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ドイツの肉屋でお掃除してみた

こんにちは、私はドイツの肉屋で働く日本人です

肉屋の仕事には、どんなものがあるかご存じだろうか
肉を捌く、ひき肉を作る、ソーセージを作る…
どれも大事な我々の仕事の一部である

ある日は時間に追われせかせかと作業場を歩き回り、
またある日は数時間一歩も動かず、まな板の前で肉を捌き立ち続けている

時には「これから出張BBQ行くから準備して」と急に外へ駆り出されることもある
そんな時は、ひたすら網の上で肉を焼き配り続け、太陽の下肉と共にこんがり焼けてへろへろで作業場へ戻ってくる
こんな風に、私の職場は日によって与えられる業務が予測できない 何をするかは現場の状況・上司の指示次第だ

しかし、例えどんな1日だろうと決まって必ずやらなければならない事もある

それが清掃である
清掃は全ての業務が終わった後に行う毎日の義務
やることはシンプル 『使った道具を全て清潔に戻す』ただそれだけ

しかしこれがキツい いや正確に言えば、慣れるまでが本当にキツかったのだ
清掃は各業務の中でも指折りの体力仕事
初めの頃は、清掃を除く通常業務だけで毎日身も心も手いっぱいだった
そこにダメ押しの様に、一日で一番の重労働が、一日の一番最後に毎日必ず待っている
今回はドイツ肉屋の清掃業務について語りたい

繰り返しになるが、私たちは必ず毎日清掃をする
そして必ず時間をかけて行う なぜなら、時間をかけないと終わらない量の洗い物が毎日出るのだ

まず大原則としてその日に使った道具は全て洗う
ナイフ、まな板、作業台、箱など細々した道具
ひき肉を作る為のミンサー、混ぜる為のミートカッター、腸詰機などの大きな機械
加えてこれらの機械の外側・中側・外したパーツの一つ一つ
毎日これらの道具を使う前のピカピカの状態に戻さなければならない

加えて、壁や床も綺麗に保たなければならない
大量の肉を捌けば、普通にそこかしこに解体の際に出た血が飛び散っている
ソーセージを作ると、ひき肉を隣の機械に手で移動させる際に飛び散ったひき肉も床に点々と存在している それらすべてを、毎日綺麗に洗い流さなければならない
道具・まな板・機械・部屋の床と壁……ありとあらゆる全てのものを清潔に戻し、最後にごみ捨てをすればその日の業務が終了
これらが1日に行われる最低限の清掃業務である

毎日の清掃は、大体まかないを食べ終わった昼過ぎ頃から始まる
清掃にはエネルギーが欠かせないので、特に清掃物が多い日は皿に多めに飯をよそう
エネルギー補給が完了したら、いざ戦場(作業場)へと足を運ぶ
まず、一度まな板に出した肉、製造品等の食品系を全て冷蔵室にしまい込む
塩や香辛料などのケースのふたをしっかり閉めて、元の場所へ戻し、洗剤がついてはいけないものを全て避難させる
ここからいよいよ清掃業務の始まりである

清掃は主に3つのエリアに分けることができる
「作業台周り」「機械周り」「箱」である

作業台エリアの清掃は、まず使ったものを全て作業台の上に並べるところから始まる
その上から洗剤をまんべんなくぶちまける
我々の作業場には、洗剤を泡の状態で散布してくれるとっても便利な機械があるのだ

この泡発砲装置、ノズルがついておりこの部分を肩に担いで机・道具・機械などに満遍なく洗剤を撒くことができる
しかしハチャメチャに音がうるさい ババババババ!!!!!という爆音を、洗剤と共に部屋中にまき散らす

もうこれが本当にうるさい 2年以上働いてもう慣れたかと聞かれたら未だに迷うレベルでうるさい
だからこれの稼働中はまともに会話も出来ない 誰かが電話を始めたらすぐに機械を止めるのも暗黙のルール

そうしてなんとか作業台エリア全体に洗剤を撒き終えたら、ナイフやトレーなど、まずは細かな道具を熱湯で洗い流す事から始める
もちろんただそこら辺に置いて熱湯を撒けばいいだけじゃない 一つ一つの道具を手に取り、汚れが残っていないかどうか目で確認しながら進める
作業場にはお湯の出るピストルみたいな形状の水まきが二つある ガーデニングなどで用いられる水まきの水圧MAX版である
清掃中は、基本的にこれを右手に握りしめ室内をせかせか歩き回る
このピストルは清掃に欠かせない 大抵の汚れはこいつの水圧で一発で消し飛ぶ
こびりついた汚れも弾き飛ばす威力があるので、これでお庭のパンジーなどに水を撒くことはできない

細かな道具を洗い終えたら次はまな板
一日かけて大量の肉を捌いたまな板には、さらに強力な業務用洗剤を使う
脂を浮かす強力な洗剤を片手いっぱいにすくい、それをまな板の上に広げスポンジでガシガシ磨いていく
ちなみにまな板と言っても、当然ご家庭で使うような大きさではない

私の足から胸くらいまでの長方形で、3cmくらいの厚みがあるまな板が2枚ある これがまあまあ重い
このまな板は机から取り外しが可能で、清掃後は降ろして高い所にたてかけ乾かす必要がある
もし誤って手を滑らせ足に落としでもしたら骨折は免れないような重さ これを持ち上げる度に私の腕は少し緊張する
どんなにドロドロに疲れていてもこの時ばかりは毎回慎重になり、意識をまな板と自分の握力に注ぎ込まなければならない

まな板を外しまっさらな状態になった机も当然清潔に戻す
こびりついた肉辺や血などを見逃さないよう目と手の感覚を使ってよく磨き、最後に熱湯ピストルできれいに洗い流す
隅々まで見て、肉片一つ、洗剤の泡一つなくなれば、ようやく作業台エリアの作業は完了である

続いて機械エリアの清掃
例えば、私が作業台エリアを清掃している間、手が空いている人がいれば機械エリアの清掃を始める
まずひき肉を作るミンサーから 手始めにパーツの分解をしていく
肉屋で使う機械の多くは分解が小難しくなく、水を使って丸洗いできるようになっている
トルネード型で回って肉を押し出す役割の重たいパーツを引き抜き、そこに丸い穴が沢山あいた3枚のカッターがセットされる
これらを全て取り外し、機械の外側・肉の通る内側・分解したパーツの全てに洗剤を撒き、洗い流す

この時、トイレ掃除でよく見る棒付きのタワシが役に立つ
手の届かない内部をゴッシゴシと磨き、スチールのタワシで肉を乗せる台をゴッシゴシと磨く
タワシとブラシを両方使い、磨き残しが無いか必ずつぶさに観察 目で確認できない場所には手を伸ばし指先の感覚でチェックも忘れない
この確認がおろそかになると、翌日までひき肉がくっついて乾いた肉がこびりついてしまう
働き始めたばかりの頃、よく上司に磨き残しを叱られたものである 磨き残しをスマホで撮影され、翌日それを見せられながらお叱りを貰ったこともある

そう、清掃はどんなに自分で「これでもう完璧!」と思っても、磨き残しが見つかることがある 本当に腹立たしい程ある
その為、清掃時の私には「本当にこれで完璧なのか?」と自分を疑い2度3度と確認する癖がついた
全てが終わった後も何となく気がかりで機械の周りをウロウロしているので、同僚に「まだ何かやる事あるの?」と不思議そうに聞かれる事もある

こうして、なんとかミンサーの清掃が終われば次は腸詰機
腸詰機とはソーセージに肉を詰める機械のこと つまりソーセージ製造マシンである
この中には沢山のパーツが詰まっている これも一つ一つ分解し、洗剤を撒いて洗う

上部の逆三角形の部分に大量のソーセージの肉だねを放り投げ、腸に充填していく機械
逆三角の内側にトルネード型のパーツがついておりこれによりスムーズに機械内に肉だねが送られていく仕組みだ

この逆三角形のろうとみたいな部分は、パタンと横に倒れる仕組みになっている
清掃時はその中に身体をぬっと入れ、すぼんでいる所までくまなく汚れを点検しなければならない
肉がよく隠れがちな目視が難しい部分はミンサー同様、指先の感覚でぬめってないか丹念に確認
洗剤・スチールたわし・熱湯ピストルをかわるがわる使って、目を凝らし汚れを拾い上げる
そうして内側がきれいになったら外側も、ぐるりと機械の周りを歩いて回りながら汚れの点検をする

パーツのはまっていたくぼみにも、肉片が潜める細かな隙間や溝が沢山ある
細くて手の届かない管には細長い棒タワシを突っ込み、目視できない所はやり指先でくまなく点検
目・指・タワシ・洗剤・熱湯ピストル…あらゆる道具を駆使し、磨き残しが無いよう隅々まで目を凝らす
そうして洗剤の泡一つ肉片一つ残らず洗い流し、最終チェックが終われば、いよいよ最後の機械・カッターの清掃である

カッターは、ミンサーで作ったひき肉をさらに細かく刻み、塩や調味料と混ぜ合わせてより滑らかな生地へ仕上げる機械
ミンサーで作るのが肉屋のカウンターに並ぶひき肉なら、カッターで作るのはソーセージに充填する為の更にきめ細かい肉だねである
中央にあるしずく型の6枚の刃が重なり手裏剣のような形となってグルグル回り肉を細かく刻む

当然、この手裏剣のような刃も綺麗に保たなければならない
一度使うだけで刃と刃の狭い隙間には肉や脂がびっしり こんな所は極狭い所を磨くため生まれた、剣のようなほっそいブラシがあるのだ
私はいつも回転刃の安全な所に指をひっかけ、クルクル回しながら熱湯とブラシを駆使して丁寧に洗う

カッターは3つの機械の中で唯一刃物がむき出しである
入りたての頃、上司がためらいなく良く研がれた刃に素手で触れ器用にクルクル回す様子にぎょっとしたものだ
だが、ちゃんと安全に触れる部位に触れれば大丈夫
そして回転刃の軸になっている機械中央の横棒 ここも曲者である

目に見えない裏側にまあ~~~よく汚れが隠れてる 何度ここの洗い残しを指摘されただろう
ドーナツ型の桶と軸の接着部分の溝、ここに隠れる肉片も同様にほっそいブラシでこそぐ
勢いよく手前に引けば、詰まった細かい肉だねが勢いよく飛び出す 場合によっては顔面で受け止めなくてはいけない

しかし清掃に置いて、自分がどれだけ汚れるかは問題ではない 機械が汚れている方が問題なのだ
もしここまでの作業台周り・機械3台の清掃を一人でしたら、きっと眼鏡はしぶき跡まみれ、髪は返り湯でスプラッシュマウンテン後の様相だろう
清掃中にお湯が跳ね返って髪も眼鏡も濡れるのはもう日常茶飯事で、時には滝行後ですか?という湿り気の頭髪と顔面で黙々と洗い物をしている
ひどい時には長靴の中にも水が入り込み足も靴下もグッチャグチャのまま作業場を歩き回っていたりする これが地味につらい

カッターミキサーの清掃に話を戻そう
機械の刃を支える横軸・フタの裏表・機械の外側・操作ボタンの隙間……この機械の上に存在する汚れを全て逃さずチェックし、排除していく
そうして熱湯を沢山使って清掃した後には、沢山のお湯を浴びた中央のドーナツ型の桶に廃水が溜まる
当然これも排水して完全に乾かさなければならない 排水方法はとってもシンプル

ただ地道に手でかき出す 水に両手を深く差し込み自分の右わきの下を通して床にたたきつける
この機械にはお風呂の様に便利な排水溝など無い為(少なくともウチの機械は)、ここに溜まった水はどうしても手でかき出さなければならない
初めてこれをする上司を見た時は衝撃だった まるで正月テレビで見る高速餅つきのような速さで両手に水を抱え床にまき散らしていたから
清掃、というかこの職場において基本的に速さに勝るものは無い 速さこそすべてであり正義である

当時、そのあまりの激しさに「これが正式なやり方な訳が無い」と目の前で行われている現実から目を背け、一人バケツを使って廃水をチャパ…チャパ…と外へ出す方法を編み出していた時期もあった
だが、やってみてわかる もう両手で水かき出すのがいっちゃん早い
このフィジカルすぎるやり方が爆速で排水できる

腰を落とし体を安定させ、下半身をぶらさず手を高速でぶん回す
水を顔に浴びようが、脇腹が濡れてぐっしょりと制服が重くなろうが、長靴に水が8割入ってしまおうが関係ない ただひたすらに手を素早く動かす
そうやっておおかたの水を出し切ったら、最後はタオルで水気をふき取る
そうして最後にもう一度だけ、全体をよくチェックし終えたらカッターの清掃も完了 メインの大きな機械が3つ倒せたことになる
そしてここから最後の砦、箱の清掃にとりかかる

箱とは、この赤い箱の事である
我々はこの箱を毎日、ありとあらゆる事に使う
ミンサーにかけた後のソーセージの肉だねの一時保管・製造したソーセージの保管・豚肉を解体した部位の保管
また、専門業者に発注した肉や雑品等も基本的にこれらの箱に収まった状態で届けられる
週に3回は赤い箱いっぱいに様々な品が届く
まずはそれをそのまま受け取り、受け取った箱の数だけこちらが持ってる空の箱をお返しする
肉屋内に留まらず、業者間で共通で使われる循環型の道具でもある
保管にも製造にも運搬にも欠かせない道具、それがこの便利な赤い箱なのである

当然これらも毎日洗う 例え目に見えて汚れていなくとも1度でも使ったのなら必ず洗う
一つ一つはとても軽く、洗う作業もそれほど時間のかかるものではない
他と同様洗剤を撒き、外側四面・中身・裏返した底面全てを熱湯で洗い流したら完了
スピーディにやれば1箱に対し1分もかからずやっつけられる 他に比べたらボーナスステージのような速さ

で、終わることも稀にある そんなラッキーな日はそうそうない 
例えば箱にソースや油がこびりつき固まっていれば、一つ一つタワシを使って床に膝をつき汚れが剥がれるまでゴッシゴシ磨いてから洗い流さなければならない
また箱の中にはその時に出たゴミや、その他使用した汚れたトレー等が放り投げられている事もある
当然ごみは捨て、残りの箱以外の道具は洗って元の場所へ戻す
日によって業務内容が変わるように、日によって洗う箱の個数も異なる
そして時にはこの箱の山を、たった一人で洗わなければいけない日もある

10箱、これは余裕で倒せる
20箱、まだ余裕 予想の範囲内
30箱、腹に力が入る
40箱、許してくれと思う
それ以上、もう私が何をしたんだよと自暴自棄になる
箱は一つ一つは大したことないが、束になるととんでもなく強い
淡々と箱を洗い続ける作業 10,20とこなしているうちは鼻歌なんかも出てくる
しかし30,40と黙々と洗い続けていると次第に表情は死に、世界から歌が消え、私はただひたすらに箱を洗い続けるマシーンと化す
これに何度心を失くされてきただろう この世の箱全て消すハコ消しマシーンの開発が待たれる

そうして「作業台周り」「機械周り」「箱」の清掃を終えたらようやく最後、床の清掃である
私たちが歩く床はもちろんのこと、作業台の下・機械の下もきっちり綺麗にしなければならない
機械には全て4つ足がついており、その下が狭い空洞となっている
そこにもその日作ったソーセージの肉だねの欠片やゴミが毎日こんもり隠れている
だから私は、髪や頬が床に触れて濡れようとも、スパイダーマンの様な格好で床に這いつくばりながら機械下の汚れに目を光らせる
そこへ熱湯ピストルを勢いよく噴射 汚れを駆逐していく

最後の力を振り絞り、床清掃を終えて、ごみを捨て、上司に清掃完了の旨を報告して、ようやく私たちFleischerの一日が終りを迎える

***

さて、ここまで清掃の一連の流れを書いてきたが、実際これら全てを最初から最後まで一人でやる事はまずない
大抵が二人、多い時は三人で手分けして進める そうでないとあまりに作業量が多すぎる
しかし時には人手が足りず、どうしても一人でやらなければならない事もある 私も過去に一度だけ経験した
ここからはその時の思い出話をしたい

季節はクリスマス直前の12月中旬
私がここで働き始めて6カ月以上経った頃である
上司が突然、私に向かってこう言った

「今日の清掃、〇〇(←私の名前)一人で全部やって」

いつも清掃を一緒にやってくれるこの上司は、今日だけ用事があり早く帰らなくてはいけないという
そしてもう一人、同じ部署に別の上司もいるのだが、彼は彼で配達に出なくてはいけず、今日は夕方までしばらく戻ってこないとのこと
だから今日は一人で清掃をやってほしい
その日の昼、急にそう告知された

私は当惑した なぜなら清掃業務を一人でやったことが1度もなかったからだ
しかも、機械の清掃に関しては教わったばかりで私一人でやった経験がほぼ無い状態
それまで、上司と二人体制でやって1~2時間かけてやっと終えられた清掃業務
それを?これから私一人で??

この時点で、私は既に朝5時から1度も座らず立ちっぱなしで働いており、既にまあまあ疲れている
どうしよう わからないことが出てきたら誰に聞けばいいんだろう
なにかとんでもない事が起きでもしたら 考えなくてもいいようなことまで考えが及び、頭に不安が一気に広がる

…………

駄目だこれ考えてもしょうがないやつだ
この職場に来て何度もたどり着いた考え
動くのだ まずは動かなければ始まらない いくら考えたって何の足しにもならない

とにもかくにも機械の分解からである
まずは洗うべきパーツを機械の中から取り出さない事には洗剤もぶちまけられない
腸詰機のパーツを分解しようと上の逆三角を開けようとフックに手を掛けた瞬間

開かないのである もうびくともしない
腸詰機の肉だねを溜める逆三角形の肉の投入口は、作動中はぴっちり閉じている
しかし清掃する時は投入口と本体はぱかっと開くようになっており、その中を綺麗に洗える仕組みになっている
そこに重要な部品がたくさん詰まっているし、一度それらも全て取り出したいのに、いくら手で引っ張ってもびくともしない
フック部分にタオルをひっかけ、力を込めて引っ張ってみるも、うんともすんとも動かない 最初からピンチである

まずい このままでは清掃が始められない
何度試してもびくともしない腸詰機に、次第に私の腕も限界に近づいてきた瞬間
作業場入り口から"Tschüss!(さよなら!)"と声がした
それはまぎれもなく私の上司、着替えを終えて今まさに帰ろうとしている所だった

なんて良いタイミングなんだ上司
しかし私という者はこういう時に声を掛けて「ここ開けるのだけ手伝って~」と頼ればいいものを、
「帰ろうとしてるのに呼び止めたら迷惑だよな」とマイナス思考を巡らせてしまった
その結果、こちらからも"Tschüss!(さよなら!)"と普通に返事をして帰らせてしまった
結果、その後更に10分くらい一人であーだこーだと格闘したのちどうにもならず半泣きでchatGPTに相談
「接合部に温水をあてるといい」と言われ、その通りにして引っ張ることでようやく開いた
この時の達成感たるや 清掃の前準備すら始まってないのにもう泣きそうだった
こんなことで泣きそうになるくらい、私はもう疲れて果てているし、それでも誰にも迷惑かけず何とか出来たと一人喜んだ

束の間の喜びもそこそこに、私は手早く中のパーツを分解 作業場にある道具という道具、機械という機械にババババババ!!!!と爆撒き散らしついでに洗剤をぶちまけ歩き回る
それを終えたら、まずは作業台周りの清掃から
ナイフなど細かいパーツを洗い流し、大きなまな板もゴッシゴシ磨いて洗い流す
洗い終えたクソ重いまな板は、普段なら上司が立てかけるべき場所まで持ち上げてくれる
しかし今日はいない 私1人きりだ
だからガニ股になりながらもヨッコイショと腹に力を込めて持ち上げ、どうにかこうにか1人で乾かす場所に置くことに成功

作業台エリアの清掃を終わらせたら、次は機械ゾーン
ミンサーはパーツが多い 分解したものを一つ一つ手に取り360度ぐるりと見ながらしっかり洗浄
肉を置くスペースはスチールたわしで、肉の投入口は棒付きブラシをつっこみゴッシゴシ
最後に熱湯ピストルで仕上げの洗い上げをし、目視と指先の感覚で洗い残しが無いか何度もチェック
これを、また叱られる事のないよう、私が安心できるまでやり続ける

しかし、こうして一人きり広い作業場で清掃していると、普段の喧騒が嘘のように静かだ
肉屋というのは本当にうるさい 静かな人なんて一人もいないんじゃないかと思うほどみんな声がデカい
扉を閉める音一つとってもそうだ 冷蔵室の扉を閉める音は常に「バアン!!!!」である
扉に何か恨みでもあるの??と思う程、上司も同僚も激しく閉める

清掃する時も道具を丁寧に並べるより効率重視 ステンレス製の机に金物の道具をぶん投げたり気軽に自由落下させる
その時の、金物同士が強く当たる鈍さと甲高さの合わさった「ガギャン↑↑!!!」みたいな、心臓ギュッとなるような音
小心者の私には毎日響き渡るこれが地味にキツい 深く呼吸をして目を瞬きし耐える
肉屋がここまでうるさい職場だという事を、私は働くまで露ほども知らなかった

しかし今はそれが一切ない 聞こえるのは私が動く音と水が流れるだけ
ミンサーの清掃もどうにか終え、お次に腸詰機である さっき投入口が開かないのなんのと騒いだ機械だ
タワシを使って隅々まで清掃し、逆三角のろうと部分に身体を突っ込んで磨く
小さな汚れ一つも見逃さないよう目を皿のように丸くしてチェック
それから機械全体を手で触れて、どこかに磨き残しが無いかも入念に確認
そうしてようやく熱湯ピストルをぶちかける 機械全体をぐるりと回りながら、下の方は屈んで、上の方は背伸びして
肉だねの通る細い通路まで入念に洗い上げる
こうして機械本体の清掃が終われば次に中の細かいパーツ
パーツ1つ1つはそこまで大きくないが、よく見ると複雑な形をしており肉だねが隠れられる隙間が沢山ある
それら一つ一つ手に取り洗浄
清掃とは、もはや洗剤をつけて水で洗い流す事ではない
ひたすらに「清潔になったかどうかの確認作業」である
汚れが残って無いか、完璧に清潔になっているか、ダメ押しで何度も何度も確認する

そうして大きな腸詰機本体とパーツの清掃が終われば最後の機械、カッターの清掃
正直ここまででかなり疲弊している が、それに気づかないように声に出して自分を鼓舞する 「大丈夫大丈夫~!よ~しやるぞ~!」と一人声を上げると何故か本当に力が湧く
今ここでは、自分の背中を押せるのは自分しかいない
ここまでで2時間近く一人で広い作業場の清掃をしており、跳ね返ってくるお湯によって全身がしっとりと濡れているが、勝負はここから
むしろ疲れてからが本当の勝負だ 本気で疲れて、本当に辛くなってからが、本当の労働なのだ

ミートカッターの清掃のコツは、2年たった今でこそよくわかる 早く終える方法も、よく見るべきポイントも
だがこの日の私は、恐らくまだ5回もカッター清掃をやったことがないカッター清掃の初心者
それはもう、大変に時間がかかった
何度洗って、指で確認して大丈夫と思っても、どこかに必ず磨き残しが出てきてがっくりすることの繰り返し
怖い 清掃をしているはずなのにどこからか肉が湧き出てるんじゃないかと思う
それ
ほど、洗っても洗っても思いもよらない所から磨き残しで硬くなりこびりついた肉が出てくる
何度も洗い直すので、何度もドーナツ型の桶にたまった水を両手を突っ込みかき出すはめになる 超手間
それでも手を止める事はできない 目の前の汚れは終わってない
手を伸ばし目を凝らせば、どこもかしこもまだ汚れている

その時、私は思った
終わらない 終わらなさすぎる

今履いている長靴の中にはとっくに水が入り、歩く度に足裏からグジュッと水を踏む嫌な音がする
勢いよく水をかきすぎて二の腕や脇腹はぐしょ濡れ 前髪からはぽたぽたと水滴が落ちて眼鏡は雫を浴びすぎてとっくにマーブル模様
一人、この広い作業場を全部清掃している自分を俯瞰で見てしまった

今ここで倒れてしまえたらどんなにいいだろう
そしたらおとぎ話の様に、突然そこの搬入扉が開いて、白馬の王子様がずぶ濡れのアジア人女を迎えに来てくれないだろうか
この場に全く関係ない妄想が脳内で始まった 気合で誤魔化していた心と体の疲弊がピークを迎えようとしている

それでもなんとか、妄想に揉まれながらも、どうにか気合でカッターの清掃を終えた
終わった ようやく機械3種類の清掃が終わった
ここからようやく最後の大物に取り掛かる 私は赤い箱の山を見上げた

この時、季節はクリスマス間近の真冬
ドイツの冬とはめちゃくちゃ寒い
私は今、頭から足の裏までびしょ濡れで、服も髪も非常に重たい なのに私の心身がカッカしたように熱い
早く終わらせなければ 早く終わらせないと、配達から戻って来た上司に「まだ終わって無かったの!?」と怒られてしまう

しかしその瞬間、私ははっきりと水が飲みたいと思った
思えばここまで2時間以上、立って歩いてしゃがんでびしょ濡れになりながらも、全く水を飲んでいなかった
だから、水を飲んだら頑張れるかもしれないと思った

グチョグチョと水っぽい長靴の音を立てながら作業部屋を出る
廊下に並ぶ箱の中からペットボトルの水を取りに行こうと思ったのだ

すると偶然、別部署の同僚と鉢合わせた
彼はまだ10代後半の若者で、部署が違うから滅多に話すことは無い
しかし、若さのわりに私が何か困っていたらすぐに察して助けてくれる気の付く青年だ
そんな彼に、私が頭からびしょ濡れの状態で廊下をうろつき、段ボール下のペットボトルに手を伸ばす所を見られてしまった

瞬間、彼はサッとその上にあった邪魔な段ボールを抱えて避けてくれた 何か、見てはいけないものを見るような眼をしていた気がする
しかしその時の私にはドイツ語会話をする心的余裕が無かった 彼にDanke(ありがとう)を言ったかどうかすら定かではない
もし言ったとしても、少しもにこっとできず表情は死んでいたことだろう
足を前に進める事さえだるい びしょ濡れの私は作業場に戻って固いペットボトルの蓋をどうにか開けて水をがぶがぶ飲んだ

しかし、水を飲んでも、現実は変わらなかった
目の前には箱の山 何個あるとかそんな細かい事はわからない、どうでもいい
とにかく多い なんなら普段より多い気がする
でも、これを終えたらもうあとは床の清掃だけ
もうやるしかない やるしかないのだ
ただ目の箱に手をかけて、いつも通りの手順で清掃に取り掛かった

その最中、私の背後からサーーッという嫌な音が聞こえた
振り返ると、別部署で使用して汚れた追加の赤い箱である
私の身長以上にうず高く積まれたそれを見て、私は呆然とした

私は今日、帰れるのだろうか
もう、本当の本当に疲れている
それなのにまだ一人で、私一人で、このうず高く積まれた赤い箱をどうにかしなくてはいけないのか
手が痛いとか、腰が疲れたとか、言いたいことは沢山ある

今日だってもう沢山肉を捌いた
その右手で今熱湯を撒くために水まきのピストルをぎゅっと握りしめているが、右手はもうほとんど握力がない
でもそういうことじゃない もう身と一緒に心もとっくに限界だ

もし、今の私が同じ状況にいたとしたら、きっと何でもない
大変は大変だろうが、もう清掃のコツを2年以上かけて学んでいるから
が、まだまだ6カ月目の、初めてと不慣れを繰り返したこの日の私にとって、目の前の光景は明らかにキャパオーバーだった

私はガタン、と熱湯ピストルを手放し床に落とした
そして「このまま倒れてしまえたらどれだけ楽だろう」と思った気持ちを、実際にやってみることにした
肉屋の床はざらざらしており、そのまま体を倒して排水の流れていくのあたりに頭をつけてみる
まだ汚れており、そこかしこに生肉も飛び散っているような肉屋の床に、ベッドに眠るように横になる私

正直、あのとき私がどうしてこんなことをしたのか今でもわからない 疲れすぎておかしくなっていたのかもしれない
こんなことになる前に、本来なら、別部署の人に助けを求めることもしてよかったはずなのだ

しかし、この時の私はまだ働き出して半年ぐらい まだ完全未経験者に毛が生えただけのような時期
それでも私は少しずつ、確実に自分の中に自分だけがわかるような成長を感じていた時期でもあった
ここから業務もドイツ語も更によくしたくて、しなくてはいけなくて、どんなに辛くても「出来ない」と言う事だけはやめようと心に決めていた

加えて数日前、こんな出来事があった
我々Fleischerは基本的に肉屋の裏方さんである
しかしながら、その日はたまたまお客さんも訪れる店頭の方に出て別の作業をしていた
新しいお客さんが来店したので、私はその場での作業をなるべく早く終えてささっと裏に戻ろうとした時のこと
少しテンポが遅れ、お客さんが接客を数秒待つ羽目になった その時側にいた職場の人が私を指して

「ごめんなさい、この子動くの遅くって!」

そう大きな声でお客さんに言った
きっとそれは間違いなく本当で、相手も私を傷つけようと思ったつもりは1mmもなかった
それでも当時の私は「このアジア人、仕事も遅い癖にいっちょ前に他部署に頼りに来やがって」などと思われたらと想像すると、怖くて呼びに行けなかった 疲労がネガティブに拍車をかけていた

結局、床に倒れても何も起こらなかった ただ無意味な時間が流れただけだった
こんなに苦しいのに涙も出ない 王子様が助けに来たりもしない
ここには本当に私一人なんだという、わかり切った事実 巨大な孤独は心身の疲労と混ざって無になる

「助けて」と願ったってしょうがない
もうできないよとしょげても、床に倒れても、何も前に進まないことがよくわかった
それがよくわかったから、もう一度立ち上がるしかなかった

ビシャッと、お湯が顔面にぶち当たった
でも、もうどうでもよかった
作業場に鏡など無いので確認のしようもないが、出勤前に軽くしている化粧はもうまともには残っていないことはわかる
水除けの防水エプロンは意味があるのかわからないくらい、制服はシャツもズボンも共にぐしょ濡れ
早く終わらせようとか、早く帰りたいという意識はもう微塵もない アドレナリンもとうにガス切れを起こして、私はどうして立っているのかわからないくらい、ひらすらに無心だった

びっくりした こんなに心が動かなくても、脳が命令すれば体は動く
目の前にある箱を一つ左手で掴んで、右手で熱湯を出し、ひっくり返して洗い流し、キャスターに重ねて、そうしてまたもう一つ箱を左手で掴む
ただそれだけのことを、明らかにいつもより遅いペースで、しかし止まることなく、終わるまで延々と繰り返した

そしたらある瞬間で、目の前から箱の山が消えた
もう身体はしおれた花のように前のめりにしなり、直立できない
でも、あとは床の清掃だけだから、前のめりになってるお陰で床が見えやすい
私はもう帰る事など最早どうでもよく、目の前の床だけを見た 
とにかく体全部が重たかった
この時点でもう一人で4時間以上、作業場を清掃していた

床の汚れをお湯で流していたら、ふいに私の名前を呼ぶ声がした
配達から帰って来た上司である ひどく驚いた顔をしていたので、私は少し緊張した
きっと仕事が遅く、まだ帰っていなかった私を見て引いているのだ 
その時に「何でまだいるの?」「もう帰っていいから」とか言われた気もする でもあまりよく覚えていない

私の頭はひどくおぼろげで、腰の曲がった前傾姿勢になりながら、手はだけはしっかり熱湯ピストルを握り床を綺麗にし続けていた
もう怒られてもいい なんでもいい 私は清掃をするんだ
上司が私の目の前にすっと手を差し出した もうそれ以上やるなという手だった
顔を上げると窓が見えた 夕方5時前のドイツの冬空は真っ暗だった

結局、別部署の人も、まさか私がこんな時間まで一人で働いていたとは気づかなかったらしい
別部署の上司に、私の部署の上司が叱られていた
私は床の清掃もあと少しという所で強引に家に帰された

帰りがけ、何故か新品の小さなナイフとBBQソース、でかい赤ワインまでも持たされ、月曜日は1日休んでいいとまで言われた
私は何が何だかよくわからなかったが、とにかくそれらをすべて受け取り、帰りのトラムに乗り込んだ

家に向かう路面電車の中
会社を出て、肉屋と関係なく生活する人々を見て、ようやく生気が戻ってきた
疲れてはいたが、この時ようやく「疲れた」と言っていい気がした
でも、言葉にはできない経験をした これがいい経験か悪い経験かはわからないけど、間違いなく社会人になってから感じた事のない感覚だ
疲労・不安・孤独が押し寄せると、人は肉屋の汚い床の上でも寝れるんだと知った

これはもう1年以上前の出来事である
私自身、もう既に肉屋で2年以上働いている 今は清掃を効率よく進める手順もわかっている
綺麗にすることは大原則として、しかし力み過ぎず、程よく手を抜くヒントも今ならわかる
だからこそあの日のことを時々思い出す
まだ不安だらけで、人に頼る術も今よりも更に不確かだったあの日の私は、間違いなく踏ん張っていた
私の突き動かしていたのは理性の欠片もない、いつもぐちゃぐちゃの根性だけ

もしタイムマシーンがあるなら、今すぐあの日の私を助けに行きたい 床に倒れた私を白馬に乗って
そしてその仕事を全部代わってあげることが出来たなら

そして現在
今は頼もしい同僚も増え、作業場の清掃を一人でやる事もほぼなくなった
それでもいつでも心に準備はある なんなら今の私が一人でやったらどのくらいで終えられるのか興味もある
肉屋の仕事は、もちろん肉を売る事だけど、私にとって肉屋の仕事は半分が掃除で出来ていると言っても過言ではない
肉屋の清掃で培った経験が家でも生きて、スパイダーマンの様に床にはいつくばって、ベッド下のホコリを掃除することも得意になった

清掃業務は 毎日1時間以上はかかるし、細かい決まりは多いし、疲れるし、髪の毛にひき肉がくっついてしまうこともある
そしてそれに気づかず、そのまま家に帰る事もある
それでもかけがえない仕事だとも思う おいしいソーセージは美しい作業場から生まれている
その手助けが出来ていると思えば、ただの清掃でも私の中で力がみなぎる
私が綺麗にした分、明日またここでおいしいソーセージがここでうまれるんだと思うとやはりうれしい
どんなに頭から濡れても、顔が汚れても、私は今日も明日も清掃業務に身を投じるのだ

ここまで読んでくださりありがとうございました!


Illustrated by あたり・するめ
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