語の誤用が実際に読者を魅了し、思想家の権威を増したという受容史的命題が、テキスト批判の成功に便乗して「証明済み」として流通してきた過程である。以下、第1章で事件の経緯を確認し、第2章で『「知」の欺瞞』的批判が含む複数の命題を分解する。第3章では、その中で最も検証されていない命題——科学用語の濫用が思想家の権威と影響力を実際に高めたという受容史的主張——を検討する。第4章ではソーカル事件そのものの証拠射程を、ソーカル本人の限定を含めて画定する。第5章では類似のホークス・査読実験との比較を通じて、なぜソーカル事件だけが巨大化したのかを分析する。第6章では事件が長期的に持続した機構、すなわち棍棒化の力学を記述する。第7章では、この寓話化された事件史観への疑義をただちに「ポストモダン擁護」と同一視する党派的構図を、科学社会学と道徳哲学の道具立てによって相対化する。結論では、事件の本来の教訓と、その教訓が反転して流通しているという逆説を提示する。
なお、あらかじめ本稿の立場を明示しておく。本稿は Social Text を免罪せず、ラカンやクリステヴァの科学用語使用を擁護せず、『「知」の欺瞞』の局所的批判の多くを正当と認める。本稿が対象とするのは、それらの正当な批判が、証拠の射程を超えて一般化され、道徳的寓話として消費されてきた過程そのものである。この区別——批判の正当性と、批判の濫用への批判——を維持できるかどうかが、本稿全体の賭金である。
第1章 事件の経緯——三層の第一層と第二層
1.1 パロディ論文と暴露
ここでまず、舞台となった媒体そのものの性格を正確に押さえておく必要がある。Social Text は、しばしば「カルチュラル・スタディーズの主要学術誌」と紹介されるが、この呼称は事後的な単純化を含む。同誌は1979年、スタンリー・アロノウィッツ、ジョン・ブレンクマン、フレドリック・ジェイムソンの3人によって創刊された自主刊行の理論誌であり、創刊時の副題は「理論/文化/イデオロギー」、創刊趣意書は自らの枠組みを「広義のマルクス主義」と規定し、大学の内外にまたがる文化的左翼を組織するネットワークの形成を掲げていた[^41]。すなわち出自において、同誌は特定分野の査読機関誌というより、政治的・知的雑誌に近い。1992年にデューク大学出版局の刊行に移ってからは外形的に学術誌の体裁を強めたが、事件当時の1996年においても外部査読制は採用しておらず、掲載は編集集団の内部判断によっていた[^6]。「著名な北米のカルチュラル・スタディーズ誌」という枠づけ自体、後述するようにソーカルが自らのホークスの標的価値を提示する際に用いた定式であり、事件の修辞的演出の一部であったことに注意すべきである。この媒体の二重性——学術誌として攻撃するに足る外形と、査読誌ではなかったという弁明の余地の同居——は、第5章で見るように、事件が一義的決着を迎えずに長期化した構造的条件の一つとなる。
ソーカルの論文「境界を侵犯すること」は、Social Text 第46/47合併号(1996年春/夏)に掲載された。この号は「サイエンス・ウォーズ」特集号であり、科学の社会的構築性をめぐる当時の論争——自然科学者と、科学論・カルチュラル・スタディーズ研究者との対立——に人文学側から応答する企画であった。ソーカルは後に、自らの動機を「著名な北米のカルチュラル・スタディーズ誌が、(a)もっともらしく響き、(b)編集者のイデオロギー的先入見に阿るならば、ナンセンスをちりばめた論文を掲載するかどうか」を試すことにあったと説明している[^2]。
論文は量子重力理論とポストモダン認識論の「深い親和性」を主張する体裁をとり、実在する物理学の文献と実在するポストモダン理論の文献を大量に引用しながら、科学的には明白に不合理な命題(たとえば物理的実在が言語的・社会的構築物であるという主張への物理学からの「支持」)を積み上げた。引用と参考文献はすべて実在のものであり、ソーカルが模倣素材とした「悪文と科学的な出鱈目」の実例には事欠かなかった——後の『「知」の欺瞞』は、まさにこの素材集を再編したものである[^3]。
掲載号の刊行とほぼ同時に、ソーカルは Lingua Franca 誌1996年5/6月号に「ある物理学者、カルチュラル・スタディーズを実験する」を発表し、論文がパロディであることを明かした[^4]。事件は New York Times 一面を含む主要メディアに波及し、学術界の内外で激しい論争を引き起こした。
1.2 Social Text 側の応答
編集委員のアンドリュー・ロスとブルース・ロビンズは、Lingua Franca 誌上の応答(いわゆる「ミステリー・サイエンス・シアター」)において、掲載の経緯を釈明した。その骨子は、彼らがソーカル論文を科学的達成として高く評価したのではなく、当初から文章にいささか「うさんくさい(hokey)」ところを感じつつも、自然科学者がポストモダン認識論に接近してくる「症候的文書」として、つまり「その時代のドキュメント」として掲載価値を認めた、というものである[^5]。物理学者が自分の分野の展開についてポストモダン哲学からの承認を真剣に求めてくる——その事実自体が特集号の文脈で読者の興味を引く、と彼らは判断した。
この弁明は暴露後に出された事後的な自己説明であり、編集部に有利な再構成を含みうるものとして、当時から「みっともない後出し」と広く嘲笑された。実際、専門的確認を経ずに科学的内容を含む論文を掲載した編集判断の失敗は、この弁明によっていささかも軽減されない。当時の Social Text が外部査読制を採らず、編集集団の内部判断で掲載を決めていたことも、後の論争で繰り返し指摘された[^6]。同誌編集部が1996年のイグノーベル文学賞を「受賞」したことは、この時点で事件がすでに公共的な嘲笑の対象として完成していたことを象徴している。
しかし、本稿の観点から重要なのは、この説明が虚偽の取り繕いであったか否かではなく、仮に額面通りに受け取った場合にそれが露出させる失敗の種類である。編集部の自己説明を額面通りに受け取るなら、彼らは「デタラメな物理学を深遠で正しいと誤認した」のではなく、「著者の属性(物理学者)と論文の文脈的価値(サイエンス・ウォーズにおける症候性)を、内容的妥当性の審査の代替にしてしまった」のである。これは免罪ではない。むしろ批判の照準をより正確にする。だがこの区別は、後に見るように、事件が「人文学者は科学用語に騙される」という寓話に変換される過程で、ほぼ完全に消去された。
1.3 『「知」の欺瞞』——第二層の成立
事件の翌1997年、ソーカルはブリクモンとの共著 Impostures intellectuelles をパリのオディール・ジャコブ社から刊行した(英語版 Fashionable Nonsense は1998年、日本語版『「知」の欺瞞——ポストモダン思想における科学の濫用』は2000年)[^7]。同書は、ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ=ガタリ、ヴィリリオら、主としてフランスの思想家たちのテキストから科学・数学用語の使用箇所を抽出し、章ごとに逐条的な批判を加えるものである。
著者たちは序文で、自分たちの標的が社会科学や人文学一般ではなく、「難解な専門用語で知的空洞を隠す特定の型のペテン師」であり、その警告を学生に与えることが目的だと明言している[^8]。また引用の恣意性への予防として、「文脈から切り離して意味を歪曲していないことを示すため、読者を退屈させる危険を冒してでも、かなり長い一節を引用した」とも述べている[^9]。
パロディ論文(第一層)と『「知」の欺瞞』(第二層)は、しばしば一体のものとして語られるが、両者の論理構造は異なる。前者は一誌の一回の編集判断を対象とする n=1 のホークスであり、後者は複数の思想家のテキストにまたがる誤用事例集である。両者を接続することは可能だが、同一視はできない。そして、後に詳述するように、事件の寓話化はまさにこの接続——『「知」の欺瞞』が事後的にパロディ論文を「実在する言説空間の圧縮された症例」として意味づけ直す操作——によって駆動された。
第2章 命題の分解——『「知」の欺瞞』は何を主張しているのか
2.1 四つの命題
『「知」の欺瞞』的な議論は、しばしば次の四つの命題を一続きのものとして提示する。
A. ラカンやクリステヴァらは、科学・数学用語を誤用した。 B. その誤用は、読者にはナンセンスではなく深遠なものとして受け取られた。 C. その深遠さの印象が、彼らの権威や影響力を高めた。 D. したがって、科学用語の濫用は彼らの知的権威の重要な源泉であった。
この四命題は、論理的にも証拠論的にも独立である。A はテキスト批判によって示すことができる。B は読者受容の証拠を、C は影響力形成の因果的証拠を、D は他の要因との比較考量を、それぞれ必要とする。『「知」の欺瞞』とその通俗的受容の最大の問題は、A の証拠によって B・C・D までもが立証されたかのように語られてきた点にある。以下、各命題の成立度を順に検討する。
2.2 命題A——誤用の存在は、かなりの程度示されている
命題 A を否定する必要はない。物理学者マシュー・ベナクイスタは『「知」の欺瞞』英語版への書評(The Montana Professor、1999年)において、同書が挙げる事例を三つの類型に整理している。第一は、科学・数学の原理それ自体は正しいが、まったく不適切な文脈に持ち込まれている類型。第二は、科学・数学の内容が端的に誤っている類型。第三は、真偽の判定以前の純然たるナンセンスである[^10]。
第一類型の代表例として、ベナクイスタはクリステヴァによる選択公理の使用を挙げる。詩的言語を集合論に基づいて形式化できると仮定した上で、詩的意味の機能が選択公理の指定する原理に従う、とクリステヴァは論じる。ベナクイスタの評価では、選択公理の説明そのものは「本質的に正しい」。しかし、そこから引き出される結論——あらゆる系列が書物のメッセージを含む——は、選択公理と何の論証的関係も示されていない。ソーカルとブリクモン自身、この一節について「この主張が数学と文学のどちらにより大きな暴力を加えているのか、我々には判断しかねる」と皮肉っている[^11]。
第二類型の代表例がラカンである。「人間の生は、ゼロが無理数であるような計算として定義できるだろう」というラカンの発言に対し、ベナクイスタは端的に指摘する——ゼロは整数であり、したがって定義上、無理数ではない。さらにラカンが「無理数」の説明として持ち出す「マイナス1の平方根」は虚数であって、無理数でもゼロでもない[^12]。『「知」の欺瞞』が広く知らしめた「勃起器官は意味作用の√−1に等しい」という『エクリ』の一節も、数学的命題としては端的にナンセンスである。
第三類型としてベナクイスタが挙げるのは、ヴィリリオの原文193語に及ぶ一文である。彼の評言は簡潔である——「素朴な人は、これが当該分野の専門家には何かを意味するのだろうと想定するかもしれない。しかし、その分野は科学ではない」[^13]。
したがって、局所的なテキスト批判としての『「知」の欺瞞』——「この箇所では数学が議論上の仕事をしていない」「この箇所では数学用語が誤っている」「この箇所では科学的厳密さの印象だけが漂っている」——は、十分に成立する。ただしベナクイスタは、ここで重要な限定を付している。引用が正確であるならば科学は確かに濫用されている、しかしその濫用は、より広範な「論理、明晰な思考、そして言語」の濫用の付随物にすぎない、と^14。つまり、これらのテキストの問題の核心は「科学に対する罪」というより「悪文と衒学」であり、科学はその一被害者にすぎない。この限定は、後述する「科学の防衛」という事件の寓話的枠組みにとって、実は相当に不都合な指摘である。
なお、命題 A の水準においてすら、批判が一枚岩でないことは付記しておくべきである。ラカン研究者ブルース・フィンクは『文字通りのラカン』(2004年)において、ソーカルとブリクモンがラカンの数学的概念使用を「数学的基礎づけの主張」として読んだこと自体を誤読とし、ラカンは数学概念を明示的にメタファーとして使用していたと反論している[^15]。ジョン・スターロックも London Review of Books 誌上で、両物理学者がジャンルと言語使用の水準を取り違えた「言語的還元主義」に陥っていると批判した[^16]。デリダの応答「ソーカルとブリクモンは真面目ではない(Sokal et Bricmont ne sont pas sérieux)」も同じ系列に属する[^17]。本稿はこれらの再反論の当否には立ち入らない。指摘したいのは、最も強固に見える命題 A でさえ、「何を誤用と数えるか」をめぐる解釈上の争いを含んでいるという事実だけである。
2.3 命題B・C・D——受容と因果の主張は、別の証拠を要求する
問題は命題 B 以降である。ラカンの√−1が数学的にナンセンスであるとして、ポストモダン思想の読者は、それを本当に「数学的に深い」「科学的に権威がある」「ゆえにラカンはすごい」と受け取ったのか。
これはまったく自明ではない。命題 A はテキストの内在的分析で足りるが、命題 B は読者の受容という経験的事実に関わり、命題 C はさらに影響力形成の因果に関わる。そして命題 D に至っては、思想家の権威を構成する諸要因(理論的内容、制度、弟子、翻訳、知的流行等)の中で科学用語の寄与を分離同定するという、受容史研究としても相当に困難な課題を要求する。
ソーカルとブリクモンの側には、この点について一つの心理的推定がある。すなわち、議論上の仕事をしていない専門用語がそれでもテキストに置かれている以上、それは非科学者読者を感心させ、威圧するために置かれているのだろう、という推定である[^18]。この推論は、局所的にはもっともらしい。ある数学用語が本当に何の論証的機能も果たしていないなら、それを装飾・威圧・衒学と見なすのは自然な解釈である。
しかし、この推定を一般化するには慎重でなければならない。著者の意図、読者の受け取り、知的共同体内での機能は、テキストの内在的分析だけからは決定できない。「この語は不要である、ゆえに権威づけのためにある、ゆえに読者は権威を感じた、ゆえに影響力が増した」という推論の連鎖は、各段階で経験的裏づけを欠いたまま、テキスト批判を受容史的主張へと密輸する。次章で見るように、実際に受容の証拠を探すと、この連鎖はむしろ逆向きの証拠に突き当たる。
第3章 受容史の不在——科学用語は本当に権威として機能したのか
3.1 難解さは魅力か、障壁か
命題 B の検証には、まず反実仮想的な問いを立てるのがよい。ポストモダン思想の非専門読者にとって、ラカンのマテーム(数学素)やトポロジーへの言及は、どのような経験だったのか。
ラカンに好意的な文脈で書かれたテキストの証言は、この点で示唆的である。ジェイソン・グリノスとヤニス・スタヴラカキスは、ソーカル=ブリクモンへの反論を意図した論文「姿勢と詐称——ラカンの文体と数学的科学の使用について」(2001年)の冒頭で、次の事実を「ラカンの共鳴者と批判者に共通の了解」として確認している。ラカンは読むのが難しい。そして数学的科学が加わると、事態はいっそう難しくなる。大半の読者は最も単純な数学的言明にすら不安を覚えるのであり、一般位相幾何学や結び目理論といった秘教的に響く下位分野への言及となればなおさらである[^19]。
つまり、ラカンに好意的な論者でさえ、彼の数学的記号法が読者に与える第一次的効果を「魅力」ではなく「困難」「不安」として記述することから議論を始めているのである。非専門読者の反応の空間は、「うわあ、数学っぽくて深い」という単一の反応で覆い尽くされてはいない。分からないから威圧される読者、分からないから苛立つ読者、その部分を読み飛ばす読者、数学としてではなく形式化への欲望の表現として読む読者、ラカンの他の側面に魅力を感じて数学的部分を周辺的と見なす読者、そしてラカンの数学使用をまさに問題視する読者——これらすべてが実在した。「数学的記号が魅力的な権威づけとして機能した」という単純な物語は、この多様性を最初から消去している。
3.2 ラカン派内部の「広範な抵抗」
さらに強い反証が、ラカン派内部の受容史から得られる。ピーター・D・マシューズは『ペテン師ラカン(Lacan the Charlatan)』(2020年)——チョムスキーが1989年に発したラカン「ペテン師」告発の妥当性を、反ラカン的批判者たちの議論を逐一検討することで測定しようとする研究書——の第3章「数学的ペテン師ラカン」において、ソーカル=ブリクモンの一つの中心的主張を俎上に載せる。すなわち、ラカンの特異な数学的形式化は、彼の追随者たちが彼の思想に盲目的に従う意志を反映している、という主張である。マシューズは、ソーカル=ブリクモンが想定するこの「ラカン派の盲従」という像に疑問を呈し、ラカン派の思想家たちの検討からむしろ浮かび上がるのは、この理論的方向性への広範な抵抗であると論じている[^20]。
この知見の含意は大きい。もしラカンの数学的形式化が読者に対する強力な権威づけ装置として機能していたのなら、その効果が最も強く現れるはずの場所——ラカンの直接の弟子と研究者の共同体——において、マテームとトポロジーへの熱狂的追随が観察されなければならない。ところが、マシューズの調査が見出すのは、その方向への抵抗と留保である。「ラカンの数学がラカン派を盲従させた」という像は、少なくともこの調査が描くラカン派の言説史とは整合しない。
もちろん、逆の極論——ラカンの数学は誰にも相手にされなかった——も成り立たない。ラカンのトポロジーやマテームは、後期ラカン研究や精神分析理論の一部において真剣な主題となり、教育的・概念的価値を認める研究も存在する^21。しかし、そこから言えるのは「ラカンの数学的形式化は一部のラカン研究において主題化された」までであって、「それがラカンの権威や影響力を増やした」「読者は数学的正しさを感じて魅了された」「科学用語濫用がラカン受容の主要なエンジンだった」という命題 B・C・D には、依然として遠く届かない。
3.3 影響力の主因は数学ではない
命題 D——科学用語の濫用が知的権威の重要な源泉だった——を検討するには、ラカンの影響力の実際の構成を見ればよい。標準的な哲学史記述において、ラカンは20世紀フランスの知的生活における「セレブリティ思想家」、「フランスのフロイト」とも呼ばれる精神分析の中心人物として位置づけられ、その影響は、フロイトへの回帰という理論的プログラム、無意識・主体・欲望・言語をめぐる概念構築、象徴界・想像界・現実界の三領域論、構造主義およびポスト構造主義との接続、そして半世紀以上にわたる大陸哲学における精神分析受容の中心性によって説明される[^22]。そこに加わるのが、セミネールという制度、弟子と学派の形成、出版と翻訳、知的流行の力学といった社会的要因である。
ここで注目すべきは、標準的な説明のどこにも「√−1がすごかったから」「トポロジーが数学っぽかったから」という項が現れないことである。ラカンの影響力を説明する変数は多元的であり、数学的記号法はその中の——擁護者にとってすら扱いに困る——一要素にすぎない。この状況で「科学用語が彼の権威を作った」と主張することは、因果の特定として粗雑にすぎる。
3.4 何が証明に必要だったか
「科学用語の濫用が彼らを権威づけ、影響力を高めた」という命題を本当に立証しようとするなら、必要な証拠の種類は明確である。読者が実際に数学・物理用語を権威として受け取ったことを示す読者調査ないし同時代証言。ラカンやクリステヴァの受容史において、数学・科学語彙を含む箇所が他の箇所より多く引用・称賛されたことを示す引用分析。大学院教育や研究会において、これらの数学的記号が深遠なものとして教えられた教育史的証拠。科学用語を含まない著作・論点と含むものとの影響力の比較分析。そして「数学的形式化がラカンの権威を増した」と述べる読者・弟子・批評家の証言。
『「知」の欺瞞』にも、その通俗的流通にも、この種の証拠はほとんど登場しない。登場するのは、テキストの内在的分析(命題 A)と、そこからの心理的推定(「こう書かれている以上、読者を威圧するためだろう」)である。ベナクイスタが整理する通り、ソーカルとブリクモンの明示的な目的は「難解な専門用語で知的空洞を隠す型のペテン師」への警告であった[^23]。この目的設定自体が、「専門用語は読者を欺くために置かれ、実際に欺いた」という受容モデルを、証明抜きに前提している。
公平のために付言すれば、「弱いがありうる推測」として残る部分はある。この種の専門語使用が、一部の読者、とりわけ専門外の読者に「自分が分からないだけかもしれない」という不安を生じさせ、威圧的に機能した可能性は否定できない。人間が難解なものを深遠と誤認する傾向をもつことも事実である。しかし「可能性がある」と「主要な源泉だった」との間には、受容史研究の全行程が横たわっている。そしてその行程は、ほとんど誰にも歩かれていないのである。
したがって、本章の結論はこう定式化できる。科学用語の濫用が「読者を欺くために置かれ、実際に欺いた」という命題は、テキスト批判によってではなく、受容史研究によって検証されるべき命題である。『「知」の欺瞞』は前者を行ったが、後者をほとんど行っていない。
第4章 ソーカル事件は何の証拠か——射程の画定
4.1 事件が直接示すこと
三層モデルの第一層に戻ろう。ソーカル事件そのものが直接に示すのは、次の一事である——Social Text の編集者たちが、ソーカルのパロディ論文を専門的確認なしに掲載した。それ以上ではない。
この限定は、事件を「矮小化」する者の強弁ではない。ほかならぬソーカル本人の公式見解である。ソーカルは事件後の論文「Social Text 事件が証明すること、しないこと」(1998年)において、掲載事件がカルチュラル・スタディーズの科学論における知的水準について何を証明し、何を証明しないかを明示的に検討した[^24]。そこでの彼の立場は明確である。掲載という事実だけからは、文化研究全体、科学の文化研究、科学社会学全体の無意味さや知的水準の低さは示せない。直接に言えるのは、一つの雑誌の編集者たちが知的義務を怠ったという限定的な事実である。ソーカルの批判の本体は、掲載事実そのものではなく、彼が同時代の科学論テキストに見出した無意味・不条理な陳述、名辞の羅列、偽の博識、ずさんな思考、粗雑な哲学、安易な相対主義に向けられていた^25。
つまり、「ソーカル事件が人文学の破産を証明した」という通俗的理解は、ソーカル自身の射程管理にすら反している。この点は、第6章で見る棍棒化の力学を考える上で決定的に重要である。棍棒的使用者は、ソーカルを旗印に掲げながら、ソーカルの限定を無視するという二重の操作を行っているからである。
4.2 編集部の失敗の正確な記述
第1章で確認した通り、Social Text 側の自己説明は、彼らがソーカル論文を「数学や物理学が深遠だから」掲載したのではないことを示している。彼らは最初から文章にうさんくささを感じつつ、物理学者によるポストモダン認識論への接近という「症候性」を掲載価値と判断した[^26]。
この弁明は編集判断の擁護としては成立しない。しかし、事件の証拠論的位置づけにとっては重要な情報を含む。すなわち、ソーカル事件は、
科学用語が読者を魅了し、権威づけとして機能した
ことの証拠ではなく、
一部の編集者が、著者属性とサイエンス・ウォーズという文脈における症候的価値を、内容審査の代替にした
ことの証拠なのである。前者と後者はまったく異なる失敗である。前者であれば、事件は命題 B(読者は科学用語を深遠と受け取る)の一つの実例となりえた。後者である以上、事件はラカンやクリステヴァの読者受容について何も語らない。せいぜい、外部査読を欠く編集体制が文脈的価値判断に流されやすいという、学術出版制度論上の教訓を与えるにとどまる。
したがって、ソーカル事件から正当に引き出せる命題は、おおよそ次の範囲に収まる。Social Text 編集部は、物理学・数学・科学哲学を含む論文を専門的確認なしに掲載した。編集部は、論文の内容的妥当性よりも、特集号における文脈的価値や症候性を重視した。その結果、科学用語のデタラメな使用を含む論文が掲載された。これは編集判断として重大な失敗である。——ここまでは強い。しかし、「ラカンやクリステヴァの科学用語濫用が実際に彼らの権威を高めた」「ポストモダン読者は科学用語に騙されていた」「人文学者は数学的記号を見ればすごいと思う」「科学用語濫用がポストモダン思想の影響力の主要因だった」——これらはいずれも、この事件からは導出できない。n=1 の編集判断から読者集団一般の認知傾向への推論は、いかなる基準でも飛躍である。
4.3 「あとづけ」の構造
それでは、なぜこの n=1 の事件が「ポストモダン思想家の科学用語濫用」の証拠として流通しえたのか。鍵は、第二層による第一層の遡及的な意味づけ直しにある。
パロディ論文だけであれば、事件から言えることは前節の範囲に限定される。ところが『「知」の欺瞞』が刊行されると、パロディ論文は単なる悪戯ではなくなる。それは「実在するポストモダン思想家たちの科学用語濫用を模倣した、圧縮された症例」として読み直される。事件そのものは n=1 なのに、『「知」の欺瞞』という事例集が後から接続されることで、「これは偶然ではない、背景に実在する言説空間があったのだ」という読みが可能になる。第一層の出来事が、第二層によって遡及的に「代表例」へと昇格するのである。
この「あとづけ」には一定の根拠がある。ソーカルのパロディが模倣した悪文と誤用は実在した(命題 A)。しかし、この接続が同時に密輸するのは、命題 B・C・D である。「模倣素材が実在した」ことと「その素材が読者を欺き、権威を生産していた」こととは別であるのに、パロディの成功(=掲載)が、あたかも後者の実証実験であったかのように語り直される。かくして、一誌の編集判断の失敗が、一つの思想潮流の認識論的破産の「実験的証明」へと変貌する。この変貌こそ、第三層——寓話化——の入口である。
第5章 比較の欠如——なぜソーカル事件だけが巨大化したのか
5.1 類似実験との比較
ソーカル事件の受容の特異性は、類似の実験・ホークスと比較したときに初めて見えてくる。この比較を最も体系的に行ったのが、科学技術社会論(STS)研究者スティーヴン・ヒルガートナーの論文「文脈の中のソーカル事件」(1997年)である。
ヒルガートナーが比較対象に選んだのは、ウィリアム・M・エプスタインが1990年に発表した実験である。エプスタインは、ソーシャルワーク分野の学術誌に架空の論文を投稿し、その応答を測定するという、ソーカルと同型——ただしはるかに体系的——の方法を用いた[^27]。方法論的に見れば、単一の雑誌に単一の論文を送っただけのソーカルの「実験」よりも、エプスタインの研究のほうが実験計画として明らかに優れている。ヒルガートナーはさらに、ソーカルが自らのより強い主張(学術水準の低下)を厳密に検証するつもりであったなら、外部査読制を採らない Social Text ではなく、外部査読を行う複数の学術誌を対象とすべきであったこと、そもそも Social Text が「カルチュラル・スタディーズ」「科学社会学」「STS」といった広大で多様な研究領域の何を代表するのかがまったく検討されていないことを指摘する[^28]。
ところが、受容は完全に非対称であった。方法論的に優れたエプスタインの実験はほとんどメディアの注目を集めず(むしろ研究倫理面での譴責の対象となった)、方法論的に粗雑なソーカルのホークスは世界的事件となった。ヒルガートナーの説明はこうである——確証バイアスに似た機構を通じて、受け手は、自分があらかじめ否定的に見ている標的への攻撃に対して、より緩い証拠と倫理の基準を適用する[^29]。ソーシャルワークという社会的に受容された分野への攻撃は黙殺され、カルチュラル・スタディーズという既に嘲笑の対象となりつつあった分野への攻撃は、証拠の質を問われることなく受け入れられた。さらに事件は、ポストモダン左派アカデミアを攻撃したい既存の論者・メディアによって増幅された。
査読制度をめぐる他の実験と比べても、この非対称は際立つ。ピーターズとチェチは1982年、既に掲載済みの心理学論文12本の著者名と所属を無名のものに変えて同じ一流誌群に再投稿するという実験を行い、38人の関係者のうち再投稿に気づいたのは3人のみ、審査に進んだ9本のうち8本が(多くは「方法論的欠陥」を理由に)不採択となったことを報告した[^30]。これは査読の信頼性に対する、ソーカル事件よりはるかに体系的で、ある意味でより深刻な打撃である。2013年にはジョン・ボハノンが、明白な欠陥をもつ生物医学論文を304のオープンアクセス誌に送付し、157誌が受理したことを Science 誌上で報告した[^31]。2005年には、MITの学生たちが自動生成プログラムSCIgenで作成した無意味なコンピュータ科学論文が国際会議に採択される事件も起きている^32。
これらはいずれも学術的品質管理の重大な失敗を示す。しかし、どれも「事件」として神話化されてはいない。ピーターズ=チェチは査読研究の古典として専門家に引用され、ボハノンは捕食学術誌問題の文脈で語られ、SCIgenは愉快な逸話にとどまる。ソーカル事件だけが、三十年にわたり文明論的な意味を担わされ続けている。
5.2 スキャンダルとしての完成度
この非対称を説明するのは、実験としての質ではない。スキャンダルとしての完成度である。
第一に、圧縮率。「物理学者が、ポストモダン誌に、量子重力のデタラメ論文を載せた」——ソーカル事件はこの一文に完全に圧縮できる。この一文だけで、笑うことができ、怒ることができ、誰かを馬鹿にでき、自分を理性の側に置くことができる。対して、ピーターズ=チェチの実験は「査読制度の信頼性」という制度論に、ボハノンは「捕食誌の問題」という出版産業論に回収される。重要だが、地味であり、誰の道徳的優越感にも奉仕しない。
第二に、既設の戦場。事件の舞台となった Social Text 第46/47号は、まさに「サイエンス・ウォーズ」特集号であった。1990年代前半、グロスとレヴィットの『高次の迷信』(1994年)に代表される自然科学者側の反撃によって、科学論・カルチュラル・スタディーズ対自然科学という対立の構図は既に形成されていた。ソーカル事件は火のないところに火をつけたのではなく、既に燃えていた戦場の中心に爆発物を投げ込んだのである。修辞学者マリー・シーコアとリンダ・ウォルシュは、ソーカル事件の修辞学的分析(2004年)において、この事件への異常なまでに激しい反応が、ホークスという修辞ジャンルの力学——標的自身の前提、自負心、近視眼に訴えることで標的の目を眩ませる——と、編集者の職業的虚栄心を捉えた文体、そしてカルチャー・ウォーズの再燃という文脈の複合によって説明されると論じた[^33]。事件は論文の正誤の問題である以上に、晒し、嘲笑、境界線引き、道徳化の出来事だったのである。
第三に、標的の適度な曖昧さ。第1章で見た通り、Social Text は、自主刊行の左派理論誌として出発し、1992年以降デューク大学出版局から刊行される一方、当時なお外部査読制を採らないという二重性をもつ媒体であった。攻撃する側は「著名なカルチュラル・スタディーズの学術誌が騙された」と語ることができ、擁護する側は「そもそも査読誌ではなく、政治的・知的雑誌である」と応じることができる。どちらの記述も部分的に正しいがゆえに、論争は一義的な決着に到達せず、事件は長引いた。付言すれば、通俗的な事件の語りが前者の記述(「学術誌」)のみを採用してきたこと自体が、寓話化の一部である——標的は権威ある学術誌であればあるほど、ホークスの打撃価値が上がるからである。
第四に、攻撃者の位置。ソーカルは高い職業的地位をもつ物理学者であり、しかも自らを保守派ではなく左派として提示した(彼はニカラグアのサンディニスタ政権下で数学を教えた経歴を公言していた)。これにより事件は「右派による人文学攻撃」ではなく「左派の科学者による左派アカデミア内部の自浄」として読むことが可能になり、保守派、リベラルな科学者、左派内部の反相対主義者のいずれにとっても使いやすい素材となった。
要するに、ソーカル事件は最も優れた実験だったのではない。最も優れたスキャンダルだったのである。そして、スキャンダルとしての優秀さと証拠としての強さとは、まったく別の性質である。この二つの混同——流通量を証明力と取り違えること——が、事件の三十年を貫く基本的な錯誤である。
第6章 棍棒化の力学——事件はなぜ長く残ったのか
6.1 第三層の担い手
三層モデルの第三層、すなわち寓話化・棍棒化の担い手は、ソーカル本人でも Social Text でもない。それは、事件後に「ソーカル事件」という札を切ることで利益を得てきた後続のアクターたち——本稿の用語では棍棒的受益者——である。
利益構造の非対称性に注意されたい。ソーカルは自らの学問的信用を賭けてホークスを実行し、その後も射程の限定という(棍棒使用者には不評な)作業を引き受けた。Social Text は信用を失った。ポストモダン思想と人文学の側は広範な評判被害を受けた。これに対して後続の受益者は、何のリスクも負わず、何の検証作業もせずに、「ソーカル事件」の一語を提示するだけで、科学の側、理性の側、欺瞞を見抜く側に立つことができた。事件の長期的生命力は、この低コスト高リターンの利益構造によって維持されてきた。
二つの限定を置いておく。第一に、本稿が受益者を事件の「最大の長期的アクター」と呼ぶとき、「最大」とは事件の発端を作ったという意味ではなく、事件の通俗的意味を長期にわたって固定し、反復し、拡張したという意味である。第二に、本稿はソーカル事件を参照するすべての批判者を棍棒的受益者と呼ぶのではない。一次資料を読み、証拠の射程を限定し、反論可能な命題の形で批判を提出する者は、責任ある批判者である。棍棒的受益者とは、事件名を証拠の代用品として用い、検証コストを負わずに道徳的優位を得る者を指す。両者を分かつのは、事件への言及の頻度でも批判の強さでもなく、主張の強度と証拠の強度の比例関係を維持しているか否かである。
6.2 棍棒の五つの性能
事件が棍棒として優秀であった理由は、少なくとも五つに分節できる。
第一に、短い。「ソーカル事件でポストモダンは終わった」という一文は一秒で言える。これに反論するには、Social Text の編集体制、ソーカル本人の限定、パロディ論文と『「知」の欺瞞』の区別、受容史的証拠の不在、ヒルガートナーの比較分析、後述する物理学者側の越境的濫用まで、長い説明が必要になる。棍棒は一振り一秒だが、解毒には講義一コマかかる。この非対称は、言説市場において棍棒側を構造的に有利にする。
第二に、笑える。人は「ひどい文章」を引用したがる。ベナクイスタは自らの書評について、正直な自己観察を残している——引用文献の性質を示そうとして、私自身が著者たちと同じ罠に落ちた、文章があまりにひどいので、長々と引用したいという衝動に抗しがたいのだ、と。そして彼は続ける。不幸なことに、科学の濫用を記述するという著者たちの本来の意図は、こうした拷問のような悪文の迷路の中でしばしば見失われる[^34]。『「知」の欺瞞』の読書経験の中核には、この加虐的な愉悦——ポストモダンの大立者たちが馬鹿に見えることの快——がある。そして笑いは、議論よりも速く、遠くまで伝播する。
しかし、ここには見過ごされてきた逆説がある。『「知」の欺瞞』が読者を笑わせることに成功すればするほど、つまりラカンの√−1やクリステヴァの選択公理を読んだ我々が「これはひどい」と即座に思うのだとすれば、まさにその分だけ、「ポストモダン読者はこれを深遠な科学性として受け取り、魅了された」というソーカル=ブリクモンのより大きな主張(命題 B)は疑わしくなるのである。我々一般読者に一瞥でナンセンスと分かるものが、なぜ当時の読者にだけは権威として機能したと言えるのか。「読者は難解さに騙される」というモデルと「誰が読んでも笑ってしまう」という同書の実際の効果とは、静かに矛盾している。加えて、ここでの笑いは証拠の代替物として機能する危険をもつ。「笑えるほどひどい」ことは、「そのひどさが実際に権威を生産した」ことを意味しないからである。
第三に、道徳的に気持ちよい。ソーカル事件を引くと、引いた者は自動的に、科学、理性、明晰さ、知的誠実性の側に立つことができ、相手を晦渋、相対主義、詐術、反科学の側に置くことができる。ここで事件への言及は、事実の伝達ではなく、道徳的身分の表示として機能する(この点は第7章で理論的に敷衍する)。
第四に、攻撃範囲を拡張しやすい。棍棒の打撃範囲は、時間とともに一貫して拡大してきた。最初の標的は Social Text 一誌であった。それがポストモダン思想へ、人文学全体へ、左派アカデミア全体へ、さらには現代のジェンダー研究、ポストコロニアル研究、活動家的言説一般へと拡張される。2017年から2018年にかけてプラックローズ、リンジー、ボゴジアンの三人が実行した、いわゆる「不満研究(grievance studies)」ホークス——ジェンダー研究等の学術誌に20本の偽論文を投稿し、発覚時点で7本が採択されていた——が、実行者らによって明示的に「ソーカル二乗(Sokal Squared)」と呼ばれ、ソーカル事件の正統な後継として演出されたことは、この拡張の系譜を象徴している[^35]。事件の射程が大きく語られれば語られるほど、それを引用する受益者の得る道徳的利益も大きくなる。拡張への圧力は、棍棒の利益構造そのものに内蔵されている。
第五に、反論を吸収しやすい。「事件から言えることは限定的だ」と言えば「矮小化だ」と返され、「Social Text 側の言い分の位置づけも正確にしよう」と言えば「言い訳を美化している」と返され、「『「知」の欺瞞』は受容史的主張を実証していない」と言えば「ポストモダン側に立つのか」と返される。こうして、事件の射程を限定する学術的作業そのものが、陣営への裏切りとして処理される。反論が反論として届かず、反論者の陣営分類に変換される——この吸収機構こそが、棍棒を三十年間、摩耗から守ってきた。
6.3 基準の非対称適用——ベラーの問い
棍棒化のもう一つの徴候は、「科学概念の濫用」という基準が一方向にしか適用されないことである。物理学史家マーラ・ベラーは、事件の熱がまだ冷めない1998年、Physics Today 誌に「ソーカル・ホークス——我々は誰を笑っているのか」を発表し、物理学者たちの哄笑に冷水を浴びせた[^36]。ベラーが示したのは、量子力学の創設者たち——ボーア、ハイゼンベルク、パウリ、ボルンら——自身が、量子論の概念を物理学の外部、すなわち心理学、政治、宗教、認識論一般へと、しばしば根拠薄弱なまま拡張してきたという事実である。相補性原理から自由意志や東洋思想や民主主義を論じる物理学者たちの言説は、ポストモダン思想家の科学用語借用と、少なくとも同程度に「越境的」であった。ポストモダン思想家たちが処刑されている罪状の多くは、物理学の巨人たちの著作にも見出せる——では、我々は誰を笑っているのか、というのがベラーの問いである。
この問いの含意は明快である。科学概念の濫用を本気で知的犯罪として裁くのであれば、その基準は人文学者にも科学者にも等しく適用されなければならない。ところが棍棒的使用においては、基準は常に「あちら側」にのみ適用される。この非対称性は、問題関心が知的誠実性の擁護にではなく、陣営の攻撃にあることの、ほとんど診断的な指標である。誤解を避けるために付言すれば、ベラーの論点は「ポストモダン思想家も許せ」ではない。「嘲笑と断罪の基準を対称化せよ」である。基準の対称化がもたらすのはポストモダンの免罪ではなく、裁く側の資格審査なのである。
6.4 小括——寓話としての使いやすさ
以上を総合すれば、序論で立てた二つの問い——なぜソーカル事件だけが巨大化したのか、なぜ事件と『「知」の欺瞞』はかくも長く影響力を持ったのか——への答えは一つに収束する。事件が巨大化したのは、既存のサイエンス・ウォーズ/カルチャー・ウォーズの戦場において、「物理学者がポストモダン誌を騙した」という異常に圧縮しやすい物語を提供したからである。そして長く残ったのは、『「知」の欺瞞』がパロディ論文を遡及的に代表例化し、さらに受益者たちがそれを「科学 対 ポストモダン」の道徳的棍棒として反復使用したからである。
つまり、ソーカル事件の持続力の源泉は、事件そのものの実証力ではなく、寓話としての使いやすさにある。証明として強かったから残ったのではない。棍棒として優秀だったから残ったのである。
第7章 党派性の相対化——「疑う者は人類の敵」という構図を検査する
7.1 問題の所在
以上のような分析——事件の証拠射程の限定、受容史的主張の未証明性の指摘、棍棒化の力学の記述——に対して、しばしば向けられる反応がある。すなわち、寓話化された『知の欺瞞』史観に少しでも疑問を呈する者はポストモダン思想の擁護者であり、相対主義者であり、反科学であり、極端な修辞においては「人類の敵」とすら呼ぶような反応である。本章の課題は、この党派的構図を相対化することである。
ただし、ここでいう相対化は、ソーカル事件を小さく見せることでも、Social Text を免罪することでも、ポストモダン思想を擁護することでもない。むしろ逆である。ソーカル事件を棍棒として使う党派的見方そのものを、ソーカル的基準——主張は証拠に比例せよ、という基準——で検査すること。これが本章の意味での相対化である。
7.2 正当な核の承認と、拡張の切断
相対化の第一歩は、相手の議論の強い部分を承認することである。Social Text 編集部の判断はまずかった。ソーカル論文はパロディであり、科学・数学・哲学の語彙をナンセンスに組み合わせていた。編集部は十分な専門的確認をしなかった。暴露後の弁明もかなり苦しかった。『「知」の欺瞞』には、ラカン、クリステヴァ、ラトゥールらの科学用語使用について、局所的には有効な批判が含まれる。——ここまでを否定する必要はないし、否定すべきでもない。
問題はその先の拡張である。Social Text の失敗、ゆえにポストモダン思想全体の失敗、ゆえに人文学全体の失敗、ゆえに左派アカデミアの失敗、ゆえに科学批判をする者は反知性、ゆえにこれに疑問を呈する者はポストモダン側、ひいては人類の敵——この連鎖の各段階は、いずれも論証されていない飛躍である。そして連鎖の終点において、事件はもはや証拠ではなく、忠誠テストになっている。
7.3 「矮小化」と「射程管理」の区別
この党派的構図の最も狡猾な操作は、証拠の射程を管理する作業を「矮小化」と呼び換えることである。両者は区別できるし、区別しなければならない。
本当の矮小化は存在しうる。「ソーカル事件はただの悪ふざけで、Social Text 側には何の問題もなく、科学用語の濫用など存在しなかった」と言うなら、それは矮小化である。しかし、「Social Text の失敗は重大だが、そこから人文学全体の破産は導けない」「『「知」の欺瞞』は個別箇所の赤ペンとしては強いが、科学用語の誤用が思想家の権威を実際に高めたことは示していない」「ソーカル事件を現代のあらゆる活動家的言説に接続するには別途証拠が必要である」と言うことは、矮小化ではない。それは、あらゆる経験科学が日常的に行っている証拠の射程管理である。
棍棒的使用の言説空間では、この区別が組織的に潰される。射程管理を行う者は「ポストモダン側に立った」と見なされ、慎重な分析は敵への加担に変換される。だが、主張の強度を証拠の強度に合わせて調整することは、まさにソーカルとブリクモンが(彼らの最良の瞬間において)ポストモダン思想家に要求したことにほかならない。射程管理を裏切りとして処理する言説は、自らが掲げる知的規範を、自らに対してだけ適用免除しているのである。
7.4 命題から陣営テストへ
「寓話化された『知の欺瞞』史観に疑問を呈する者はポストモダン擁護者であり人類の敵である」という言明は、学術的命題の形式をもたない。それは陣営テストである。この構図の下では、本来問われるべき問い——その引用は正確か、その誤用は当該思想の中心的か周辺的か、その誤用は読者に権威として受け取られたのか、その思想家の影響力の源泉は本当に科学用語だったのか、ソーカル事件はその証拠になるのか、n=1のホークスから分野全体へどこまで一般化できるのか、物理学者による科学概念の越境的使用にも同じ基準を適用するのか——が一切問われず、代わりにただ一つの問いが発せられる。「お前はどちら側なのか」。これは知的議論の形式をまとった忠誠審査である。
7.5 三つの理論的照明
この構図は、印象論としてではなく、確立した理論的道具立てによって記述できる。
第一に、ヒルガートナーの「大規模誤読(wholesale misreading)」。ヒルガートナーは前掲論文の冒頭で、ソーカル事件を他の関連する出来事と比較せずに考察してきたことが、その意義の大規模な誤読に寄与したと述べ、事件が科学の文化研究、科学社会学、科学史、STSといった広大で多様な諸分野の「破産の証拠」として提出されてきた読み方を、まさにその誤読として批判した[^37]。この観点から見ると、「事件の大きな意味を疑う者はポストモダン側である」という構図は、この大規模誤読を訂正から防衛する装置として機能している。誤読の可能性を検討すること自体が敵への加担として処理されるとき、誤読は原理的に訂正不能になる。
第二に、トマス・ギーリンの「境界作業(boundary-work)」。ギーリンは1983年の古典的論文において、科学と非科学の境界線を引く実践が、単なる認識論的作業ではなく、科学の公共的イメージと知的権威を確保するための修辞的・イデオロギー的実践でもあることを示した。科学は、対比される非科学的活動が何であるかに応じて、経験的、理論的、純粋、応用的といった、その場に好都合な特徴を付与される[^38]。ソーカル事件の棍棒化は、教科書的な境界作業として読める。こちら側に科学、理性、明晰さ、誠実さを、あちら側にポストモダン、相対主義、晦渋さ、欺瞞を配置し、この境界線を疑う者を自動的に「あちら側」に分類する。ここで事件は歴史的出来事であることをやめ、「誰が本物の知識人で誰が偽物か」を決定する境界画定装置になっている。そして境界線を引く行為自体が、引く者に利益——自分は科学の側、見抜く側、裁く側であるという地位——を配当する。
第三に、ジャスティン・トシとブランドン・ウォームキーの「道徳的グランドスタンディング(moral grandstanding)」。トシとウォームキーは、公共的な道徳言説への参加が、道徳的に立派な人物として他者に認知されたいという欲求によって駆動される現象を分析した[^39]。ソーカル事件の棍棒的引用の多くは、この構造を正確に示す。「私はインチキを見抜く側だ」「私は科学を守る側だ」「私は反知性に騙されない側だ」。このとき事件への言及は、何が起きたかを説明するためではなく、話者がどちら側の人間かを示すために行われている。そして、その身分表示に疑問を呈する者が「ポストモダン側」「相対主義側」「人類の敵」として処理されるのは、疑問が身分表示の価値を毀損するからである。これは議論ではなく、道徳的陣営形成である。
7.6 ソーカル本人という不都合な証人
棍棒化の構図にとって最も皮肉な事実は、ソーカル本人の限定がしばしば棍棒の邪魔になることである。第4章で見た通り、ソーカルは掲載事実だけからは人文学全体の破産は導けないと明言している^40。棍棒的受益者にとって、事件は大きければ大きいほどよい。ポストモダンだけでなく、人文学全体、左派アカデミア全体、現代のあらゆる活動家的言説にまで打撃範囲が広がるほうが、棍棒として有用だからである。その結果、ソーカル本人の射程管理すら、時に「矮小化」として扱われるという倒錯が生じる。ソーカルを旗印にしながら、ソーカルの限定を無視する——これこそ、ソーカル事件の濫用の完成形である。
7.7 「人類の敵」という語の論理的性格
最後に、「人類の敵」という修辞そのものについて一言しておく。この種の語は、冗談としてならともかく、論理としては最悪の部類に属する。それは相手を「誤っている者」ではなく「道徳的に排除すべき者」として位置づけるからである。誤っている者の主張は検討され、反駁される。排除すべき者の主張は検討されず、分類される——矮小化する者、言い訳を美化する者、ポストモダン側、反科学側、人類の敵。この分類は議論を続けるための分類ではなく、議論を終わらせるための分類である。しかも、分類する側は自らの推論の粗さを問われる位置に決して立たない。相手の分類が済んだ時点で、証明責任ごと相手が消えるからである。これは、本稿が記述してきた棍棒的受益者の利益構造の、修辞的な極限形態にほかならない。
7.8 相対化の定式
以上より、党派的構図の相対化は次のように定式化できる。
ソーカル事件を疑問なく巨大な寓話として受け入れることは、科学の側に立つことではない。むしろ、事件の証拠範囲、パロディ論文と『「知」の欺瞞』の関係、読者受容の未証明部分、物理学者側の越境的濫用、そして棍棒的受益者の利益構造を検査することこそが、「主張は証拠に比例せよ」というソーカル的基準に忠実である。
すなわち、ソーカル事件を相対化することはポストモダンを擁護することではない。ソーカル事件の濫用を、ソーカル的基準で批判することである。この反転を明示できるかどうかが、党派的構図から議論を取り戻せるかどうかの分水嶺となる。そして、もしこの検査に対して「お前はポストモダン擁護者だ、人類の敵だ」という応答が返ってくるなら、その応答者はもはやソーカル事件を論じていない。ソーカル事件を使って、陣営の境界線を引いているだけである。
結 反転した教訓
本稿の分析を要約する。
ソーカル事件は、当初は一つの編集判断の失敗であった(第一層)。『「知」の欺瞞』は、その事件を「ポストモダン思想家による科学用語濫用」という、より広い物語の中に置き直した(第二層)。この置き直しには一定の根拠——誤用の実在、すなわち命題 A——があったが、同時に、読者受容(命題 B)、影響力形成の因果(命題 C)、権威の源泉としての比重(命題 D)、事例の代表性、そして一般化可能性について、多くの未証明部分を残した。ラカンについては、数学的形式化がむしろラカン派内部の広範な抵抗に遭ったという、命題 B と正反対の研究知見すら存在する。
厳密を期すなら、この未証明性には段階がある。「ソーカル事件が受容史的主張の証拠である」という命題は、ほぼ否定してよい——事件は読者受容を測定していないからである。「科学用語の濫用が彼らの影響力の重要な源泉だった」は、証拠が著しく不足している。「一部の読者に威圧的・権威的に機能した可能性」は、ありうるが体系的証拠を欠く。そして「ラカン派内部の抵抗」は反証方向の重要な知見だが、その範囲と強度の確定にはさらなる受容史研究を要する。本稿の批判は、この段階差を均して「すべて虚偽だった」と断じるものではなく、各主張の強度をそれぞれの証拠の強度に引き戻すことを要求するものである。
しかし、これらの未証明部分は、事件の通俗的流通においてほとんど問題にされなかった。事件は、方法論的により優れた類似実験(エプスタイン、ピーターズ=チェチ、ボハノン)がいずれも神話化を免れたのとは対照的に、「科学 対 ポストモダン」という短く、笑えて、道徳的に気持ちのよい寓話として反復使用され続けた(第三層)。その反復使用の担い手——リスクを負わず検証もせずに事件の一語で理性の側に立ってきた棍棒的受益者——こそが、ソーカル事件の最大の長期的アクターである。事件が三十年残ったのは、証明として強かったからではない。棍棒として優秀だったからである。
害の収支についても一言しておく。『「知」の欺瞞』が指摘した科学用語の誤用の実害は、ベナクイスタの評価が示唆する通り、主として悪文・衒学・学生への悪影響という局所的なものにとどまる——同書自身、科学がどう損なわれたのかを示すことには成功していない。一方、事件の棍棒化がもたらした害としては、人文学・現代思想・STSへの広範な評判被害、射程管理を試みる論者への説明コストの恒常的な転嫁、そして境界作業による議論空間の硬直化を挙げることができる。三十年の収支において、後者の害は前者のそれと少なくとも比較考量に値する規模であり、「実害」を裁きの基準とするなら、その基準もまた対称に適用されなければならない。
そして、この棍棒としての優秀さは、事件の本来の教訓を反転させた。ソーカル事件と『「知」の欺瞞』が(その最良の部分において)教えたのは、「分からないものを、分かったふりをして権威づけに使うな」ということであった。ところが三十年後に我々が目にするのは、事件の証拠射程を検討することなく、『「知」の欺瞞』の受容史的空隙を知ることなく、ソーカル本人の限定を読むことなく、「ソーカル事件」という記号を権威として振り回す言説である。すなわち——
「分からないものを、分かったふりをして使うな」と教えたはずの事件は、皮肉にも、「ソーカル事件を分からないまま使う人々」を最大の担い手として生き延びた。
この逆説こそ、事件から三十年を経た現在、最も直視されるべき問題である。ラカンの√−1を嘲笑することは容易い。困難なのは、その嘲笑を可能にしている自分自身の引用が、ラカンの√−1と同じ機能——理解の代わりに権威を、論証の代わりに身分表示を置くこと——を果たしていないかを検査することである。ソーカル的基準の最後の適用対象は、ソーカル事件の使用者自身なのである。
(以下、2026.07.04追記)
追記——公開後の批判への応答
本論考の公開後、いくつかの批判と感想が寄せられた。そのうち実質的な異議を含む三点に、追記として応答する。本文は公開時のまま残し、応答を追記として分離するのは、批判を受けて本文を静かに書き換えることが、何が指摘され、何を認め、何を認めなかったかの記録を消してしまうからである。指摘に応じて公開の場で自己修正すること——反論を吸収するのではなく、反論によって修正されること——は、本稿が第6章で記述した棍棒との対比を、紙面上で維持するための最低限の作法だと考える。なお、批判の多くはSNS上で寄せられたものであり、以下では発言者を特定せず、論点のみを再構成して引用に代える。
追記1 棍棒使用の実例と対照例——「実例が一つも挙げられていない」という批判に応えて
寄せられた批判のうち最も正当なものは、次の指摘である。本稿は「棍棒的受益者」を事件の最大の長期的アクターと呼びながら、実際に棍棒を振るった言説の実例を一つも挙げていない。これは、本稿が『「知」の欺瞞』に向けた批判——受容史的主張に受容史的証拠が伴っていない——の正確な鏡像であり、本稿はこの批判を欠陥として認める。その上で、主張を二つに分解して応答する。
第一に、「棍棒的使用が存在する」という主張について。これは命題B〜Dのような読者の内面や因果への主張とは異なり、観察可能な発話行為への主張であるから、刊行物の水準で展示できるし、すべきであった。展示品として、さしあたり次の三点を挙げる。(1) リチャード・ドーキンスによる『「知」の欺瞞』英語版書評「ポストモダニズム、裸にされる」(Nature、1998年)。同書評は、内容空疎な知的ペテン師が晦渋な文体によって出世し、恭しい弟子の一団を集め、世界中の学生に敬意のマーカーを引かせる——という受容モデルの想定から書き起こされる[^42]。すなわち、本稿の用語で言えば命題B〜Dを、証拠としてではなく自明の人間学的前提として冒頭に置き、そこから「流行のフランス知識人」一般への嘲笑的な拡張を展開する。局所的誤用の指摘(命題A)から潮流全体の断罪への飛躍を、著名科学誌の紙面で公然と演じた刊行例である。(2) 「不満研究」ホークス(2018年)の実行者らによる自己正当化の言説。ソーカル事件を先例的権威として援用しつつ、攻撃対象を現代の諸研究領域へと拡張した(注35参照)。(3) ヒルガートナーの1997年の証言そのもの。事件が「広大で多様な諸分野の破産の証拠としてしばしば提出されてきた」という彼の記述は、棍棒使用が事件の翌年には既に広範であったことの、同時代の学術的観察である[^37]。ただし急いで付言すれば、これらは言説パターンの刊行された展示品であって、各著者の仕事の全体を「棍棒的受益者」と裁定するものではない。本稿が裁くのはテキストの操作であり、人物ではない——この区別を手放せば、本稿自身が人物の道徳的裁定という棍棒の作法に転落する。
対照例も挙げておく。同じく事件を機に強い主張を展開した論者でも、スティーヴン・ワインバーグ(New York Review of Books、1996年)は自らの科学観と文化批評への批判を論証の形で提示し、寄せられた反論に誌上で応答した[^43]。哲学者ポール・ボゴジアン(Times Literary Supplement、1996年)は、事件から引き出せる教訓を相対主義への哲学的批判として、反論可能な命題の形で論じた[^44]。両者の結論の当否に本稿は立ち入らないが、事件名を判決として振るのではなく、議論を提出し応答責任を引き受けるこれらの言説は、第6章で導入した「責任ある批判者」の実例であり、この区別が恣意的なレッテルではなく運用可能な基準であることを示している。
第二に、「最大の長期的アクター」という比重の主張について。こちらは実例を数個並べても立証できない——それこそ、本稿が批判した事例集方式の反復になる。よってこの主張は、次の検証可能な仮説として明示的に再定式化する。すなわち、事件への言及の通時的コーパスを構築し、言及が(a)一次資料への参照と射程の限定を伴う型と、(b)事件名を証拠の代用として攻撃対象の一般化に用いる型とに分類したとき、後者が流通量において優越し、かつ事件の通俗的意味の固定に寄与した、という仮説である。SNS上の使用は日常的に観察されるが、個別投稿の引用は出典の揮発性と恣意的抽出の危険を伴い、また特定個人の晒し上げという別種の棍棒使用になるため、本稿は類型の水準での言及にとどめる。体系的な言説分析は今後の課題である。
追記2 ホークスの遂行的次元——「論破ではなく、笑いものにしたのだ」という同時代証言に応えて
事件の同時代を知る読者から、本稿の枠組みそのものに関わる感想が寄せられた。要旨はこうである——ソーカル事件はホークスであって、ポストモダンを論破したのではなく笑いものにした。当時隆盛を極めていた言説をもう我慢する必要はない、王様は裸だと教えてくれた。その意味で決定的だった、と。
この証言は、本稿の分析に実質的な修正を要求する。本稿はホークスを主として認識論的に——「n=1の弱い証拠」として——評価してきた。しかし、この証言が正しく捉えている通り、ホークスの本来的な作用は証拠であることにではなく、遂行的であることにある。「王様は裸だ」は検証を待つ命題ではなく、発せられた瞬間に場の空気を変える出来事であり、ホークスが配布するのは結論ではなく、「あれを真面目に扱わなくてよい」という社会的許可である。本稿は第6章で笑いの伝播速度に触れながら、この許可の配布という遂行的次元を、認識論的分析に引き戻して十分に主題化していなかった。この点は本稿の欠落として認め、枠組みに組み込む。
付け加えるべき発見が一つある。この「王様は裸」という枠組みは、同時代の読者が後から持ち込んだ解釈ではない。ほかならぬソーカルの暴露記事そのものが、この童話を自己演出の枠組みとして採用している。ソーカルは Lingua Franca 誌上で、皇帝が裸であることをどうやって示せるのかと自問し、風刺こそ最良の武器であり、かわしようのない打撃とは自らの手で招いた打撃だ、と宣言していた[^46]。つまりホークスは、最初から「証明」としてではなく「皇帝の裸の暴露」という遂行的な演目として上演され、告知されていたのである。そしてこの比喩には連鎖がある。暴露の直後、Lingua Franca に寄せられた読者投書は「文学理論という皇帝が裸だと示してくれた」ことを歓迎し、二年後のドーキンスの書評は、題名からして「ポストモダニズム、裸にされる」であった[^47]。注目すべきは、連鎖のたびに「皇帝」の指示対象が滑っていくことである。ソーカルの原文では指示対象は開かれたままであり(裸なのは Social Text 編集部か、その知的水準か)、読者投書では「文学理論」となり、ドーキンスでは「ポストモダニズム」全体となる。誰が裸だと示されたのかを特定しないまま、「裸の暴露」という演目の枠組みだけが継承され、指示対象は拡大し続けた。この指示対象の滑走は、本稿が「証明の密輸」と呼んだ操作の、比喩の水準における正確な対応物である。
しかし、まさにこの修正を組み込んだとき、本稿の中心的主張はむしろ強化される。「王様は裸だ」という宣言が正当に作動するのは、王様が実際に裸であるときだけである。ところがホークスが配布する許可は、裸であった箇所と裸でなかった箇所とを区別せずに、一括で及ぶ。ラカンの特定の一節が裸であったこと(命題A)は、当該思想家の他のすべての議論が、ましてや一つの思想潮流の全体が裸であることを意味しない。にもかかわらず、「もう我慢する必要はない」という解除は、その区別をまたいで配布された——証言中の「当時隆盛を極めていた言説」という括りそのものが、局所的な裸の摘発が潮流全体への免罪符に変換されたことを、内側から示している。すなわちこの証言は、本稿への反例であると同時に、本稿が「証明の密輸」と呼んだ操作の遂行的な版——検証を経ない一括の許可——の、貴重な同時代記録なのである。付言すれば、解除を経験した側の実感は、その経験の一次資料ではあるが、解除の正当性を判定する審級ではない。実感の報告と事実の検証とのこの区別は、本稿が Social Text 編集部の自己説明に適用したものと同一であり、解放感の側にも等しく適用されなければならない。
追記3 受容圏の個別化——日本のニューアカデミズム受容という問題
もう一つ、本稿の証拠の地理的射程に関わる指摘が寄せられた。アメリカの文学部・批評理論を中心とするポストモダン受容と、日本の受容——1983年の浅田彰『構造と力』を起爆剤とするニューアカデミズムのブーム、『現代思想』『ユリイカ』等の評論誌を中心とする場——とでは、受容の形態が異なるのではないか、という指摘である^45。
これは正当であり、本稿の射程の限定として明記すべきものである。本稿が命題B〜Dの検討に用いた証拠は、英語圏の学術誌・大学制度と、フランス語圏の精神分析共同体に関するものに偏っている。ところが命題B〜D——読者は科学用語をどう受け取り、それは権威の形成にどう寄与したか——は、その定義からして受容圏ごとに答えが異なりうる命題である。日本の受容は、大学のディシプリン内部での理論受容というより、思想を知的流行として消費するジャーナリスティックな場を主要な回路とした。だとすれば、そこで働いた力学は、数学的形式化による威圧というより、「難解であること」自体の記号的価値、知的ファッションとしての記号消費という、別種のものであった可能性が高い。この場合、科学用語の濫用は権威の源泉というより、流行の意匠の一部にすぎなかったかもしれず、逆に、検証を欠いた流行消費の場が『「知」の欺瞞』的批判に対して脆弱であった可能性もある。いずれも本稿は判定しない。言えるのは、本稿がラカン受容について示した知見は日本のニューアカ受容には直接及ばないこと、そして『「知」の欺瞞』日本語版(2000年)がこの固有の受容史の中でどう読まれたか自体が、独立の検討に値する主題だということである。受容史的主張は受容圏ごとに個別化して検証されなければならない——この限定は、本稿の主張を弱めるのではなく、本稿がソーカル=ブリクモンに要求した精度を、本稿自身に適用した帰結である。
補記——第三層スピルオーバーの質的パイロット調査
追記に続けて、もう一篇を補う。これは批判への応答ではなく、追記1で予告した検証プログラムの、最初の一歩の報告である。
追記1において本稿は、「棍棒的受益者が事件の最大の長期的アクターである」という主張を、通時的な言説分析によって検証されるべき仮説へと再定式化した。この仮説は、より検証しやすい下位仮説に分解できる。その一つがスピルオーバー(汚名の漏出)仮説である。すなわち、第三層の寓話化が実際に作動しているなら、『「知」の欺瞞』が付与した汚名は、実際に批判されたテキストと人物の範囲にとどまらず、隣接する人名・系譜・国籍カテゴリー(「フランス現代思想」「French Theory」「ポストモダン」)へと、テキスト内容から独立に伝播しているはずである。逆に、汚名が実際の批判対象に正確にとどまっているなら、第三層の主張は棄却に近づく。本補記は、この仮説の実在性を、公開ウェブと刊行物から収集した実例によって予備的に確認する。あらかじめ証拠の身分を明示しておく——以下は体系的な検定ではなく、仮説が検証に値する現象を捉えていることの確認と、本調査の設計を導くための質的パイロットである。
第一に、当事者による同時代証言。スピルオーバーの最初期の観察者は、ほかならぬ被害当事者であった。デリダは1997年のル・モンド紙上の応答(注17)において、書物のなかでの自分への扱いは軽微なものであったにもかかわらず、米国の報道においては自分が主要な標的の一人に仕立てられた、という乖離を指摘している[^48]。書物内での扱いの軽重と、報道における標的化の軽重とが比例しない——これは、汚名の配分がテキスト批判の内容から独立に進行したことの、同時代の一次証言である。
第二に、読者受容の水準の標本。『「知」の欺瞞』英語版のAmazon購入者レビューには、同書を読んで以来、手持ちのフーコーやボードリヤールのテキストを数学者の友人に見せたところ、彼らも即座にソーカルと同じ結論——いわゆる知識人たちは大きな言葉で小さな考えを飾るペテン師だ——に達した、という趣旨の報告が現存する[^49]。フーコーは同書の逐条批判の対象ではない。にもかかわらず、読者の側で「ソーカルに暴かれた側」へ自動的に編入されている。一読者の逸話にすぎないが、命題B〜Dが要求する種類の証拠——読者が実際にどう受容したか——の採取地点がどこにあるかを示す、生きた標本である。
第三に、歴史記述の水準。カテゴリー全体への汚名の拡張は、思想史研究として既に記述されている。フランソワ・キュセ『フレンチ・セオリー』は、まさにソーカル事件から筆を起こし、「French Theory」という(フランス本国には存在しない)カテゴリーの北米における認知そのものが、政治的論争のなかで否定的に引き合いに出されるという流通形態に多くを負っていたことを論じた[^50]。つまり「否定的引用こそが対象の公共的存在を構成する」という本稿第三層の力学は、質的な歴史記述としては先行研究を持つ。本稿の計量的検証プログラムの新規性は、この記述を検定可能な形式に翻訳する点にある。
第四に、再生産の水準。2018年の「不満研究」ホークス(注35)の受容は、寓話の再生産を実時間で観察する機会を提供した。発覚の三日後には The Atlantic 誌が事件を報じたが、その記事のURLスラッグ自体が「new-sokal-hoax(新しいソーカル・ホークス)」であった[^51]。1996年の寓話が、22年後の別個の出来事を理解するための既製の解釈枠として即座に呼び出されたことを、これほど端的に示す痕跡はない。そして受容は、Lagerspetzが記録する通り、企画の当否をめぐって受け手の事前の立場に沿って二極化した——あらかじめ懐疑的だった者は決定的証拠と見なし、そうでない者は欠陥実験と見なした。これはヒルガートナーが1997年に記述した非対称基準の機構(第5章)の、ほぼ正確な再演である。
第五に、個人名水準の現代形。事件と『「知」の欺瞞』に由来する「ポストモダン=知的詐欺」の寓話が、一次資料への参照を欠いたまま個人名に適用される現代の事例として、ジョーダン・ピーターソン現象がある。Haiderが文献的に確認した通り、ピーターソンの『生き抜くための12のルール』はデリダもフーコーも引用しておらず、両者を「ポストモダニズム」の元凶として論じる際の唯一の関連典拠は、二次文献であるヒックス『ポストモダニズムの解明』である[^52]。棍棒的言及ほど一次資料への参照率が低い——追記1で定式化した仮説の、パイロット事例といえる。
第六に、対抗事例の設計と初期結果。以上はいずれも仮説に沿う方向の実例だが、検証プログラムには反証可能性の設計が要る。その鍵となるのがブルデューである。ブルデューは『「知」の欺瞞』の逐条批判の対象ではなく、本人は晩年のコレージュ・ド・フランス講義において相対主義を明示的な批判標的とし、科学的知識の擁護を主題とした——つまり立場は「反相対主義側」であった[^53]。したがって、もしブルデューまでもが「French Theory=ソーカルに暴かれた側」に括られているなら、それは汚名がテキストの内容と本人の立場から独立に、国籍と系譜のカテゴリーを経由して伝播したことの、最も強い証拠となる。逆に括られていなければ、伝播には内容による選別が働いていることになる。
この試金石について予備調査を行った結果は、単純な二値ではなく、層化された像を示した。まず包含の側。英語圏の学術言説においてブルデューが「French Theory」カテゴリーに含められることは確認できる——計量書誌研究の中には、「French theory」を端的に「ブルデュー、デリダ、フーコーら」と定義して影響を測定するものが存在する[^54]。次に、スピルオーバーの直接例。事件からわずか一年足らずの1997年3月、レジス・ドブレはル・モンド紙の論説「学者対博士」において、ソーカル事件を出発点に、社会科学では命題の内容よりも発話者の名声・弟子・制度的位置がものを言うという一般的批判を展開し、その矛先を名指しでブルデューの『テレビについて』に向けた[^55]。『「知」の欺瞞』に一章も持たない反相対主義の社会学者が、事件を口実とする攻撃の標的になる——スピルオーバーの実例としてこれ以上のものは望みがたい(ただしこれはフランス語圏の言説であり、英語圏仮説への直接証拠ではなく補助証拠である)。この経緯を英語圏で記録したのが、数学者マイケル・ハリスによる『「知」の欺瞞』の批判的書評であり、ハリスはさらに、本稿の第三層テーゼをほぼ先取りする観察を残している——ソーカルとブリクモン自身が「著者たちを単一カテゴリーに括る誘惑」への警告を明記しているにもかかわらず、同書の成功は、読者がまさにその警告を無視し、「フランス思想」全体を疑問に付すことに大きく依存していた、と[^56]。
他方、反対方向の証拠も明確に存在する。英語圏の質の高い学術言説には、ブルデューを(ハーバーマスとともに)ポストモダニズムの言説ブロックから明示的に区別するもの[^57]、さらにブルデューを「暴かれた側」ではなくサイエンス・ウォーズの混乱を分析するための理論的資源として用いるもの[^58]がある。したがって現時点の評価はこうなる。「英語圏でブルデューが体系的に『ソーカルに暴かれた側』へ括られている」という強い命題は未証明であり、「カテゴリー包含と事件由来の批判的文脈との断片的な結合が観察される」という弱い命題までが支持される。そして、この結果自体が発見的である。汚染は一様に広がるのでも一様に堰き止められるのでもなく、言説のレジスターによって層化されている可能性が高い——論争的ジャーナリズムでは漏出し(ドブレ)、慎重な学術言説では区別が維持される(ギヨリー)。だとすれば、追記1で予告した計量的検証は、全体の平均ではなく、ジャンル別の比較を設計の中心に置かなければならない。対抗事例は、仮説を白黒で裁定する代わりに、仮説をより精密な形に彫り直したのである。
小括する。スピルオーバーの実在は、当事者証言・読者受容・歴史記述・再生産という互いに独立な四つの水準で、質的には既に確認できる。ただし、その規模、そして「最大の長期的アクター」という比重の主張は、依然として名前と汚名語の共起を通時的に数える体系的なコーパス分析を要する仮説のままである。最後に、このパイロット自体の限界を明記する。実例は公開ウェブからの非体系的な収集であり、仮説に沿う事例が目につきやすいという確証バイアスの危険——本稿がヒルガートナーを引いて他者に指摘した、まさにその機構——から自由ではない。だからこそ、次の段階は事例の追加ではなく、群の定義と対抗事例を組み込んだ計量的検証でなければならない。
注
[^1]: Alan D. Sokal, "Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity," Social Text 46/47 (Spring/Summer 1996): 217–252.
[^2]: ソーカルによる動機の説明は、暴露記事(注4)および事件後の諸論考で繰り返されている。定式化は Alan Sokal, "A Physicist Experiments with Cultural Studies," Lingua Franca 6, no. 4 (May/June 1996): 62–64 による。
[^3]: Matthew Benacquista, review of Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science, by Alan Sokal and Jean Bricmont, The Montana Professor 10, no. 1 (Fall 1999). ベナクイスタは、パロディ論文の引用・参考文献がすべて実在のものであり、ソーカルが「悪文と科学的な出鱈目の実例の宝庫」から素材を引き出していたこと、その多くが後に『「知」の欺瞞』に再録されたことを指摘している。
[^4]: Sokal, "A Physicist Experiments with Cultural Studies." 事件の主要メディアへの波及については、たとえば Janny Scott, "Postmodern Gravity Deconstructed, Slyly," New York Times, May 18, 1996, 1面。
[^5]: Bruce Robbins and Andrew Ross, "Mystery Science Theater," Lingua Franca 6, no. 5 (July/August 1996). 編集部は、論文の文体に当初から違和感を覚えつつ、専門科学者がポストモダン哲学に自分野の展開への承認を求めてくる試みとして、すなわち時代の症候的文書として掲載価値を認めたと説明した。
[^6]: Stephen Hilgartner, "The Sokal Affair in Context," Science, Technology, & Human Values 22, no. 4 (1997): 506–522. ヒルガートナーは、当時の Social Text が外部査読ではなく編集集団の内部判断で掲載を決定していたことを、ソーカルの「実験」の解釈上の重要な条件として指摘している。
[^41]: "Prospectus," Social Text 1 (Winter 1979): 3–6. 創刊時の編集者はスタンリー・アロノウィッツ、ジョン・ブレンクマン、フレドリック・ジェイムソン。同誌は1992年までは自主刊行であり、同年からデューク大学出版局の刊行に移った。なお現在の同誌は自らを「査読誌」と称するが、その査読は編集集団による単盲査読と随時の外部読者によるものであり、匿名外部査読を標準とする自然科学誌の制度とは今日でも異なる。
[^42]: Richard Dawkins, "Postmodernism Disrobed," Nature 394 (9 July 1998): 141–143. https://doi.org/10.1038/28089
[^43]: Steven Weinberg, "Sokal's Hoax," The New York Review of Books, August 8, 1996, 11–15. 反論とワインバーグの応答は "Sokal's Hoax: An Exchange," The New York Review of Books, October 3, 1996。
[^44]: Paul Boghossian, "What the Sokal Hoax Ought to Teach Us," Times Literary Supplement, December 13, 1996, 14–15. なお同姓の哲学者ポール・ボゴジアン(ニューヨーク大学)は、注35の「不満研究」ホークスの実行者ピーター・ボゴジアンとは別人である。
[^46]: Sokal, "A Physicist Experiments with Cultural Studies"(注4)。当該箇所は記事終盤、風刺という手段の選択を正当化する文脈にあり、直後に「私は Social Text の編集者たちに、自らの知的厳密さを実証する機会を提供した。彼らはそのテストに合格しただろうか」と続く。「裸の皇帝」が誰を指すかは、原文において明示されていない。
[^47]: 読者投書は "Mystery Science Theater" と同じ Lingua Franca 1996年7/8月号の応答特集に掲載されたもの。ドーキンスの書評題名は注42を参照。なお童話の枠組みの反復と「皇帝」の指示対象の拡大については、Babette E. Babich, "Sokal's Hermeneutic Hoax: Physics and the New Inquisition," in Philosophy of Science, Van Gogh's Eyes, and God(2001年初出)も、ソーカルの企てが「途方もなく愉快である」と反復される受容の型を童話における群衆の反応に擬して論じている。
[^48]: Derrida, "Sokal et Bricmont ne sont pas sérieux"(注17)。デリダはこの応答で、事件をめぐる騒動の性格を「悲しい(triste)」と評しつつ、書物における自分への扱いと米国メディアにおける標的化との不均衡に触れている。
[^49]: Amazon.com上の Fashionable Nonsense 購入者レビュー(2026年7月閲覧、大意)。匿名の顧客レビューは出典として揮発的であり、執筆者・時期の特定にも限界があるため、本補記はこれを立証の証拠としてではなく、受容調査が採取すべきデータの所在を示す標本として引く。追記1で述べた通り、個別発言者の道徳的裁定には用いない。
[^50]: François Cusset, French Theory: Foucault, Derrida, Deleuze & Cie et les mutations de la vie intellectuelle aux États-Unis (Paris: La Découverte, 2003); 英訳 French Theory: How Foucault, Derrida, Deleuze, & Co. Transformed the Intellectual Life of the United States, trans. Jeff Fort (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2008); 邦訳、フランソワ・キュセ『フレンチ・セオリー——アメリカにおけるフランス現代思想』桑田光平・鈴木哲平・畠山達・本田貴久訳(NTT出版、2010年)。
[^51]: Yascha Mounk, "What an Audacious Hoax Reveals About Academia," The Atlantic, October 5, 2018. 記事URLは https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2018/10/new-sokal-hoax/572212/ であり、スラッグ「new-sokal-hoax」は同誌の編集部が事件を最初から1996年の寓話の続編として枠づけたことを示す。なおLagerspetz(注35)は同記事を、企画実行者の主張に同調した側の応答に分類している。
[^52]: Shuja Haider, "Postmodernism Did Not Take Place: On Jordan Peterson's 12 Rules for Life," Viewpoint Magazine, January 23, 2018. ヒックスの当該書は Stephen R. C. Hicks, Explaining Postmodernism: Skepticism and Socialism from Rousseau to Foucault (Tempe: Scholargy, 2004)。
[^53]: Pierre Bourdieu, Science de la science et réflexivité: Cours du Collège de France 2000–2001 (Paris: Raisons d'agir, 2001); 邦訳、ピエール・ブルデュー『科学の科学とレフレクシヴィテ』加藤晴久訳(藤原書店、2010年)。
[^54]: Blaise Cronin and Lokman I. Meho, "Receiving the French: A Bibliometric Snapshot of the Impact of 'French Theory' on Information Studies," Journal of Information Science 35, no. 4 (2009). https://doi.org/10.1177/0165551508100831 同論文は要旨冒頭で「French theory」を「Bourdieu, Derrida, Foucault et al.」として扱う。
[^55]: Régis Debray, "Savants contre docteurs," Le Monde, 18 mars 1997.
[^56]: Michael Harris, "I Know What You Mean!"(『「知」の欺瞞』および Impostures scientifiques を対象とする書評エッセイ、1999年頃)。著者のコロンビア大学ウェブページに掲載。ドブレ論説への言及は同エッセイ注18、「単一カテゴリー」の警告と同書の成功の関係についての観察は注12。なおハリスは同エッセイで、ソーカルとブリクモンがネーゲルの示唆——名辞の羅列は著者たちの「深遠な思想家」としての評判を補強するためのものだ——を「立証しておらず、首尾一貫した論証すらしていない」とも指摘しており、これは本稿第3章の命題B〜D批判と独立に合流する同時代の観察である。
[^57]: John Guillory, "The Sokal Affair and the History of Criticism," Critical Inquiry 28, no. 2 (2002): 470–508. ギヨリーは、サイエンス・ウォーズにおいて科学論とポストモダニズムが混同されたことを指摘し、ハーバーマスやブルデューをポストモダニズムの言説ブロックに属さない人物として明示的に区別する。
[^58]: Nick Turnbull and Nikó Antalffy, "Bourdieu's Distinction between Philosophical and Sociological Approaches to Science Studies," The Sociological Review 57, no. 4 (2009). https://doi.org/10.1111/j.1467-954X.2009.01861.x
[^7]: Alan Sokal and Jean Bricmont, Impostures intellectuelles (Paris: Odile Jacob, 1997); 英語版 Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science (New York: Picador, 1998)、英国版は Intellectual Impostures (London: Profile Books, 1998)。日本語版はアラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞——ポストモダン思想における科学の濫用』田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹訳(岩波書店、2000年;岩波現代文庫、2012年)。
[^8]: Sokal and Bricmont, Fashionable Nonsense, 序文。Benacquista, review, の整理も参照。
[^9]: Sokal and Bricmont, Fashionable Nonsense, 17.
[^10]: Benacquista, review of Fashionable Nonsense.
[^11]: 同上。クリステヴァの当該テキストは、詩的言語の記号論を扱う初期著作(Séméiotikè, 1969 に収録の諸論文)に由来する。ソーカルとブリクモンの評言は Fashionable Nonsense, 44。
[^12]: Benacquista, review of Fashionable Nonsense。ラカンの当該発言は Fashionable Nonsense, 25 に引用。「勃起器官は意味作用の√−1に等しい」の一節は Jacques Lacan, "Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien" (1960), in Écrits (Paris: Seuil, 1966) に由来する。
[^13]: Benacquista, review of Fashionable Nonsense。ヴィリリオの当該箇所は Fashionable Nonsense, 174–175 に引用。
[^15]: Bruce Fink, Lacan to the Letter: Reading Écrits Closely (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2004). フィンクは、ソーカルとブリクモンが「真面目な書き物は明晰な意味の伝達以外を行ってはならない」という前提を無検討に置き、ラカンの明示的にメタファー的な数学使用を数学的基礎づけの主張と取り違えたと批判する。
[^16]: John Sturrock, "Le pauvre Sokal," London Review of Books 20, no. 14 (16 July 1998).
[^17]: Jacques Derrida, "Sokal et Bricmont ne sont pas sérieux," Le Monde, 20 novembre 1997, 17. 英訳は "Sokal and Bricmont Aren't Serious," in Paper Machine, trans. Rachel Bowlby (Stanford: Stanford University Press, 2005), 70–72。
[^18]: Benacquista, review of Fashionable Nonsense の整理による。ソーカルとブリクモン自身の定式は「難しい専門用語で知的空洞を隠すタイプのペテン師」への警告(Fashionable Nonsense, 6 ほか)。
[^19]: Jason Glynos and Yannis Stavrakakis, "Postures and Impostures: On Lacan's Style and Use of Mathematical Science," American Imago 58, no. 3 (2001): 685–706. 同論文は Glynos and Stavrakakis, eds., Lacan and Science (London: Karnac, 2002) にも収録。
[^20]: Peter D. Mathews, "Lacan the Mathematical Charlatan," in Lacan the Charlatan, The Palgrave Lacan Series (Cham: Palgrave Macmillan, 2020), chap. 3. https://doi.org/10.1007/978-3-030-45204-9_3 同書全体は、チョムスキーが1989年のインタビューで発した「ラカンはペテン師である」——思想の誤りではなく言説全体の詐欺性——という告発の妥当性を、主要な反ラカン論者の議論の逐一の検討を通じて測定する試みである。なお本稿の依拠は同章の中心的主張(ラカン派の盲従像への反証としての内部的抵抗の指摘)の水準にとどまる。個々の論者における抵抗の範囲と強度の評価には、同章の詳細な検討を要する。
[^22]: この標準的整理は、たとえば Adrian Johnston, "Jacques Lacan," in The Stanford Encyclopedia of Philosophy, ed. Edward N. Zalta に見られる。ラカンは20世紀フランス知的生活の「セレブリティ思想家」であり、その思想は過去半世紀以上にわたり大陸哲学における精神分析受容の中心を占めてきた、と要約される。
[^23]: Benacquista, review of Fashionable Nonsense.
[^24]: Alan Sokal, "What the Social Text Affair Does and Does Not Prove," in A House Built on Sand: Exposing Postmodernist Myths about Science, ed. Noretta Koertge (New York: Oxford University Press, 1998), 9–22. 改稿版は Critical Quarterly 40, no. 2 (1998): 3–18 および Sokal, Beyond the Hoax (Oxford University Press, 2008), chap. 5。
[^26]: Robbins and Ross, "Mystery Science Theater."
[^27]: William M. Epstein, "Confirmational Response Bias Among Social Work Journals," Science, Technology, & Human Values 15, no. 1 (1990): 9–38.
[^28]: Hilgartner, "The Sokal Affair in Context," 特に512–513。ヒルガートナーは、エプスタインが調査対象集団の選択を方法論的に正当化しているのに対し、ソーカルの Lingua Franca 記事には Social Text を「実験対象」として選んだ正当化がほとんどなく、外部査読誌を対象としていない以上、学術水準一般に関する強い主張の検証にはならないこと、また Social Text が「カルチュラル・スタディーズ」「科学社会学」「STS」という広大で多様な領域の何を代表するのかが未検討であることを指摘する。
[^29]: Hilgartner, "The Sokal Affair in Context." ヒルガートナーの定式は「確証バイアスに類似した機構を通じて、受け手は、あらかじめ否定的に見ている標的への攻撃に対し、より緩い証拠と倫理の基準を適用しうる」。
[^30]: Douglas P. Peters and Stephen J. Ceci, "Peer-Review Practices of Psychological Journals: The Fate of Published Articles, Submitted Again," Behavioral and Brain Sciences 5, no. 2 (1982): 187–195.
[^31]: John Bohannon, "Who's Afraid of Peer Review?," Science 342, no. 6154 (2013): 60–65.
[^33]: Marie Secor and Lynda Walsh, "A Rhetorical Perspective on the Sokal Hoax: Genre, Style, and Context," Written Communication 21, no. 1 (2004): 69–91. 両者はホークスを一つの修辞ジャンルとして定義し、19世紀アメリカの科学ホークスとの系譜の中にソーカル事件を置いた上で、事件への激烈な反応を、標的の自己認識と虚栄心に訴えるホークスの力学とカルチャー・ウォーズ再燃の文脈から説明する。
[^34]: Benacquista, review of Fashionable Nonsense.
[^35]: Helen Pluckrose, James A. Lindsay, and Peter Boghossian, "Academic Grievance Studies and the Corruption of Scholarship," Areo Magazine, October 2, 2018. 三人は2017〜18年、ジェンダー研究・肥満研究等の学術誌に20本の偽論文を投稿し、発覚時点で7本が採択(うち4本がオンライン公開済み)、7本が審査中、6本が不採択であった。この企画が「ソーカル二乗」と通称されたこと自体が、ソーカル事件の寓話的権威が後続のホークスの正統化資源として流用される構造を示している。なお、Areo 誌は査読媒体ではなく、同記事は実行者による自己説明の一次資料として引くものである。企画の実験計画そのものを査読論文として批判的に検討したものに Mikko Lagerspetz, "'The Grievance Studies Affair' Project: Reconstructing and Assessing the Experimental Design," Science, Technology, & Human Values 46, no. 2 (2021): 402–424 がある。本稿は、この企画の当否そのものの評価には立ち入らない。
[^36]: Mara Beller, "The Sokal Hoax: At Whom Are We Laughing?," Physics Today 51, no. 9 (September 1998): 29–34.
[^37]: Hilgartner, "The Sokal Affair in Context," 506. 「ソーカル事件を他の関連する出来事に照らして考察してこなかったことが、その意義の大規模な誤読(wholesale misreading)に寄与した。この出来事は、科学の文化研究、科学社会学、科学史、科学技術論と様々に呼ばれる、広大で多様な諸分野の破産の証拠としてしばしば提出されてきた」(大意)。
[^38]: Thomas F. Gieryn, "Boundary-Work and the Demarcation of Science from Non-Science: Strains and Interests in Professional Ideologies of Scientists," American Sociological Review 48, no. 6 (1983): 781–795.
[^39]: Justin Tosi and Brandon Warmke, "Moral Grandstanding," Philosophy & Public Affairs 44, no. 3 (2016): 197–217. 単著としては Tosi and Warmke, Grandstanding: The Use and Abuse of Moral Talk (New York: Oxford University Press, 2020)。
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