グラーグ
グラーグ[2][3]、グラーク、グラグ(ロシア語:ГУЛАГ, ГУЛаг、ラテン文字表記:GULAG・GULag・Gulag、ロシア語での発音(IPA):[ɡʊˈlak]、イギリス英語での発音:[ˈɡuːlɑːɡ]または[-læɡ])は、ソビエト連邦の強制労働行政機関 Гла́вное управле́ние лагере́й (ラテン文字表記:Glávnoje upravlénije lageréj)の頭字語(略語)であり、「強制収容所の管理主任」を意味する[4]。グラーグとは労働収容所管理総局のことだが、強制収容所一般も意味する[5]。


レーニンによって設置され、スターリンが支配した1930年代から1950年代にかけて頂点に達した[6]。
グラーグには総計1800万人〜2500万人が収容され[7][8]、1930年から1953年の期間での推定死亡数は、少なくとも150万から170万人[7][9]、多い見積もりでは600万人という推計もある[7][8][9][10][11][12]。
概説
編集ソビエト連邦の内務人民委員部(NKVD)、内務省(MVD)などにあった強制労働収容所・矯正収容所の管理部門のこと。「収容所本部」(Главное управление лагерей, Glavnoe upravlenie lagerej)の略から来ている。 収容所そのものはラーゲリ(лагерь, lager')と呼ばれるが、ソ連国外では収容所を含めてグラグと呼ばれることが多かった。グラーグ(GULAG)のラーグ(LAG)とは、ラーゲリのことである[5]。
GPUが設置した当初の名称は、Главное управление исправительно-трудовых лагерей,ラテン文字表記: Glavnoje upravlenije ispraviteljno-trudovyh lagerej、「矯正労働収容所の管理部門」だった[4][13][14]。日本語では矯正労働収容所中央管理局とも訳される[15]。
強制収容所は、十月革命でソビエト政府を成立させたウラジーミル・レーニンの下で政府機関によって作られた[16][17]。この用語はまた、ヨシフ・スターリン時代の大粛清以降も含めて、ソビエト連邦内の強制労働収容所を指すのにも一般的に用いられている[18]。
第二次世界大戦中の戦争捕虜収容所(GUPVIが管理)、クラーク撲滅運動で「クラーク」(富農)と認定された人々の収容所(「特別居住地」)、強制移住を強いられた少数民族(ヴォルガ・ドイツ人、ポーランド人、コーカサス諸民族、クリミア・タタール人など)の収容所などソ連に存在した様々なタイプの強制収容所をも指すが、これは正式にはGULagに含まれない[19][20]。
グラーグは、はじめ1918年6月[21]に設置され、1934年に内務人民委員部(NKVD)に設置された[15]。
グラグは「強制収容所」と直接言及されるのではなく、「バイカル・アムール地方の西シベリアの産業育成」「建設や建築、大工事、労働力の移住と組織的な募集」といった婉曲的な表現で言及された[22]。
沿革
編集ロシア帝国時代
編集ボリシェヴィキ革命以後
編集ボリシェヴィキによる権力掌握(十月革命)後、拘禁所総局は人民司法委員会(NCJ)の管轄となった[25]。
1918年4月に拘禁所総局は閉鎖され、中央懲罰部に置き換えられた[26]。
1918年7月、新たな拘禁施設の創設に関する人民司法委員会の暫定指示において、次の二つの原則が提示された。
- 自給自足(囚人の労働による収入で、収容所の維持費用を賄う)
- 囚人の完全な再教育[26]。
1918〜1922年のソビエトロシアには、5種類の強制労働収容所が存在した。
- 特殊目的の強制収容所
- 一般的な強制収容所
- 生産収容所
- 捕虜収容所
- 配給収容所[27]。
NKVDの文書では「強制労働収容所」と「強制収容所」という用語がしばしば同義語として使用されており、また「集中労働収容所」という名称もあった[28]。さらに、必要に応じて、例えばタンボフ蜂起の鎮圧期間中には、臨時の野戦収容所が組織された[29]。
1929年まで、ソビエト連邦における強制収容所は、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国、ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国など各ソ連構成共和国の内務人民委員会の管轄下にあった。
ボリシェヴィキはソロヴェツキー修道院を閉鎖し、1923年にソロヴェツキー特別目的収容所を設立した。この収容所と政治犯収容所のみがOGPUの管轄下にあった。この時点では、囚人は刑務所の維持費を賄うための労働力として期待されていたに過ぎなかった。
1929年、ソロヴェツキー特別目的収容所での経験を活用し、労働者が行くのを忌避する場所に矯正労働収容所を設置することが決定された。
収容所での強制労働のうち、伐採は特に重要であった。木材は、当時のソ連の主要な輸出品の一つであり、伐採に従事する囚人は外貨を獲得する存在となり、第一次五か年計画の達成に不可欠であった[24]。
「矯正労働収容所」という名称は、1929年6月27日に開催されたソ連共産党中央委員会政治局の会合で初めて使用された[30]。
1929年7月11日、ソ連人民委員会議の決議「犯罪囚の労働利用について」により、2種類の拘禁施設が創設された。1つはOGPUの管轄下で、3年以上の懲役刑を宣告された者のための矯正労働収容所である。もう1つはNKVDの管轄下で、3年以下の懲役刑を宣告された者のための拘禁施設であり、彼らのために矯正労働植民地 (コロニー)が組織された。
1953年のスターリンの死後、矯正労働収容所の全国的規模が縮小され、1960年にはニキータ・フルシチョフにより一時閉鎖された。
その後1964年から1982年までソビエト連邦最高指導者であったレオニード・ブレジネフはグラグを「共産主義のもとでの熱意にあふれる労働」を体現するものと語り、グラグはボリシェヴィキの共産主義イデオロギーを国民に強要する重要な道具であることが確認され、存続されることとなった[22]。
ロシアの強制収容所は1991年まで存続した[21]。
旧ソ連構成国では、矯正労働植民地 (コロニー)が現在も使用されている。
「再教育」施設としてのグラーグ
編集グラーグは、肉体的かつ精神的に「階級の敵」を破壊することだけでなく、囚人を再教育するという全体主義イデオロギーを反映した制度でもあった[31]。
1918年7月、新たな拘禁施設の創設に関する人民司法委員会の暫定指示において、「囚人の完全な再教育」が2大原則の内の一つとされた[26]。
グラーグの「再教育」施設としての側面についてフェリックス・ジェルジンスキーは強制収容所を、受刑者に矯正の機会を与える労働学校であるとした[32]。強制労働によって、自分の過ちを理解するために自省し、反体制的傾向を放棄させることを目的とした[32]。ドミトリー・ヴィトコフスキーの体験記によれば、収容所の目的は、懲罰というよりも再教育にあった[33]。
「労働による再教育収容所」の入り口には「労働は名誉、栄光、ヒロイズムである」「労働に励めば早期釈放される」と掲げられた[32]。また、ナチス・ドイツが設置したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の入り口にも「労働によって自由になる」と掲げられた。
受刑者zek
編集受刑者は、ロシア語でзаключённый (zakliuchyonnyi) と呼ばれるが、短縮されてз/к(zek,ZEK)と呼ばれた。これらZEKと呼ばれていた者の中には、第二次世界大戦の独ソ戦で捕虜になったドイツ人も、ソビエト体制への敵対者として含まれた[34][35]。またソ連対日参戦によりソ連に抑留された日本人も多数が収容所で過酷な労働・生活を強いられた[36]。
グラーグに収容されたものの大半は何の罪も犯していなかった[37]。ソ連の勝利に疑念を表明したものは「敗北主義」であるとして収容所10年の刑となり、コルホーズで人参一本を盗んでも、スターリンについての冗談をいっても有罪になり、外国人とやりとりするとスパイとされ、有罪になった[37]。
グラーグの例
編集
ソロヴェツキー修道院
編集トロツキーは人質収容のためとし、レーニンは売春婦を送り込むためとして、1918年7月から8月にかけて白海のソロヴェツキー諸島にグラーグが設置された[32]。
コルィマ鉱山
編集ヴォルクタ
編集オジョルスク
編集ノリリスク
編集ノリリスク強制労働収容所では1935年から1956年までに強制労働、飢餓、極寒のため16,806人が死亡した[40]。
ホルモゴルイ
編集ホルモゴルイ強制労働収容所(Холмогорский лагерь принудительных работ)には白軍将校、クロンシュタットの反乱船員、コサック、司祭、告発された農民など、8000人以上が死亡または行方不明になった[41]。
ホルモゴルイでは冬の気温はマイナス50度〜60度にもなるが、暖房はなく、朝食はジャガイモ1個、昼食は茹でたジャガイモ1個、夕食はジャガイモ1個だけだった[42]。肉やバターはもちろんのこと、パンや砂糖さえも配給されなかった。飢えに苦しんだ人々は、木の皮を食べた[42]。囚人は、切り株を根こそぎ引き抜いたり、採石場、木材運搬などの強制労働を強いられ、また家族との連絡を禁止され、手紙は棄てられた[42]。
1920年から1922年末まで毎日人々が処刑され、遺体はそのまま放置され、部屋の天井まで死体で積まれた[42]。ホルモゴルイに運ばれたクロンシュタットの反乱水兵2000人は3日間で処刑され、腐敗した死体の悪臭で囚人は苦しめられた[42]。
ホルモゴルイでは、1921年1月から2月にかけて11,000人が処刑された[42]。1921年、ピョートル・ヴラーンゲリ軍の4000人の将校と兵士が艀に乗せられ、ドヴィナ川で沈められ、溺れなかった者は射殺された[42]。首に石をくくりつけられたまま水に投げ込まれる水死刑であった[43]。1922年にも数隻の艀に囚人が積み込まれ、ドヴィナ川で沈められ、溺れなかった者(多くは女性)は、ホルモゴリ近くの島に下船させられ、機関銃で射殺された[42]。この島での大量殺戮はその後も長く続き、島では死体が散乱した[42]。ホルモゴルスク収容所は「死の収容所」と呼ばれた[42]。
トロフィモフスク島などのレナ川河口地帯
編集1942年から1947年にかけて、レニングラード州から強制移送されたリトアニア人とフィンランド人は、レナ川のデルタ地帯にあるトロフィモフスク島に監禁され、漁業加工の強制労働を課された[44]。生存者によれば半数が1941年から1943年に死亡した[44]。研究書では、13万人のリトアニア人被害者について掲載されている[45][44]。フィンランド人被害者は18,020人[46]、サハ共和国の犠牲者は9,675人とされる[44]。
402人が死刑判決を受け、追悼録と警察の記録には、3,860人の強制移住者について記されており、ウクライナ民族主義者が93人、401人のクラーク(富農)、746人のドイツ系ロシア人、430人はブルンスキー地区に送られ、37人はトロフィモフスク島で働いたと記されている[44]。
ヴィオレッタ・ダヴォリウテによれば、1939年から1941年の間にソビエトによって弾圧されたリトアニア人は29,250人、そのうち2,613人がユダヤ系だった[47]。1941年6月14日から18日まで17,500人のリトアニア人がソ連に強制送還され、334人のユダヤ人が逮捕され、男性385人が収容所に送還され、女性・子供・老人1660人が植民地に送還され、234人は不明である[47]。7,232人が1941年の夏にシベリアのアルタイ地方に到着し、1942年6月、ラプテフ海に接したレナ川河口にある極北地帯に送られ、漁業の強制労働を強いられた[47]。合計2,785人がリトアニアからトロフィモフスク、ティト・アリー島[48]など、レナ川河口、ラプテフ海沿岸に追放され、半数以上が死亡し、リトアニアに帰国できのは1,157人だった[47]。
さらに1945年からの強制移住で15万人以上のリトアニア人が犠牲になった[47]。
カザフスタン
編集ドイツ共産党幹部でコミンテルン機関紙の編集者だったマルガレーテ・ブーバー=ノイマンは1938年に逮捕され、カザフスタンのカラガンダとシェツキー地区ブルマの労働収容所に送られた[49][50]。1940年2月、マルガレーテはヒトラー・スターリン条約に伴うNKVD-ゲシュタポ協力の一環としてナチスのゲシュタポに引き渡され、ラーフェンスブリュック強制収容所に第二次世界大戦終結まで収容された[51]。
拷問
編集歴史学者リュドミラ・ノビコワ[52]によれば、赤軍と白軍双方が残虐な拷問と殺害を行った。パルチザンに捕らえられた赤軍の兵士は、裸の体に沸騰したお湯をかけられたり、体をバラバラに切られた[41]。赤軍は地元の司祭を殺す前に耳と手足を切り落とした。アルハンゲリスク州ピネガやペチョラ(コミ共和国・ネネツ自治管区)では、ボルシェビキは犠牲者を埋葬せず、遺体は氷の下に押し込み、また生きたままの囚人を同様に氷の下に押し込んで殺害した。氷点下の気温で穴は瞬時に凍り、体の一部が突き出ていたという[41]。
これらの地域の強制収容所での弾圧を指揮したチェカ特別軍事部門長官ミハイル・ケドロフは1941年にラヴレンチー・ベリヤによって粛清された[41]。
評価
編集レーニンをたびたび批判してきたマクシム・ゴーリキーは晩年スターリン支持者となり、1933年には「憎しみ、それは愛だ」とのべ、「チェキストたちが収容所で成し遂げたことこそ、本物のヒューマニズム、本物の人間愛だ」と語った[53]。
犠牲者数
編集グラーグでは釈放された場合もあり、また再収容された場合もあったが、これらを含めると、総計1800万人〜2500万人が収容された[7][8]。総計2870万人が収容されたともいう[32]。
ソロヴェツキー、ホルモゴルイ、ペルトミンスキー強制収容所では1920年2月から11月までだけで25,640人が処刑または飢餓と病気で死亡した[41]。ロシア北部でのボリシェヴィキによるテロの犠牲者数は、1920-1922年だけで10万人になるとも推定されている[41]
1930-53年の期間での推定死亡数は、少なく見積もっても150万から170万人とされる[7][9]。ローゼフィールドは現在の資料からは160万人が妥当な推計値とする[12]。また、270万人[54]、あるいは300万人[32]とも、600万人という死者数の推計もある[7][8][9][10][11][12]。
グラーグのルーツ
編集グラーグのルーツはフランス革命の恐怖政治にさかのぼる[55]。ギロチンは見せしめのために首を一気に切り落とすことで、大衆の反抗心を消し去った[55]。1793年8月から10月にかけてのリヨンの反乱では首謀者は処刑され、市民14万のうち11万5000人を懲罰のために強制移住することを革命政府は計画し、10月10日にサン=ジュストは公共工事に政治犯の労働力を利用することを提案した[55]。ジョゼフ・フーシェは1793年12月27日に「人間愛ゆえに、義務ゆえに多くの不純な血が流れた」と述べ、社会を壊疽から救うには腐った手足を切り落とすべきだと考えた[55]。
ロベスピエールの側近だったジャンボン・サン=タンドレは、若者から男の活力を奪っている売春婦の海外強制移住を提案したが、レーニンは実際に売春婦をソロヴェツキー諸島の強制収容所に送り込んだ[56]。
歴史博物館
編集犠牲者の体験記録
編集ヴァルラーム・シャラーモフは1929年にペルミ北部のヴィシェラ収容所で強制労働をさせられ、1932年に釈放。1937年に反革命罪で再び逮捕、1953年に釈放された。連作短編『コルィマ物語』[58]を遺した。
ドイツ共産党幹部だったマルガレーテ・ブーバー=ノイマンは1938年に逮捕され、カザフスタンのカラガンダとシェツキー地区ブルマの労働収容所で強制労働をさせられた。1940年にはヒトラー・スターリン条約によってゲシュタポに引き渡されラーフェンスブリュック強制収容所に拘留された。戦後、体験記『スターリンとヒットラーの軛のもとで 二つの全体主義』を出版し、共産主義とナチズムは実質的に同種のイデオロギーであると述べた[59]。
ポーランドの女性哲学者バルバラ・スカルガは、ナチと戦う非共産主義のレジスタンスだったが、1944年にソ連に逮捕され、「ファシズム」の罪で強制収容所10年の刑と終身流刑をいいわたされ、グラーグへ送られた[60][61]。スカルガはカウナス近郊のプラヴィエニシュキ強制労働収容所、ウフタ・イジェムスキー矯正労働収容所、カザフスタンペトロパブルのコルホーズなどで1955年まで強制労働を強いられた[60]。1985年、スカルガはグラーグ体験記『解放後 1944-1956』をペンネームで出版した[62][61][60]。スガルガは収容所ではジストロフィー、ペラグラ、結核が蔓延していたとし、「人殺し収容所はその他の犯罪者やガス室を必要としていなかった。人は生きている限り、動ける限り、有用だった」と書いた[63]。
リトアニア人医師ダリア・グリンケヴィチウテは1941年、14歳でトロフィモフスク島収容所に送られ、1日12時間の強制労働を強いられた。21歳で脱走し、母国に戻ったが、1951年に再びシベリアへ強制送還された。5年後に釈放され、医学を学び医者となった。原稿は庭に埋めて隠され、死後数年たって1991年に発見された[64]。グリンケヴィチウテは原稿が秘密警察等に見つかり、没収されることを恐れていた。ヴィータウタス大公戦争博物館によって1996年にグリンケヴィチウテの体験記は出版され、2018年に英訳『Shadows on the Tundra(ツンドラの影)』が出版された[65]。グリンケヴィチウテの記録は、プリモ・レーヴィ『これが人間か』やアンネ・フランク『アンネの日記』に並ぶ、記録文学の傑作とされる[66]。
アレクサンドル・ソルジェニーツィンは友人との文通でスターリンを批判したとして1945年に逮捕され、モスクワ特殊収容所、北カザフスタンのエキバストス強制収容所に収容され、南カザフスタンのコクテレク村に無期流刑となった[67]。1957年に名誉回復を受けたが、1973年に『収容所群島』をパリで出版すると翌年に逮捕され、西ドイツに強制追放後、アメリカに移住し、ソ連崩壊後に帰国した[67]。『収容所群島』はArkhipelag GULagが原題である[5]。
関連作品
編集ソビエトの反体制作家ゲオルギー・ヴラディーモフは小説「忠実なルスラン」で強制収容所の刑務官を描いた。ルスランは、強制収容所では人々は互いに無関心ではなく、一人一人を監視し、貴重な財だとみられていたと回想する。「人間の価値を愚行から守らねばならなかった。脱走して自分の価値を無駄遣いするものは、罰しなければならなかった。救済とは残酷だ。船を難破から救うのにマストを切り倒すように。外科医が病気の部分を切除するように。残酷な愛、残酷で血まみれの愛を与えるのがルスランの仕事だった」[68]。ヴラディーモフはソビエト連邦作家同盟を追放された。ウラジミール・イリイチ・フメリニツキーによって1992年に映画化された(Верный Руслан)。
ソ連の強制収容所とナチスの強制収容所
編集グラーグの生存者ポーランド人作家グスタフ・ヘルリンクは、コルィマ金鉱山の強制収容所への移送は、ナチの強制収容所への移送と同じだと述べた[43]。1937-53年まで同所にいたヴァルラーム・シャラーモフはすべての鉱山で、コルィマの「アウシュビッツ」に送り込む者のリストが作成されており、コルィマの強制収容所は「皆殺しのキャンプ」だったと証言している[43]。
ジャック・ロシは、共産主義とナチズムという二つの全体主義のうち、どちらが野蛮かを問う論争は無意味であり、どちらも排他的に一つの思想を強制し、死体の山を築いたと語る[69]。元受刑者のアロン・ガボールは「ソビエト社会の生活は収容所の生活とよく似ており、ソビエト市民と徒刑囚は双子である」とも語っている[70]。
ソ連の強制収容所とナチスの強制収容所とは、おぞましさの点で比較にならないという見解があるが、ソレジェニーツエンやシャラーモフは、おぞましさに序列をつけることは可能なのか、残酷さや苦痛が少ない死に方を決めることはできるのか、死体をほりおこして人肉をたべた挙句の餓死、銃殺、氷点下50度の凍死、病死、衰弱死のどれが穏やかでましなのか、と著作で問いかけた[43]。歴史学者ピエール=エティエンヌ・プノはソ連とナチスの収容所に序列をつけるのは無意味であるとしたうえで、アウシュビッツが映像で残っているのに対して、グラーグは写真もすくなく、証言による記憶しかないことも誤った印象を与えていると指摘する[55]。
ポーランドの女性哲学者バルバラ・スカルガの体験記が2000年にフランスで翻訳されたさい、話題とはされなかった[71]。スカルガの友人の哲学者シャンタル・デルソルは、「これがナチスの収容所の記録であればすぐに話題になっただろう。しかし、フランスでは、グラグを話題にすることには居心地の悪さがあり、人はすぐに目をそらしてしまう。フランスではロシアと共産主義者が好きなのだ」と語る[71]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ↑ Getty, Arch; Rittersporn, Gábor; Zemskov, Viktor (October 1993). “Victims of the Soviet penal system in the pre-war years: a first approach on the basis of archival evidence”. The American Historical Review 98 (4): 1017–1049. doi:10.2307/2166597. JSTOR 2166597.
- ↑ 内村剛介「ソ連行刑用語物語-2-二〇世紀は収容所の時代:計画的集団殺戮の組織-グラーグ」『日本及日本人』第1562号、J&Jコーポレーション、1981年4月、24-32頁、CRID 1521699230676700544、ISSN 0546-1138、国立国会図書館書誌ID:2256846。、
アプルボーム、川上洸訳「グラーグ―ソ連集中収容所の歴史」白水社 (2006)、『グラーグ』 - コトバンク、
村井淳「ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、どのように労働利用されたか」『研究論集』第91巻、関西外国語大学・関西外国語大学短期大学部、2010年3月、117-135頁、CRID 1390009224859274240、doi:10.18956/00006161、ISSN 0388-1067、NAID 110007531511。 - ↑ ヴェルト 2019.
- 1 2 Applebaum, Anne. Gulag: A History. Doubleday, 2003, pp. 50.
- 1 2 3 オーランドー・ファイジズ『囁きと密告――スターリン時代の家族の歴史』下巻(染谷徹訳、白水社、2011年)p538
- ↑ Applebaum, Anne. 2017. "Gulag: An Introduction." Victims of Communism. Archived from the original on September 5, 2017.
- 1 2 3 4 5 6 Healey, Dan (2018-06-01). “GOLFO ALEXOPOULOS. Illness and Inhumanity in Stalin's Gulag”. The American Historical Review 123 (3): 1049–1051. doi:10.1093/ahr/123.3.1049.
- 1 2 3 4 Figes, Orlando (2009年). “Ученый: при Сталине погибло больше, чем в холокост”. BBC News. 2022年4月15日閲覧。 “Хотя даже по самым консервативным оценкам, от 20 до 25 млн человек стали жертвами репрессий, из которых, возможно, от пяти до шести миллионов погибли в результате пребывания в ГУЛАГе. Translation: 'The most conservative calculations speak of 20–25 million victims of repression, 5 to 6 million of whom died in the Gulag.'”
- 1 2 3 4 Wheatcroft, Stephen G. (1999). “Victims of Stalinism and the Soviet Secret Police: The Comparability and Reliability of the Archival Data. Not the Last Word”. Europe-Asia Studies 51 (2): 320. doi:10.1080/09668139999056.
- 1 2 Alexopoulos, Golfo (2017). Illness and Inhumanity in Stalin's Gulag. Yale University Press. ISBN 978-0-300-17941-5
- 1 2 Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke: spravochnik. Moscow 2004: Russkaia panorama. ISBN 5-93165-107-1.
- 1 2 3 Steven Rosefielde. 2009. Red Holocaust Routledge. ISBN 0-415-77757-7. p. 67 "...more complete archival data increases camp deaths by 19.4 percent to 1,258,537"; pg 77: "The best archivally-based estimate of Gulag excess deaths at present is 1.6 million from 1929 to 1953."
- ↑ "Introduction: Stalin’s Gulag." GULAG: Soviet Labor Camps and the Struggle for Freedom. US: Center for History and New Media, ジョージ・メイソン大学
- ↑ "Gulag." History.com. A+Eネットワークス. 2018. Retrieved 23 June 2020.
- 1 2 ネイマーク 2012, p. 67訳註.
- ↑ Lenin's Gulag Richard Pipes, academic research journals Vol. 2, pp 140-146, June 2014
- ↑ Gulag: An Introduction by Anne Applebaum
- ↑ Remnick, David (2003年4月14日). “Seasons in Hell”. The New Yorker 2017年3月27日閲覧。
- ↑ Remnick, David (2003年4月14日). “Seasons in Hell”. The New Yorker 2017年3月27日閲覧。
- ↑ Applebaum, pp. 579–80.
- 1 2 3 プノ 2025, pp. 279–280.
- 1 2 プノ 2025, p. 302.
- ↑ ロシア帝国法典:Свод Законов Российской Империи. СПб., 1911. Т. 1. С.225–256; Т. 2. С.3425–3436, 3439–3443.
- 1 2 М. Джекобсон, М.Б.Смирнов (1998年). Н.Г. Охотин, А.Б. Рогинский: “Система ИТЛ в СССР”. old.memo.ru. Москва, Звенья. 2020年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月16日閲覧。
- ↑ Стучка П.И., Апетер И. Переход от принудительного труда по приговору суда к добровольному труду // Советское государство и революция права. 1931, № 7, с.124.
- 1 2 3 Центральным карательным отделом (ЦКО), ГАРФ. Ф. 4042. Оп. 8. Д. 1. Л.21.
- ↑ ГАРФ. Ф. 393. Оп. 13. Д. 1 в. Л.112.
- ↑ ГАРФ. Ф. 4042. Оп. 8. Д. 12. Л.37.
- ↑ ГАРФ. Оп. 2. Д. 1. Л. 71–75.
- ↑ Протокол заседания ПБ 27.06.1929 г. РГАСПИ. Ф.17. Оп.3. Д.746. Л.2,11.
- ↑ プノ 2025, pp. 281–282.
- 1 2 3 4 5 6 プノ 2025, p. 282.
- ↑ プノ 2025, p. 295.
- ↑ 吉田和比古「ドイツ社会文化論としてのビデオ・アーカイブス(2) : 過去をまなざしつつ,統一後の新たな再生へ向かって」『法政理論』第34巻第1-2号、新潟大学法学会、2001年11月、168-207頁、CRID 1050282814212676608、hdl:10191/14979、ISSN 0286-1577、NAID 120006742003。
- ↑ en:Order No. 270
- ↑ “戦後強制抑留者”. 平和祈念展示資料館(総務省委託). 2017年12月24日閲覧。
- 1 2 プノ 2025, p. 288.
- ↑ “単一産業都市の暮らしPart3”. ロシアNOW (2016年6月27日). 2017年1月7日閲覧。
- ↑ “地図から消され、世界から隠された旧ソ連の「閉鎖都市」”. natgeo.nikkeibp.co.jp. 世界の秘密都市 (2020年12月5日). 2021年5月25日閲覧。
- ↑ Elena Chernyshova,Days of Night, Nights of Day,Panos Pictures,2025年12月16日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 Наталья Голышева (Golysheva, Natalia). "Красный террор на Севере (北の赤色テロ)". Русская служба. BBC.2017年12月25日
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 Холмогоры,Виртуальный музей,Новомучеников и исповедников Земли Архангельской
- 1 2 3 4 プノ 2025, p. 283.
- 1 2 3 4 5 Trofimovsk NE Island,Forced labourers & settlers, (web archive),Russia’s Necropolis of Terror and the Gulag.
- ↑ Lietuvos gyventoju Genocidas; 3 vols. 1999-2009.
- ↑ Список репрессированных финнов,Инкери:Портал ингерманландских финнов
- 1 2 3 4 5 Violeta Davoliūtė,The entanglement of historical experiences: The memory of the Soviet deportation of Lithuanian Jews,Ethnologie française2018/2 Vol. 48,https://doi.org/10.3917/ethn.182.0209
- ↑ Tit Ary Island* Forced labourers & settlers,Russia’s Necropolis of Terror and the Gulag.
- ↑ “Days and Lives: Prisoners: Margarete Buber-Neumann”. Gulag History. 2020年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月11日閲覧。
- ↑ “Buber-Neumann, Margarete (1901–1989)”. Encyclopedia.com. 2002. 2018年5月12日閲覧.
- ↑ Brauer, Stefanie (2001年10月23日). “Zum 100. Geburtstag von Margarete Buber-Neumann: Ein aufrechter Gang”. Die Gazette. オリジナルの2018年5月13日時点におけるアーカイブ。 2018年5月12日閲覧。
- ↑ LIUDMILA NOVIKOVAには An Anti-Bolshevik Alternative: The White Movement and the Civil War in the Russian North,University of Wisconsin Press, 2018.SSSR vo Vtoroi mirovoi voine: Okkupatsiia. Kholokost. Stalinizm (第二次世界大戦におけるソ連:占領、ホロコースト、スターリン主義) Oleg Budnitskii共著(2014)などの著作がある。
- ↑ プノ 2025, p. 285.
- ↑ Pohl, The Stalinist Penal System, p. 131.
- 1 2 3 4 5 プノ 2025, p. 284.
- ↑ プノ 2025, pp. 284–285.
- ↑ “The GULAG History State Museum”. 2017年12月24日閲覧。
- ↑ 高木美菜子訳『極北コルイマ物語』朝日新聞社、1999年
- ↑ 『スターリンとヒットラーの軛のもとで 二つの全体主義』林晶訳、ミネルヴァ書房、2008
- 1 2 3 BARBARA SKARGA – A PHILOSOPHER IN EXILE,Muzeum Pamięci Sybiru.
- 1 2 プノ 2025, pp. 278–279.
- ↑ Barbara Skarga,Po wyzwoleniu (1944-1956)
- ↑ プノ 2025, p. 292.
- ↑ プノ 2025, pp. 286–7.
- ↑ Dalia Grinkevičiūtė;Grinkeviciute, Dalia (2018). Shadows on the Tundra. London: Peirene Press.
- ↑ マイケ・ツィアフォーゲルによる紹介文。 https://www.amazon.co.jp/Shadows-Tundra-Dalia-Grinkeviciute/dp/1908670444, https://www.peirenepress.com/shop/books/shadows-on-the-tundra/
- 1 2 『ソルジェニツィン』 - コトバンク
- ↑ プノ 2025, pp. 285–286.
- ↑ プノ 2025, p. 300.
- ↑ プノ 2025, p. 301.
- 1 2 プノ 2025, p. 279.
参考文献
編集- アプルボーム, アン 著、川上洸 訳『グラーグ——ソ連集中収容所の歴史』白水社、2006年。
- ヴェルト, ニコラ 著、根岸隆夫 訳『共食いの島——スターリンの知られざるグラーグ』みすず書房、2019年。
- ネイマーク, ノーマン・Ⅿ 著、根岸隆夫 訳『スターリンのジェノサイド』みすず書房、2012年。
- プノ, ピエール=エティエンヌ 著、神田順子 訳「全体主義の新人間製造工場として構想されたグラーグ」、クルトワ, ステファヌ 編『憎悪と破壊と残酷の世界史』 上巻、原書房、2025年。
- ロッシ, ジャック、ミシェル・サルド 著、外川継男 訳『ラーゲリのフランス人——収容所群島・漂流24年』恵雅堂出版、2004年。
外部リンク
編集- グラーグオンラインヴァーチャルミュージアム,Gulag.czと欧州連合エラスムス計画による共同サイト。
- GULAG: Many Days, Many Lives - ジョージ・メイソン大学
- Gulag: Forced Labor Camps, Online Exhibition - 中央ヨーロッパ大学ブリンケン・オープンソサエティ・アーカイブ
- Map of Memory: Russia's Necropolis of Terror and the Gulag
- "The Gulag in Northwest Russia, 1931-1960", Map of Memory (2016) - 「ロシア北西部の強制収容所、1931-1960年」 Russia’s Necropolis of Terror and the Gulag
- GULAG History Museum - モスクワグラーグ歴史博物館 (2024年11月一時閉鎖)Archived November 19, 2019, at the Wayback Machine.
- ヨーロッピアン・メモリーズ・オブ・グラーグ
- Sound Archives. European Memories of the Gulag - ヨーロッピアン・メモリーズ・オブ・グラーグによるグラーグ囚人へのインタビュー音声集(web archive)
- Gulag prisoners at work, 1936-1937 - ニューヨーク公共図書館デジタルギャラリーによるグラーグ囚人の写真集(web archive)
- Brutal! Drawings from the Gulag - ソ連の元刑務官ダンツィヒ・バルダエフ(Danzig Baldaev)によるグラーグ絵画(Youtube)