リッチー・ブラックモア、ディープ・パープル脱退の理由とレインボーの初期について回想

2026/05/22 18:08掲載
 
Ritchie Blackmore
Ritchie Blackmore
リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore)は米Ultimate Classic Rockの新しいロング・インタビューの中で、ディープ・パープル(Deep Purple)脱退の理由とレインボー(Rainbow)の初期について振り返っています。

「ディープ・パープルを辞めたとき、バンドがもう音楽的な集団として十分に機能していないと感じていた。まるで委員会みたいになってしまっていたんだ。何か答えが必要な時でも、5人いれば5通りの答えがあるような状態だった。そんな委員会体質に少しうんざりしていた。ジョン・クリーズがモンティ・パイソンについて言っていたことと似ているんだけど、俺は“もう委員会なんか必要ない。ただ音楽を演奏すればいいだけの、他の4人のミュージシャンを集めよう”と思ったんだよ。

俺は新しい血を必要としていた。ちょっと吸血鬼みたいだけどね。いや、俺は吸血鬼じゃないよ――たぶん(笑)。そう言われたことはあるけど、自分では信じていない。とにかく変化が欲しかったんだ。状況は完全に行き詰まっているように感じていたし、みんなそれぞれ別の方向を向いていた。今でも覚えているよ。マネージャーがバンドに向かって“よし、みんな。ツアーの計画を決めよう”と言った。それが1月だったから、すぐに“じゃあ1月25日に、どこそこでスタートするのはどうだ?”みたいな話になった。すると誰かが“いや、その日は無理だ。結婚式に出なきゃいけない”と言う。“わかった、じゃあそれはなし。2月にしよう”。すると今度は別の誰かが“いや、2月は休暇に行くんだ”と言い出すんだよ。信じられないかもしれないけど、そんなやり取りが6月か7月くらいまで延々と続いていたんだ。俺は思ったよ。“馬鹿げてる。みんな他に行くところがあるとか、別の予定があるとか。じゃあバンドはどうなるんだ? 俺たちは本当にバンドなのか? ”とね。それも、俺が辞めた理由の一つだった。

それに、“Black Sheep of the Family”という曲をやりたかった。すごくいい曲だし俺たちがやるべきだと思っていたのに、でもバンドの一人が“その曲はやりたくない。自分たちが書いた曲じゃないから、作曲クレジットが入らない”と言ったんだよ。それはかなり馬鹿げていると思った。だから俺はロニー(ジェイムス)ディオと一緒にその曲をやって、午後のうちに仕上げた。ロニーの声が本当に気に入ったし、俺たちはものすごくスピーディーに作業できた。そこには委員会なんてなかった。彼は休暇に行くわけでも、結婚式に出るわけでもなかったしね。だから、すべてがすごくスムーズに進んでいった。そして俺は“こういう感じ、いいな”と思って、それで、脱退を決意したんだよ。

とにかく居心地が悪かった。だから次へ進んで、別のことをやる時期だと思ったんだよ。パープルには確か7年くらいいたと思うけど、自分たちの音楽のスタイルでやれることは全部やり尽くした、そんな感覚があった。それに、いろんなエゴが現れては消えていくのも見てきたし、正直それには疲れていた。俺はただ音楽をやりたかっただけで、エゴなんていらなかったんだ。もっとも、一番大きなエゴを持っていたのは俺自身だった。そして当時は、そんな自分自身に嫌気がさしていたんだ。だから“もう次へ進みたい。自分自身から離れたい”と思ったんだよ。

(ロニーとは)気が合った。ロニーと曲を書くのは本当にやりやすかった。彼はもともとオーケストラでトランペットを吹いていたから、とても音楽的な人だった。リハーサル中に彼が俺に“これ、君にはどう聴こえてる?”って聞いてくることもあった。

バンド全員で演奏している最中、俺は彼のところへ行って“こんなアイデアはどうだろう”って感じで彼の耳元でハミングしたり小声でささやいたりして伝えていた。すると彼は、俺の狙いを瞬時に理解してくれた。そんなふうにして、俺たちの楽曲のほとんどは作られていったんだ。彼は歌詞を書くのも本当に早かった。ただ正直、俺にはよく理解できない歌詞もあったけどね。俺は“Man on the Silver Mountainって何なんだ?”って聞いたことがある。すると彼は“いや、自分でもよくわからないよ。ただその場の思いつきで浮かんだけさ”って答えていた。人は誰でも自分だけの“銀の山”を思い描けるものなんだと思う。だから歌詞って、必ずしも完璧な意味を持っていなくてもいいんだよ。

ロニーと仕事をするのは本当に楽だった。最初に手持ちのレコーダーで何曲かデモを録った時、彼は典型的なヘヴィメタル的な歌い方をしていなかった。むしろ、彼が歌っていたのはルネサンス風というか、1500年代を思わせるようなメロディで、俺が持っていた多くのアイデアに対してそういうメロディを乗せてきた。彼の解釈には本当に感心したよ。

彼は間違いなくとても賢い人だったし、メロディに関しては、思いつくのに10分以上かかることなんてほとんどなかった。時には俺がメロディを提示して、それを彼が使うこともあったけど、とにかく飲み込みが早かった。ロニーには彼なりのやり方があって、ある意味で不思議な人でもあった。彼は、曲を書く時間よりも野球を観ている時間のほうが長かったんじゃないかと思う。曲はものすごく早く書けたから、10分で曲を書き上げて、そのあとまた大好きな野球観戦に戻っていく、そんな感じだった。

だから彼と一緒に曲作りをするのはとても楽で、そこには強い一体感があった。俺があるアイデアを形にしようとしている時、彼はすぐに俺がどんな感覚でいるのか理解してくれている感じで、そこが素晴らしかった。パープル時代の終わり頃には、不満も多かったし、みんなの考えもバラバラで、全員を同じ部屋に集めることすら難しかった。だから、ただギターを手にして何かを弾くだけで、彼が“ああ、君はこう行きたいんだな”ってすぐ理解してくれる、その感覚は本当に嬉しかったよ。俺は彼を無理に導いたり手助けしたりする必要がほとんどなかった。というのも、彼は自分自身で全部できてしまう人だったからね。彼は魔法みたいな男だったよ。

最初のレインボーのアルバム制作は、ある意味ではかなり大変だった。というのも、ほとんど何も固まっていなかったからね。自分が何をやっているのかも、どこへ向かおうとしているのかもわかっていなかった。当時はマネージメント面でもいろんな人が関わっていて、すべてがかなりややこしかったんだ。

だから、とにかく10曲か11曲を形にできたこと自体にホッとしていたと思う。中には良い曲もあったし、正直ちょっと弱い曲もあった。でも確か3週間くらいで全部やったんじゃないかな。つまり、あれは十分に練り上げた作品ではなかった。その時その時に頭に浮かんだものをただ弾いていただけで、自分がどんなスタイルをやりたいのかさえ、はっきりしていなかった。だから、すごくメロディックなものもあれば、かなりヘヴィなものもある。その二つのスタイルの間で揺れていたんだよ。

2度目にレインボーの作品作りに取り組んだ時には、自分がどこへ向かいたいのか、だいたい見えていた。よりヘヴィな方向だけど、同時にメロディも重視する、そんなスタイルだね。だから、最初のアルバムみたいに自分が何をやりたいのかよくわからないという状態ではなかった。2作目では、自分が何を表現したいのかを、かなりはっきり持っていた。特に“Stargazer”みたいな曲やヘヴィな楽曲においてはね。

ロニーもまた、自身のトーンや音楽観において自分自身のスタイルを確立し始めていた。最初の頃の俺たちはどちらかというとライトな音楽に惹かれていたけれど、『Rising』の頃には、完全にヘヴィなロック・バンドへと変わっていった。それは俺にとってもまったく問題なかった。むしろ、ああいうスタイルは大好きだったからね。もちろんロニーも、その方向性に賛同してくれた。

コージー(パウエル)はいつだってパワフルなドラマーだったし、当時の俺たちにはまさに理想的な存在だった。そうして俺たちは上機嫌で、ハードロック街道を突き進んでいったんだ。それに、俺はスタジオでの作業にもずっと居心地の良さを感じるようになっていた。パープルと一緒にレコーディングしていた頃とは違ってね。他のメンバーや別のミュージシャンたちと作った2枚目のアルバムだったから、スタジオ作業にもだいぶ慣れてきていて、最初の頃よりずっと自然体でいられるようになっていたんだ」

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