大迦葉
大迦葉(だいかしょう、梵: महाकाश्यप、Mahākāśyapa、マハーカーシヤパ、巴: महाकस्सप、Mahākassapa、マハーカッサパ)は、釈迦の十大弟子の一人。仏教教団における釈迦の後継(仏教第二祖)とする伝承があり[1]、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務めた。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。
| 摩訶迦葉
Mahākāśyapa(梵) Mahākassapa(巴) | |
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| 幼名 | 畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ) |
| 尊称 | 仏教第二祖、頭陀第一 |
| 生地 | インド |
| 宗派 | 声聞(初期仏教) |
| 師 | 釈迦 |
| 弟子 | 阿難陀 |
摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波とも呼ばれる。なお「迦葉」は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるが、摩訶迦葉とは別人である。
生涯
編集生い立ち等、伝説が多く、諸説ある。
彼の諸説あるうちの一つによれば、マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである尼拘律陀羯波(ニグローダ・ゴーパ)の子で、畢鉢羅樹(ピッパラ=菩提樹)の下で生まれたので、幼名を畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ、ピッパリ)といった。
8歳でバラモンに入門し修行してすべてを得たが、さらに出家して求道したいと考えていた。20歳の頃に家系が途絶えるのを恐れた両親は、彼に結婚を勧めたが、清浄な生活を送りたいと一度断るも断りきれず、彼は工巧に金の美しい女人像を造らせて、これと同じならばその人と結婚しようと条件を出した。困った両親は8人のバラモンに探すように頼んだ。

彼らがマッダ国のサーガラ川岸の沐浴場で像を載せた台車を置いて休んでいたところ、跋陀羅迦毘羅耶(バッダー、バドラー・カピラーニ、漢訳で妙賢)の乳母が、その像を見て彼女と見間違えたことから縁談がまとまった。しかし彼女はまだ16歳で、彼女自身も出家したいと考えていたので、迦葉も彼女も使者に手紙を遣わして結婚を断るように要請したが、お互いの使者が道で出会い、後々の事を考え破り捨てた。
迦葉は浮浪者に身をやつして彼女の家に行き、互いに同じ出家の意志がある事を確認すると、それを承知の上で結婚した。彼らは床も離れて寝たので12年間、子供もなく過ごしたが、迦葉の両親が亡くなったある日、畑仕事を見ていて土中から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃し、世の無常を感じた。彼女も同じく胡麻を乾燥していると多くの虫がおり、このまま油を絞ると殺生すると思い、共に出家を決意した。 多くの人が引き止める中、剃髪して粗衣に着替え鉢を持って出家したが、ある分かれ道でこのままでは私情に流されるとして、迦葉は右へ、彼女は左へと分かれたという。
迦葉は出家してもバラモンの修行をしていたが、王舎城と那荼陀(ナーダダ)村の間にある一本のニグローダ樹下に坐していた釈迦と出会い、ついに仏弟子となり名前を正式に迦葉と改め竹林精舎に到った。
釈迦の後継をめぐる伝承
編集釈迦入滅後の権威の継承について、仏教文献には複数の構想が伝えられている。法そのものを帰依処とする構想、大迦葉や阿難のような特定の弟子を継承者とする構想、僧団全体を釈迦の宗教的遺産の継承者とする構想などがある[2]。
後継者を置かない伝承
編集初期仏教・部派仏教系の『大般涅槃経』諸本では、釈迦が特定の人物を人間の後継指導者として任命しないことが共通している。多くの異本では、弟子たちに自己と法を洲・帰依処とするよう説き、パーリ本・漢訳『長阿含経』・梵文断片・チベット語の根本説一切有部系本では、釈迦自身が「僧団を自分が統率する」と考えてはいないことも明言される[3]。
ただし、各異本が釈迦在世中の僧団内での位置まで同じように描くわけではない。『般泥洹経』『仏般泥洹経』では、釈迦自身を比丘僧の中にいる者として表現し、法顕訳の初期仏教系『大般涅槃経』では釈迦の指導権を明示的には否定せず、弟子たちに法を釈迦自身と同じように奉持するよう説く。また、根本説一切有部律の漢訳も釈迦の指導権を直接否定する表現を避けている[4]。したがって、これらの諸本に共通するのは特定の人間の後継者を任命しない点であり、釈迦在世中の権威をどのように理解するかについては異なる伝承が存在する[5]。
しかし、特定の後継者を置かないという構想だけが後世に受け継がれたわけではない。釈迦の入滅後、その法を誰が正統に継承したのかを説明する多くの説話と祖師系譜が形成され、その中では大迦葉と阿難が特に有力な継承候補として描かれた[6]。
葬送と第一結集
編集大迦葉の継承者像は、釈迦の葬送と第一結集をめぐる説話にも現れる。多くの伝承では、釈迦の入滅時に大迦葉はその場におらず、神々が大迦葉の到着を待つため火葬を妨げたとされる[7]。少なくとも三つの異本では、大迦葉が到着後、最後に仏身を拝するため棺を開くよう阿難に求めるものの、阿難は遺体がすでに葬送の準備を終えているとしてこれを拒む。しかしその後、釈迦の両足が棺から自ら現れ、大迦葉が礼拝することを可能にする[8]。この場面では、それまで葬送の実務を担っていた阿難から大迦葉へと物語の焦点が移される。
第一結集でも大迦葉は中心的な位置を占める。結集を主宰する大迦葉は、当初、煩悩を尽くしておらず阿羅漢果に達していないとして阿難の参加を認めず、阿難が阿羅漢となった後にも、釈迦に住世を請わなかったことや比丘尼教団の成立に関わったことなど、複数の過失について問いただす伝承がある[9]。李婵娜(Channa Li)は、葬送と第一結集におけるこうした説話を、大迦葉と阿難の間で釈迦の後継者としての正統性が競われ、大迦葉の優位が物語化されたものとして分析している[10]。
釈迦との衣の交換
編集大迦葉の継承者像を支える代表的な説話の一つが、釈迦との衣の交換である。『雑阿含経』やサンユッタ・ニカーヤなどに伝わる一連の説話では、阿難が多数の若い比丘を伴って遊行した際、そのうち約30人が還俗したことを大迦葉が批判し、阿難を「童子」と呼ぶ。これに反発した阿難側の比丘尼・偷蘭難陀が、大迦葉をかつて外道に学んだ者として非難すると、大迦葉は自らと釈迦との関係を詳しく語り始める[11]。
その自己弁明の中で、大迦葉は出家以来、釈迦以外の師を認めたことはないと述べ、釈迦との間で「我は汝の師、汝は我が弟子」と師弟関係が相互に確認されたことを語る[12]。さらに、自らの高価な僧伽梨を釈迦に差し出し、釈迦からその糞掃衣を直接受け取ったという衣の交換を述べたのち、自身こそ「世尊の法子」「仏口より生じ、法より化生した者」であり、禅・解脱・三昧などの「法財」を付託された者であると主張する[13]。
この衣の交換は、大迦葉の頭陀行を象徴するとともに、釈迦の衣という権威を帯びた物を直接受け取ることによって、大迦葉を正統な弟子・法の継承者として示す説話として解釈されてきた。パーリ語注釈にも、釈迦が大迦葉を自らの位置に立てるため衣を交換したとする説明がある[14]。
さらに諸伝承では、釈迦が大迦葉に入滅せず法と律を守るよう付嘱し、大迦葉が未来仏である弥勒の出世まで釈迦の衣を保持するとされる。弥勒は長期間保存された大迦葉の身体と衣を通じて釈迦の遺産を受け取るため、大迦葉は現在の釈迦と未来仏との間で法を伝える媒介者として位置づけられている[15]。
半座の分与
編集釈迦が大迦葉に自らの半座を分ける説話も、大迦葉の特別な地位を示す伝承として知られる。漢訳二種の相応部系経典では、大迦葉が長髪で粗末な衣を着ていたため他の比丘から軽視された際、釈迦が大迦葉に自らの半座を与えたとされる[16]。
この行為の意味については、伝承ごとに複数の説明がある。釈迦が大迦葉の長年にわたる出家生活を認めたもの、大迦葉の徳が釈迦に比肩することを示したもの、法への理解を公衆の前で称揚したものなどと説明される[17]。また、本生譚では、大迦葉の前生が帝釈として釈迦の前生である頂生王に天上の半座を与えたため、その返礼として現世で釈迦が大迦葉に半座を与えたとする異なる解釈も伝えられている[18]。
『雑阿含経』では、この半座説話も阿難との威信をめぐる対立の中で語られる。阿難を支持する比丘尼から非難された大迦葉は、自らの優位を証明するため、釈迦が大衆の面前で半座を分かち、自分の功徳を釈迦自身と同等であると称賛したことを挙げている[19]。衣の交換と半座の分与は、この文脈ではともに釈迦の権威を大迦葉へ移す象徴的行為として理解され、大迦葉を正統な継承者として示す働きを担っていると分析されている[18]。
阿難との関係と法統
編集ただし、大迦葉と阿難の関係が常に大迦葉を上位とする形で描かれるわけではない。『増一阿含経』には、釈迦が大迦葉と阿難の双方を法宝を受持するに足る者と認め、二人に等しく法の保持を委ねる伝承がある[20]。これは、大迦葉が第一結集を主宰する一方、阿難が経典の誦出を担うという、両者が異なる役割を担う伝承とも対応する[20]。
これに対して『分別功徳論』では、阿難自身が大迦葉を「衆僧上座」として推し、釈迦が半座を分けたことを、大迦葉に正法の保存を付託した徴として解釈する[20]。
さらに、大迦葉から阿難、末田地(Madhyāntika)、商那和修(Śāṇakavāsin)、優波毱多(Upagupta)へと続く「五法師」の系譜も広く伝えられた。この系譜では阿難は大迦葉の直接の後継者とされ、大迦葉と阿難という二つの継承者像が、一つの法統の第一・第二段階として接続されている[21]。
こうした伝承の分布について、衣の交換や半座の分与など、大迦葉を阿難より優位に置く説話は『雑阿含経』・サンユッタ・ニカーヤを含む相応部系文献に目立つ。李婵娜は、これらが大迦葉と阿難をそれぞれ祖とする法脈がまだ完全には統合されていなかった段階の競合を反映する可能性を提示し、大迦葉を祖師として重視した伝承集団と相応部系文献の伝承との関係を想定している[22]。
参考文献
編集関連項目
編集- 十大弟子(シャーリプトラ/モッガラーナ/大カッサパ/スブーティ/プンナ/大カッチャーナ/アヌルッダ/ウパーリ/ラーフラ/アーナンダ)
- バドラー・カピラーニ
- 阿羅漢 - 十六羅漢に慶友(難提蜜多羅)・賓頭盧、または大迦葉・軍徒鉢歎を加えたものを十八羅漢とすることがある。
- 西遊記 - 釈迦如来の弟子として阿難とともに登場している。
- 拈華微笑
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- ↑ Li 2019, pp. 295–312.
- ↑ Li 2019, p. 287.
- ↑ Li 2019, pp. 288–293.
- ↑ Li 2019, pp. 290–294.
- ↑ Li 2019, pp. 293–294.
- ↑ Li 2019, pp. 295–296.
- ↑ Li 2019, pp. 296–297.
- ↑ Li 2019, p. 297.
- ↑ Li 2019, pp. 297–298.
- ↑ Li 2019, p. 298.
- ↑ Li 2019, pp. 301–302.
- ↑ Li 2019, pp. 302–303.
- ↑ Li 2019, p. 303.
- ↑ Li 2019, pp. 304–305.
- ↑ Li 2019, p. 306.
- ↑ Li 2019, p. 307.
- ↑ Li 2019, p. 308.
- 1 2 Li 2019, p. 310.
- ↑ Li 2019, pp. 308–309.
- 1 2 3 Li 2019, p. 311.
- ↑ Li 2019, pp. 311–312.
- ↑ Li 2019, pp. 310–312.