太田 緑子(おおた みどりこ、1915年(大正4年)7月5日 - 2010年(平成22年)10月22日)は、日本の病院経営者。太田綜合病院の副理事長、夫の死後は理事長を経て名誉理事長を務めた[1]。経営者として地域医療の充実、病院の発展に努める傍ら、福島県教育委員会委員長、福島県社会福祉協議会長[2]、郡山国際フィルハーモニー協会副会長などを歴任して[3]、地域の医療、社会福祉、教育、文化の発展に寄与し、福島県および郡山市の興隆のために尽くした[4]

来歴

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概要

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父・太田三郎 大田綜合病院100年の軌跡

1915年(大正4年)、福島県郡山町にて太田醫院を創業した医師の父三郎、母祥(さが)[5]の七女として双子の妹薫子とともに生まれた。小学校を経て、安積高等女学校を卒業し、実践女子専門学校に進学し二年で中途退学した[6]1934年(昭和9年)、後に父三郎の養子となる東京大学医学部副手であった医師の辰雄と結婚する。1937年(昭和12年)夫の辰雄が父の三郎が経営する太田病院の副院長となる。辰雄は二度の応召を経て1946年(昭和21年)抑留地のインドネシアから無事復員し、副院長に復職した[7]

1951年(昭和26年)太田病院が財団法人太田綜合病院に改組されるに伴い、夫辰雄が理事長に緑子は副理事長に就任する[8]1956年(昭和31年)任命制による最初の委員として福島県教育委員に任命され、1970年(昭和45年)に教育委員長に就任し翌年後進に道を譲った。1983年(昭和58年)辰雄の死去に伴い翌年緑子が太田綜合病院理事長に就任した。2001年(平成13)甥・太田保世の理事長就任とともに名誉理事長となった[4]

太田辰雄との結婚

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父三郎は13人もの子供に恵まれたが夭折するものが多く、さらに1924年(大正13年)まだ九歳の緑子と薫子の二人を残して妻の祥に先立たれた[9][10]1934年(昭和9年)三郎は友人で須賀川町で眼科医を経営していた太田貞喜の四男の辰雄を後に養子とする意図で迎え、緑子は辰雄と結婚した。辰雄は中学時代遠距離通学のため三郎の自宅に止宿しており、少年時代に緑子の母祥(さが)の家族同様の訓育を親しく受けた間柄であった[11]安積中学校から二高を経て東京大学に進学した辰雄は、東大医学部を卒業の後は内科物理療法学の眞鍋嘉一郎教室に副手として勤務しており[12]、医学博士の学位も得て研究者として将来を嘱望される存在であった。しかし、三郎の懇請止み難く1937年(昭和12年)4月故郷に戻り太田病院副院長に就任した[13]。就任後わずか8か月の12月に辰雄は召集を受け出征し、一旦召集解除復員の後1941年(昭和16年)7月再度召集され戦後の1946年(昭和21年)5月インドネシアから復員した。夫の辰雄は結婚以来支那事変太平洋戦争の二度の軍隊召集を受けて、12年間のうち8年間は軍医としての重責を果たしたため、太田病院副院長としての勤務は僅か4年に満たなかった[14]。出征中の辰雄は緑子宛てに数多くの書簡を送っており、辰雄が軍医という選ばれた地位にあったためか厳しい検閲の中無事に着信している。後年緑子はこれを『緑風―太田辰雄軍医・妻への手紙』と題した書簡集として発刊した[15]

財団法人太田綜合病院・副理事長就任

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1949年(昭和24年)父三郎が死去し、その遺志を継いで緑子夫妻は病院の法人化に努力した。福島県の担当部署である民生部は、病院の法人化については前例がなく申請に対する許可は遅々として進まないため、緑子も県庁まで出向いて早期認可を陳情した[8]1951年(昭和26年)、病院の熱意が認められ救急車の設置を条件として許可してもよいとの意向が県から伝えられた。当時は、戦後の混乱期が一息ついたもののまだ経済力に乏しい家庭が大半であり、自家用車を持つ家は極めて少なかった[16]。郡山地区には消防署も含めて一台の救急車もなかった時代に、太田病院は財団法人太田綜合病院[17]となり救急医療の役割を持つ唯一の公共医療機関としての大きな役割を背負って、財団法人としての新しい歩みを始めた。理事長には夫の辰雄が、副理事長として緑子が就任した[18]

福島県教育委員会委員長就任

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父三郎は医師として貧富の差を問わず治療に当たり無料や減額診療も厭わず往診し、往診の際に馬から落馬し怪我をした逸話も残っている[19]。一方で政界や実業界などにも積極的に参加して、郡山町議、県会議員を経て県会議長を務め後に郡山商工会議所会頭も務めるなど医療以外の社会活動にも積極的に参加した[20]

夫の辰雄は、実父とは異なり自分の本業は医者であるとの矜持のもとに、医療以外の業務に従事することを潔しとはしなかった。一度、福島市に対抗して郡山市にテレビ会社を誘致する運動があり、郡山市商工会議所からのたっての要請により発起人代表をやむなく引き受けたが、経営者として役員の任に就くことは固く辞退した[21]。また、辰雄は、大正デモクラシーをべースとしたリベラルな精神を持っており、主義主張を問わず信頼できる人物には惜しみなく力を貸すというスタンスをとっていた[22]。このため医師ではない妻緑子が社会貢献の役割をもつ公職に就くことについては辰雄は大変寛容であった[23]

辰雄が軍隊から復員した後、副院長夫人として5年ぶりに穏やかな家庭生活を過ごしていた緑子は、1946年(昭和21年)婦人有権者同盟郡山支部結成[24]に力を貸したことからにわかに社会の風に当たることになった。生まれて初めての演説をモンペ姿でがたがた震えながらも見事にやってのけた[6]

第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により教育委員会法が制定され、当初は地域の住民の投票で決める公選制がとられ、後に1956年(昭和31年)任命制に移行した。緑子は福島県教育委員会の初代任命制委員として任命された。以後1970年(昭和45年)に教育委員長を務めるまで14年間の長きに亘って委員に就任した[25]。当時女子教員は全国で約19万人おり、労働基準法により産休を取ることは法律上可能であったが産休補助教員を確保するには、「教員免許」所持を条件とすることや中学校以上の免許は教科ごとに異なりさらに新任ではないベテラン教員の確保などの観点から容易ではなかった。このため現場の女子教員の多くは、お産の時期が迫っても産休を取れずギリギリまで勤務を続けざるを得ない厳しい状況に置かれていた[26]

在任中は、女子教員の産休補助教員の確保のため直接福島県知事に面談して涙ながらに「女の先生が安心してお産んができるように」と訴え、また盲聾学校や病弱児童生徒の学校を視察して涙ぐみ、女性管理職の登用を主張するなど弱者に対する労りと教育の振興に尽力した。任命制最古参の教育委員であり、教育行政のエキスパートとして福島県の教育の充実に大きな役割を果たした[6]

郡山市文化活動への貢献と『東北のウィーン』へ

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国鉄郡山工場大食堂・NHK交響楽団演奏会

1954年(昭和29年)6月に、郡山では歴史上初めてのNHK交響楽団の演奏会が開催された[27]。演奏会場は戦前に飛行機の格納庫として準備された資材を、戦後に国鉄が譲り受けて郡山工場に従業員食堂として建設されたものであった[28]。2000人収容のフラットな巨大な従業員食堂に、大量の椅子を市内の企業や学校からかき集めたにわか造りの客席とステージを作り上げ、トタン屋根の下に満席の長椅子で待ちわびる5000人の観客の耳に、クルト・ウェス指揮のベートーヴェン作曲交響曲第6番・「田園」が高らかに響き渡った。今泉正顕を会長とする主催者の郡山青年文化協会とともに[29]、この公演を支えたのは太田辰雄緑子夫妻をはじめとする市内の多くの有識者であった[30][31]

1961年(昭和36年)年、東北の一地方都市としては極めて珍しい、「国際」を冠した「郡山国際フィルハーモニー協会」が設立された。三浦通庸会長[32]、太田緑子副会長の下に「ロンドン交響楽団」「ソヴィエト国立交響楽団」「ベルリン国立歌劇場管弦楽団」など超高名な外国の音楽楽団の誘致と公演、毎回満席の観客動員に続けざまに成功して毎回魔法のように大都会でも達成できないほどの大成功の裡に、著名な国内外の演奏家たちの公演を次々に実現していった[33]。今泉正顕、内海久二などの若い文化活動の担い手とともに緑子を含むメンバーたちに対して、市民の間からいつしか「10人の侍」の呼称が与えられていた[34][35] 。また、全国まれにみる街をあげての音楽活動に対して、自他ともに「東北のウィーン」の声が広がっていった[36][37]

1962年(昭和37年)7月当時郡山を訪れて文化活動をつぶさに観察した大江健三郎は、「郡山で三代目が活動の自由を広く持っている事実の背後には、二代目の素封家たちが、おっとりと影にひそんで見守る、という郡山独自の性格がある。全国でただひとりの女の教育委員長、太田緑子さんとその夫君の病院長のように側面から三代目たちの活動をバックアップする善き二代目もいる。」と述べて緑子夫妻の無私の貢献に対して称賛の声を送っている[38]

夫婦そろって硬骨漢

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戦前に夫の辰雄は二度目の応召を受けて、インドネシアに赴任した。その際現地にある宿舎のタタミがいたんだため、本土から新しい畳を軍艦で取り寄せたことがあった。これを知った辰雄は憤慨してこんなことでは日本は負けると公言したことから、憲兵隊の知るところとなり軍法会議にかけられる寸前までいった。最前線にある軍人が戦いのためではなく、自分たちの安楽な生活のために、貴重な軍艦を利用するなど皇軍としてはあってはならないことだった[39]。幸い理解ある上司がとりなして事なきを得たが、軍の腐敗に怒りを覚えた辰雄は禁酒して復員後の戦後も下戸で生涯をおくった。弱者を労わり、曲がったことが大嫌いな辰雄の生き方を緑は深く理解して、その後の自分の生き方として実践して行った。

母・祥(さが)大田綜合病院100年の軌跡

1980年(昭和55年)2月、福島県養護教育振興会(後・福島県特別支援教育振興会)発足とともに緑子は初代会長に就任した。会は、自らの持つ障害に加えて何かと差別的な眼で見られがちな児童に対して、充実した学習活動が行われるよう物心両面から支援するもので、人間の平等と人権を重んじ、障害者や障害児のためにつくすことは母・祥(さが)由来の緑子の信念でもあった。亡き母・祥は明治40年に日記『しのぶ草』において「尤も深く感をよび起こせしは盲児の読書 習字なり よろしく活眼の諸氏 かんがみるべからず」と記して、盲児教育の大切さを述べている[40]。会長としての緑子は、1975年(昭和50年)に出版された海野昇雄著「福島県特殊教育史」に着目した。海野の著書は、1890年代末(明治30年代初め)から1910年代末(大正中期)までのこれまでほとんど知られてこなかった福島県の盲・聾教育の実態を解き明かした労作であり、ある種の感慨を感じさせるものであった[41]。この本の「序文」には、夫辰雄が次に続く特殊教育の歴史の解明を期待する言葉が記されていた「・・本書を土台として、さらに充実した本県特殊教育史を書き継いでくださるとともに、この教育発展のためにお尽くし下さる後生を待望する・・どうか是非その日が一日も早く来るよう・・・」[42]。緑子は病に倒れ車椅子生活を余儀なくされている夫の強い意思を引き継いで、『福島県特殊教育史』第二巻の出版に取り組んでいった。障害を持つ子供やその親たちに少しでも暖かい光を当てたいという、母・祥と緑子さらに辰雄の、母娘二代および夫にわたる三人の信念が一つに結びつき、緑子の果敢な実行力のもとに第二巻は出版された[43]

夫辰雄の死去と理事長就任

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1972年(昭和47年)4月、夫・辰雄は脳血栓による突然の病に倒れ、車椅子での生活を余儀なくされた[44]。辰雄はかねてから医療と福祉を結びつけ、病院と特別養護老人ホームを併設する構想を持っており、緑子は体の不自由な辰雄の意思を体してその実現に積極的に取り組み、1978年(昭和53年)新たに「太田福祉記念会」を設立し特別養護老人ホーム「玉川ホーム」を開設した。民間病院としては全国で初めての「救命救急センター」を1981年(昭和56年)開設し、またかねてから安積町にあった「ささはら病院」の移築のために取り組んできた西ノ内の病棟に、「さがの病院」を統合して「太田西ノ内病院」として新たにスタートさせた[45]。理事長が療養中の間、副理事長としての重責を担ってきた緑子は病院経営について必死の努力の最中であったが、1983年(昭和58年)10月辰雄は脳卒中が再発し帰らぬ人となった。1984年(昭和59年)、緑子は亡き夫辰雄の後を継いで理事長に就任した[46]

公立高等学校の男女共学化の推進

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終戦後の1947年(昭和22年)新制高校が発足し、小学区・総合制・男女共学がそのテーマとされ、これが高校3原則と言われた[47]。福島県の中等教育の課題として男女別学の高等学校が多く、男女共学を良しとしながらも男女共学を推進できないできたことが指摘されてきた。1974年現在、普通科高校においては男子校が7校、女子高が13校存在し、それぞれ男子と女子のみの生徒が学習していた。その中核となっていたのは、戦前からの伝統を持つ都市部の有名進学校であった[48]

1985年(昭和60年)の男女雇用機会均等法の制定に続く学習指導要領の改訂に伴い、家庭科履修が男女ともに必修化されたことに伴い県民の県立高校男女共学化要求が高まっていった[49]1990年(平成2年)11月「すべての県立高校の男女共学を実現する会」が婦人団体を中心に設立されて、代表委員3名の一人として太田緑子が選出された[50]。有名伝統校の同窓会からの激しい反対運動をおさえて[51]、会は県の関係機関への陳情を重ねた結果、福島県学校教育審議会は1993年(平成5年)6月全県立高校の男女共学への移行を決定した[50]。かつて14年間福島県教育委員を務め、県の教育や文化行政に大きな足跡を残した緑子は、強い意思と優れた行動力の持ち主でもあった。

太田綜合病院理事長と「ヒポクラテスの誓い」

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医は「仁術」であるとの信念をもって医療を推進してきた故辰雄の遺志を引き継いで、緑子は「生命の尊厳と平等」を理念とした新たな太田綜合病院のマスタープランを策定した。1895年(明治28年)に父三郎が開設した医師一人、代診一人、看護婦不在のささやかな太田醫院から出発し[52]、昭和の時代に辰雄と緑子が主導した財団法人太田綜合病院となり、保健、医療、福祉、介護の基盤は整備されて県内を代表する基幹病院として成長発展してきた[53]。入院患者数、外来患者数の増加に応じマンモス化した組織を、新たな理念と時代の変化に対応した組織として整えなおすことが急務となっていた。緑子の理事長としてのリーダーシップのもと新たなマスタープランが策定され、地域での最高水準の医療の提供、患者中心の思いやりのある事業の展開などの理念を中心に、新事業に取り組んでいった[54]

増築なった太田西ノ内病院 太田緑子理事長

その中心となったのは、1989年(平成元年)竣工した地下一階・地上七階の総床面積2.3万平方メートルを誇る「太田西ノ内病院」の大増築事業であった[55]。新しい病院の落成と共にその運営に当たる職員の精神的な支柱として、古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」に示された「医の倫理」に基づいて、医療人として患者に捧げる「私たちの誓い」5項目が緑子によって制定され、従業員の間に浸透していった。[56][57]。ギリシャのコス市長から送られた「ヒポクラテスの木」は「太田西ノ内病院」[58]と「太田熱海病院」[59]に植樹され太田綜合病院の「医の倫理」のシンボルとして大切に育てられている[60]

医師資格を持たない緑子は、自分は医療に関しては素人であるとの立場から、常に患者の視点に立ってどのような医療が必要かという観点から意見を述べるようこころがけていた[61]。高齢化社会の到来を見据えて辰雄がかねてから進めてきた、熱海病院のリハビリ患者の社会復帰を推進する体制のさらなる整備充実、高度医療を目指した2年間にわたる「西ノ内病院」の大増築工事、重篤な病気のために学校に通えないことから病休や休学を余儀なくされる子供たちのために、1967年(昭和42年)から院内に開設してきたベッドサイド学習(小児教室)を充実発展させて、教員免許を持った常勤職員を配置して入院中も学校教育の正規の教育課程として認められるよう整備した[62][63]。また、医師や職員が患者のために真心のこもった医療を提供できるように、職員の意識を一層高めるための研修や研究の充実に努めた[64]

医師でも、看護師でも、医療技術者でもなく、経理・経営にも疎いと自覚する緑子であったが[65]、辰雄と共に50年にわたり歩んできた医療の「医は仁術」との信念のもと、患者中心の医療、21世紀に対応した地域医療の充実に向けて確かな歩みを進めていった。 緑子と亡き夫辰雄の間には子供が恵まれず、姪孫にあたる三知子が養女となり岐阜県出身の健三が養子として太田家を継いできた。太田健三は1984年(昭和59年)以来財団の副理事長を務め金融機関勤務の経験を生かして、中核病院としての責務に燃え積極経営を掲げる緑子理事長をよく補佐し[66]、医療経営の厳しい経済環境の中で経理、財政、企画面で病院経営の基盤を支えていった[67]

名誉理事長として

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2001年(平成13年)86歳の高齢を迎えて緑子は後進に道を譲るべく、理事長の職を辞して名誉理事長に就任した、後任には医師で医学博士である甥の太田保世が就任した[68]。新理事長は緑子の患者中心の理念を新しい角度から高めた、「平等の慈悲」の精神のもとに深い思いやりを以って患者に接するよう職員に求めていった[69][4]

名誉理事長として病院経営の第一線を退いた緑子であったが、病院外の公職で外出する以外は毎日名誉理事長室に出勤して、親しく職員に声をかけ激励することを日課としていた。医師や職員の研修に際しては欠かさず出席して、患者の心に添った医療の大切さを訴え、医療に携わる勤務者が「医の倫理」を胸に患者に尽くすべきことを求めていった。理事会や評議委員会は勿論のこと、法人事務局の経営会議には欠かさず出席し幹部職員たちの討議に静かに耳を傾け、求められた場合は的確な回答をするのを常とした。緑子は女性の優しさ柔らかさと共に、親譲りの強靱な精神力を兼ね備えた人物であった[70]

顕彰等

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  •  文部省 中央教育審議会委員      1969年7月
  •  郡山市文化功労賞受賞         1971年11月
  •  福島県文化功労賞受賞         1976年11月
  •  厚生大臣表彰・児童福祉        1979年11月
  •  総理大臣表彰・婦人の地位向上     1985年10月    
  •  勲四等宝冠章受章           1986年11月
  •  自治大臣賞受賞            1987年11月
  •  文部大臣賞受賞・地方教育行政     1989年11月

脚注

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出典

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  1. 『太田綜合病院100周年記念誌』-年表 1995, p. 149-166.
  2. 社会福祉法人 福島県社会福祉協議会
  3. 『郡山市史第6巻』 & 1973年4月, p. 481-482.
  4. 1 2 3 『太田緑子』「ふれ愛・にしのうち」創刊号 平成13年1月20日
  5. 『太田病院誌』 1967, p. 132-133.
  6. 1 2 3 『福島の人脈』 1967, p. 145.
  7. 『緑風-太田辰雄軍医妻への書簡』 1987, p. 298-299.
  8. 1 2 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 49.
  9. 『しのぶ草』 1999, p. 12.
  10. 緑子の母・祥(さが)の日記「しのぶ草」、明治34年から42年までの9年間にわたり毛筆で綴られている。子供や親族のこと、趣味の謡曲に関すること、病院の運営経営に関すること、日露戦争や軍人の動きなどの社会情勢など多岐にわたる。1999年緑子が、元福島民友新聞社常務取締役編集主幹・斎藤英記を編集者として私家出版した。
  11. 『ささやかなケルン』 2004, p. 29.
  12. 『緑風-太田辰雄軍医妻への書簡』 1987, p. 298.
  13. 『ささやかなケルン』 2004, p. 65.
  14. 『太田病院誌』 1994, p. 10.
  15. 『緑風-太田辰雄軍医妻への書簡』 1987.
  16. 『ささやかなケルン』 2004, p. 48.
  17. 「財団法人太田綜合病院」
  18. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 48-49.
  19. 『創業者物語』 1981, p. 168-169.
  20. 『創業者物語』 1981, p. 169-171.
  21. 『ささやかなケルン』 2004, p. 15.
  22. 『ささやかなケルン』 2004, p. 16-17.
  23. 『ささやかなケルン』 2004, p. 77.
  24. 『郡山市史第6巻』 & 1973年4月, p. 221-222.
  25. 『福島の人脈』 1967, p. 145-146.
  26. 産休補助教員
  27. 『郡山市史第6巻』 & 1973年4月, p. 229-230.
  28. 『街こおりやま』「郡山の人脈・音楽篇」 1979, p. 229.
  29. 『福島の人脈』 1967, p. 384.
  30. 『郡山市史第6巻』 & 1973年4月, p. 476-477.
  31. 『福島県史第20巻』 & 1965年, p. 802-805.
  32. 『福島の人脈』 1967, p. 416.
  33. 『街こおりやま』「郡山の人脈・音楽篇」 & 1980-4, p. 34-39.
  34. 『福島県史第20巻』 & 1965年, p. 804.
  35. 『福島の人脈』 1967, p. 383.
  36. 『週刊朝日 1961年5月19日号』「太田病院の太田緑子夫人も合唱グループの中心である。」
  37. 『郡山市史第6巻』 & 1973年4月, p. 478-481.
  38. 『朝日ジャーナル』 風土記 郡山 1962年7月8日  82p。
  39. 『ささやかなケルン』 2004, p. 67.
  40. 『しのぶ草』 1999, p. 245.
  41. 『新しい日本障害児教育史像の再構築のための研究序説』 2011, p. 50-51.
  42. 『福島県特殊教育史』 1975, p. あとがきにかえて.
  43. 『福島県特殊教育史』第二巻 発刊にあたって・太田緑子 「発刊まことにおめでとうございます。諸手を高くかかげ万歳万歳と申し上げます。今は亡き海野昇雄先生が筆舌に尽くしがたい幾多の辛酸を嘗め完成された『福島県特殊教育史』は、多くの方々の至情の結晶といっても過言ではありません。その精神を継いで第二巻を上梓いたします。・・・人間の平等と人権を重んじ、障害児・者のための環境づくりに積極的な姿勢を示して・・・」 2001.
  44. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 63.
  45. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 65-66.
  46. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 69-70.
  47. 『福島県立高校の男女共学化促進要因の検討』 2010, p. 35.
  48. 「福島県における男女共学の実情と問題点について」 福島県立高等学校教職員組合教育問題検討委員会 1974年7月
  49. 『福島県立高校の男女共学化促進要因の検討』 2010, p. 37.
  50. 1 2 『福島県立高校の男女共学化促進要因の検討』 2010, p. 39.
  51. 日本財団図書館「新教育の森」・・「男女共学」1999/11/20 毎日新聞朝刊
  52. 『太田病院誌』 1967, p. 118.
  53. 「財団法人太田綜合病院」
  54. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995.
  55. 「太田西ノ内病院」
  56. 『太田綜合病院100周年記念誌』見開き 1995.
  57. 「私たちの誓い」一、最善の医療を、やさしさと思いやりをこめて捧げます。一、地域の信頼の上に、新しい保健、医療、福祉の輪を広げます。一、歴史と伝統を胸に、中核病院としての責任を果たします。一、それぞれが謙虚で誠実な品性を育て、友愛で結ばれた院風をつくります。一、先ず自らの健康に努め、使命に役立つ心と、知識と技術を磨きます
  58. 「太田西ノ内病院」
  59. 「太田熱海病院」
  60. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 75-76.
  61. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 75.
  62. 「福島県立須賀川支援学校郡山校 一般財団法人太田綜合病院訪問学級」
  63. 「福島県立須賀川支援学校郡山校
  64. 『病院 48巻13号』 菊池 寿子 医療法人仁寿会菊池医院 1989年12月 「昭和59年2月,太田緑子さんは財団法人太田綜合病院の理事長に就任された.周到な準備期間の後に,昭和63年太田熱海病院の新・増築工事完成,続いて本年9月15日には待望の基幹病院・太田西ノ内病院の本館新築工事を立派に完成されたのである.温泉の出る病院は実父である創立者太田三郎院長の夢であり,継承者の辰雄先生(緑子理事長の夫君)はわが国を代表するリハビリテーション病院である太田熱海病院を建設された.今回の高度医療を目標とした太田西ノ内病院の整備も辰雄前理事長の願望の達成と思われる.ここまでの道程は決して平坦なものではなかったと推察するが,この財団には理事長を中心として,協力・助言を惜しまぬ職員の方々が,がっちりスクラムを組んでいる特色がある.私は太田さんとは縁戚関係にあり,以前に太田病院に勤めていたこともあって,長いあいだ太田さんを身近に見てきたが,女性の優しさ,柔らかさと共に親譲りの強靱な精神力を兼ねた方と尊敬している.」
  65. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 70.
  66. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 73-74.
  67. 『太田綜合病院100周年記念誌』 1995, p. 77.
  68. 『会津史の源流を探る』奥付け 太田保世 歴史春秋出版 2005年8月、慶應義塾大学大学院医学研究科卒業、東海大学名誉教授、日本ペンクラブ会員。
  69. 『老惨奴語録』 太田保世・私家版 2004年3月 182-183p。
  70. 『病院 48巻13号』 菊池 寿子 医療法人仁寿会菊池医院 1989年12月。

参考文献

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  • 郡山市『郡山市史』郡山市〈第6巻〉、1973年4月。 
  • 福島県『福島県史』福島県〈第20巻〉、1965年11月。 
  • 太田綜合病院100周年記念誌編纂委員会・私家版『太田綜合病院100周年記念誌』1995年8月。 
  • 『太田病院誌』財団法人太田綜合病院・私家版、1967年10月、1-303頁。 
  • 『緑風-太田辰雄軍医妻への書簡』太田緑子・私家版、1987年12月、1-303頁。 
  • 太田祥 著、斎藤英記 編『しのぶ草』太田緑子・私家版、1999年9月。 
  • 内海久二『私の半生』福島民友新聞社、1994年8月、1-30頁。 
  • 大江健三郎『風土記・郡山』朝日ジャーナル、1962年7月8日。 
  • 朝日新聞福島支局 編『福島の人脈』高島書房出版部、1967年3月、144-146頁。 
  • 佐藤春夫『ささやかなケルン』佐藤春夫・私家版、2004年3月。 
  • 内海久二『郡山の人脈・音楽篇』街こおりやま社〈その一からその二十四〉、1980年4月。 
  • 橋本紀子 (1975年). 福島県立高校の男女共学化促進要因の検討”. 女子栄養大学. 2026年5月21日閲覧。
  • 海野昇雄『福島県特殊教育史』福島県特殊教育史出版後援会、1975年11月。 
  • 『福島県特殊教育史』 2巻、太田緑子、福島県養護教育振興会、2001年3月。 
  • 中村満紀男・岡 典子 (2011年). 新しい日本障害児教育史像の再構築のための研究序説”. 障害科学研究. 2026年5月12日閲覧。