深井城
深井城(ふかいじょう)は、大阪府堺市にあった日本の城。遺構などは存在せず、推定地として中区深井中町にあった観音山古墳が城跡として有力である。
(大阪府) | |
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深井城の推定地 | |
| 城郭構造 | 丘城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 細川政賢か |
| 築城年 | 永正8年(1511年) |
| 主な改修者 | 不明 |
| 主な城主 | 細川政賢 |
| 廃城年 | 不明 |
| 遺構 | なし |
| 指定文化財 | なし |
| 再建造物 | なし |
| 位置 | 北緯34度32分2.725秒 東経135度29分14.68秒 / 北緯34.53409028度 東経135.4874111度 |
本項では深井の合戦についても記述する。
概要
編集西村砦と東村砦
編集深井の合戦
編集| 深井の合戦 | |
|---|---|
| 戦争:両細川の乱 | |
| 年月日:永正8年(1511年)7月13日 | |
| 場所:深井城 | |
| 結果:細川澄元軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 細川澄元軍 |
細川高国軍 摂津国人衆 |
| 指導者・指揮官 | |
| 細川政賢 細川元常 山中為俊 畠山高国 遊佐順盛 |
不明 |
| 戦力 | |
| 7,000兵 - 8,000兵 | 20,000兵 |
| 損害 | |
| 不明 | 300兵 |
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深井城の歴史は、この深井の合戦のみで、その後どのような経緯をたどったか、いつ廃城になったかは全く不明である。
開戦までの経緯
編集永正6年(1509年)の如意ヶ嶽の戦いで阿波に帰国した細川澄元は、なんとかして京都に戻り足利義澄を将軍に復権するべく武略をめぐらしていた。そこでまず永正8年(1511年)7月7日、総大将を同族の細川政賢と和泉守護細川元常とし、軍を和泉堺の浜に上陸させた。『陰徳太平記』によると、まずは天王寺城を攻めようとしていたようである。これに山中為俊、畠山高国、遊佐順盛や浪人衆が合流し深井城に陣を敷いた。この時『瓦林正頼記』によると、政賢の軍勢は7、8千であったと記載されている。
この報を聞いた澄元の反対勢力である細川高国は「追討せよ」と摂津国衆に命じ、ただちに行動を開始。これに応じた池田氏、伊丹氏、三宅氏、茨木氏、安威氏、福井氏、太田氏、入江氏、高槻氏の2万の摂津国人衆勢が集結、西村砦と東村砦に布陣した。
戦いの状況
編集7月13日に合戦が始まり、細川高国軍が先陣を切って深井城へ押し寄せた。
『細川両家記』によると、高国軍が城に突入したところ、城中には誰もいなかった。そこへ出口が閉められ包囲されてしまった。すかさず脱出しようと出口に集中したところへ政賢軍が現れ、そこから漏れ出てきたところへ切り掛かってきた。高国軍も防戦したが結局切り負けて、大将方は皆討ち死、雑兵も300名以上が討ち取られ敗退してしまった。



