元勲
元勲(げんくん)とは、歴史上の王政復古(朝権回復)に対して大きな功績があった者をさす用語[1]で、現在に至るまでに古代の大化改新、中世の建武新政、近代の明治維新の三度の革新があったが、近代日本においては特に明治維新によって政界に影響力を持った有力政治家を指すことが多い[2]。
日本における元勲
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冒頭に「維新ノ元勲」と記されている。
板垣伯銅像記念碑建設同志會建立
維新(王政復古)を実現し、明治政府の樹立・安定に寄与した一群の人物たちは特に「元勲」と呼ばれた。「元勲」の語は、1878年(明治11年)5月14日、大久保利通の暗殺事件(紀尾井坂の変)を報じた『大阪日報』では「抑も公(大久保)は維新の元勲として参議兼内務卿の重職に居り、天子の信任あらせらるゝ所…[3]」とあり明治維新に近い時期に登場していたことが分かる。同月、南亮輔、国沢大八郎、香宗我部捨作が連書で佐々木高行に送った書簡にも「そもそも公(大久保)は維新の元勲にして、重職に居り、皇国の柱石なりしに…[4]」の文言があり、民間においても流布し使用されていた形跡がある。
これが公式に天皇によって発せられたのは、1882年(明治15年)、板垣退助が岐阜において、暴漢に刺された時(岐阜事件)、明治天皇が「板垣は国家の元勲なり、捨て置くべきにあらず[5]」と述べられたのを起源とする。民間で漠然と使われていた文言が、板垣退助の岐阜遭難事件を機に、明治天皇が自ら発せられたことでお墨付きを得て「維新の功労者=元勲」という用語が定着していった。当初は、大久保利通、板垣退助、西郷隆盛、木戸孝允、三条実美など初期の最有力者を指していた[6]。その後、伊藤博文などの後の世代も元勲という呼び名で呼ばれるようになったが、当初は「元老」と混用されて用いられていた。やがて制度としての元老が浸透すると、元勲はもっぱら戊辰戦争で実際に戦った維新の功労者であった実力者達に対して用いられるようになった。
内閣制度発足後には伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆、そして維新の折には大きな影響力を持たなかった松方正義、桂太郎も、元勲優遇の詔勅を受けている。
明治日本の元勲
編集脚注
編集- ↑ 明治期の日本政府は足助重範を南朝の元勲としており(「故足助重範ヲ追賞シ正四位ヲ贈ラル」 アジア歴史資料センター Ref.A15112395300 )、また『読売新聞』1920年(大正9年)8月11日5面「独逸のヴ元帥逝く 独逸陸軍界の元勲である」、同1924年(大正13年)6月19日3面「ムソリニ首相 元勲内閣を推薦 首相は平大臣となる 拉致事件意外に展開」などがある。
- ↑ デジタル大辞泉『元勲』 - コトバンク
- 1 2 『大阪日報』明治11年5月18日附
- 1 2 『保古飛呂比・佐佐木高行日記』巻41より。
- 1 2 (明治15年4月7日)この日閣議の定日なりしも、
俄 ()に之 ()を中止し、参議・山縣有朋参内して状を闕下に奏す。聖上(明治天皇)甚 ()く宸襟を悩まされ『板垣は国家の元勲なり。捨て置くべきにあらず』と宣 ()ひ畏くも侍従一名、侍医一名を差遣の御沙汰あり。(『明治憲政経済史論』国家学会編、1919年(大正8年)4月15日、239頁) - ↑ 伊藤 2016, p. 51.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 山脇之人 『維新元勲十傑論』
- ↑ 「三条内大臣ヲ正一位ニ叙スルノ詔」 アジア歴史資料センター Ref.A14110276700
- ↑ 「三条太政大臣ヨリ西郷大将ニ贈ラル丶書簡案」 アジア歴史資料センター Ref.A03022895000
- 1 2 3 4 5 6 7 8 日本大百科全書(ニッポニカ)『元勲』 - コトバンク
- ↑ 「正二位勲一等伯爵松方正義ニ賜フノ勅語」 アジア歴史資料センター Ref.A14110286800
- ↑ 「元勲優遇ノ詔(黒田)」 アジア歴史資料センター Ref.A14110275200
- ↑ 「故島津前左大臣弔慰ノ宣旨」 アジア歴史資料センター Ref.A14110274700
- ↑ 「従一位勲一等公爵島津忠義薨去ニ付特ニ国葬ヲ行フ」 アジア歴史資料センター Ref.A15113178900
- ↑ 「元勲優遇ノ詔」 アジア歴史資料センター Ref.A14110284100
- ↑ 「元勲優遇ノ詔」 アジア歴史資料センター Ref.A14110285000
- ↑ 「桂公爵ニ賜フ勅書」 アジア歴史資料センター Ref.A14110303800
- ↑ 「国葬勅令」 アジア歴史資料センター Ref.A10110339100
- ↑ 「生ける国宝!! 唯一人現存する明治維新の大元勲」『読売新聞』1926年(大正15年)4月22日。