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この項目では、中国河北省の歴史的地名である冀州について説明しています。その他の用例については「冀州 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
冀州(きしゅう)は、中国の行政区分の一つ。現在、山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)等七つの省市に分属している。
上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』・『呂氏春秋』では「両河の間」、『周礼』では「河内」としており、現在の山西省を中心とする地域を指しているものと思われる(黄河は山西省の周りをちょうどUの字を描くように湾曲しており、東西を黄河に挟まれた地域という意である)。『呂氏春秋』はまた「晋国である」としている。
後漢末には軍閥の袁紹が鄴に拠って冀州を支配した。袁紹の死後、曹操は彼の子の袁譚・袁尚を破り、冀州を支配した。曹操は「冀州の戸籍を調べたところ、30万人の軍勢を手に入れられそうだ。従って、冀州は大州と言えるだろう」と言っているように、この頃の冀州は、中国北部随一の豊かな州であった。魏晋では信都県を州治とした(ただし鄴は魏の五都の一とされ、実質的に冀州の最重要拠点となった)。永嘉以後の動乱の中で、冀州は後趙・冉魏・前燕・前秦・後燕などと目まぐるしく支配者を変えることになった。
北魏になると、皇始2年(397年)に定州、太和11年(487年)に瀛州、熙平2年(517年)に滄州に分割されるなど、細分化が進んだ。また、南朝宋のときに、現在の山東省の領域内に僑州として「冀州」あるいは「南冀州」の省置が繰り返されている。
隋初には、冀州は2郡を管轄した。607年(大業3年)、郡制施行に伴い、冀州は信都郡と改称され、下部に12県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては、下表を参照。
五代十国時代の各王朝では、唐制が沿襲され、冀州は河北道の管轄とされた。五代において冀州は契丹との国境地帯であったため、数多くの戦乱に巻き込まれている。
北宋のとき、冀州は河北東路の管轄となった。下部に信都・南宮・棗強・武邑・衡水・阜城・蓨の7県を管轄した[3]。
遼が華北地区に進出すると、冀州は北宋との最前線となり、遼により北宋に対する防衛基地とされ、永安軍と改められた[4]。1128年(建炎2年)に冀州が金の支配下に入ると、1129年(天会7年)に安武軍節度が置かれた。冀州は河北東路に属し、信都・南宮・棗強・武邑・衡水の5県を管轄した[5]。
1913年(民国2年)、州制廃止に伴い、冀州直轄地域に(旧信都県)冀県が設置され、冀州の名称が消滅した。1993年に県級市に昇格した際に、冀州市の名称が採用されているが、旧冀州に比べその管轄区域は大幅に縮小している。2016年に市轄区の冀州区に改編され現在に至る。