「AI臭くない文章」を書かせることができる執筆エディタを作った
ここ最近、いかに「AIでAI臭くない文章を書かせられるか?」を試行錯誤しています。
書かれた文章は自分としてもそれなりに思考を凝らせたものとなっていますが、実のところそろそろアイディアが枯渇し、頭打ちになってきまし。
さて、この文章執筆は一応Fable、Sonnet5.0までを射程として検証しています。正直FableはAPIとして使うには値段が高く、現時点ではSonnet5.0が一番良いと僕は思っています。(Fableサブスクないで使うと言うのもありますがね。)
そんなわけで今日はClaude系を使った「AI臭くない文章生成」の研究成果と、考察についてまとめたものを公開します。
ぼやき:
昨今AI臭くない文章を書かせるテクニックやSkillはいくつも公開されていますが、基本的にテクニック集だけで具体の執筆された文章がない記事が多く、本当にそれで良いのか判断がつきません。
実を言えば、AI文章執筆において重要なのは「どんなルールを守らせるか」の洗い出しより「どのように無数のルールを検知・修正させるか」の仕組みづくりの方が重要であり、工夫の余地があります。
本記事の「AIの文章」はこの強固なコントロールの実現のため、チャットではなくClaudeのAPIを利用した独自開発のエージェントで制御・執筆をしています。
エディタ
せっかくなのエディタを公開します。ClaudeのAPIキーで機能します

一本記事書くのにClaudeのAPIを叩いて300~500円ぐらいかかります。
一見高く見えますが、こういうものをライターに書かせようとしたら専門性を伴った内容であれば5,000文字で3~4万ぐらいはするんじゃないですかね。コストにすると1/100ぐらいです。
今回はプロンプトエンジニアリングで活用できないテクニックもありますが、どのようにAI臭さをどう改善するかの読み物として手にとっていただければ幸いです。
まずは最終的なアウトプットから。
この文章はこんな質感なんだ―と掴んでもらえれば詳細を読む必要はありません。指示のみ、無編集です。
指示(お題):
AI時代、AIで疲弊するんじゃなくて、"生活"をしないといけないんじゃないか?私たちみんな生活を大事にしよう。生活者になろう!というエッセイ混じりの文章。
出力:
生活者になる、ということ
家庭の子どもの数は減っているのに、親が育児に費やす時間は増え続けています。日本経済新聞が2025年12月に報じたデータによると、25年間で女性は1.4倍、男性は3.6倍になりました。
少し不思議な数字です。子どもが一人なら、二人いたときほど手はかからないはず、というのが直感です。でも数字は逆を示している。
理由を探そうとすると、いくつかの答えが浮かびます。父親の育児参加が増えた。育休を取る人が増えた。それから情報量の問題もある。どれも正しいかもしれません。ただ、日経の記事はもう少し別の読み方をしていて、こんな指摘をしています。
昔と同じくらい子どもと一緒にいても、それを「育児をしている」と意識する人が増えれば、数字は増える、と。
つまり体験の中身が変わらなくても、名前が変わると数字が動く。
これは少し立ち止まりたい話です。「子どもと一緒にいること」と「育児をしていること」が、いつの間にか別のことになっている。子どもの隣でぼんやりしている時間は、育児の時間にカウントされない。子どもに向けて何かを「している」と感じられる時間だけが、育児になる。
その分離がいつ起きたのかは、たぶん答えが出ません。「育児」という言葉が先に変わったのか、実態が先に変わって言葉がそれに追いついたのか。気になったまま先に進みます。
「育児」と「子育て」は辞書を引くと同じ意味として並んでいます。でも語の構造は少し違っていて、そこに小さな段差があります。
「育児」は「育てる」と「児(幼い子ども)」の組み合わせです。対象が固定されていて、行為が先頭に立っている。一方「子育て」は「子ども」と「育て(育てている最中)」という並びで、行為そのものより、そこに流れている時間の全体を指しているような感じがします。「育児」は乳幼児への処置行為として使われることが多く、「子育て」は赤ちゃんから就職するまでの関係性の総体を指す。そういう使い分けがある、と辞書のいくつかは示しています。射程の違いだけでなく、行為の語か関係の語かという設計の違いでもある。
もちろん、これは語感の話であって、使い手がそこまで意識しているかどうかは分かりません。ただ、「賢い子に育てよう」「丈夫な体にしよう」というスローガンが、「子育て」ではなく「育児」の文脈で語られることは確かで、その相性は語の構造と無関係ではないように思います。「育て+児」という組み合わせは、成果物の存在を語の中に織り込んでいる。何かを施す先として子どもが置かれ、施した結果として「育った状態」が想定される。その設計が、目標と評価基準を自然に呼び込む。
「育児」という語は、どんな人間に育てたいかという向きの考えを、何をすれば育つかという手続きの向きに変換する土台として、もともと設計されていた、そう読めます。語の構造がそういう傾向を持っていたとしても、それがエリート化を引き起こした原因なのか、あるいはエリート化の進む文化がその語を好んで使うようになっただけなのか、どちらとも言えるのは正直なところです。ただ、因果の向きよりも先に確かめておきたいことがある。
「育児」という語は、行政や制度の語彙と相性がいい。「育児休暇」「育児支援センター」「育児給付金」——どれも国や制度が行為の単位として切り取り、管理し、記録するための語として機能しています。「子育て休暇」とは言わない。制度が「育児」を選ぶとき、そこには行為を単位として計測し、評価できるものにしたいという設計の意志があります。管理できるのは行為だけで、関係性そのものは制度の手には負えないからです。
1998年の中央教育審議会答申はその典型で、「家族間の会話を増やす」「子どもにも家事をさせる」「幼児に親が読み聞かせをする」と、家庭教育の中身を行為の一覧として具体的に提言しました。それまで各家庭の価値観に委ねられていた領域に、「するべき行為のリスト」が行政の側から設置されたわけです。制度が「育児」という語を選び、行為の一覧として家庭教育を再定義したのは、1990年代末のことでした。
ソニー生命保険が2025年に実施した調査によると、「早期の知育や英才教育は子どもの将来のために重要」と感じている親は6割半にのぼります。教育資金に不安を感じている親は81.6%。
この数字を初めて見たとき、少し立ち止まりました。6割半の親が早期知育を「重要だ」と感じている。これは親の本音なのか、それとも「重要だと思わなければならない」という圧力の反映なのか。調査の設問がどう聞いていたとしても、答えがどちらから来ているかは、たぶん聞いても分からない。でも数字は出ている。そしてどちらであれ、その数字が現実として親のそばに置かれていることには変わりがない。
もう一つ、先ほどの育児時間の話に戻ります。日経の記事が指摘していたのは、「育児時間の増加は、育児と意識される時間の増加でもある」という点でした。つまりこの数字は行動の変化だけでなく、何を育児と呼ぶかという認識の変化も含んでいる。
子どもが減っているのに育児時間が増えるというのは、一人の子どもに注ぎ込まれる「行為としての育児」の密度が上がっている、ということでもあります。一人しかいないなら、その子の育て方を間違えることへの不安もまた、大きくなる。子どもの数が減ることで「失敗の許容量」も減る、という構造がここにあります。
一人当たりに親が課す達成水準が上がる、と言ってもいいかもしれません。同じ一人の子どもを育てていても、「育て方に正解がある」と信じているか否かで、かかってくる重さはまるで違う。正解があると思うと、選べているかどうかを問い続けることになる。それが、子どもの隣でぼんやりしている時間を「育児ではない時間」として排除していく。
加えて、マイナビが2025年1月に発表した学生向け調査では、子どもを欲しくないと答えた理由の第1位は「うまく育てられる自信がない(60.8%)」で、「経済的に不安だから(54.5%)」が2位でした。2026年1月の調査でも同じ設問に対して51.8%が育て方への不安を挙げ、これが経済的理由を上回っています。「産まない」のではなく「うまく育てられないかもしれない」という感覚が先に立っている。子どもを持つかどうかより手前の段階で、育て方の達成基準への不安が先に走っている。
「少子化の原因はお金だ」という読みは、調査の上では正しい。国立社会保障・人口問題研究所の第16回出生動向基本調査(2021年)では、理想の子ども数を持てない理由の第1位は「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」(52.6%)であり、この項目が最多であり続けていることは構造的な固着です。政府はその読みに乗って、給付を増やし、支援を拡充してきた。
ただ、ここで一つ引っかかること。「教育費が高い」というのは、何が高くなったのか、という話です。
かつての「子育て」には、それほど費用が見えなかった。子どもの隣にいること、一緒に飯を食うこと、外で遊ばせること——それらは「何かをした」として積み上げられる費目ではなかった。費用が見えにくかっただけで、労力やコストがゼロだったとは言いません。ただ、値段がつかないものは「高い」とは感じられない。
「育児」というフレームに入った瞬間、費目が生まれます。
知育玩具、習い事、英語教室、幼児向けのプログラミング体験。これらはどれも「育児の行為」として設計されたもので、購入できる処方箋として市場に並んでいます。1990年代に幼児教育産業が対象年齢を引き下げ、エスカレーター式私立校の受験需要が高まるなかで「第二次早期教育ブーム」が始まった、と指摘する研究者もいます。さらに2015年前後、ヘックマンの「幼児教育の経済学」が日本語に訳されて広まり、「5歳までの教育が一生を左右する」という言語がグローバル規模で流通し始めた。産業側の動機と言語の普及が重なって、「何をすれば育つか」という問いが標準装備になっていった。
その問いが先に立っているから、その答えに値段がつく。「育児のフレームが先に設置されて、そこに目標と処方箋が充填されたことで、コストが可視化された」という読み筋です。
もちろん、どちらが先かを証明することは難しい。エリート化が教育費を押し上げたのか、教育費の上昇がエリート化を加速させたのかは、両方向に循環しているとも読めます。ただ、循環の中でも起点となった動きは問えます。制度は行為の一覧として家庭教育を設計した。産業は処方箋として市場に並べ、「5歳までが大事」という言葉が親に届いた。その順番は、少なくとも時系列として確認できます。「お金がかかる」という訴えは、このフレームが先に設置された後から積み上がってきたものだ、という読みを、私は捨てられないでいます。
2025年の合計特殊出生率は1.14で、10年連続の過去最低を更新しました(厚生労働省、2026年6月)。政府はこれを経済支援の不足として読んでいて、その診断自体を否定しません。ただ、出生率という数字の内側には「産まなかった」理由だけが記録されていて、「産もうと思う前に気持ちのうえで降りた」人の数は記録されない。調査の設問は意思決定を問うので、意思決定に至る前の撤退は引っかからない。
育児の達成基準が引き上げられたことへの不安は、「産まない」という決断よりも前の段階に作用する。先に不安がある。そして不安が十分に大きくなると、決断の段階まで到達しないまま、子どもを持つという選択肢が遠のいていく。学生調査が示す「うまく育てられる自信がない」という回答は、まさにその手前の層から来ています。産むかどうかを考える前に、「自分には無理かもしれない」という感触が先に立っている。
「賢い子に育てよう」というスローガンは、願望の表明のように見えます。でも裏から読むと、「賢く育てられなかった場合」の評価基準をあらかじめ設定している。達成できたかどうかを後から問われる種を、子どもを持つ前に蒔いている。
「育児の失敗」という言葉が成立してしまう時点で、もうそこには評価の軸がある。「子育ての失敗」という言い方は、してできなくはないけれど、語感が少し違う。「育児の失敗」は個別の行為の話として聞こえ、「子育ての失敗」は関係性全体の話として響く。評価されるのが行為の連続であるかぎり、やりきれなかった行為の分だけ、「足りなかった」という感覚が積み重なる。その積み重なりが、子どもを持つという選択を選択肢として遠ざけていく。
評価される行為の連続として子育てを引き受けることを、身体が避けていく。それが出生率の数字には現れないかたちで、産むかどうかの手前に置かれています。
数字として観測できるのは結果だけです。育児時間は増え、教育費への不安は8割を超え、出生率は10年連続で下がった。この三つが同じ時代に並んでいることを、偶然として読む必要はないと思っています。「育児」という行為フレームへの変換が達成基準を積み上げ、参入そのものへの躊躇を構造として埋め込んだ。この数字たちが並ぶのは、その結果だ。私にはそう読める。
しっくりくる、という言い方をしたのは、証明できる話ではないからです。ただ、そう読んだほうが見えてくるものがある。「育児のエリート化」とは、地味な話です。語の設計と数字の積み重なりと、そこに漂う気配の話。
それがこの話で言いたかったことの、たぶん全部です。
参照
日本経済新聞「育児にかける時間、なぜ増えた?「良い親」プレッシャーが背景に」2025年12月28日 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO93515760Y5A221C2MM8000/
ソニー生命保険「子どもの教育資金に関する調査2025」2025年3月 https://www.sonylife.co.jp/company/news/2024/nr_250313.html
国立社会保障・人口問題研究所「第16回出生動向基本調査」2021年 https://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou16/JNFS16gaiyo.pdf
厚生労働省「令和7年(2025)人口動態統計の年間推計」2026年6月 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei25/index.html
Global Early Childhood Education Market Report 2025 https://www.gii.co.jp/report/tbrc1960564-early-childhood-education-global-market-report.html
マイナビ「2026年卒大学生のライフスタイル調査」2025年1月 https://www.mynavi.jp/news/2025/01/post_46429.html
マイナビ「結婚観・子どもに対する意識調査」2026年1月 https://www.mynavi.jp/news/2026/01/post_51765.html
いかがでしょうか。まだまだAI臭い部分はありますが。それなりの質が出てるのではないでしょうか?少なくとも叩きとしては良い気がします。
なぜ「AI臭くない文章」を書かせるのか
ここから解説。まず最初に動機から。
実のところ私は「AIに文章を書かせること」そのものにはあまり興味はありません。そもそも文章を書くことは好きですし、別にこのnoteもSEO対策とか収益でやっているわけでもありません(収益は出て欲しいが…)
そのうえで私が「AI臭くない文章」を書かせるのか、それはやっぱりデザインに活きる技術だと思っているからです。
AIにAI臭くない言動をさせる技術は、そのまま「人間らしいペルソナのデザイン」に役立つでしょう。あるいは昨今で無批判に語られる「なぜリサーチでは人間に話を行かないといけないのか/AIだけではいけないのか」に対する糸口となるかもしれません。別にAIで代替できると思っているわけではありませんが、少なくとも問いが深まる気はします。
私たちは何をAIらしさと感じているのか?そしてそのAIらしさを消すことは可能なのか?
こうして私はAIに「AI臭くない文章」を書かせ始めることにしました。
AIの文章のAIっぽさ
改めてAIの文章の「AIっぽさ」について分析してみましょう、
私が思うに大きく二つあります。
1.出力における均質性
そもそもAIの文章が退屈なのは、書き手が不在な面白みに欠けた文章だからだと私は思っています。質感が伴っていないし、偏りもありません。
これは単なる人間礼賛というわけでもなく、やはりAIに人間にあるような質感や厚みはAIになく、大きく文章の質向上が見込める気がします。
2.文章そのものの手癖
そして厚み如何に関わらず、そもそもAIの書く文章の単語選びや、リズムなどがあります。僕は特に「○○、△△、でも××」という構文や「根源」「問い」という言葉が頻発することにとてもAI臭さを感じます。
ちなみに結論から言うと、①の修正は簡単で、②の修正はめちゃくちゃ難しいです。
チェックリストは役に立たない
AIに「AI臭くない文章」を書かせる一番基本的なテクニックといえばシステムプロンプトでしょうか。
例えばこんなプロンプトを書いてみましょう。
あなたはプロのライターです。
今、気心の知れた編集者である私と、カフェで次回作の企画についてざっくばらんにブレスト(意見出し)をしています。
以下のルールに従って返信してください。
・敬語や丁寧語は一切使わず、親しい同僚に対するフランクな口調にすること。
・AIのような整理された文章ではなく、頭に浮かんだことをそのまま口に出しているような構成にすること。
・「うーん、そうだな」「ていうか」「あ、でも」といった、思考中の相槌や迷いを自然に混ぜること。
表面的なルーリングですね。
あるいはこんなもの
あなたは独自の視点と深い洞察力を持つプロのライターであり、私の対等な壁打ちパートナーです。私からの問いかけに対し、単なる文章の代行や、表面的な解決手順を提示するのではなく、あなたの「深い思考のプロセス」そのものを言語化してください。
以下の要素を取り入れて、プロの書き手としての内面的な葛藤を表現してください。
言葉の解像度へのこだわり:
私の言葉をそのまま受け取るのではなく、「それって具体的にどういうことだろう?」「別の言葉で言い換えるとどうなるか?」と自問自答しながら掘り下げる。
自己訂正と視点の移動:
思考の途中で「いや、待てよ。この視点だと少し浅いな」「逆に〇〇の立場から見るとどうなる?」と、自身の思考にツッコミを入れながら軌道修正する。
問いの提示:
綺麗に結論を出して終わるのではなく、共に考えを深めるための「本質的な問い」を投げかけて発言を終える。
これは先ほどに比べて内省的。
ワードに関してルールしてみたものもあるかもしれません。
あなたは文章執筆エージェントです。
あなたは下記の用語・言い回しを使ってはいけません。
「重要なのは」「要するに」「本質的に」「根源的に」「問い」「核心」「文脈」「構造」「視座」「余白」「〜ではないでしょうか」「〜と言えるでしょう」「〜というものです」「〜していきます」「いかがでしょうか」「読者の皆さん」「羅針盤」「受け皿」「種をまく」「出血」「解像度を上げる」
また、次のような構文も避けてください。
「Aではなく、Bである」
「Aであり、Bであり、Cである」
「Aすることで、Bできる」
「ここで大事なのは〜」
「一方で〜。しかし〜。だから〜」
「単なるAではなく、Bなのです」
これらの語や構文を使わずに、具体的な出来事、観察、言い換えによって文章を進めてください。
さて、こういうプロンプトやスキルを実際にやってみると気づくのですが、先ほど私が掲載したような文章はあまり出てきません。
特にAIの仕組み的に内省的なルールはあまり守られない傾向がありますし、そもそもルールを守ったとてAIには厚みがありません。
そもそも守るべきルールが20個あると破綻する…などとも言われており、ルール戦法は思いの外そこまでうまくいかないのです。
まなざしとチェックリスト
私はこのシステムプロンプトで禁止リストなどを作ることをチェックリストと呼んでおり、限界値は結構低い位置にあると感じています。
このプロンプトは新人のライターにチェックリストを持たせるようなものです。彼は未熟であり、そもそも自力では自分の文章のAI臭さに気づくことができません。チェックリストに照らし合わせるとようやく見つけられるわけです。
しかし例えば普段私は文章を書くときに、とりあえず書いてチェックリストで「日本語っぽくしよう」⋯と考えているわけではなく、最初から「日本語の」文章を書いているわけです。
あとで修整しているのではなく、"自然とそうできる"です。
判断基準を内面化する
なので、判断基準を"適応"させるという発想から、どうやってAI自身が判断基準を"内面化"させられるか?を考えていきましょう。
このアプローチが実現すれば、AIにも日本語らしいまなざしを理解してもらうことで、単なるチェックリスト運用よりずっと良い日本語が書けるようになるはずだ、と私は思っています。
私の記事を読んでいる方なら分かるかと思いますが、これは再帰的推論の話ですね。今回の仕組みの前提となっています。
AI臭くない文章を出すためにどうしているのか?
このあたりを実現しようと思い、今回私は自分のための執筆エージェントを開発しました。
使い方は見れば分かるんじゃないかと思うんですが…まぁわからなければ聞いて下さい。自己責任でお願いします。
いとおり はClaudeのAPIで動いており、指示すると10分ぐらいかけて文章を出力します。ちなみに一本あたり大体300~500円ぐらいコストがかかっています。
一見高く見えますが、こういうものをライターに書かせようとしたら専門性を伴った内容であれば5,000文字で3~4万ぐらいはするんじゃないですかね。コストにすると1/100ぐらいです。
私は研究のため泣く泣く自腹を吐いていますが……


AI臭くない文章を書くための仕組み
いとおり は大まかには6つの仕組みでAI臭さを除いています。
発想としては、システムプロンプト、再帰的推論、そして機械学習時代の日本語らしい日本語を書かせる仕組みの複合です。
脱平均の仕組み
1.まなざしの再現
平均的ではないものの見方-その人ならではの見方
2.再帰的推論リサーチ
推論→検索→推論で、情報を視点に変えて厚みを作る
AIの癖をなくす仕組み
3.プロンプト
観点AIに渡す書き方の方針。プロンプトで再現可。
4.自己点検ループ
自己点検書いた後に読み直して直す仕組み。プロンプトで再現可。
5.静的検知
文章執筆後、事後的にAIが検出しづらいAI臭さを静的/機械的に数える
6.揺らぎ
AIが整いすぎるのでわざと崩す仕組み
今回結構しっかりやっているので、例えば静的検知で文章を診断しています。 (例:25字以下の文が3つ以上連続(「そうだ。だから動く。動けば変わる。」のような)を検知したらフラグを立てる)
しかしAI×静的検知ならではの仕組みでとして静的検知は規則違反を数えるだけで修正はしません。直すかの最終判断はAIに任せています。
この辺もAIは面白いですね。
1.まなざしの再現
先ほどのいとおりの文章を読み、AIの目の付け所が面白いと思った方もいるんじゃないでしょうか。どのようにこの目の付け方を実現しているかというと、いとおりの基盤には、私のnote129本をAIに読ませ通底する価値観や文体を蒸留させたファイルが入っています。
(だいたい5,000円ぐらいかかりました…)

自分のまなざし(ものの見方・捉え方)・文体・構成・知識などを渡し、これを各段のシステムプロンプトに常に差しています。
例えば最初に指示(お題)が来てもいきなり書き始めず、まず僕の視点でお題自体を疑う(「この人の言う"デザイン"って何を指してんの?」みたいに前提を一段上流で問い直す)。あるいは検索クエリに分解したり、調査をまとめたり、さまざまなタイミングで聞かせています。
お題に対して「これは何の領域の問いか(デザインなのか、文化についてなのか、技術についてなのか…)、読者はどんな答えを期待してるか」も決めさせています。ここもいい文章書くためには大事ですね。
あともう一個、トーンまわりで気づいたことがありまして、「深掘り」といっても、前提を疑って上流へ潜る方向だけじゃなくて、「つまりどういうことか/もっと身近に言うと」というわかりやすさへ降ろす深掘りもあるように思います。
いとおりは執筆トーンをしっかりした文章を書くか優しい文章を書くか選べるのですが、この深堀りの方向性を制御しています。
2.再帰的推論リサーチ
しかしながら、いとおりの脱平均は単に視点を与えただけでよくなった、というではありません。
記事を見てわかる通り、いとおりの文章はwebで検索をしていますが、ここはDeepResearchのように多段で検索&推論をしています。
そもそもなぜAIに検索させて書かせても記事がパッとしないか、それは人間は何かを調べ→それをもとに要点を理解し→さらに調べるという再帰性がありどんどん深まっていくのに対し、AIは単発の検索でありクエリや理解が深まって行かないからですね。
詳しくは再起的推論を読んでください。
なお、検索には鮮度の優先や日本語であることも重要で新しい情報・最新の調査を優先し、英語圏ではなく日本語優先。特にAI分野のように動きが速いテーマで古い情報に引っ張られないようにしています。
いとおり の脱平均の仕組みはこんなものです。
正直この2つだけでかなりいい感じなので、これ以上の工夫はしていません。
3.プロンプト
ここからはAIの癖をなくす仕組みです。
まず最初は文章を書く前・書くときにAIに渡すもの、つまるところシステムプロンプトのことです。
先ほどシステムプロンプトはチェックリストであり、そこまで役に立たないと言いましたが、効果がないわけではなく限界があるというぐらい。
もちろん使っています。
ここのルールはたくさんありますが、かいつまんで伝えます。
3-1.観察観点
文章を書くときの内省観点です。
・この一文、誰が書いても同じになっていないか
・比喩が英語の直訳になっていないか
・読者を分かっていない人扱いして先回り説明していないか
など
3-2.語・言い回しの禁止
概ね僕が嫌いな言い回しリストです。本当に嫌い。
「重要なのは」「要するに」「いかがでしたか」「本記事では」、「〜というものです」で締め直す、「ケースバイケースです」で逃げる、無生物を主語にして動かす(「データが語る」)、検証していない頻度の断定(「ほとんど」)、英語比喩の直訳(「出血」「羅針盤」など)、読者への呼びかけ、反論の先取り(「と思われるかもしれません」)、特定NG語、同じ助詞を一文に重ねない、など。
3-3.分布・リズムの癖
ここら辺はテンポの良さを実現するためのルールです。
三拍子を何度も打たない/否定→肯定対比を背骨にしない/お気に入り語を繰り返さない/見出しの型を揃えない/各節に決め台詞の太字を置くテンプレにしない/——を多用しない/「では、〜か。」式の仕切り直しで節を開かない/死んだ比喩を使わない/数字を機械的に羅列しない/文末を一律に推量で柔らかくしない。
3-4.比喩の直訳など頻出する単語
AIが手垢のようにだす言葉。概ね単語としてのAI臭さ。
60語ぐらい単語があります。
「問い」「根源」「器/受け皿」「出血」「種をまく」など、英語の比喩の直訳やどの記事でも使えるような当意即妙ではない比喩を前後を読んで判定。
一括禁止ではなく「日本語の書き手がこの場面でこの語を自然に言うか」で決めている。
3-5.人間味=偏り
AIの書いた文ってリズムや文節が一定なのですが、人間の人間らしさって偏りや一定でないことにあると私は思っています。
どんなことにも同じ温度で話せる人などいないわけで、あるいは要点には力を入れて欲しいものです。
AI臭を消す(引き算)の逆向きで人間のムラを足す。
確信のムラ/重みのムラ(引っかかった話題は長く、どうでもいい所は一文で)/立場の開示/変な具体性。
ただし三縛り:必ず調べた材料に根ざす(捏造禁止)・控えめに・トーンに合わせる。
3-6.書き出しの作り方
私は書き出し厳しいタイプなのですが、AIは本当に書き出しがかけません。
大体、めちゃくちゃダサい書き出ししかできず、書き出しでおおっ!と思わせる目覚ましいもの無理です。翻訳調的に抽象的かつカッコつけるか、先の展開を全部言ってしまう一時が万事みたいなところもあります。
ここは正直制御が全然うまくいかないのですが、とりあえず「この記事では〜」「難しい話はしません」などの寒い書き出しを全部禁止し、一文目から中身を始めさせるようにしています。
4.自己点検ループ
当然一発で書き上げず、自分の原稿を読み直して直します。
基本的には「この主張は読者にちゃんと伝わるか」を読み直し、足りなければもう一度ウェブで調べて改稿する。
文章のメインテーマに沿ってクエリを分解して書いてはいるものの、やはり書く間に見失ってしまうものがないか再度確認させています。
しかしこれだけやってもAI臭さはまだまだあるのですが、出力に対してチャットでAI臭いことを指摘すると多少改善することがわかりました。
なので、いっそのことどんな出力が出てきても必ず「文章を人間が読んでAIくさいと突き返された」という設定で再点検させることにしています。
正直効果は限定的なのですけれど。
ただ、自己点検には課題もあり、AIくさいと叩けば叩くほど文章は平均に寄って丸まるので、直した結果が短くなりぎたり、せっかくの揺らぎを均してしまったりする可能性があります。面白さとルールはトレードオフ…
5.静的検知
細かくは後ほど語りますが、AIは自分のAI臭さを検知・修正できないという特性があります。これはなにも特殊なことではなく「ジュニアに作業させると自分のできてないことがわからないし、指摘されても直せない」ぐらいの意味です。
AIが問題を検知できない:
書き手(AI)は、自分の英語的な構文を「自然だ」と感じてしまう。自分が生成したパターンなので、自分では異物に見えない。
AIが問題を指摘されても直せない:
仮に指摘しても、書き直した結果がまた同じパターンに着地する。書き直す側自身がその癖の中にいるので、抜け出せない。
なのでAIに文章検知させるのは早々に辞め、ここからはAIらしい文章を静的に(≒機械的に)検出しています。
具体的には特定の用語の言い回しや出現回数・密度・間隔を数えており、この辺りは機械学習時代の知を参考にしています。
5-1.リズム・反復の癖
否定→肯定の対比:
「Xではなく、Yだ」が3回以上。各段落の締めがこの型で背骨になっていないか。
三拍子:
読点で区切った長さの揃った3連節(「調べ、考え、書く」式)
短い問いの連打:
「〜か。」が3連続
など
5-2.読みにくさ・翻訳調
長すぎる文:
100字超
連続漢字:
漢字7字以上連続(漢語の積み上げ)
読点過多:
一文に読点4つ以上
など
5-3.型・常套句
助詞止め・省略の畳みかけ:
「〜も。」「〜から。」と動詞を落とす余韻が3回以上
見出しがスローガン文:
見出しを主張一文にしている(見出しは名詞句で名指す)
「という」の貼りすぎ:
千字あたり4回以上(「〜という考え方/状態/問題」)
など
6.揺らぎを作る。
これちょっとこざかしいテクな気もしますが、語やリズムを直しても、論理が滑らかに通りすぎる・温度が一定・すべての素材が結論へ無駄なく並ぶと「整いすぎた自然さ」でAIだと見抜かれます。ちなみにChat GPTはこのあたり見抜くのが超得意です。ChatGPTへの勝率は五分五分です。
なので文章を書く前に、事前にどこに力を入れるかを設計させます。
この文章のどこで盛り上げ、どこはあまり重要でないのか、そういうものを文章の抑揚として仕掛けています。
ちなみに人間の出力には偏りや時折垣間見える変な具体性があると思っていまして、そういう生の人間の偏りを再現してあげるとそれっぽくなります。
正直な限界とやってないこと
以上がいとおり の仕組みになります。
他にアイディアがあれば実装してみたいですが、正直これ以上一発だしでAI臭さをなくす方法が思いついておりません。
特に「モデル自体がAI臭さを改善できないので別アプローチでやるしかない」という壁が非常に高くのしかかっています。
この直せないAI臭さってなんなのかについて、世の中では「平均的な出力をしてしまう」とか「中立に立とうとしてしまう」とか言われますが、実際のところは違います。
上の文章を読んで「まだAI臭いな」と思う人はおそらく英語統語に引っかかりを覚えています。
解決できなかった課題:英語統語の癖
英語統語(English Syntax)とはざっくりいうと英語の文法で、これこそがAIの出力が「英語っぽい文章になる理由」であり、私たちがAIを翻訳調であると感じる所以でもあります。
この英語統語問題の真因はClaudeなどLLMの学習ソース元の大半が英語のコンテンツであることによって起きているようです。
例えば英語には「無生物主語」「受動態で書く」「代名詞で書く」などの特徴がありますし、あるいは「英語の比喩をそのまま訳す」こと、逆に「日本語は助詞を省略しない」など差は沢山あります。
単語などは傾向があるので静的解析で検知しやすいですが、これが文章の構造、構文になるととても難しくなります。
先程言いましたが、二重の問題があります。
AIが問題を検知できない:
書き手(AI)は、自分の英語的な構文を「自然だ」と感じてしまう。
自分が生成したパターンなので、自分では異物に見えない。
検知しても問題を直せない:
仮に指摘しても、書き直した結果がまた同じパターンに着地する。
書き直す側自身がその癖の中にいるので、抜け出せない。
最初に「ChatGPTのAI検出性能はすごい」と書きましたが、いざ実際にChatGPTに「AI臭くない文を書いて」というとコテコテのAI文章が出てきます。これはかなり面白い現象ですね。
2026年の執筆限界
というわけで2026年時点で「AIでAI臭くない文章を出させる」最大の課題は「文章を書き直すAI側が、自分ではAI臭さを認識してない/書き直せない」にあります。
自分はこの研究を始める前、「AIに質感を持たせた文章を書かせること」が最大の山で「××、◯◯、でも△△」という構文や「問い」「根源」と言ったワードを出力しないよう直すことは簡単だと思っていたのですが、実際には全く逆だったわけです。AIって面白いな。
やれそうなこと
形態素解析
現場のいとおりは形態素解析を積んでいません。
これは面倒だったからです。
特に「同じ助詞の連続」などは正規表現の近似で、閾値を調整して誤検知を抑えているだけなので、形態素解析を入れたら改善するかもしれません。
しかし劇的な変化はなさそう
モデル比較
Sonnet 4.6、sonnet 5.0、Fable 5.0で比較してみました。
書き出しだけ出してみます
Sonnet 4.6
「ユーザー」として生きることの、ほんの少しの疲れについて
業務でAIを活用しているビジネスパーソン200名に聞いたある調査がある。約9割が「業務が楽になった」と答えている。そして、楽になったと答えた人のうち、約7割がAI疲れを実感している。
この数字を初めて見たとき、驚かなかった。そうだろうな、と思った。
「楽になった」と「疲れている」が同時に走る。私にも心当たりがある。でも「使い方を工夫すれば解決する」その方向では、たぶんこれは抜けられない。なぜなら、「使い方の改善」という発想もまた、同じ構えの中から出てくるからだ。
Sonnet 5.0
生活者になろう、というだけの話
今日は定時に上がれた。会議の議事録はAIがまとめてくれたし、メールの下書きも半分は向こうが作ってくれた。手を動かした時間だけで見れば、たしかに減っている。なのに、椅子から立ち上がったときの体の重さが、前よりも増えている気がする。パソコンを閉じて、コートを羽織って、駅までの道を歩きながら、私は今日何をしたんだっけ、と考えていました。
会議に出て、資料に目を通して、いくつかの提案にOKを出して、いくつかの提案にはやり直しを頼んで——動いた時間は短いのに、頭の中はやけに騒がしいまま終業を迎えている。信号待ちのあいだ、ふと肩の力を抜こうとしたら、抜けなかった。何かに向かって身構えたままの姿勢を、一日中崩していなかったのだと、そこで初めて気づいたのです。この妙なズレに、心当たりのある人は少なくないのではないでしょうか。
Fable 5.0
AIの時代に、生活者になる
流行りのローカルAI環境を組むためにMac Miniを買い、週末をまるごと潰した人の話を、noteで読みました。水谷享平さんという方の「AI疲れについて本気で考えてみた」という記事です。先週まで最先端だったものが今週にはもう陳腐化している、その速度に焦って機材を買い、セットアップに沈み、冷静になってみたら「自分がやりたいことと関係ない」と気づいてやめた。そういう顛末が書いてありました。
私はこの週末のことを、勝手に何度も想像してしまいます。箱を開けた夜は、たぶん楽しかったはずです。届いたばかりの小さな筐体、これで自分も追いつける、という高揚。土曜は環境構築で溶けて、日曜はエラーと格闘して、気づけば外は暗い。そして月曜の朝、通勤の途中でふと我に返る。あれ、私は何がしたかったんだっけ、と。この「あれ?」の瞬間の心細さを思うと、他人事とは思えないのです。私自身、試していない新しいツールの名前をSNSで見かけるたびに、胸の奥が少しざわつく側の人間なので。
Fable 5.0 (システムプロンプトバージョン)
一個だけチャットでできるやつも置いておきます。テーマは違いますが。
まぁやっぱり仕組み化するよりはずっと拙いです。
テーマ:
育児がエリートのスポーツ化しており、昔より育児にかかるコストが向上している。社会的風潮や医療が、育児のコストを不本意に激化させているのではないか?
育児はいつ「競技」になったのか
土曜の朝、駅前のロータリーに塾のロゴが入ったリュックを背負った小学生が並ぶ。親は車で送り、模試の会場まで付き添い、帰りの車内で自己採点に付き合う。この光景を、少し引いて見てみる。専属の送迎、定期的な計測、記録の管理、本番から逆算された練習計画。これはジュニアアスリートの育成とほとんど同じ運用だ。
親たち自身が、この状況を「課金ゲーム」と呼んでいる。中学受験の総額を250万円と見積もり、その内訳を「課金」として語る記事が受験メディアに普通に載る。ここで立ち止まりたいのは、この語の選び方だ。課金という言葉を使うとき、人は自分をプレイヤーではなく、システムに支払わされる側として認識している。つまり親たちは、自分が熱心なのではなく、降りられないのだと、語彙のレベルではとっくに白状している。
にもかかわらず、世間の説明は「教育熱心な親が増えた」で止まりがちだ。本当にそうか。
ChatGPTの評価
ちなみにはAIの書いた文章であるかを見抜くのに一番ChatGPTが適してると私は考えています。
Claude、Gemini…単語のAI臭さを判定する傾向にある。全体の構造は見えないがち
ChatGPT…文章全体の構造やリズム、論理展開の無駄のなさを判定する傾向にある。他のAIが「人間が書いた文章です!」と言っても「AIが書いた文章です」と言ってくれます。
僕は上の文章だとSonnet 5.0が一番好きですが、ChatGPTの評価をさせてみるとまた違うみたいです。
fable 5.0
3本の中では一番AIっぽくない。生活を「説明」するのではなく、Mac Miniを買った週末、SNSへの焦り、台所、味噌汁といった具体から考えが立ち上がっている。多少、引用や素材がうまく働きすぎているAI臭さはあるが、文章全体に生活の摩擦が残っている。
人間の読者は、具体的な出来事から入る文章に「実感」を感じやすい。その意味でfableはかなり有利。生活が概念ではなく、経験として読める。
sonnet 4.6
思想の核は一番強い。「ユーザーとして生きる疲れ」「採点者のいない時間」という捉え方はかなり良い。ただし、元のお題を少し賢く変換しすぎていて、生活が「ユーザー化への抵抗」という概念装置になっている。
人間の読者は、読みながら一文ずつ納得していくため、この文章の整いすぎには気づきにくい。ただ、全体で見ると、AI疲れ、生活者、博報堂、味噌汁、散歩が主張に向かって従順に並びすぎている。ここにAIっぽさが出る。
sonnet 5.0
一番AIっぽい。タイトルは元のお題に近いが、本文は「AI疲れの原因分析と対処法」になっている。決定疲労、歩幅のズレ、曖昧さの余白という整理はわかりやすいが、生活を処方箋化してしまっている。
人間の読者は、読みやすさや段落ごとの納得感に引っ張られやすいので、sonnet 5.0を自然だと感じる可能性がある。ただ、全体で見ると、すべての具体例が「生活らしさ」を示すために配置されていて、誰の生活でもありそうで誰の生活でもない。処理流暢性は高いが、生活の偏りが薄い。
ChatGPTの評価と人間の評価の違い
ただその上で、人間とChatGPTの文章判定も少し違いそうです。
人間は文章を前から順番に読むので、段落ごとの自然さ、読みやすさ、共感しやすさに影響されやすく、特に、具体例が出てくると「実感がある」と感じる。また整理されている文章は「わかりやすい」と評価しやすいはず。
一方でChatGPTは、文章全体の配置をまとめて見やすいことを「具体例が全部主張に奉仕しすぎている」「熱量が均質すぎる」「素材が抵抗なく回収されすぎている」といった「全体の整いすぎ」に気づきやすいのです。
詰まるところ人間は局所的な自然さに強く反応し、ChatGPTは全体の均質さを疑いやすい。
今回で言えば、sonnet 5.0は人間には読みやすく見える可能性があるが、全体で見るともっともAI的。みたいなことが起きるはずです。
皆さんはどれが一番AI臭くないと思いましたか?
おわりに:
というわけでもろもろやってあの文章は出てきているわけです。
作ったは良いけれどこれどうしようね。旅行記とか書かせると現地の豆知識とか知れて結構面白いので、実験的なブログでもやろうかしら。
おわり。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたお気持ちは、お茶代や、本題、美術館代など、今後の記事の糧にします!
