楢原氏
楢原氏(ならはらし)は、中世の大和国葛上郡を本拠とした国人。興福寺・春日社の被官である衆徒国民のうち国民にあたる。春日若宮の祭礼に願主人を出す六党のうち、南党(葛上党)の刀禰(とね)を代々務めた[1][2][3]。
南党の刀禰
編集南党は葛上党ともいい、楢原氏が刀禰すなわち盟主となり[3]、、5年ごとに春日若宮の祭礼へ願主人として流鏑馬を勤仕した[1]。願主人の宿所であった遍照院について、『平城坊目遺考』は「南党楢原」が葛上郡から5年目ごとに大宿所を勤めると記す[1]。
『蓮成院記録』天正10年(1582年)6月条には、その年の願主人をめぐって「葛上ハ刀禰楢原へ遣之」とあり、戦国時代の末まで葛上党の刀禰は楢原氏であり続けた[4]。同記延徳3年(1491年)11月18日条によれば、この年は平田・散在・葛上の三党が願主人を勤めることになっており、葛上党からは吐田氏と豊田氏が出ている[5]。
葛上党に属した国人としては、このほか至徳元年(1384年)の「長川流鏑馬日記」に吐田・室・稲屋戸・柄坂の諸氏がみえる[4]。
『大和軍記』は「楢原は国侍の内にてはよき身上の仁にて、旅下も多く、くしら、さび、長良等申す者に候」と記し、倶尸羅氏・佐味・長良らを楢原氏の配下として挙げる[6]。永正のころには三郎栄遠が国判衆十二家の一人に数えられた[6]。
楢原氏が刀禰として史料に現れる早い例は、若宮神主祐臣の「祭礼記」文保2年(1318年)の記事で、流鏑馬十騎のうち五騎に楢原の刀禰が関わったと記す[7]。楢原氏は春日社の神人としての国民であり、興福寺の配下にあった[7]。
出自
編集歴代
編集越智氏を継いだ楢原某
編集永遠・景吉・重吉
編集『経覚私要鈔』文安4年(1447年)正月29日条には、楢原永遠が経覚のもとへ年賀に訪れて対面したことがみえる[7]。同年2月23日条には永遠の母が中風で没したことが記され、同年閏2月12日条には永遠の子として藤若丸の名がみえる[7]。
『大乗院寺社雑事記』長禄2年(1458年)7月14日条は「去十一日、楢原新左衛門他界了、当門跡代々坊人也」と記す。楢原氏は大乗院門跡に代々属する坊人であった[7]。翌長禄3年2月16日条には「楢原新次郎初任事」とみえる[7]。
景吉は明応6年(1497年)に62歳で没しており、生年は永享8年(1436年)にあたる。文安4年には12歳であったから、上記の藤若丸が景吉であるとみられる[8]。『大乗院日記目録』寛正5年(1464年)正月25日条には、国中の私反銭を寺門が停止したのに景吉が従わなかったため、六方から名を籠められたことがみえる[8]。
所領
編集吐田氏との抗争
編集戦国時代
編集党派
編集戦国時代
編集戦国時代の越智氏当主越智家増は、もと楢原家益と名乗っていた[10]。
天文10年(1541年)3月、足利義晴が江州へ出馬した際には越智・楢原の一族が召されて供奉し、俊久が坂本で討死している[6]。享禄5年(1532年)5月には楢原薗池の滋野社の上棟にあたり、楢原氏の代官として段銭をもって修繕を行った[6]。天文年間には春日社へ鉄製の釣灯籠を常灯籠として寄進している[6]。
天正5年(1577年)9月、畠山豊定の謀により倶尸羅監物が楢原城を襲おうとしたが、名柄求馬・佐味兵庫が計画を城側へ通じたため、城兵は監物と御所刑部を城中に召して討ち取った[6]。楢原勢はただちに倶尸羅を攻め、9月3日に倶尸羅氏を滅ぼしている。楢原方の討死も50人に及んだ[6]。
城
編集楢原氏の居城は檜原城(大正村楢原)と伝えられ、ほかに楢原山城、永禄年間に小林光之が拠ったという楢原村城の名がみえる[6]。
脚注
編集参考文献
編集- 朝倉弘『奈良県史』 第11巻(大和武士)、名著出版、1993年。ISBN 4-626-01461-5。
- 奈良県史編集委員会『奈良県史』 第10巻、名著出版、1984年。
- オメガ社『地方別日本の名族』 8(近畿編)、新人物往来社、1989年。
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-01457-1。
- 南葛城郡『奈良県南葛城郡誌』奈良県南葛城郡、1926年。