みい山とウシジマくんの比較
もうこの話はやめたい。やめたいんだがアンフェの連中が今度は「ウシジマくんのドラマ化の時はなんで抗議しなかったんだよ」ときた。はあ。お前らウシジマくん読んだのか?読んでその感想なら読解力は小学生以下だ。読んでないなら黙れ。読んでから来い。
これが一連の件における俺の最後の論考だ。
闇金ウシジマくんを読んだ人間は「こんな世界があるのか」と思う。あるあるwじゃない。知らない場所に連れて行かれる。嫌悪感と畏怖が同時にくる。なぜか。真鍋昌平がちゃんと取材して、何層もの角度から社会を描いているからだ。債務者の側からウシジマが見え、ウシジマの側から社会が見え、社会の側から債務者が見える。この三角形が回転し続けるから読者は考えさせられる。
みい山にこの構造はない。みいちゃんという一枚のフィルターを通してしか世界が見えない。カメラが一台しかない。
ウシジマくんに搾取される人間は入れ替わる。多重債務者、ギャンブル中毒、風俗嬢、ホームレス、ヤンキー崩れ。一章ごとに違う人間が違う落ち方をする。読者はその都度「こいつはなぜここに落ちたんだ」と考える。考えて「こうはなりたくない」と沈鬱な気持ちになる。被搾取者が一人に固定されない。だから考える余地がある。
みい山は固定だ。みいちゃん一人。最初から最後まで一人。考える余地がない。眺めるだけだ。見世物だと何度も言っている。
つうかウシジマくんの名前が出て気づいたんだが、みいちゃんは歌舞伎町にいて借金の描写がない。窃盗はやる、売春もやる、立ちんぼもやる。なのに金貸しだけは出てこない。あの街にいて金貸しと無縁ってのも不自然な話だが、まあ描いたら描いたで物語の交通整理が面倒になるんだろう。金を貸す側の論理が入った瞬間に社会の構造が見えちまうからな。それは作者の描きたいものじゃなかったんだろ。能力の限界とも言えるが、いま言及するのは控える。
だがな。じゃあみい山がウシジマくんみたいな構造で描かれてたら許されるのか?多層的で複数の視点があって、社会の厚みを持たせていたら?
許されねえよ。描き方の問題じゃねえんだ。
ウシジマくんに出てくる債務者は自分の足でウシジマのところに歩いていっている。判断力が低いかもしれない。バカかもしれない。だが金を借りるということの意味は分かっている。分かった上で事情があって借りに来る。歪んでいても意思がある。自分の人生の主語が自分にある。
みいちゃんにはそれがない。搾取されているという認識自体が成立しない人間だ。自分が何をされているか分からないまま利用されて壊されて殺される。これは構造を巧みにすれば解決する問題か?しねえだろ。天才が書いても一緒だよ。中心にいるのは自分の状況を理解する能力を持たない人間なんだから。その人間の破滅を商品にして売ってるんだから。売り方の問題なんだ、シンプルに。
お前らは作品の質の話と売ることの倫理の話を一緒くたにしている。俺は最初から両方について怒っている。出来が悪いから怒っているんじゃない。出来が良かったとしても怒っている。
ミームの話もしておく。
「お前ウシジマくんみたいだなw」って人に言えるか?言えねえだろ。ウシジマは暴力装置だ。笑えない。シャネルちゃんと同じ、殴り返す側の人間だ。
じゃあ債務者の方はどうだ。「お前あのフリーターみたいだなw」と言えるか。言えない。債務者が入れ替わるから。一人にアイコンが集中しない。だからミームにならない。
みいちゃんはミームになった。一人だからだ。名前と顔と特徴的な言動が一人に集約されていて、そして殴り返さない。安全だから笑える。反撃が来ないから消費できる。
もう全部言った。構造が違う。倫理が違う。ミームの生まれ方が違う。これで分からないならもう知らない。分からない人間のために書いているわけじゃない。
この話は以上だ。

