赤漆欟木胡床(せきしつかんぼくのこしょう)は、正倉院南倉に伝わる奈良時代の木製座具である。固定した四脚、鳥居形の背もたれ、左右および背面の高欄を備える大型の椅子形座具で、正倉院に伝わる唯一の椅子の遺例とされる[1]。現在の姿は、明治時代に正倉院で発見された残存部材をもとに、不足する部材などを補って復元されたものである[1]

赤漆欟木胡床

名称に「胡床」を含むが、家具史上の胡床は一般に交差する脚をもつ折畳み式の腰掛として説明されるのに対し、本品は固定した四脚をもつ[2]。一方、正倉院事務所では本品を欄付きの大型四脚倚子とし、中世の倚子に当たるものと位置づけている[3]

「胡床」の名称と定義

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胡床の参考図

家具史研究では、胡床は二つの長方形の枠を中央で交差させ、一端に布・皮・紐などを張って座面とした折畳み式の携帯用腰掛とされる[2]。中国北方・西方の遊牧騎馬民族が用いたものが後漢時代に中国へ伝わったと考えられている[4]

後漢書』五行志には、後漢の霊帝が胡服・胡帳・胡床・胡坐・胡飯などを好み、都の貴戚も競ってこれにならったことが記されている[5]。この列挙には、胡床の形態についての説明は含まれていない。一方、初の胡三省は『資治通鑑』巻97の注で「胡床蓋今交椅之類」と記し、胡床を当時の交椅の類としている[6]

これに対して、正倉院の赤漆欟木胡床は、交差脚をもつ折畳み式の腰掛ではなく、固定した四脚と背もたれ、高欄を備える。こうした実体が椅子であるにもかかわらず「胡床」の名称が用いられていることについて、古代日本において胡床がもった文化的な影響の強さと関連づける見解がある[7]

日本では、『伊呂波字類抄』の「倚子」の項に「イシ 胡床之類也」とあり、倚子を胡床の類として説明している[8]。また、胡床や呉床など「あぐら」と呼ばれる座具について、同じ呼称であってもその形態は必ずしも同一ではなく、文脈によって判断する必要があるとされる[4]

形態と技法

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赤漆欟木胡床は大型の四脚座具で、床部は縦68.5センチメートル、横78.5センチメートル、床高42.5センチメートルである[1]。四脚には一本の貫を通し、背もたれは鳥居形で、その両側面と背面には高欄を設ける。高欄の隅には擬宝珠形の飾りを付ける[1]

主材には欟木(ケヤキ)が用いられている。木地を赤く色づけ、その上からを塗ることによって、赤色を呈しながら木目を見せる仕上げが施されている[1][9][注釈 1]

床面にはが編まれている。現在の籐編みは八つ目編みを基礎として斜め十字文を編み出したものである[10]。また、各所には魚々子地(ななこじ)に宝相華唐草文を線刻した金銅製の飾金具が取り付けられている[1]

復元

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現在の赤漆欟木胡床は、明治時代に正倉院で発見された残存部材を集め、不足していた木材や飾金具、床の籐編みなどを補って復元されたものである[1]

製作当初の木材として、脚2本、床の枠木、高欄の擬宝珠形飾り1個、背もたれが残存しているとされる[1][注釈 2]。また、金銅製の飾金具のうち、床の枠木に付く大金具3個・小金具2個と、背もたれの金具2個は製作当初のものとされる[1]

現在の籐編みが製作当初と同じ姿であったかどうかは明らかでない[1]。飯塚小玕齋は、床枠に残る籐を通す穴の大きさから、製作当初には現在より幅の広い籐材が用いられていた可能性を指摘し、現在の籐編みでは人間の重量を支えることは困難であるとしている[10]

用途と座法

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奈良時代に椅子を用いた者は、皇族・貴族・僧侶などに限られていたと考えられており、本品も儀式などに際して高位の人物が用いたものと推定されている[1]天皇の儀式用に用いられた座具であったとする見解もある[3]

座法は、現在一般的な椅子のように座面から両脚を垂らして腰掛けるものではなく、広い床面の上に脚を上げ、脚を組んで坐したものと考えられている[1][12]。宮内庁正倉院事務所も、座面の上に脚を組んで坐したものと考えられるとしている[9]

『五尊像』。椅子形の座具上で胡座する弘法大師(右下)と半跏趺座する聖徳太子(左下)(鎌倉時代、13世紀、法隆寺蔵)

後世の図像にも、椅子形の座具の座面上に脚を上げて坐す例がみられる。鎌倉時代の『五尊像』では、弘法大師が椅子形の座具上で胡座し、聖徳太子が同様の座具上で半跏趺座する姿が描かれている。これらは胡床の座法を検討する図像資料として取り上げられている[13]

倚子との関係

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赤漆欟木胡床は、正倉院事務所によって欄付きの大型四脚倚子とされ、「中世の倚子に当るもの」と位置づけられている[3]。また、後年の研究でも、その形態は四脚の倚子と変わらないものとされている[14]

延喜式掃部寮には紫宸殿に黒柿木倚子を設ける規定があり、京都御所にも黒柿木倚子や紫檀螺鈿の御倚子などが伝わる[11]。また、『伊呂波字類抄』では倚子を「胡床之類」と説明している[8]

一方、後世の倚子では座面から脚を下ろして腰掛ける座法が用いられたのに対し、赤漆欟木胡床では座面上に脚を上げて坐したと考えられており、両者は座法を異にする[15][1]

脚注

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注釈

  1. 奈良国立博物館の目録では、赤色顔料で染めた木地に「透漆」を塗るとし[1]宮内庁正倉院事務所では、蘇芳で木地を赤く染めて「生漆」を塗るとしている[9]
  2. 1978年の資料では、脚2本、床の枠木のすべて、欄の擬宝珠形1本、凭掛のすべてを後補としており、2019年の目録とは部材の評価が異なる[11]

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 奈良国立博物館 2019, p. 42.
  2. 1 2 小泉 2012, pp. 70–72.
  3. 1 2 3 正倉院事務所 1978, p. 9.
  4. 1 2 小泉 2012, p. 72.
  5. 小泉 2012, p. 108.
  6. 胡三省 1882, p. 18丁裏.
  7. 小泉 2012, p. 73.
  8. 1 2 正宗 1928, p. 14丁裏.
  9. 1 2 3 赤漆欟木胡床”. 宮内庁正倉院事務所. 2026年8月15日閲覧。
  10. 1 2 飯塚 1987, pp. 26–27.
  11. 1 2 正倉院事務所 1978, p. 56.
  12. 服部 2012, pp. 46–47.
  13. 服部 2012, p. 48.
  14. 服部 2012, p. 46.
  15. 服部 2012, pp. 46–48.

参考文献

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関連項目

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