光の国から来たヒーロー、ウルトラマンの第1話が放送されて、今月でちょうど60年を迎えた。生みの親である脚本家の金城哲夫さんが沖縄の出身だったことは、ファンの間ではよく知られた話だろう。
高校入学時に上京し、円谷プロで活躍しながらも、復帰前の沖縄に戻り、37歳で早世する。全力で駆けぬけるような人生については、いくつもの評伝や回想録が書かれた。
それらを読むうちに、気づいたことがある。哲夫の人生のある部分については、記述がかすみがかったようにぼんやりするのだ。
沖縄戦である。
生まれたのは1938年。本島南部で地上戦をくぐり抜けた時は6歳だった。幼いとはいえ、多くを目に焼き付けたのは間違いない。だが哲夫自身がその体験を語ったり記したりしたことは、ほとんどなかった。
なぜなのか。関係者をたずねる中で、一本の原稿が見つかった。沖縄戦について哲夫が正面から描いた、幻のシナリオである。
傷痕
沖縄戦の体験を哲夫が語っているとすれば、この人だろう。そう思って、盟友だった森口豁(かつ)さん(88)に千葉県で会った。
しかし早々に、森口さんは首を横に振った。「家族ぐるみのつきあいを長くしたけれど、金城が戦争がらみの話をしたことは一切なかった」
二人が出会ったのは、高校生のとき。東京の玉川学園高等部の2年生だった哲夫は、自由研究の発表で沖縄の言葉について語った。一つ年上の森口さんは感銘を受け、その後の人生が決まった。1958年、大学を中退して琉球新報の記者になり、さらには日本テレビの特派員に。ジャーナリストとして沖縄を追い続けた。
駆け出し記者のころ、森口さんは毎日のように、哲夫の母ツル子さんが那覇市内で営む食堂「かどや」で食事をしていた。
ツル子さんは沖縄戦で負傷し、片方が義足だった。居間と調理場を行き来するたびに、和服の裾をはだけて義足をつけたり外したりする。白い脚が森口さんの記憶に残っている。「お母さんはあの時、どんな気持ちだったのだろう。戦争とはこういうものだ、と本土から来た若者に感じさせようとしていたのか」。当時を思い浮かべてしばらく黙ったあと、森口さんは語った。
1945年3月23日。
ツル子さんは、いまの沖縄県南風原(はえばる)町津嘉山(つかざん)の自宅に家族とともにいた。空襲警報に続いて、米軍機が3機、家に突っ込んできそうな低空で急接近してくる。機銃掃射のバラバラという音とともに、左足に衝撃が走った。足首がふき飛ばされていた。
自宅に泊まっていた青木上等兵が止血してくれ、南風原陸軍病院に運ばれた。のちにひめゆり学徒隊が働く壕(ごう)である。青木上等兵から輸血の提供をうけ、ひざから下の切断手術を受けた。
哲夫の父は召集され、ビルマにいた。一家は曽祖母、祖父母、母、哲夫、妹の栄子。これから大混乱が始まるだろうという矢先に母が歩けなくなり、哲夫はどんな気持ちだったろう。
当時のことをツル子さんが書き残した手記がある。南風原町が1990年にまとめた「津嘉山が語る沖縄戦」に転載されている。
3月25日 二人の子も小さい手で母親の手をさすったり頭をもんだり懸命に看護しているつもりらしい。
3月27日 「第一線に行くよ」と兵隊さんが小さい哲夫に言っていた。
5月7日 早朝から艦砲が盛んに撃ち込まれる。爆風が壕に入ってくる。哲夫と栄子が頭から布団を被って震えている。
戦況は悪化し、5月下旬、日本軍は司令部をおいていた首里を放棄し、南部へ撤退することを決める。津嘉山は、その道程にあった。米軍の激しい砲弾が降り注ぎ、金城家の叔父一家は、壕の中で生き埋めになった。
このままでは、みんなやられてしまうかもしれない、と祖父・忠助さんは5月25日、決断をする。自分と妻と跡取りの哲夫は南部へ逃げ、曽祖母と片足のツル子、幼い栄子はここにとどまる――。決断にともなったであろう多くの悲嘆をツル子さんは書いていない。ただ、こうある。「預けた哲夫のことが案じられて、一睡も出来ずに夜が明ける」
このあと哲夫らは、いつ、どこをさまよい、何を体験したのか。
断片的に、祖母がのちに語っ…
座安あきのジャーナリスト・コンサルタント視点沖縄戦を生き延びた人々がその体験を語り始めるのには、それぞれに時間という薬、耳を傾ける相手のまなざしという心根が必要でした。こうして数十年の時を経て、金城哲夫さんが見たものを探し求め、訪ね歩いて掘り起こし、届けてくれた谷津記者のまなざしに、
2026年7月19日 09:26
たかまつなな笑下村塾代表提案ウルトラマンの生みの親、金城哲夫さんの戦争体験、特に沖縄戦での壮絶な記憶が、長年沈黙のうちにあったという事実に胸が締め付けられます。盟友やご家族ですら語り継ぐことができなかった「生々しすぎる恐怖」は、言葉にできないほど重く、多くの戦争体験者
2026年7月22日 16:23














