ロロ

9-10世紀のノルマン人 / 初代ルーアン伯 / ノルマンディー公国の創始者

ロロノルマン語Rou, Rolloun古ノルド語Hrólfrフランス語Rollon、846年頃 – 933年[4])とは、その異名から「徒歩のロロ」(Rollo "the Walker")[5][6]としても知られる、ルーアン伯英語版として現在のフランス北部ノルマンディーの最初の支配者となったヴァイキングである。彼は、セーヌ川下流の渓谷にあるフランク王国の領土に恒久的な拠点を築いたノース人の間で、軍事指導者として頭角を現した。彼は885年のパリ包囲戦に参加したヴァイキングの中でも著名な人物であり[7][8]、911年にはシャルトル包囲戦英語版を指揮した[9]。後者の戦いは、結果として歴史的に重要なサン=クレール=シュール=エプト条約の触媒となった。この条約において、西フランク王シャルル3世(単純王)は、ロロが略奪を止め、シャルルに臣従を誓いキリスト教に改宗し、他のヴァイキングの襲撃者からセーヌ川河口を守ることを約束するのと引き換えに、エプト川と海に挟まれた土地をロロに授与した[10][11]

ロロ
13世紀に描かれたロロ

在位期間
911年 – 928年
次代 ギヨーム1世

出生 c.835年/870年[1][2][3]
スカンジナビア
死亡 933年
ノルマンディー公国
埋葬 ルーアン大聖堂
王室 ノルマンディー家(創設者)
配偶者
子女
信仰
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ロロの生涯は、サン=カンタンのドゥド英語版によって記録された。W. フォーゲル、アレクサンダー・ブッゲ英語版、アンリ・プレントゥといった歴史家たちは、ドゥドの記述が歴史的に正確であるかどうかを議論しており[12]、ロロの出自と生涯については激しく論争されている。

ロロがヴァイキングの入植者集団のリーダーとして初めて記録されるのは918年の勅許状においてであり、彼は少なくとも928年までノルマンディー地域を統治した。彼の後継者として、息子のギヨーム1世が新しいノルマンディー公国の統治者となった。[13]ロロとその部下の子孫たちは、地元のフランク人やガロ・ローマ人と混血し、「ノルマン人」として知られるようになった。その後の2世紀にわたるイングランド征服や、南イタリアおよびシチリアの征服を経て、彼らの子孫は11世紀から13世紀にかけてイングランド、アイルランドの大部分、シチリアアンティオキアを支配するに至り、ヨーロッパと近東の歴史に永続的な遺産を残した[14]

呼称

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13世紀に成立したアイスランドの伝記『ヘイムスクリングラ』には、徒歩のロルフ英語版がノルマンディーへ赴き同地を統治したと記されている。このため、「ロロ」という名は一般に、古ノルド語の氏名であるフロールヴ(Hrólfr)ラテン語化した英語版ものと推定されており、この説はサクソ・グラマティクスによる『デンマーク人の事績』においてHrólfrが「Roluo」と表記されていることによっても裏付けられている。また、ロロは別のノルド語名「Hrollaugr」のラテン語形である可能性も時折示唆されている[15]

10世紀のフランスの歴史家サン=カンタンのドゥド英語版は、その著書『ノルマン人の歴史』(Historia Normannorum)において、ロロが「ロベール」という洗礼名を授かったと記録している[16]。また、12世紀のノルマン・フランス語による韻文年代記『ルー物語』では、「Rou」という綴りも用いられている。この年代記は、ロロの末裔であるイングランド王ヘンリー2世の委託を受け、ワースによって編纂されたものである[17][18]

出自と史学史

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ノルウェーのオーレスンにあるロロの像

ロロの墓碑には933年の没時に80代であったと記されていることから、彼は9世紀半ばに誕生したものと考えられる。その出生地はほぼ確実にスカンジナビアであり、デンマークかノルウェーのいずれかであった。この不確実性の一因は、当時の「ヴァイキング」、「ノース人(Northmen)」、「ノルド人(Norse)」、「スウェーデン人」、「デンマーク人」、「ノルウェー人」といった用語(中世ラテン語では Dani vel Nortmanni)が、同時代の記録において厳密に区別されずに用いられていたことに起因する。

ロロに関連する歴史的事件として最も初期に確認できるのは、885年から886年にかけて行われたパリ包囲戦においてヴァイキングを率いたことであるが、この時はウード伯によって退けられている[7][8]

史料上、ロロの正確な生年は明らかにされていないが、その活動時期、婚姻、子女、および没年から、9世紀半ばであると推認される。

10世紀後半に聖職者サン=カンタンのドゥド英語版が記したロロの伝記的記述によれば、「デンマーク人」ロロは『ダキア英語版』の出身であり、そこからスカンツァ島英語版へと移住したとされる。本来「ダキア」は黒海近傍の地域を指す呼称であったが、ドゥドは「ダキ(Daci)」と「ダニ(Dani、デンマーク人)」の間に誤った語源的関連付けを行うことで、これをデンマークと同一視したのである[19]。ロロの曾孫の一人でドゥドと同時代の人物は、「デンマーク人」ロベールとして知られていた。しかしながら、ドゥドの『ノルマン人の歴史』(Historia Normannorum、または Libri III de moribus et actis primorum Normanniae ducum)はロロの孫であるリシャール1世の委託によって執筆されたものである。ドゥドがロロの親族やロロを実見した記憶を持つ人々に接触できた可能性は高いものの、公式な伝記としての性質上、記述に含まれ得る偏向を考慮する必要がある[20]

ドゥドによれば、ある無名のデンマーク王がロロの家族に対して敵対的であり、ロロの父(無名のデンマーク貴族)や兄弟のグリム(Gurim)もその標的となった。父の死後、グリムは殺害され、ロロはデンマークを去ることを余儀なくされたという[21]。ドゥドの記述は、のちのジュミエージュのギヨーム英語版(1066年以降)やオルデリック・ヴィタリス英語版(12世紀初頭)の主要な情報源となったようであるが、両者はさらなる詳細を付け加えている[22]

ロロがノルウェー出身であると初めて明示的に主張したのは、11世紀のベネディクト会修道士で歴史家のゴッフレード・マラテッラ英語版であり、「ロロは自らの艦隊を率いて、ノルウェーからキリスト教徒の沿岸へと勇猛に航海した」と記している[23]。同様に、12世紀のイングランドの歴史家マームズベリのウィリアムも、ロロは「ノルウェー人の高貴な家系の生まれである」と述べている[24]

ブノワ(おそらくブノワ・ド・サンテ=モール英語版)という名の年代記作家は、12世紀半ばの『ノルマンディー公年代記英語版』において、ロロは「Fasge」という名の町で生まれたと記した。この地名は、のちにシェラン島(デンマーク)のファクセ英語版、あるいはシュッキュルベン英語版(ノルウェー)のファウスケ(Fauske)を指すものとして様々に解釈されているが、おそらくはその後放棄されたか改称された無名の集落である可能性もある。ブノワもまた、ロロが現地の支配者に迫害され、そこから「スカンツァ島」へと逃れたという説を繰り返しているが、ここでいうスカンツァとは十中八九スコーネ(スウェーデン語:Skåne)を指している。なお、ブノワは同年代記の他の箇所で、ロロをデンマーク人であると述べている[25]

スノッリ・ストゥルルソンは、13世紀のアイスランドサガである『ヘイムスクリングラ』や『オークニー諸島人のサガ』に登場する「徒歩のフロールヴ」(Hrólfr the Walker、古ノルド語:Göngu-Hrólfr、デンマーク語:Ganger-Hrólf)をロロと同一視した。「徒歩の」という異名は、彼が「あまりに巨体であったため、いかなる馬も彼を乗せることができなかった」ことに由来するとされる[26]。アイスランドの史料によれば、フロールヴは9世紀後半にノルウェー西部のムーレ出身であり[27]、父はノルウェーのヤールであるログンヴァルド・エイステインソン英語版(「賢明なるログンヴァルド」)、母はムーレの貴族女性ヒルド・フロールヴスドッティル英語版であったとされる。しかし、これらの主張がなされたのは、ロロ自身の孫が委託した歴史書の編纂から3世紀も後のことである。

また、ロロと、同時代の歴史的人物であるケットゥル・フラットネーズ英語版群島王英語版:スコットランドのヘブリディーズ諸島を中心としたノース人の領国の主)との間に血縁関係があったとする状況証拠が存在する。アイルランドとアイスランド双方の史料によれば、ロロは若年期にスコットランド北部を訪れたか、あるいは同地に居住しており、そこでカドリーナ(Kaðlín、Kathleen)という名の娘をもうけたとされる[28][29]。アイスランドの史料はケットゥル・フラットネーズの父をビョルン・グリームソンとしているが[30]、これはケットゥルの父方の祖父の名がグリーム(Grim)であったことを示唆している。これは、ロロとの関連を示す固有名詞学的な証拠となり得る。なぜなら(リシェによれば)ロロの父の名はケットゥルであり、また(ドゥドによれば)ロロにはグリム(Gurim、ノルド語のGrimと同語源の可能性が高い)という名の兄弟がいたからである。加えて、アイスランドの史料はロロの故郷をムーレとしているが、ここはケットゥル・フラットネーズの先祖の出身地とも伝えられている。しかしながら、血縁関係を明示的に主張する存史料は存在せず、ノース人の社会において「ケットゥル」や「グリム」といった名は極めて一般的なものであった点に留意が必要である[31]

伝記

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サン=カンタンのドゥド英語版の年代記が記す876年のロロによるルーアン奪取は、同時代の年代記作家フロドアール英語版の記述によっても裏付けられている。フロドアールは、ネウストリア辺境伯領英語版ブルターニュ辺境伯英語版)のロベールがヴァイキングに対して軍事遠征を行い、ルーアンや他の集落をほぼ平らげたことを記録している。最終的にロベールは「特定の沿岸諸州」を彼らに譲歩した[32]。もっとも、学者たちはこの点について議論しており、ロロは876年以降になるまで西フランク王国にすら到着していなかったと述べて、ドゥドによる年代表の誤りを指摘している[33]

ドゥドによれば、ロロはイングランドで「アルステム(Alstem)」と呼ばれる王と親交を結んだ。この人物については多くの歴史家が頭を悩ませてきたが、近年では、アルフレッド大王から「アゼルスタン」という名で洗礼を受け、880年にイースト・アングリア王として承認されたデーン人の指導者グスルムであると特定されている[34][35]

ドゥドの記録によれば、ロロが武力でバイユーを制圧した際、彼はレンヌ伯ベランジェ英語版の娘である麗しきポパ(またはポッパ)英語版を連れ去ったという。ロロは彼女と結婚し、二人の間には息子で後継者のギヨームが生まれた[36]。彼女の出自は不確かであり、ドゥドによる他の多くの空想的な系譜上の主張と同様に、息子の血統を正当化するために事後的に創作された可能性がある。ドゥドは、主に宮廷の価値観を教えるための訓戒的な道具として年代記を執筆した可能性のある、極めて信頼性の低い情報源であるため、彼女はノース人と接触のあったいかなる国の出身であった可能性も否定できない[37]

ルーアン大聖堂にあるロロの墓

ロロに関する同時代の言及は極めて少ない。911年、ウード伯の兄弟である西フランク王ロベール1世は、高度に訓練された騎兵隊を率いてシャルトルで別のヴァイキング戦士の一団を再び撃破した。この勝利が、ロロの洗礼とノルマンディー定住への道を開くこととなった。自ら所有する土地の正式な承認と引き換えに、ロロは洗礼を受けること、および王による王国の防衛を支援することに同意した。当時の慣習に従い、ロロは代父となったロベール1世にちなんで、「ロベール」という洗礼名を授かった[38]

この合意を決定づけたのは、ロロとシャルル単純王の娘ジゼル・ド・フランスの結婚であった。ジゼルは、おそらくシャルルの嫡出の娘であったとされる[39]。シャルルが最初に結婚したのは907年のことであるため、911年の条約で結婚が提示された際、ジゼラはせいぜい5歳であったことになる[40]。そのため、彼女は非嫡出子であったのではないかとの推測もなされている[41]。しかしながら、外交上の子供同士の婚約であったと考えれば、疑う余地はない[40]

ロロに関する最古の確実な記録は918年のもので、シャルル3世からある修道院に宛てられた勅許状において、「王国の保護」のために「セーヌ川のノルマン人」、すなわち「ロロとその仲間たち」に以前行われた授与に言及している[42]。ドゥドは回顧的に、この盟約が911年にサン=クレール=シュール=エプト英語版で結ばれたと述べている。

ドゥドは、他の一次史料では裏付けられていない、サン=クレール=シュール=エプト条約の一環として行われたロロによるシャルル3世への臣従の誓いに関する滑稽な逸話を伝えている。居合わせた司教たちは、忠誠を証明するために王の足に接吻するようロロに促した。ロロはこれを拒み、「私はいかなる男の膝の前でも膝を屈することはなく、またいかなる男の足にも接吻することはない」と述べた[43]。代わりに、ロロは自らの戦士の一人に王の足に接吻するよう命じた。その戦士は、王が立ったままの状態でその足を口元まで持ち上げて接吻したため、「王は仰向けに転倒してしまった」という[43]。これは周囲の者たちを大いに面白がらせた。これはロロたちノルマン人がいずれもが同等であり、主人を持たない気風によるものと伝えられている[44]。臣従の誓いを経て、ロロはエプト川リスル川英語版の間の土地[45]を自らの族長たちに分配し、事実上の首都となったルーアンに定住した[46]

フランク人との同盟の返礼としてルーアンとその背後地英語版を与えられたことで、ロロ自身の権威をヴァイキングの入植者たちに及ぼすことが、ロロ自身とフランク人の同盟者双方の利益にかなうという合意がなされた[47]。これが、のちに当時の他の記録に記されている、セーヌ川のヴァイキングたちへのさらなる譲歩の動機であったと思われる。シャルル3世がラウールによって王位を追われそうになった際、彼はロロと、もう一人のノルマン人の同盟者であるラジュノフランス語版に助けを求めた。彼らは連合軍を率いてカロリング朝への誓約を果たすべく援軍に赴いたが[48]、領土のさらなる譲歩と引き換えに協力を申し出たシャルルの敵対者たちによってオワーズ川で阻止された[49]。合意の必要性は、シャルル3世の後継者であるロベール1世が923年に戦死したことで、特に差し迫ったものとなった[47]

ラウール王が新しい合意を後援し、それによって一群のノース人がベッサン英語版メーヌの諸州を譲歩されたと記録されている[50]。これらの入植者たちは、セーヌ川流域から西へと権威を拡大させたロロとその仲間たちであったと推定されている[47]。ロロに与えられたのが、すでに同地域に入植していたヴァイキングたちを従わせ抑え込むための支配権であったのか、あるいはブルターニュ東部やコタンタン半島に定住していた他のヴァイキングの指導者たちから保護するための、バイユー周辺のフランク人に対する支配権であったのかは、依然として不明である[51]

ロロは、928年のフロドアールによる最後の言及から、彼の息子で後継者のギヨームに、通常はコタンタンおよびアヴランシャン英語版地域とされる3度目の土地授与が行われた933年までの間のいずれかの時期に没した[52]

ノルマン人のキリスト教改宗におけるロロの役割

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サン=カンタンのドゥド英語版が伝えるロロの物語によれば、ロロはある幻視を見た。その中で彼はフランクの居留地にある高い山の上に立っており、そこにある川で自らの体を洗い、感染していた病を癒した。すると、あらゆる種類の鳥たちが山の周りに集まり、同じ川で身を清めた。鳥たちは一つの群れとして留まり、小枝を集めて巣を築いたという。この夢は、山はキリスト教という教会を、洗い流された病は自らの罪が浄化されキリスト教の洗礼によって新しく生まれ変わることを意味すると解釈された。また、多種多様な鳥たちは、罪を洗い流し共同体に加わった様々な軍勢や民衆を象徴していた。巣は再建されるべき都市の城壁であり、すべてがロロに仕えるために彼にひれ伏すことを示唆していた。ロロはノルマンディーへの旅の間、この幻視を抱き続けた。到着して土地を授与されると、彼は土地の各区画を神、聖人、および様々な教会に捧げた。彼は自ら洗礼を受けるとともに、部下たちにキリスト教の教えを広めた[53]

キリスト教におけるロロの役割に関するこの記述は、長らく学者たちの間で議論の対象となってきた。ヴォルテールは1752年の著作『ミクロメガス英語版』において、「平和的なロロは、キリスト教大陸における当時唯一の立法者であった」と記している。近年の研究者は、ノルマンディーの文明化の要因はロロの実際のキリスト教への改宗ではなく、彼の立法行為にあったと述べている[54]。ロロとその仲間たちが実際に洗礼を受けたことは支持されている一方で、この改宗は当初は形式的なものに過ぎず、依然として異教の風習が実践されていたという主張もなされている [55]

子孫

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ノルマン王朝の系図

ロロの息子であり後継者のギヨーム(長剣公)と、その子(ロロの孫)であるリシャール1世(無畏公)は、ノルマンディー公国西フランク王国において最も結束が固く強力な公領へと鍛え上げた[56]。ロロとその部下たちの後裔はフランク文化に同化してノルマン人として知られるようになり、ノルマンディーという地域の名の由来となった[57]

ロロは、イングランドにおけるノルマン朝の始祖となった征服王ウィリアムの5代前の祖先(曾曾曾祖父)にあたる。それゆえ、チャールズ3世をはじめとする現在のイギリス王室は、男系ではないもののロロの末裔である。ヘンリー1世がノルマン朝最後の君主となったが、その娘マティルダはイングランドのプランタジネット朝およびその後のイングランド君主たちの先祖となった。

2011年、この歴史的なヴァイキング指導者の出自を解明するため、ロロの孫リシャール1世(無畏公)と曾孫リシャール2世(善良公)の遺骸に対するY染色体を用いた遺伝学的調査が発表された[58]。2016年2月29日、ノルウェーの研究者らがリシャール2世の墓を開いたところ、8本の歯が残った下顎骨が発見された[59]。しかしながら、双方の墓に納められていた骨格遺骸は、実際にはロロの時代よりも大幅に遡るものであることが判明し、彼とは血縁関係がないことが明らかとなった[60]

Template:ノルマン朝系図

遺産

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ロロの王朝は、苛烈な軍事行動と、10世紀のフランク貴族間の内紛という二つの要因が組み合わさることによって存続した。この内紛によってフランク貴族は著しく弱体化し、定住を望むルーアンのヴァイキングたちの増大する決意に抗うことができなくなったのである[61]。ロロの死後、1135年にエティエンヌ・ド・ブロワ(スティーブン)がイングランド王およびノルマンディー公となるまで、ロロの直系の男系子孫がノルマンディーを統治し続けた[62]。ノルマンディー公領は、のちに1128年にロロの末裔であるマティルダと結婚したアンジュー伯ジョフロワ・プランタジネットによって征服され、その後、アンジュー帝国へと組み込まれていった[63]

ロロはノルマンディーの創設者としてその名を残しており、彼の指導力と、同地域へのヴァイキング入植者の統合によって、この地は安定した政治体へと変貌を遂げた[64]。彼の血統は中世ヨーロッパの形成において重要な役割を果たした。1066年に名高いノルマン・コンクエストを率いた征服王ウィリアムもまた、ロロの末裔の一人である。また、ロロの洗礼は、ヴァイキングの入植者たちがフランク社会へと同化していく過程における重要な転換点となった。

フィクションにおける描写

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ロロは、ジョン・フレッチャーフィリップ・マッシンジャー英語版ベン・ジョンソンジョージ・チャップマン英語版らによって執筆された17世紀の戯曲『ノルマンディー公ロロ英語版』(別名『血を分けた兄弟』)の題材となっている。この劇は、皇帝セウェルスの息子たちであるゲタとアントニヌスの対立を描いたヘロディアヌスの記述に着想を得ているため、史実のロロとの類似点は希薄である。しかしながら、舞台は古代ローマから中世フランスに移されており、兄弟はオットーとロロとして再構成されている。当初は王国の共同統治者に任命されるが、ロロはオットーを殺害して独占的な権力を掌握する。暴政に明け暮れた彼の治世は、最終的にその圧政に対する報いとして殺害されることで幕を閉じる[65]

ヒストリー・チャンネルのテレビドラマシリーズ『ヴァイキング 〜海の覇者たち〜』では、クライブ・スタンデン英語版演じるキャラクターが、ラグナル・ロズブロークの兄弟として登場する[66]。このキャラクターは史実のロロから大まかに着想を得ているが、ロロの出生以前に起きた多くの出来事が盛り込まれている。劇中のロロは、将来の襲撃の足掛かりとしてセーヌ川沿いの支配権を維持するため西フランクに留まるが、フランク側から土地の授与と皇女ジゼラ(Gisla)との結婚を提示され、兄弟を裏切るよう唆される。ロロが西フランクに定住し、シャルル3世の娘(ジゼラ)と結婚するという点では、サン=カンタンのドゥド英語版の記述との類似が見られるが、兄弟を裏切ったという言及はドゥドの記述には存在しない[67]

ロロはビデオゲーム『アサシン クリード ヴァルハラ』にも登場する[68]

脚注

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出典

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参考文献

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関連文献

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一次史料

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二次資料

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