ビルマ族(ビルマぞく、ビルマ語: ဗမာလူမျိုး英語: Bamar)は、東南アジアのミャンマーにおいて人口の約7割(約68%)を占める主要民族である。民族区分としてはシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、ミャンマーの公用語であるビルマ語を母語とする。

ビルマ族
ဗမာလူမျိုး
ビルマ族の女性(1920年代撮影)
総人口
不明
居住地域
ミャンマーの旗 ミャンマー34,600,149人
タイ王国の旗 タイ1,000,000人
シンガポールの旗 シンガポール50,000人
言語
ビルマ語
宗教
上座部仏教
関連する民族
ラカイン族,Marma族英語版,Chakma族英語版イ族ナシ族チベット民族

主にミャンマー中央部のエーヤワディ川流域(乾燥地帯からデルタ地帯)や沿岸部に居住しており、同国の政治、経済、文化において歴史的に主導的な役割を果たしてきた。ミャンマーという国名自体も、このビルマ族の自称である「バマー」の文語体「ミャンマー」に由来する。

人種的にはモンゴロイドに分類され、9世紀頃に現在の中国雲南省付近から南下し、現在の居住地に定着したと考えられている。人口の約9割が上座部仏教を信仰しており、その文化や生活様式は仏教、および伝統的な精霊信仰であるナッ信仰と密接に結びついている。また、伝統的には名字(姓)を持たない慣習がある。近隣諸国のタイやシンガポールなどにも、労働や移住に伴う大きなコミュニティが存在している。

基本情報

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名称

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現在では「ビルマ族」という呼称はビルマ族、「ミャンマー人」という呼称は、特定の民族集団だけでなく、ミャンマーの国籍を有するすべての民族を包括した国民を指す言葉として定着している。

民族構成

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ミャンマー政府が公認する135の民族(タインインダー)のうち、ビルマ系列には以下の8つの主なサブグループが存在すると分類されている[1]

  • ビルマ(Bamar)
  • タウェイ(Dawei / Tavoyan)
  • ベイ(Beik / Merguian)
  • ヨー(Yaw)
  • イェベイン(Yabein)
  • カドゥー(Kadu)
  • カナン(Ganan)
  • サロン(Salon / Moken) ※いわゆる「モーケン族(海の民)」
  • ポン(Hpon)

名前

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伝統的に「姓(名字)」を持つ習慣がなく、名前のみで個人を識別する。必要に応じて、両親のいずれかの名と自分の名を併用することもある。便宜上、自分の名の一部を姓のように用いる者もいる。また、名を付ける際には、その子が生まれた曜日に基づいて頭文字を決めることが多い。名前はビルマの七曜制や月名、地名などに由来して付けられることが多いため、同じ名前を持つ者も少なくない[2]

外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められるような状況)で、便宜的に後述する敬称や尊称や謙称を使って、苗字とする場合もある。男性敬称のウー(ウ)や女性敬称のドオ(ドー)が用いられ、国連事務総長を務めたウ・タントなどがその例である。ビルマ語でのウーは英語のミスターなどと違い、自称もされる[3]

従来はタンのような1語やバー・モウなどの2語の名がほとんどであったが、独立後からアウン・サン・スー・チーのような4語や5語の名前が見られるようになった。名前を表記する場合は、語の間に空間や「・」を入れて表記するが、あくまで便宜的なもので発音はつなげて行う。「アウン・サン・スー・チー」を例にとれば、区切りを意識せずに「アウンサンスーチー」と1語として呼称することが一般的であり、一部の華僑のように英語名がない限り一部だけを読むことはない[4]

敬称

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出典[5]

  • ウー(U)、コー(Ko)、マウン(Maung) はいずれも「ミスター」に相当する呼称で、呼ばれる男性の地位や年齢、話し手との関係によって使い分けられる。例えば、ヌという男性の場合、母親からは マウン・ヌ、友人からはコー・ヌ、公式の場や部下からはウー・ヌと呼ばれる。
  • 女性の場合は、ドー(Daw)と (Ma) が同様に使われる。例えば、ドー・アウンサンスーチーは正式な呼称であり、マ・アウンサンスーチーは彼女が若かった頃や友人から呼ばれる場合に使われた呼び方である。
  • ボー(Bo) とボーム(Bohmu) は軍人の階級称号だが、しばしば市民生活でも使われる。また、ボージョー(Bogyoke) は「最高指導者」や「首長」を意味し、単なる軍階級としての「将軍」よりも敬意の強い表現である。
  • タキン(Thakin) は1930年代の若いビルマ族の民族主義者たちが使った称号(例:Thakin Than Tun)で、「主人」を意味する。この言葉はもともとイギリス人のために使われていたが、ビルマ民族主義者たちは自分たちこそが自国の本当の主人であることを示すためにこの称号を用いた。初期のビルマ民族主義運動のメンバーだったビルマ共産党(CPB)の指導者の一部も、タキンと呼ばれている。

居住

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主にミャンマー国内のエーヤワディ川流域(中央部の乾燥地帯〈アニャー〉からデルタ地帯)に居住している[6]。他にもタイ、シンガポール、日本のなどに大きなビルマ族コミュニティがある。

人口

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内務省総務局(GAD)の2019年報告では、ミャンマー国内に住むビルマ族は、3460万149人となっている[6]

言語

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ビルマ文字

ビルマ族の母語であるビルマ語は、系譜的にはシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属し、中国雲南地方のロロ語などとともにビルマ・ロロ語群を形成している。ミャンマー連邦の総人口の約7割を占めるビルマ族の第一言語であるとともに、他民族にとっても共通語(リンガ・フランカ)として機能しており、国内全域で通用する公用語としての地位を確立している[7]

言語的な特徴としては、単音節語を基本とする声調言語であり、低平、高長、下降、促音の4つの声調によって意味を区別する。語順は日本語と同じく「主語・目的語・動詞」の順(SOV型)であり、助詞によって格を示す点でも類似しているが、否定表現が動詞の前に付加される点や、形容詞に活用がなく名詞の後ろに置かれる点など、独自の文法構造も有している。また、古くから上座部仏教の聖典言語であるパーリ語サンスクリット語、さらには英語中国語アラビア語などからの借用語を豊富に取り入れ、抽象概念や近現代の語彙を拡張してきた経緯を持つ[7]

表記に用いられるビルマ文字は、南インド系のパッラワ文字を起源とするモン文字を借用して作られたもので、1113年の「ミャゼーディー碑文」がビルマ語による最古の文字記録として知られている。現代のビルマ語には、公的な場や報道、教科書などで用いられる厳格な「文語体」と、日常会話や一部の現代小説で用いられる「口語体」という二重構造(正書法と発声の解離)が存在しており、1960年代にはこれを一致させようとする言文一致運動も展開されたが、依然として公的な場では文語体が主流となっている[7]

宗教

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シュエダゴン・パゴダ

ビルマ族の精神的基盤は上座部仏教にあり、その歴史的景観はパガンの仏塔群やマンダレーの三蔵経刻石板、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダといった象徴的な建造物に体現されている。現代の僧団(サンガ)組織は1980年の公式な全宗派合同会議を経て、主流派のトゥダンマ派や規律を重視するシュエジン派を含む計9宗派が国家の組織体系と密接に連動する形で正式に認定されている。仏教は単なる信仰の対象にとどまらず、ビルマ語そのものが経典学習の媒介となるなど、国家的なアイデンティティと強く結びついている[8]

ポッパ山

その一方で、ビルマ族の宗教世界は重層的であり、制度宗教としての仏教(バーダーイェイ)と、土着の精霊や超自然的力に対する信仰(コーグェフム)が日常生活において矛盾なく融合している。精霊「ナッ」への信仰はその代表例であり、帝釈天のような仏教由来の天神から、竈や樹木に宿る精霊、さらには非業の死を遂げて霊となった実在の人物まで多岐にわたる。各家庭では東南の角にココヤシを吊るして家の守護神「マハーギリ」を祀る習慣があるほか、特定の家系で継承される「ミザイン・パザイン」と呼ばれる精霊信仰も根強い。都市部では職業化された霊媒(ナッガドー)を通じて商売繁盛や昇進を祈願する傾向が強く、マンダレー近郊のタウンビョン祭りは全国から霊媒と信者が集まる最大の祝祭となっている[8]

また、錬金術や占星術を通じて超自然的な力を獲得し、物質世界の限界を超えた存在を目指す「ウェイザー」信仰も広く浸透している。ボーボーアウンやボーミンガウンといった著名なウェイザーは、現世的な願望を叶えてくれる聖者として、仏壇にその写真や像が飾られることも珍しくない。こうした信仰は、仏教を頂点とするヒエラルキーの内部に組み込まれており、占星術に基づく厄払いや四要素(土火風水)の均衡を重んじる伝統医療、さらには「呪術による病(パヨーガ)」の治療を行う「上道の師」の活動などと相まって、ビルマ族独自の死生観や身体観を形成している[8]

生業

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伝統的には農業(特に米作)が中心だが、現在はミャンマーの政治、経済、軍事のあらゆる分野で中心的な役割を担っている。

歴史

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ビルマ族の祖先は、現在の中国雲南省付近に居住していたチベット・ビルマ系の部族とされる。9世紀頃、南詔の侵攻によって先住のピューの都市国家群が崩壊した混乱に乗じ、ビルマ族の集団はエーヤワディ川流域を南下して定住を始めた。その後、中央ビルマのカウッセ地方を拠点に農業基盤を固め、急速に勢力を拡大させた[9][10]

11世紀、アノーヤター王パガン王朝を樹立し、ビルマ族による最初の統一国家が形成された。この時期に上座部仏教が受容され、ビルマ文字の原型が作られるなど、現代に続くビルマ族の文化的アイデンティティが確立された[11]

13世紀にパガン王朝が崩壊した後は一時的に小国家が乱立したが、アヴァ王朝が文化の中心地となり、その後のタウングー王朝コンバウン王朝を通じて、周辺のモン族シャン族などを支配下に置く強大な帝国を築き上げた。これにより、現在のミャンマーの版図の基礎が作られた[12]

19世紀、英緬戦争に敗北したことでコンバウン王朝が滅亡し、ビルマ族による王政は終焉を迎えた。英国による植民地支配下(英領ビルマ)では、伝統的な社会構造が大きく変容したが、ビルマ族を中心とする民族主義運動が高まり、1948年に独立を果たした[13]

独立後は国民国家の主体民族として政治・軍事の中心を担っているが、周辺の少数民族との間ではミャンマー内戦と呼ばれる長期にわたる紛争が続いている[14]

文化

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旗とシンボル

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コンバウン王朝の国章

ミャンマー最後の王朝であるコンバウン王朝(18世紀〜19世紀)において、孔雀は国王の権威を象徴する国紋として採用された。ビルマの伝統的な観念では、孔雀は太陽と結びつけられており、尾羽を広げた姿は日輪(太陽)を表すとされている。王家は自らを太陽の末裔と位置づけていたため、孔雀はその正統性を示すシンボルだった。マンダレーの王宮や国王の玉座(孔雀の御座)、当時の硬貨や国旗にも孔雀のモチーフが描かれ、国家の繁栄と尊厳を象徴していた[15]

国民民主連盟(NLD)の党旗

植民地時代から現代にかけて、孔雀はビルマ民族主義民主化運動の強力なシンボルへと変化した。ここで重要なのが「戦う孔雀(Khut-daung)」というデザインである。 尾羽を扇状に広げる優雅な姿(Dancing Peacock)とは異なり、体を低く構えて尾を後ろに流し、今まさに敵に飛びかかろうとする攻撃的な姿勢の孔雀を著している。 1930年代の反英独立運動において、学生組織がこの「戦う孔雀」をシンボルに掲げた。その後、8888民主化運動や、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)の党旗にも採用され、不当な抑圧に屈しない「抵抗の意志」と「民主化への闘志」を象徴するようになった[15]

芸能

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ビルマ族の伝統的な芸能は、18世紀から19世紀のコンバウン王朝期に王室の庇護のもとで洗練され、1885年の王国崩壊後にその担い手たちが民間に散らばることで大衆的な娯楽として定着した。これらの芸能は、演劇、舞踊、音楽、糸あやつり人形が相互に影響し合う総合芸術としての側面を強く持っている[16]

「ザッダビン」と呼ばれる舞台芸能(演劇)は、もともと仏塔祭などで仏典物語(ジャータカ)を上演したことに起源を持ち、音楽、舞踊、創作劇を一体化させたものである。18世紀末にアユタヤ(タイ)から連れて来られた芸術家たちの影響を受け、ラーマ劇やイーナウン劇といった宮廷演劇がビルマ文化に適応する形で発展した。近代に入ると、ウー・ポーセイン(1882年 - 1954年)らによってカーテンやスライド照明といった西洋的な演出技法が導入され、商業的な興行としての地位を確立した[16]

アニェイン英語版」は座唱と舞踊を中心とした芸能であり、もとは宮廷で王に詩や歌を奏上する優雅な形式であったが、近代以降は女性の踊り手と「ルビェッ」と呼ばれる男性道化による掛け合いを主体とする形式へと変容した。滑稽な対話の合間に華やかでキレのある舞踊を披露するスタイルは、現在でも各種の行事で高い人気を博している[16]

ヨウッテー

また、「ヨウッテー英語版」と呼ばれる糸あやつり人形劇は、舞台を観客より高い位置に設置することから「高い芸能」と称され、王朝や世界観を象徴する28種の人形を用いて創世神話やジャータカが演じられる。人形の精巧な動きは人間の舞踊にも多大な影響を与えており、人形遣いと歌手、楽団が高い次元で調和する芸術性の高い芸能である。これらの伝統芸能は、独立後、政府による芸能コンクールの開催や文化大学の設置を通じて保存と継承が図られており、時代の変化に応じながら現代のビルマ社会においても欠かせない彩りとなっている[16]

美術

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文学

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ビルマ語の本

ビルマ文学の歴史は、11世紀のパガン王朝において上座部仏教の経典がもたらされたことを萌芽とし、それ以後、長きにわたり仏教聖典を題材とした韻文を中心に発展した。貝葉(タラバヤシの葉)に刻まれた古典文学の伝統には、王の功徳や戦記を記録する「モーグン」や、王子・王女の揺籃歌に王統の系譜を組み込んだ「エージン(史謡)」、さらには仏教叙事詩である「ピョ」など、独自の詩形が確立された。16世紀から18世紀のタウングー朝、コンバウン朝期には、出家者だけでなく在家の書き手も登場し、自然描写や恋慕の情を詠む抒情詩「ヤドゥ」が盛んに作られた[17]

18世紀末のコンバウン王朝期には、アユタヤ攻略によりもたらされたタイの叙事詩(ラーマヤナ等)がミャンマー語に翻案され、豪奢な宮廷演劇や詩劇「ヤガン」として結実した。19世紀に入ると、ウー・ポンニャのように現実の人間描写や諧謔を取り入れる作家が現れ、演劇はより現代的な色彩を帯び始めた。英領時代を迎えると、商業出版の普及や西洋文学の流入に伴い、韻文中心の伝統から散文の「近代小説」への劇的な転換が起きた。1904年にアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』を翻案した作品がベストセラーとなったのを皮切りに、ビルマ独自の価値観や生活を描く小説が登場し始めた[17]

1930年代には、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)の出身者らによって「キッサン(時代を模索する)文学」と呼ばれる新潮流が生まれ、ゾージーやミントゥウンらが、伝統的な修辞にとらわれない平易な文体で、現実の風景や人間の感情を生き生きと描いた。独立後は抗日文学や農村の貧困をテーマとする社会主義的な作品も多く発表されたが、現代においても、ダマセッチャー期から続く「文学者の日」の講演会などが伝統的な語りの精神を継承し、ビルマ族のアイデンティティを支える重要な文化基盤となっている[17]

祭り

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ビルマ族の生活は、ビルマ暦(太陰暦)に基づく「12季節の祭り」と呼ばれる一連の年中行事によって彩られている。これらの祭りの多くは上座部仏教の行事と密接に結びついており、功徳を積む(アミャ・ウェイデー)という宗教的行為が、地域の共同体を繋ぎ止める重要な社会的機能を果たしている[18]

テンジャンの様子。

1年のサイクルは、4月中中旬の新年前後に行われる「ティンジャン(水かけ祭り)」から始まる。これはインドに起源を持つ儀礼であり、地上に降りてくる帝釈天を水で清めて迎えるという意味を持つ。この期間中、街中では互いに水をかけ合って旧年の汚れを洗い流し、パダウの花が咲き誇る中で祝祭的な賑わいを見せる一方で、僧院で得度したり説法を聞いたりして精神を静める信仰的な側面も併せ持つ。5月(カソン月)には仏陀が生誕・成道・入滅した日を記念して聖なる菩提樹に水をかける「菩提樹水かけ祭り」が行われ、酷暑の季節に信仰心を呼び起こす[19]

7月(ワーゾー月)の満月の日からは、僧侶が移動を禁じられて修行に励む3か月の「雨安居(ワー)」が始まる。この期間は結婚や引っ越し、華やかな宴会を避けるのが伝統的な禁忌とされており、信徒たちは布薩の日に精進料理を食べたり、僧侶への寄進を重ねたりする。雨安居が明ける10月(ダディンジュ月)の満月の日には「ダディンジュ英語版(灯明祭)」が開催され、仏を天から迎えるために家々や寺院、役所などが美しくライトアップされ、ミャンマー全土が光に包まれる。続く11月(ダザウンモン月)には、僧侶に新調した僧衣を贈る「タザウンダイン英語版(カテイン祭り)」が各地域の僧院で行われ、地域住民が一体となって行列を作り、寄進の木(パディター・ピン)に衣や日用品を飾って賑やかにパレードを行うのが、ビルマ族の社会における最大の相互扶助と功徳の機会となっている[19]

衣装

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ロンジーを着用した2人の女性

ビルマ族の衣服文化の中心をなすのは、男女を問わず日常的に着用される「ロンジー」と呼ばれる筒状の腰布である。男性用のものは「パソー」、女性用のものは「タメイン」と呼ばれ、男性は腹部の中央で結び目を作り、女性は布を左右のどちらかに寄せて腰に巻き付ける形で固定する。ロンジーはミャンマーの熱帯気候や生活様式に極めて適合しており、歩幅に合わせた柔軟な動きが可能であるほか、水場での裾の調節や、汚れた際の着脱の容易さなど、実用性に富んだ民族衣装として広く普及している[20]

アチェイッ

伝統的な文様の中でも、波状の曲線が幾重にも重なる「アチェイッ」と呼ばれる模様はビルマ族を象徴するものであり、かつては王族や貴族のみが着用を許された歴史を持つ。現代においても、絹製のアチェイッは結婚式の新郎新婦や大学の卒業式、公式な式典などにおける最も格式高い正装(礼装)として重宝されている。男性の正装においては、白いシャツの上に「タイポン・インデー」と呼ばれる中国服の系統を汲む立ち襟の短い上着を着用し、頭部には「ガウンバウン」と呼ばれる鉢巻状の帽子を被るのが一般的である[20]

タナカをつけた少女。

また、ビルマ族独自の装いとして特筆すべきは、伝統的な化粧品である「タナカー」の使用である。これはミカン科の樹木であるタナカーの樹皮を石盤で摺りおろしたもので、洗顔後の顔や腕に塗布される。タナカーには日焼け防止や皮膚の冷却、虫除けといった実用的な効果があるとともに、頬に丸や葉の形を描くお洒落としても親しまれており、母から娘へとその使用法が受け継がれている。さらに、ビルマ族は金や宝石(ルビー、翡翠など)への愛着が非常に強く、指輪やネックレスとして身に付けることは、個人の美的な装飾であると同時に、有事の際の換金可能な財産保持の手段としての側面も持っている[20]

料理

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ビルマ族の食文化は、主食である米を中心に、酸味・塩味・辛味のバランスを重視するのが特徴である。隣接するタイ、インド、中国の影響を受けつつも、独自の進化を遂げている。代表的な料理は、モヒンガ (Mohinga)、ヒン (Hin)、ラペッ (Laphet)などである[21]

米の執着が強く、麺類などの軽食をいくら摂取しても、米を食べなければ「食事(ご飯)をした」とは見なさないほどである。1日の食事は、外食中心の軽い朝食と、自宅で調理された米と数種類のおかず(ヒン)を食べる昼食・夕食に大別される[22]

モヒンガー

朝食の代表格は、ナマズなどの魚で出汁をとったスープに米粉の麺(素麺状)を入れた「モヒンガー」であり、毎朝これを食べる人も多い。その他、鶏肉とココナッツミルクのスープを用いた麺料理「オンノ・カウスェ」や、煮豆を添えた炒飯、揚げパンと紅茶といったメニューが好まれる。都市部では早朝からこれらの麺類や軽食を供する店が賑わい、間食文化も非常に充実している[22]

昼食や夕食では、複数の段を重ねたステンレス製の弁当箱(ピントー)にライスとおかずを詰め、職場などで同僚と分け合って食べる光景が一般的である。ビルマ族の家庭内における食事マナーには、儒教的とも言える厳格な長幼の序が反映されており、これを「ウーチャーデー(敬意を表する)」と呼ぶ。具体的には、家庭内で最も目上の者(父親など)が最初に箸をつける(おかずを取り分ける)ことが絶対的な作法とされる。もし目上の者が不在であったり、食事の席にまだついていない場合には、あらかじめその人物の分を別皿に取り分けるか、あるいは大鍋から自分の皿に盛った後、その一部を再び鍋に戻す儀礼を行うことで、目上の者への敬意を示してから食事を開始する。この習慣は、家庭内で誰が最も尊敬されているかを象徴する重要な儀礼となっている[22]

ラペッ

また、ミャンマー独自のもてなしの文化として「ラペッ(発酵させた茶の葉)」が挙げられる。これは千切りにして発酵させた茶葉に、揚げた豆や干しエビ、ニンニクなどを和えたもので、食後の口直しや来客時、あるいは冠婚葬祭の際など、あらゆる場面で供される嗜好品である。かつての王朝時代には、裁判の判決が下った際に双方がラペを食べることで和解の印とした歴史も持つ。これと並んで、若者の間では少なくなったものの、キンマ(ビンロウの実をキンマの葉で包んだもの)を噛む習慣も、年長者を中心とした伝統的な嗜好品として根強く残っている[22]

脚注

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出典

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  1. Embassy of the Union of Myanmar, Brussels”. www.embassyofmyanmar.be. 2026年4月10日閲覧。
  2. Chan Myae Khine (2012年7月20日). Myanmar's Unique Naming System”. Global Voices. 2021年4月6日閲覧。
  3. 根本敬『物語 ビルマの歴史 王朝時代から現代まで』中央公論新社、2014年
  4. 名前の多様性”. 長崎新聞 (2019年5月23日). 2021年3月3日閲覧。
  5. Lintner 2024, pp. 8–9.
  6. 1 2 Ethnic Population Dashboard (英語). PonYate. 2026年4月14日閲覧。
  7. 1 2 3 伊東 2011, pp. 112–119.
  8. 1 2 3 伊東 2011, pp. 132–149.
  9. Myint-U, Thant (2006). The River of Lost Footsteps--Histories of Burma. Farrar, Straus and Giroux. ISBN 978-0-374-16342-6. pp51-52
  10. Brief History of Achang People. 民族出版社. 2008. ISBN 9787105087105.
  11. 石井 & 桜井 1999, p. 121.
  12. 根本 2014, p. 48.
  13. 石井 & 桜井 1999, p. 393.
  14. 泥沼化するミャンマー情勢の地政学的リスク”. 一般社団法人平和政策研究所. 2026年4月14日閲覧。
  15. 1 2 ミャンマー民主化運動をめぐる「記憶の詩学」”. ASAFAS. 2026年4月14日閲覧。
  16. 1 2 3 4 伊東 2011, pp. 158–168.
  17. 1 2 3 伊東 2011, pp. 112–130.
  18. ミャンマーの代表的なお祭り”. 2026年4月14日閲覧。
  19. 1 2 伊東 2011, p. 157.
  20. 1 2 3 伊東 2011, pp. 150–153.
  21. ミャンマー料理とは”. バダウ ~ミャンマーよもやま話~. 2026年4月14日閲覧。
  22. 1 2 3 4 伊東 2011, pp. 153–155.

参考文献

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  • 石井米雄、桜井由躬雄 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年。ISBN 4-634-41350-7 
  • 伊東, 利勝『ミャンマー概説』めこん、2011年。ISBN 978-4839602406 
  • 根本敬『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』中央公論新社、2014年。ISBN 978-4-12-102249-3 
  • Lintner, Bertil『The Golden Land Ablaze: Coups, Insurgents and the State in Myanmar』Hurst & Co.、2024年。ISBN 978-1911723684