グエン・ソン
グエン・ソン(ベトナム語:Nguyễn Sơn、漢字:阮山、1908年10月1日 - 1956年10月21日)は、ベトナム民主共和国(現:ベトナム社会主義共和国)および中華人民共和国の軍人。ベトナム人民軍と中国人民解放軍の少将。

本名はVũ Nguyên Bác(武元博)。黄埔軍官学校時代は李英嗣、中国共産党での活動時は洪水と名乗った。
ベトナム人民軍の幹部育成のために、旧日本軍将兵を招聘して、ベトナム最初の士官学校、クァンガイ陸軍中学を創設したことでも知られる。
経歴
編集出自 - ヴォー・グエン・バック
編集黄埔軍官学校 - 李英嗣
編集八路軍 - 洪水
編集1927年12月、李英嗣は広州起義に参加した。起義の失敗後は香港、タイ等を転々とし、革命闘争を継続した。1929年1月、中国に再入国し、中国工農紅軍47団連指導員に任命され、広東省東江遊撃区で遊撃戦を行った。この時、「止まることなく、ひたすら前進する」意を込めて、李英嗣から洪水に改名した。
1931年、洪水は23歳で連指導員から紅102団政治委員、紅12軍第34師政治部主任を歴任した。1934年、瑞金で召集された中華ソビエト共和国第2次全国代表大会において、洪水は朝鮮人の畢士悌と共に、外国人で唯2名の中央執行委員会委員に選出されたが、外国籍であった洪水は、20元の「工農銀票」を紛失したことを口実に、党内の右傾機会主義分子から攻撃され、党から除籍されて、董必武が校長を務める党校の教育を受けることとなった。1935年初め、長征途中の遵義会議後、洪水は党籍を回復した。洪水は長征に参加した唯一のベトナム人でもあった。
中央紅軍と紅4方面軍の会合後、洪水は紅4方面軍総指揮の張国燾から「国際スパイ」呼ばわりされ、再び党から除籍された。この時、殺害される危険もあったが、朱徳総司令と劉伯承元帥に保護され、難を逃れた。1936年6月初め、戦闘中に撃破され、敵の包囲網を突破した洪水は、延安に辿り着いた。この後、毛沢東と党中央は洪水が冤罪だったことを認めて党籍を回復、彼を紅軍大学(後に抗日軍政大学に改称)第1期の学習に送った。洪水は教育終了後、八路軍政治部に配属され、鄧小平等と共に働き、「抗敵報」を創刊した。
1938年、洪水は閻錫山の讒言に遭って三たび党を除籍され、晋察冀軍政幹部学校の教員に左遷されたが、年末には党籍を回復した。
ベトナム人民軍 - グエン・ソン
編集第二次世界大戦終結後の1945年末、洪水はホー・チ・ミンの求めに応じ、祖国ベトナムに帰国した。この時からグエン・ソンの名前を使い始めた。正規の軍事教育と豊富な軍歴を有するグエン・ソンは重責を担い、ベトナム南方抗戦委員会主席兼南中部抗戦委員会主席、クァンガイ陸軍中学校長、ベトナム第4連区党委員会副書記、司令員兼政治委員の要職を歴任した。1947年1月30日、国防部軍訓局長に任命[1]。同年7月10日、第4戦区区長に任命[2]。
第一次インドシナ戦争時、グエン・ソンは、軍事的才能を発揮し、順化、平治開等の戦役で勝利を収め、根拠地の確立、部隊の発展に努めた。グエン・ソンが指揮する部隊が守る清化等の地は、ベトナム中部の解放区となり、フランス軍は敢えてこの地に侵入しようとはしなかった。石井卓雄少佐が軍政顧問として補佐している。グエン・ソンは、文筆家でもあり、芸術方面にも関心を有し、彼のいる第4区は、一種の「文化根拠地」ともなった。1948年1月1日付でホー・チ・ミンは、グエン・ソンにベトナム人民軍少将の階級を授与した[3]。
中国人民解放軍 - 洪水
編集帰郷・死去
編集パーソナル
編集家族
編集生涯で3度結婚し、8子(3男5女)を有し、その内、長男と次男は、2番目の妻により養育された。
2番目の妻、陳剣戈は中国人で、革命分子だった。彼女は、一人で2人の子供を育てながら、夫が前線から帰って来るの待っていたが、妻子が延安で爆撃により死亡したと知らされていたグエン・ソンは、新たな家庭を築いていた。
3番目の妻、黎恒熏はベトナム人で、書香門弟の出身。グエン・ソンの死去時、中国政府は遺族に3万元の手当を支給したが、彼女は全額をベトナム政府に寄付した。
- 長女 - 武清閣(ベトナム籍)
- 長男 - 陳寒楓(中国籍)
- 次男 - 陳小越(中国籍)
- 次女 - 阮梅林(ベトナム籍)
- 三女 - 阮清霞(ベトナム籍)
- 三男 - 阮剛(ベトナム籍)
- 四女 - 阮越紅(ベトナム籍)
- 五女 - 阮越恒(ベトナム籍)
叙勲
編集中国の一等八一勲章、一等独立勲章、一等解放勲章を受章。
関連項目
編集脚注
編集外部リンク
編集- 中越両国将軍阮山洪水(簡体字。2008年11月13日付「光明日報」)