プロセス考古学(プロセスこうこがく、: Processual Archaeology)は考古学理論英語版の一つ。ニューアーケオロジー運動を主導したルイス・ビンフォード英語版らによって体系立てられ、普及した。

概要

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プロセス考古学は、人間の文化を自然環境に対する適応システムとして捉え、文化変化のプロセスを一般法則として科学的に説明することを目指す考古学のアプローチである。1960年代の考古学は、のちの学史的整理において「説明期」として位置づけられた[1]。この時期には、まず文化人類学の新進化主義理論をもとに文化進化が再注目されるようになった[2]。また、社会科学全般で流行していた一般システム理論は考古学にも導入され、またカール・ヘンペルの論理実証主義が参照されて仮説検証法が提起された[3]。この「ニューアーケオロジー」と呼ばれる動向にはルイス・ビンフォード英語版を首班とするシカゴ・グループの動きと、1950年代以来のアメリカ考古学からの着実な発展の流れが混在していた[4]

1970年代にはこの運動は落ち着き、これらの系統の研究は学界をリードするようになりプロセス考古学と呼ばれていく[5]。1980年代にはこれに批判的なポストプロセス考古学英語版が登場する[5]

前史

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文化史的考古学

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文化史的考古学英語版はドイツで発展した[6]。医師であり、政治家でもあるルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウは1869年に発足したドイツ人類学・民族学・先史考古学会の中心人物として、考古学的調査に積極的に関与するようになる[6]。フィルヒョウとその支持者は、主に土器型式を軸に先史時代の文化を同定し、文化の起源と動態を追いながらそれら文化を民族に結び付けることを考えていた[7]。のちにナチスにその成果を利用されたことで悪名高いグスタフ・コッシナ英語版は1895年の講演でゲルマン諸部族を新石器時代までさかのぼって突き止め、それ以来「文化はつねにエスニシティの反映である」という信念のもと、ドイツへの愛国心から古代ゲルマン人の研究を続けた[8]

コッシナの解釈は、彼の熱狂的な愛国主義が嫌悪され、ドイツ語圏諸国の外側にはほとんど影響を及ぼさなかった[9]。イギリスでは、1925年に刊行されたゴードン・チャイルドの『ヨーロッパ文明の黎明』が考古文化の概念を体系的に論じ、「先史考古学の新たな出発点」となった[9]。チャイルドは考古文化に関するコッシナの基本概念を採用したが、そこに含まれる人種差別的な偏見には無自覚的だった[10]。チャイルドは考古文化を「つねにくりかえし共伴する特定型式の遺物・遺構(たとえば土器・道具・装飾品・埋葬儀礼・家屋形態など)」と定義し、「個々の文化の存続期間と地理的境界を確定」させ、それらを年代別に配列した[11]

機能=プロセス考古学

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一方デンマークやスカンディナヴィアには、1830-1840年代にヤペトゥス・ステーンストロップらによる考古学資料を森林遷移と関連づけようとする試みがある[12]。同時期に、スヴェン・ニルソン英語版が「先史時代の変化を説明するためにプロセス的なアプローチをもちいた最初の事例」となるスウェーデンにおける農耕開始に関する説を唱えた[13]

アメリカでも1904年にラファエル・パンペリーが食糧生産の乾燥化起源説・オアシス起源説を提唱し、この理論が以降数十年にわたって旧世界の考古学者たちに絶大な人気を呼ぶことになる[14]オックスフォード大学エドウィン・ゲスト英語版らは歴史を理解するうえで地理的な関係を重視しようとした[14]。イギリスのオズバート・クロフォード英語版も地理的環境に注目した考古学者で、クロップマークの検出などの成果を上げたことで知られる[14]グラフトン・エリオット・スミス英語版は、1915年という早い時期に新石器時代の第一基準を磨製石器の登場ではなく「農業の発明」におくことを主張した[15]

チャイルドも1920年代末には文化史的アプローチからの転換を意識し、初期には生業パターンに関係づけなかった経済的要因に関心を寄せるようになった[16]。これはエミール・デュルケームの間接的な影響があるとされる[16]。そしてグレアム・クラーク英語版がチャイルドに取って代わるように機能主義的アプローチを開拓していった[17]。クラークは文化におけるそれぞれの側面がシステムの各部分としてどう関連しているかを研究することを目指し、文化の多様な側面と食料供給との関係を示す図表を作成して、これを自身の研究の中核とみなした[18]。クラークは考古学が世界規模の視野を持つべきと考えて、放射性炭素年代測定法にも注目した[19]

アメリカのジュリアン・スチュワードが示した人間社会への生態的要因への注目は「生業経済・人口規模・セトルメントパターン」の変化を研究することによって考古学にも応用されることとなる[20]。第二次世界大戦後、スチュワードとクラークの研究から生態学的アプローチの重要性が注目され、ロバート・ブレイドウッド英語版のイラク・ジャルモ先史プロジェクトに代表される大規模な調査プログラムが実施されるようになっていった[21]セトルメント考古学英語版ゴードン・ウィリーの1953年の報告書を嚆矢として、自然環境、技術、そしてさまざまな人間行動が複合的に反映される場としてのセトルメントパターンの研究が進められていくこととなった[22]

ニューアーケオロジー

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ニューアーケオロジー誕生の背景

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1950年代から1960年代には、まずコンピュータや理化学的分析法などのデータ回収技術が劇的に発達した[23]。また、上述したような考古学の生態学への接近、セトルメント構造への関心などの動向が新しい議論をもたらしていた[23]

1950年代の人類学ではレズリー・ホワイト英語版とジュリアン・スチュワードの主導する新進化主義が流行していた[24]。新進化主義の理論は1960年にベティ・メガーズ英語版によって考古学に適用されたものの、メガーズの議論は考古学者たちにはあまり受け入れられなかった[25]

以上の学術的動向とは別に、ニューアーケオロジー的な法則定立・一般化の志向に調和する、アメリカ人の実用的なもの重視の気風が存在した[26]。また第二次世界大戦後のアメリカが世界規模で影響力を増大させた時期には、一国規模の地域研究の重要性を否定するニューアーケオロジーの考え方はアメリカの経済活動や他国への干渉といった状況に合致していくことになる[27]

1960年代の動向

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ルイス・ビンフォード

一方、ジョセフ・コールドウェル英語版が注目したウォルター・テイラー英語版の「文化システム内に生じるプロセス的な変化」という考え方は、1960年代にホワイトの弟子であるルイス・ビンフォード英語版が新たな要素を追加しながらアメリカの若手の考古学者たちに紹介し、彼らの間で絶大な支持を得た[28]。ビンフォードらは、この新しい考古学(ニューアーケオロジー)を過去の考古学とは徹底的に断絶したものと位置付け、この運動は文化史的考古学へのアンチテーゼであるという立場を取った[29]。この運動は研究機関におけるポジションや研究費の獲得といった世俗的な欲求にも促されたものであったために、彼らは伝統的な考古学に対するニューアーケオロジーの優位性・正当性を強く主張する必要があった[30]。実際には伝統的とされた考古学者たちはニューアーケオロジーの特定の面を批判していたにすぎず、ニューアーケオロジーの素地はすでにアメリカ考古学界で1950年代に生じていた[29]。他方でニューアーケオロジー内部にもいくつもの異なる立場が存在したが、初期にはそれらが「新しい考古学運動」として未分化のまま一括されていた[23]

ビンフォードは1962年の「人類学としての考古学」と1965年の「考古学的系統分類学と文化プロセスの研究」という2本の論文で、考古学の目標が人類の文化的行動の類似性・差異性を説明することであり、そのために人間行動を文化システムに関連付けることを提唱した[31]。ビンフォードは、文化を「人間による適応への身体外的手段」と考え、文化システムに起こる変化は外的刺激に対する適応反応[注釈 1]として解釈する[31]。ビンフォードの貢献のうち筆頭に掲げられるべきものは、物質文化の「あらゆる相似」は決定的ではなく、考古学的データの解釈にあたっては特定形式の人間行動と特殊なタイプの物質文化との恒常的な相関関係を実証しなければならないとしたことである[33]。このような実証主義的な認識論からは演繹的アプローチが必要とされ、相似はあくまでも「検証されるべき仮説の源泉」にすぎないと考えられた[33]。そこで、カール・グスタフ・ヘンペルの厳格な被覆法則モデルが参照された[34]。しかし、ヘンペルの演繹法則的(D-N)モデルは法則性に過度に依存するので実用性に乏しく[35]、「ほとんど実を結ぶことがなかった」[36]

ビンフォードらは通文化的な斉一性を求める自身の研究を科学的であるとする一方で、編年・記述・偶発事件を扱う個別主義的な歴史研究を非科学的とみなして距離をおいた[37]。このような考え方のために、規則性から外れるような文化変化の重要な側面への関心を損なってしまった[37]。また、彼らは生態学的要因を重視するために、特殊な心理的要因を付帯的側面とみなし解釈から排した[37]

ビンフォードはフランソワ・ボルド英語版とのムステリアン論争のなかで人工物の相違の意味を解釈する方法論に関心をもった[38]。石器組成の差を活動内容の差によるものと考えたビンフォードは、まず使用痕分析によって石器の機能を特定することを考えたが、当時は使用痕分析がまだ分析の糸口についたばかりで方法論が深化していなかった[39]。次にボルドと協力してコンブ・グルナル遺跡英語版の調査資料を詳細に分析し一定の成果を上げたものの、解釈が資料の分析から直接は生まれないことを改めて認識する結果となった[40]。これによりビンフォードは民族考古学的調査へ進むこととなった[41]。(→#1970年代の動向

ほかにこの時期の研究として、ジェイムズ・N・ヒル英語版ウィリアム・ロングエーカー英語版による土器から過去の居住パターンを推測する研究もある[42]。土器の分布から妻方居住婚やその他のパターンを区別しようとする試みであったが、初期の土器社会学の試みには考慮されていない状況がいくつもあり、ビンフォードが期待した水準には届いていなかった[43]

プロセス考古学の特徴の一つとされるシステム論を先史考古学に導入した提唱者はケント・フラナリー英語版である[44]一般システム理論は生物学者のルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィが提唱した概念で、フラナリーはこれを考古学に適用することで生態学的に引き起こされる文化変化をうまく説明できると考えた[44]。システム論によって構造精密化・形態形成プロセスを考慮することが可能になり、考古学者は社会人類学者が伝統的におこなっていた静態構造分析の限界を乗り越えることができた[45]フィードバックはとくに物品・情報・エネルギーの移動から測定された[45]。フラナリーの初期の研究は適応よりも管理運営が、生態学的アプローチよりも機能的アプローチが重視されるようになっていくものの、文化変化をシステム的に研究することを求めていたビンフォードの欲求によく親和した[46]

アメリカのプロセス考古学者とは無関係に、イギリスではデヴィッド・クラーク英語版が考古学の変革を企図した[47]。クラークは「物質文化に関する新たな科学」の創出をもくろみ、おもに人工物を対象に複雑な統計分析をもちいて多様な観点から解釈することを試みた[47]。クラークによる人工物の体系的分類法は文化史的な方法論と継続的で、ビンフォードに機能的アプローチであるとして批判された一方でソヴィエトの考古学者には極めて高く評価された[48]。クラークは発掘調査から報告書の完成までに5つの理論群による解釈上の跳躍があると考えた[48]。第1に「堆積前と堆積の理論」、第2に「堆積後の理論」、第3に「回収の理論」、第4に「分析の理論」、第5に「解釈の理論」であり、このそれぞれの理論群を整理し発展させていくべきだと主張した[49]

1970年代以降の動向

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ニューアーケオロジーの考え方は1970年代には学界の主流となり、運動としては沈静化した[5]。もはや「ニュー」ではなくなったそれらの考え方や方法をもつ研究は「プロセス考古学」と呼ばれるようになっていく[5]。他方で、しかしベトナム戦争での失態などによりアメリカの状況が変化すると、平等主義の先史時代から環境破壊・核の危機の現代という悲観的な文化進化観が展開されるようになっていき、考古学でも従来の新進化主義理論への疑問が蓄積されていく[50]。このような状況下、多様なアプローチが展開されるようになると基本理念についても意見の齟齬が発生するようになっていった[44]。上述のとおりそもそもニューアーケオロジーはその初期から複数の立場を内部に抱えていたが、しだいに法則の定式化を目指す「法と秩序派」と、システム論を重視する「セラタン派」という少なくとも2方向のアプローチが顕在化してきたとされる[51]

ボルドとのムステリアン論争を経たビンフォードは民族考古学への志向を強め[40]、1969年から1973年にかけてヌナミウト英語版の調査を実施するにいたった[41]。民族考古学や実験考古学など、静止した考古資料の意味付けをおこなって過去の動態に結び付けるための研究は、ビンフォードによってミドルレンジセオリー英語版(中範囲理論)と名付けられた[52][注釈 2]。1970年代以降のビンフォードはニューアーケオロジーという「反乱の旗手」からミドルレンジセオリーの「不器用な建設者」へと方向性を転換したと言われている[54]。現代の規則性から過去を説明するには、現在観察可能な人間行動と物質文化の法則性が過去の考古記録の形成においても同様に働いていたとみなす「斉一説の仮定」の適用が前提とされた[55][56]。斉一説の仮定にはいくつもの難点があったが[56]、ビンフォードはこの仮定を相当に広く適用した[55]

文化システム内部に強い規則性が存在するならばシステムの一部分が全体を代表するだろうとの考えから、プロセス考古学者たちはサンプリング方式を駆使した戦略的な発掘調査を試みるようになる[37]。しかしウィリアム・サンダース英語版らによるメキシコ渓谷の調査やロバート・アダムズ英語版によるメソポタミアのセトルメントパターン研究からは、むしろ一部分の調査では地域全体の多様な状況を理解することができないことが露呈し始めた[57]

システム論を考古学に導入したフラナリーはさらにシステム的アプローチを推進したが、ここでも変化の原因がかなり多数であるという状況が判明してきた[58]。彼はたくさん存在する変化の要因よりも考古資料に現れるシステム的変化の「タイプ」に関心を向け、「プロモーション」、「線形化」という類型を提示した[59]。ビンフォードが想定していたよりも社会文化的な差異が存在することに注目されるようになるともはや単線進化論だけでは不十分になり、フラナリーらシステム分析者たちは類似性だけでなく差異にも注目するようになっていった[60]。さらにフラナリーは生態学者ロイ・ラパポート英語版の影響で変化の要因として信念や認知というファクターに関心を向けるようになる[60]

また、考古学的調査の主目的が文化システムなのか社会行動なのかについてもプロセス考古学内部で意見の不一致があった[60]。ビンフォードは自身が文化システムの研究をしていると主張しつつも観念を重視せず、「観念は人間の活動を促進するが、その決定になんらの役割もはたさない」と考えた[60]。そのような考察は行動主義の流行とともに、先史時代の文化ではなくその社会を研究する研究者の出現を促した[60]コリン・レンフルーチャールズ・レッドマンがプロセス考古学の立場から社会考古学的アプローチを最初に提唱した[60]。彼らは文化システムよりもそのサブシステムの1つにあたる社会システムのほうが現実に即していると考えた[61]。レンフルーは、プロセス考古学が人間行動の一般法則の追究を目的とすることには慎重であり、その実証主義的な思考をプロセス考古学の主要な特徴であると考えた[62]。レンフルーは文化システムのサブシステムの区分についてもビンフォードと異なる意見を提出している[61]

社会考古学と並んで行動考古学英語版も専門化が進んだ[61]。行動考古学は「考古記録をうみだすシステム的コンテクストと考古記録とは全然ちがう」という認識からスタートしており、マイケル・ブライアン・シファー英語版は考古資料と特定の人間行動との「相関」、遺跡を形成する「文化的形成過程」(人為変換)および「非文化的形成過程」(自然変換)という3つの要因群を解明することで過去の人間行動を正しく理解できると考えた[63]。そのような遺跡形成過程の研究からは、人工物は製作・使用より廃棄の場で多く発見されることが認識され、ウィリアム・ラスジェ英語版によるアリゾナ州での「ツーソン・ゴミ・プロジェクト英語版」などの民族考古学的な調査がおこなわれた[63]

批判と応答

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プロセス考古学に批判的な議論の登場は1971年に開催された「文化変化の説明」に関する会議でのエドマンド・リーチによる警鐘がすでに指摘していた[64]。プロセス考古学に対する代替案を掲げる考古学者たちは、イギリスの社会人類学ポストモダニズム、そしてアメリカの「新たな文化人類学」に影響を受けていた[65]

ポストプロセス考古学

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1980年代初頭から、イアン・ホッダーを旗手とするポストプロセス考古学英語版派が徹底的なプロセス考古学批判を開始した[66]。客観性を重視したプロセス考古学に対し、ポストプロセス考古学は解釈に研究者の主観が混じることを指摘した[67]。ポストプロセス考古学は一党的な学派を形成することはなく[68]、特にアメリカではプロセス考古学を「塗り替える」というよりは「補填する」アプローチであったと評価されている[69][70]

応答とその後

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レンフルーは1980年代になると認知=プロセス考古学として知られる人間の認知的側面に関心を寄せた研究を発表するようになっていった[71]。ホッダーらによるビンフォードへの直接の批判からわずか半年後にレンフルーが認知考古学を提唱したことについては、背後にビンフォードとのやりとりを推測する説もある[72]。のちには「過去の人間の思考」を復元することよりも「人間の象徴的・認知的能力の進化」に関心を向けるようになっていく[71]

その他、ダーウィン主義考古学、進化生態学、また認知に限らずヒトの脳や内分泌系の働きと人間行動を関連づける「生物学的考古学 biological archaeology」などの理論が提唱され、議論されてきている[73]

2000年には英語圏の考古学界ではもはやプロセス対ポストプロセスといった二分された状態はなくなっていた[74]。2020年代現在では、自身をプロセス考古学者であるとか、ポストプロセス考古学者であるというように自認する考古学者はほとんどいなくなっている[75]。イギリスでは1990年代末にはポストモダンとともにポストプロセス考古学は退潮し、アメリカでももはやプロセス考古学やポストプロセス考古学は議論のテーマではなくなっている[76]。ただし現在でもプロの考古学者はこれらの議論を知っておくべきで、アメリカなどではこうした文化の「ソフト面」に言及がない論文が一流専門雑誌に掲載されることは期待できないという状況がある[77]

代表的な著作

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脚注

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注釈

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  1. ビンフォードは文化を「技術的 technomic」、「社会技術的 socio-technic」、そして「思想技術的 ideo-technic」という3つのサブシステムで構成される適応システムとみなした[32]
  2. ミドルレンジセオリーは、前述のデヴィッド・クラークによる「解釈の理論」にほぼ相当する[53]

出典

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  1. 阿子島 1999, p. 148.
  2. 阿子島 1999, pp. 148–149.
  3. 阿子島 1999, pp. 149–150.
  4. 阿子島 1999, pp. 150–151.
  5. 1 2 3 4 阿子島 1999, p. 150.
  6. 1 2 トリッガー 2015, p. 171.
  7. トリッガー 2015, pp. 171–172.
  8. トリッガー 2015, pp. 172–173.
  9. 1 2 トリッガー 2015, p. 176.
  10. トリッガー 2015, p. 177.
  11. トリッガー 2015, pp. 177–178.
  12. トリッガー 2015, p. 227.
  13. トリッガー 2015, p. 228.
  14. 1 2 3 トリッガー 2015, p. 229.
  15. トリッガー 2015, p. 230.
  16. 1 2 トリッガー 2015, p. 233.
  17. トリッガー 2015, p. 254.
  18. トリッガー 2015, p. 255.
  19. トリッガー 2015, p. 276.
  20. トリッガー 2015, p. 268.
  21. トリッガー 2015, pp. 268–269.
  22. トリッガー 2015, pp. 270–271.
  23. 1 2 3 阿子島 1983, p. 172.
  24. トリッガー 2015, p. 280.
  25. トリッガー 2015, p. 283.
  26. トリッガー 2015, p. 294.
  27. トリッガー 2015, p. 296.
  28. トリッガー 2015, pp. 283–284.
  29. 1 2 トリッガー 2015, p. 284.
  30. 溝口 1997, p. 61.
  31. 1 2 トリッガー 2015, p. 285.
  32. 阿子島 1983, p. 174.
  33. 1 2 トリッガー 2015, p. 289.
  34. トリッガー 2015, pp. 289–290.
  35. レンフルー & バーン 2007, pp. 483–484.
  36. 阿子島 1999, p. 154.
  37. 1 2 3 4 トリッガー 2015, p. 290.
  38. 阿子島 1983, p. 177.
  39. 阿子島 1983, pp. 177–178.
  40. 1 2 阿子島 1983, p. 178.
  41. 1 2 トリッガー 2015, p. 293.
  42. トリッガー 2015, p. 291.
  43. トリッガー 2015, pp. 291–293.
  44. 1 2 3 トリッガー 2015, p. 303.
  45. 1 2 トリッガー 2015, p. 304.
  46. トリッガー 2015, pp. 304–306.
  47. 1 2 トリッガー 2015, p. 311.
  48. 1 2 トリッガー 2015, p. 312.
  49. 阿子島 1983, pp. 178–179.
  50. トリッガー 2015, pp. 297–298.
  51. 阿子島 1983, pp. 173–174.
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  55. 1 2 阿子島 1983, p. 182.
  56. 1 2 トリッガー 2015, p. 301.
  57. トリッガー 2015, pp. 290–291.
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  59. トリッガー 2015, pp. 306–307.
  60. 1 2 3 4 5 6 トリッガー 2015, p. 307.
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  66. 植木 2021, p. 249.
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参考文献

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  • 阿子島香 著「ミドルレンジセオリー」、芹沢長介先生還暦記念論文集刊行会 編『考古学論叢1』東出版寧楽社、1983年、171-197頁。 
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  • 阿子島香 著「プロセス考古学」、安斎正人 編『用語解説 現代考古学の方法と理論1』同成社、1999年、148-159頁。ISBN 4-88621-174-7 
  • 阿子島香、溝口孝司 監修『ムカシのミライ:プロセス考古学とポストプロセス考古学の対話』勁草書房、2018年。ISBN 978-4-326-24849-0 
  • 安西正人『理論考古学:モノからコトへ』柏書房、1994年。ISBN 4-7601-1122-0 
  • 植木武 著「訳者あとがき:3学派比較と回顧」『過去を探究する:考古資料解読の方法と実践』ビンフォード, ルイス R.(植木武ほか 訳)、雄山閣、2021年(原著2002年)、237-297頁。ISBN 978-4-639-02766-9 
  • トリッガー, ブルース G.(下垣仁志 訳)『考古学的思考の歴史』同成社、2015年(原著2006年)。ISBN 978-4-88621-689-2 
  • 溝口孝司「考古学的研究の基本構造に関する一試論:欧米考古学を主要な素材としての分析と提言」『考古学研究』第44巻第1号、1997年、51-71頁。 
  • レンフルー, コリン、バーン, ポール(池田裕、常木晃、三宅裕 監訳)『考古学:理論・方法・実践』東洋書林、2007年。ISBN 978-4-88721-715-7