松田正久
松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4月11日〉[2]- 1914年〈大正3年〉3月4日)は、日本の政治家。男爵。幼名は又之輔、大之助[2]。号は牛州・江村など。
| 松田 正久 まつだ まさひさ | |
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| 生年月日 |
1846年5月6日 (弘化3年4月11日) |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1914年3月4日(68歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 昌平坂学問所 |
| 所属政党 |
(自由党→) (九州改進党→) (立憲自由党→) (憲政党→) (自由派憲政党→) 立憲政友会 |
| 称号 |
正二位 贈勲一等旭日桐花大綬章 男爵 |
| 親族 |
父・横尾唯七 母・横尾まち 兄・横尾経久 姉・横尾まき子 弟・横尾長左衛門 養父・松田勇七 養母・松田ルイ 養子・松田正之 |
| 内閣 |
第1次西園寺内閣 第2次西園寺内閣 第1次山本内閣 |
| 在任期間 |
1906年1月7日 - 1908年3月25日 1911年8月30日 - 1912年12月21日 1913年2月20日 - 1913年11月11日 |
| 天皇 |
明治天皇 大正天皇 |
| 内閣 |
第1次大隈内閣 第1次西園寺内閣 |
| 在任期間 |
1898年6月30日 - 1898年11月8日 1908年1月14日 - 1908年7月14日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
| 内閣 | 第4次伊藤内閣 |
| 在任期間 | 1900年10月19日 - 1901年6月2日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
| 在任期間 | 1904年3月18日 - 1906年1月19日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
| 選挙区 |
(佐賀県第1区→) (佐賀県第2区→) 佐賀県郡部 |
| 当選回数 | 7回 |
| 在任期間 |
1890年7月2日 - 1891年12月25日 1898年8月11日 - 1914年1月19日[1] |
来歴
編集生い立ち
編集明治維新後
編集西周との出会い
編集フランス・スイス留学
編集1872年(明治5年)4月25日、陸軍省七等出仕を命じられ、陸軍裁判所分課に配属された[7]。松田はかねてより留学を望んでいたが、そのための資金を用意することが難しかったため、留学を見据えて西が山縣有朋に陸軍省への出仕を周旋したという[7]。同年10月1日、松田はフランス留学の命を受けて陸軍省七等出仕を免ぜられ、10月15日にはフランス郵船ゴタベリイ号にて横浜からフランスへ向けて出港した[8]。このとき、ゴタベリイ号には井上毅、河野敏鎌、沼間守一ら岩倉使節団に合流する司法省調査団の一行や、成島柳北も同乗していた[9]。船は同年11月28日にフランス南部マルセイユの港へ到着、一行は汽車に乗り、11月30日未明にパリへ到着した。松田の留学期間は1875年(明治8年)6月まで、約二年半の予定であった[9]。
フランスへ渡った松田はまず、基本的なフランス語能力を身につけるため、パリのバティニョール地区にあった私立中学へ入学した[9]。その後1973年8月初め頃までにスイスのローザンヌ(フランス語圏)へ移り、この地でアカデミーに通いながら政治学や民法、刑法、経済学を学んだ[10]。学外では頻繁に議会見学にも通い、議場から出てくる議員を捕まえては議事の説明を求め、それを日本の知人に報告した[11]。また、フランス滞在中にはのちに『東洋自由新聞』を共に創刊することとなる西園寺公望、中江兆民、光妙寺三郎らとも知遇を得た[11]。
松田が派遣されたのは「フランス留学」であったが、政治等を学んだのは、実質的にはスイスであった[11]。松田がスイスへ移ったのは、当時のパリがパリ・コミューン後のまだ不安定な時期であり、勉学に適さなかったためと思われる[12]。
自由民権運動参加〜長崎県会議長
編集政党政治家へ
編集1890年(明治23年)、第1回総選挙で佐賀を地盤として衆議院議員に当選、立憲自由党に参加する。民権派の中心人物と目され、同年9月には政府支持者による暗殺未遂事件があったといわれる。翌年、衆議院予算委員長として第1次松方内閣提出の予算案を廃案に追い込むが、第2回総選挙では、内務大臣品川弥二郎による選挙干渉事件により落選。1898年(明治31年)の第6回総選挙まで議席回復はならなかったが、この間に党内の政策・事務に専念し、伊藤博文と自由党との関係回復に努めた。西園寺の仲介によって伊藤の面識を得、次第にその信任を得るにいたった。憲政党による隈板内閣が成立すると、大蔵大臣として入閣し、直後の第6回総選挙で議席を回復した。同党分裂によって内閣はわずか4ヶ月で崩壊するが、のち旧自由党系の憲政党に属し、星亨とともに伊藤の首領とする新党結成運動に奔走した。
1900年(明治33年)、伊藤を総裁とする立憲政友会では総務委員として党組織の編成にあたり、その功により第4次伊藤内閣では文部大臣を務めた。1903年(明治36年)に西園寺が第2代総裁となると、党務に不得手な西園寺に代わって党務を統括した。1904年(明治37年)3月、衆議院議長。日露戦争では、第1次桂内閣と議会との協力関係確立に尽力した。第1次・第2次西園寺内閣では法相と蔵相をつとめるなど、西園寺、原敬とともに政友会と内閣を支えて、刑法改正や日露戦後の財政再建などに尽力した。
憲政擁護運動では原とともに中心的な役割を果たし、第1次山本内閣では法相として入閣。やがて西園寺が政友会総裁を辞して松田をその後任に推薦するが、1913年(大正2年)11月に至って持病の胃病が悪化し、療養を理由に法相を辞任。翌1914年(大正3年)1月19日、勅使が派遣され男爵が授けられたのを受けて衆議院議員を辞職。同年3月4日に胃潰瘍のため死去した[14]。墓所は青山霊園。
人物・逸話
編集栄典
編集親族
編集脚注
編集- ↑ 『官報』第443号「帝国議会」1914年1月22日。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 西山由理花 2017, p. 9.
- ↑ 笹川多門 1938, p. 42.
- 1 2 3 西山由理花 2017, p. 10.
- ↑ 西山由理花 2017, p. 10-11.
- 1 2 3 4 5 6 西山由理花 2017, p. 11.
- 1 2 西山由理花 2017, p. 12.
- ↑ 西山由理花 2017, p. 12-13.
- 1 2 3 西山由理花 2017, p. 13.
- ↑ 西山由理花 2017, p. 13-14.
- 1 2 3 西山由理花 2017, p. 14.
- ↑ 西山由理花 2017, p. 14-15.
- ↑ 関西大学百年史編纂委員会 『関西大学百年史』 通史編上巻、1986年、102-103頁
- ↑ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)284頁
- ↑ 『官報』第4504号「叙任及辞令」1898年7月6日。
- ↑ 『官報』第233号「叙任及辞令」1913年5月12日。
- 1 2 『官報』第478号「叙任及辞令」1914年3月6日。
- ↑ 『官報』第441号「授爵・叙任及辞令」1914年1月20日。
- ↑ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ↑ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ↑ 『官報』第7415号「叙任及辞令」1908年3月18日。
- ↑ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年、583頁。